「海だああああああああっ!」
綺麗に三人の声が重なった。
その勢いのまま砂浜を駆けて海に飛び込もうとしたが、それよりも早く桜川が三人の足を引っかける。
熱々の砂に向かって葵、壱、千紘は顔面から飛び込む羽目になった。
「あっちいいいい! 焦げるうううう!」
「ぎゃああああ! 拷問だああああ!」
「口がじゃりじゃりするうううう!」
「馬鹿共は放っておくとして」
転びそうになりながら日陰に逃げ出した三人には目もくれず、桜川は他のキャストたち――元キャストと呼んだ方が正しいかもしれない――に向き直った。
「どうしてもこのメンバーで海に行きたいと言うから車を出してやったんだ。俺の手をわずらわせるな。面倒をかけるな。はしゃぐな。動き回るな。真中から目を離すな」
「はーい」
桜川の注意を聞いて、海斗がのほほんと返事をする。
片手を挙げながらの返事は残念ながら海斗だけで、妙にむなしく響いた。
「桜川さん、スイカどうしますか」
やや遅れて奈義がやってくる。
その手には大きなスイカがあった。
もちろん、海に来てスイカと言えば何に使うかは決まっている。
「ビキニの女を追い掛けようとしている真中にぶつけてこい」
「もったいないですし汚れます」
「そうか、じゃあやめておけ」
奈義と桜川のテンポのいいやり取りを見て海斗がにこにこする。
もともと奈義と付き合いが多かっただけに、以前とは違って雰囲気が柔らかくなったのを嬉しく思っているらしかった。
名前に海が入っているからなのか、それとももともと好きなのか、海斗は昨日の段階からずいぶんと機嫌が良かった。
しかし、それとは対照的に遥と大和はげんなりしている。
「とりあえず日陰から出たくないんですけど、そういう過ごし方でもいいですよね……。クソオタクが日なたに出るなんて、いくら名前が『ひなた』だからって許されるわけない……。っていうか何この日差し、一瞬で溶ける自信あるんだけど……」
「暑いの苦手なんでどっか涼んできてもいいですかね。めんどくせえし、だりい」
「真夏の海に来て何言ってんだか」
意外なことに、仁は乗り気だった。
海の様子はもちろん、周辺施設などもやけに入念にチェックしている。
が、誰もその違和感には触れなかった。
仁がそこまでする理由は一つしかない。
「……水着はこっちで用意してやらねぇとな。下手に肌なんか出された日には……。いや、それならプールでもいいんじゃねぇか? 夏っぽいことがしたいとしか言ってなかったし、別にどこでも……。んなこと言い出すならもう家の風呂でいいよな。水風呂に突っ込んどけばこっちが妙な心配することも……」
仁は最初から「下見ついでに付き合ってやる」と言っていた。
今回の海遊びは前座でしかなく、本命は恋人とのデートなのだろう。
何かあれば海岸が血で染まりかねない、と誰もが思っていることを仁だけが気付いていなかった。
「俺、ビーチバレーってしてみたいな。誰か一緒にやろ?」
どこまでも緩いふにゃふにゃの声が降る。
海斗の手には既にふくらませたビーチボールがあった。
だが、誰もその誘いに乗らない。
「海ちゃん相手じゃ勝ち目ねぇべよ。身長考えれ!」
「いやー、サーブなんか受けたら腕持ってかれそうだよな。ちっひーお手手大事にしたい系男子だから遠慮したい的な?」
「ボールもう一個ねぇの? そしたら巨乳ごっこ出来るじゃん!」
「え、それする必要あります?」
「ある! あーるー!」
年上にも関わらず、壱はその場でだだをこね始める。
そうこうしている間に、既にメンバーは各々好きなように散っていた。
「遥、陽の光ぐらい浴びとけ」
「仁さんは健康的すぎるんです。俺はそもそもインドア派で……」
「お前の好きなゲームに海ネタの話はなかったのか?」
「ええええもしかして仁さん興味ある感じですか意外です!!」
「いや、全然興味ねぇけど――」
「しょうがないなあ、そこまで言うなら不肖陽向遥、ここで張り切ってプレゼンさせてもらいます! さあ聞いてくださいどうぞ聞いてくださいそこに座って聞きますか? それとも波を感じながら聞きますか!?」
「少し落ち着――」
「やっぱりアレの良さは直接海を感じながらの方がいいでしょうね! 来てください仁さん! 一緒に波打ち際で語らいましょう!」
「あー、ったく、分かったから腕掴むな」
「大和さんも! 是非!」
「は? 付き合うわけねえだろ。んなゲームなんかやらなくても、ほっときゃ女なんていくらでも寄ってくるじゃねぇか」
「やまぴっぴそれかっけえええええ!」
スライディングで間に入ってきた千紘がきらきらした目で大和を見る。
夏の日差しはお祭り男の頭の中まで夏にしてしまったようだった。
「うるせえから三馬鹿で固まっとけ」
「だぁってよぉ、みんなまだ腹減ってねぇって言うんだもん。俺、焼きそば食いたいしかき氷も食いたい……」
「向こうにイカ焼きあったぞ」
「うっそ、マジ! ちょっと行ってくるわ! やまぴっぴ何個食う!?」
「一個」
「へへへ、そんじゃ後で一緒に食おうな! それでこそ俺のやまぴっぴだぜ! 持つべきものは優しい同僚ってなー!」
光の速さで駆けていく千紘を大和は見送る。
いつの間にか既に遥は仁に布教活動を行っていた。
巻き込まれずに済んだのはともかく、他にまともな相手が見当たらない。
「ぎゃはははは! あおちゃん! もっと巨乳にしてー!」
「いっちーさんの欲張りさん!」
砂浜に埋まっているのは壱だった。
せっせと横で葵が砂をかき集めては盛っている。
「これ、何カップだべ?」
「俺の彼女ぐらいじゃね?」
「彼女さん、すっげぇな……妄想の存在じゃないんけ……?」
「ちゃんと実在してますぅー、俺のことめっちゃ好きって言ってくれますぅー」
「もうそれが既に妄想っぽいっつーツッコミはだめだべか」
「んなこと言ったら、あおちゃんの彼女だって妄想っぽいじゃん? 徹夜でゲーム付き合ってくれて、しかも自分より強くて頼もしい彼女なんて普通いなくね?」
「ふふん、うちのはなぽんさんはちゃんと三次元に存在してますからね。今日だって俺が熱中症にならねぇように、タオルとかいっぱい持たせてくれましたし! 帰ってきたらまたゲームやろうねってちゅーしてくれましたし!」
「俺の彼女だってちゅーしてくれんもん! 今日朝ご飯作ってくれたもん! 俺、食べたもん! おいしかったもん!」
よく分からない方向にのろけ始めた二人がぎゃあぎゃあ騒ぎ出す。
そこまで騒がしくないとはいえ、他も大して変わりはなかった。
「桜川さーん、はーい」
「……ああ」
「御国、もっと思い切りサーブ打ったら?」
「だって当たったら痛いでしょー」
海斗のビーチバレーには幸い桜川と奈義が付き合ってくれていた。
面子が面子だけに、なんとも不思議な空気が漂っている。
「こういうのね、夢だったんだぁ。あんまりこうやって遊んでくれる友達なんかいなかったから……」
「付き合ってやるから好きなだけやりたいことやれよ」
「お前は本当に面倒見がいいな、奈義兄ちゃん」
「ちょっ、桜川さん! それやめてくださいって言いましたよね!?」
「奈義くーん、ボールそっち行ったよー」
「ああもう!」
あの潔癖症の奈義が砂にまみれてボールを返す。
恋人が出来てから多少は緩和されたらしく、『恋人に関係することなら』なんとか受け入れられるようになったらしい。
彼女が何を望んでおねだりしてきてもいいように、こうしてせっせと自分を苦手なものに身体を慣らしているという。
結局、奈義も仁と同じく恋人とのデートに備えてシミュレーションしているのだった。
本人は絶対に認めず、言おうともしなかったが、桜川によって他にバレてしまっている。もちろん海斗も察していた。
「次はみんなでスイカ割りしようね」
「瀬戸さんにはただの棒より釘バットのが似合いそう」
「奈義兄ちゃんには何が似合うんだろうな。ガラスの靴か?」
「あんた、絶対面白がってるだろ!?」
「俺に似合うのって聴診器とかなのかなぁ……」
ぽーん、とビーチボールが抜けるような青空に向かって飛んでいく。
この後彼らはなんだかんだ言いながらスイカ割りをして、バーベキューを楽しんで、陽が暮れる頃には花火を楽しんで――。
めいっぱい一日を過ごした後は、家で待っていた恋人たちに「日焼けしすぎだ」と揃って言われてしまったのだった。
こんなにも自分の胸がうるさいのは初めてのことかもしれなかった。
ベッドの上で正座しながら、目の前の恋人を見つめる。
壱もまた同じように正座してこちらを見つめ返していた。
「えーっと……まあ、あれだ。うん」
何があれなのか。
ただ、壱がこの沈黙に耐えかねて何か話さなければならないと思ったことは伝わってきた。
「あー……うー……」
口を開けば聞くに堪えない下ネタや小学生じみた冗談を吐く壱が、今は何を話せばいいか分からず困っている。
年上のはずの恋人がそんな様子でいることを少しだけ面白く思ってしまった。
何となくかわいくさえ見えて頭を撫でようと手を伸ばしたけれど。
「うおっ!?」
ものすごく驚かれただけでなく、ずざざっと引かれてしまう。
行き場を失った手がぶらんと宙に浮いた。
「わ、わわわわりい……」
別にいいと答えて、改めて見つめ合う。
――そう、今日は初めての夜。
何も知らない自分に大人の壱が特別を教えてくれる夜。
追いつきたくて何度も背伸びをした。子供だと思われたくなくて自分なりに頑張ってみた。
そうして今夜を迎えたのに。
「……はあ」
溜息を吐かれて肩を落とす。
やっぱりだめか、と聞いてみた。
壱は少し悩んだ様子を見せた後、首を横に振る。
「あんま、無理しなくていいんだからな」
全然答えになっていないし、何のことかも分からない。
だけど、一度離れたその長身が再び近付いてくる。
「俺は別に焦ってねぇんだ。ちゃんと心の準備が出来てからでいいって思ってる。そういうもんだから、とか、早くしなきゃならねぇ気がするから、とか……。それって違うと思うんだよな」
思いがけず優しく抱き締められた。
よく分からないままその胸に顔を埋める。
子供っぽく頭を撫でられたのはあまり嬉しくないけれど、そのぬくもりに喜んでしまう自分も確かにいた。
だめなの、ともう一度聞いてみる。
答えの代わりに触れるだけのキスが一つ。
「大事にしてやりてぇんだよ」
ああ、と声が漏れた。
たった一言が全てを教えてくれる。
壱も同じように自分を求めてくれていること。だけど『年上だから』それをためらっていること。
年上は年上なりの葛藤があるんだね、と笑ってみる。
壱も、笑った。
「でもお前、今日は添い寝で帰るつもりねぇだろ」
深く、それはもう思い切り深く頷く。
「……おにーさん困っちゃうな」
見せたのは年上の顔。
普段の言動がとんでもなくても、ちゃんと大人の顔を持っていることを知っている。
そしてその大人の壱は恋人である自分に対してどうしようもなく甘く、優しい。
優しすぎるから、望む夜を与えてくれない。
「……だけどさ」
うん、と頷いてみる。
壱はやっぱり困ったように笑いながら、こつんと額を重ねてきた。
「お前なりに勇気出してくれたんだもんな」
うん、と再び答えた声が震える。
「じゃあ、俺も応えてやらなきゃならねぇよな」
それは壱が自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
再度落ちたキスは、さっきの触れただけのものと違って――深い。
「……優しくすっから」
キスの合間に聞こえた恋人の、あまりにも優しい囁き。
次いで聞こえた衣擦れ。肌の触れ合う音。
唇を重ねると知らない熱を感じた。
壱の背中に腕を回して全部を受け止める。
「電気、消すぞ」
言う前にして欲しいことを分かってくれている辺りがずるい。
そうして壱は『大人』の表情を見せ続けてくれる。
――その夜だけは、一度もふざけなかった。
壱はイライラしながら――そしてちょっぴり落ち込みながら歩いていた。
(んだよ、俺悪くねぇもん……)
昨日、壱は大好きな彼女と一緒にデートをした。
いつも通りにふざけて、時々大人な姿を見せて、途中までは本当にほのぼのしたデートだったのだが。
(だってよぉ……。あん時撮影してたの、雑誌の表紙とか飾りまくってる超有名なグラビアアイドルだぞ……。見るじゃん……おっぱい見るじゃん……)
そう。壱はデート中に遭遇したグラビアアイドルの撮影を凝視してしまったのだった。
しかも運悪く――壱にとっては幸運以外の何物でもないが――なかなかに露出度の高い服を着ていたせいで、当然視線は胸から離れなくなってしまい……。
(すげー怒られた……)
彼女は、それはもう死ぬほど怒った。
なんでそんなに怒るのかと思うぐらい怒った。
思えば、彼女にはそういうところがある。
壱の大好きな危ないDVDも見つけ次第ゴミ箱に突っ込もうとするし、雑誌も漫画も容赦なく燃やそうとする。
もっとも、本当に捨てないあたりが彼女の優しさ――否、妥協なのだろう。
壱の趣味は否定したくないがすこぶる面白くない。
そう思っている彼女に甘え、壱はのびのび好きにやってきた。
(私のじゃなくても夢中になるなんて……って怒ってたけどさ。それとこれとは別じゃねぇか。そこにあったらとりあえず見るだろ? 目の前にあったら見ちまうだろおおお!)
そもそも彼女は「自分のなら夢中になって構わない」と思っている。
その時点でなにかおかしいのだが、今回は逆にその考え方が仇になった。
つまるところ、「彼女以外に夢中になってはならない」ということなのである。
「くっそおおおおお!」
外だと言うのに大声で吠える。
「俺が好きなのはお前だけだっつのおおおおお!」
(……っと、あっぶねぇ!)
持っていた紙袋を地面に投げつけそうになり、自分で慌てる。
(あーあ、こんなに好きだっつってんのにな。なーんでこうなるんだ?)
――残念なことに、その気持ちこそが壱と彼女のいまいち噛み合わないズレの原因だった。
壱は彼女を愛している。それはもう目に入れても痛くないほどかわいがっているし、どんな願いだって叶えたいと思うくらいに愛情を抱いている。
だから、男の性でちらっと他のものに目を向けても一番は彼女でしかありえないし、そもそも見てしまったものに対して「うわ、でかい」以外の気持ちが出てこない。
どんな考えをして、なにをしたとしても、好きなのは彼女なのだから結局そこに戻ってくる。
それを壱自身よく分かっているから、なぜ彼女が毎回怒るのか理解が及ばない。
――俺は好きなのに、なんで?
そうして二人はズレたまま、彼女が拗ねたことで解決せずに今日を迎えてしまった。
(ぐううううう)
このままでは帰ってからも冷戦状態が続く。
彼女を溺愛している壱にそれはとても辛かった。
ケンカして悲しかったから抱き締めて欲しい。キスもしたいしふよんふよんさせて欲しい。怒っていないのなら、いつものあのおふざけビンタを食らってもいい。
そこまで考えて、立ち止まる。
(そういや、今日バイトの子が言ってたな。ケンカしてんなら花束でもプレゼントしてご機嫌取りしろって)
今日、壱は仕事先で苛立ったり落ち込んだり情緒不安定だった。
それを見かねたバイトの面々が話を聞き、そして解決策を提示してくれていた。
(おとどけカレシじゃなくても花くらい……プレゼントするよな?)
手に持った紙袋を大事に抱える。
そして、以前おとどけカレシ仲間が話していた花屋へと向かった。
***
「そんでな、俺……ちゃんとあいつのこと好きっつってんのにすぐ怒るんだよ」
気が付けば壱は花屋の店員相手にこれでもかというほど愚痴を吐いていた。
聞き上手らしく、次から次へと思うことが口を突いて出てきてしまう。
普段からお喋り好きな人間と接していなければここまで聞き上手にはなれないだろう。
「なんか、こういう時に贈る花のオススメってあります? その……なんつーの、お前しか見えてねぇ! みたいなのをちゃんと伝えられるような……うーんと……」
ずっと話を聞いてくれていた店員が深く頷く。
そして、にこっといい笑顔を見せた。
すぐさま見たことのない花を奥から持ってきて、壱に差し出す。
花の説明を聞きながら、壱もにかっと笑った。
「クルクマ、なんて変な名前だけどいい花言葉してんなー。そっか、『あなたの姿に酔いしれる』なんて今回の仲直りにぴったりじゃん? さんきゅー、美人な店員さーん!」
早速花束を作ってもらい、すぐ彼女のもとへ向かおうとする。
しかし、店員は壱を引き留めた。
少しだけ真剣な表情で大事なアドバイスを語り出す。
(ふんふん、なるほどな。素敵な恋人だと思ってるから心配になる、か……)
「店員さんも彼氏さんのことで苦労したこととかあんのか?」
なんとなく気になってそう聞いてみる。
微笑んだ店員の頬は赤い。
――たまに方言が分からない。
悩みと言うよりはただの惚気を聞かせてもらう。
「あー、俺の友達にもいるぞ。方言マスターだから今度ここ連れて来ちゃる。そんで教えてもらえば……って、方言にもいろいろ種類あんな。残念!」
その後、壱はその店員と長々恋人トークをしてしまった。
オススメのデートスポットとして遊園地や動物園を教えてもらい、壱もまた自分の持てる知識を総動員してオススメを伝える。
そうしてやっと背中を押され、彼女のもとへ向かうことになった。
「んじゃ、店員さん! 彼氏さんと仲良くな! 今度ダブルデートしよ!」
手を振って店員と別れ、寄り道せずに彼女の待つ家へ歩き出す。
壱にしては珍しく、野良猫を追い掛けたり横断歩道の白い線だけ踏もうとして時間を無駄にしなかった。
***
帰宅しても、いつものように彼女は出迎えてくれなかった。
恐る恐る部屋を見ると、隅の方でそっぽを向いている。
テーブルに雑誌やお菓子が散らばっていることから、壱が帰ってきたのを知って慌てて拗ねモードに入ったのだろう。
「おーい……ただいまー……」
一応、言ってみる。
ものすごく不機嫌そうな声ながらも、「お帰り」という言葉が返ってきた。
「あのなー、こっち見てくれねぇかなー」
彼女はまだ壁の方を見つめている。
名前を呼ぶと反射的に振り向こうとするあたり、詰めが甘い。
「俺、お前と仲直りしたくてさ」
え、と小さな声が聞こえた。
しかし彼女はまだ振り返らない。
ただ、背筋がぴんと伸びた。
まるで遠くの音に耳を澄ませるウサギのようだと思ってしまう。
「真面目ってのは性に合わねぇけど……」
花束と紙袋と。
彼女のために用意したそれを持ったまま、拒む振りを続ける背中を抱き締めた。
「ごめんな。やな思いさせて」
うう、とうめき声が聞こえる。
少し震えて聞こえるのは泣きそうになっているのを堪えているからだろう。
「そりゃ、毎回おんなじように言って毎回怒られてるけどさ。俺、こういうヤツなんだよ。でも悪いと思ってねぇわけじゃねぇんだ。いっつもバカやって忘れるだけで」
ようやく彼女が振り返ってくれた。
目が潤んでいるのを見て苦笑する。
「泣き虫だなー……」
涙を流してしまう前に頬へキスを一つ。
そして、店員さんにオススメされた花束を渡した。
「これ、『あなたの姿に酔いしれる』って意味なんだってさ。俺はお前しか見てねぇよって意味を込めて……」
綺麗、と言いながら彼女が受け取る。
許してくれたことにほっとして――やっぱり壱はやらかしてしまった。
「これからも俺はそこにおっぱいがあったら絶対に見る! めちゃくちゃ見る! んでもな、俺の心を掴んで離さないのは……お前のおっぱいだけだ!!」
――ぐ、と彼女が拳を握り締める。
「あーっ! たたたたタンマ! 間違えた! 俺が掴んで離さないのはお前のおっぱい……いや確かに掴んで離さねぇけど! あれ? 俺、なに間違えた? 掴んで離す? おっぱい? いっぱい? ぱい?」
混乱する壱の右頬にボクシングの現役選手ですら感嘆の息を漏らすようなストレートが入った。
音と勢いの割に痛くないのは、やはり彼女の愛情なのだろう。
「今日は一発だけで勘弁してくださ――うおっ!?」
どさっと彼女が壱に向かって飛びつく。
たった今制裁を加えたばかりの頬に数えきれないくらいのキスを落とした。
壱もすこぶる悪いけれど自分も子供っぽいのが悪い。これからも怒るだろうけどそのうち慣れてみせる。
そんな意気込みを語られ、壱は目を白黒させた。
「と、とりあえずプレゼントは花だけじゃねぇんだ。今ので潰れてねぇといいけど……」
ごそ、と紙袋から箱を取り出す。
そこに入っていたのはやけに手の込んだとびきりかわいらしいケーキだった。
「じゃーん、真中壱ウルトラスぺシャルハイパーエレガンスラブリーケーキだ!」
長い、と速攻で叱られる。
しかし彼女は笑っていた。
「これ、食えんのは世界でお前だけだからな。妹にだって作ってやらねぇ、特別なもんだ。よーく味わって食えよ」
彼女は手を叩いて喜びながらすぐ取り皿とフォークを用意しにいった。
その間に壱はウルトラ以下略ケーキを切り分ける。
「あーんしよ、あーん」
仲直りした二人は肩を並べてケーキを食べ始める。
壱は彼女にせっせとあーんされながら、口いっぱいの甘さを飲み込んだ。
(こんなかわいい恋人がいんのに、他の女を好きになるわけがねぇんだよなー)
「なー、クリーム付いてるって言ってキスするやつやりてぇから付けて」
ぺし、と彼女に肩を叩かれる。
『くりーむぷれい』がそんなにお気に入りか! と顔を真っ赤にしていた。
(前は自分から言ってきたくせに。そういうとこがかわいいんだよ、バーカバーカ)
壱も彼女もこれ以上ないほどいい笑顔でにこにこケーキを食べる。
ケンカして、仲直りして、そうしてまたケンカして。
そんな風に、二人は幸せな未来を自分たちで作っていくのだった――。
今日は少しだけおしゃれしてみた。
とは言っても、どうせ夜ご飯は居酒屋だろう。
それはそれであまり経験がないために面白さはあったし、意外にご飯がおいしくて気に入っている所もあったけれど、『おとどけカレシ』ではない時にも素敵なレストランへ連れて行ってくれてもいいのではないか。
壱に対して不満はない。ただ、要望はたくさんある。
人はそれを不満と呼ぶのかもしれないが、少なくとも自分にとっては違っていた。
待ち合わせ場所へのんびり向かいながら、もう一度だけ服装を確認する。
なるべく大人っぽさを重視してみたつもりだった。壱がそれに気付いて何か言うかは別として。
しかし、いつもとちょっとだけ違うのは自分だけではなかった。
「おっせーぞ」
おや、と足が止まる。
いつもは大抵、壱の方が時間に遅れる。服に悩んだと女性のようなことを言うくせにとんでもデザインのTシャツを身に付けてくるわけだが。
「どした、見とれたか?」
うん、と素直に頷いた。
今日の壱はおとどけカレシだった頃のようにおしゃれさんだった。相変わらず非常に顔がいい。いつもならそこに「黙ってさえいれば」が付くのに、今日は。
「そんじゃ、行くか」
手を差し出されて戸惑いながら握る。
出会って数秒、いつもの壱ならこの時間に三回は下ネタを言っているはず。それなのにどうして今日は違うのか。
分からないながらもついていく。引いてくれる手の頼もしさまで普段と違っている気がした。
「その服、新しいのだろ。かわいいじゃん」
反応に遅れたのは予想していない展開だったから。
壱は話をよく聞いてくれるけれど、同じくらい自分の話をするのも大好きな男だった。こういう時はいつも「今日何があった」「今日これが良かった」「こんなことが楽しかった」などと小学校から帰ってきた子供のように話してくれるのだが。
「大人っぽい」
そう言いながらへらっと笑った所だけがいつもの壱だった。
無意識に「ずるい」と呟いてしまう。
「何がずるいんだよ。ぜんっぜん会話になってねぇだろ」
もう一度、うつむいて「ずるい」と言う。
ちょっぴり身体を押し付けて体当たりすると笑われた。
「俺がかっこよすぎてずるいってか? もっと言ってくれてもいいぞー」
壱はいつもと変わらない。だけどいつもと違う。
今日は自分の知る壱より何倍も何倍もかっこよかった。
***
連れて行かれた場所も居酒屋ではなかった。
なんともおしゃれなレストランは、シックな音楽とぼんやりした明かりでとても雰囲気が出ている。
行儀が悪いと思いながらも周りの席を見回すと、あちらを見てもこちらを見ても恋人らしき男女の姿しかない。
思わずどうしてと聞いていた。
壱は笑う。
「いつもの方が良かったか?」
戸惑いつつ首は横に振った。
壱が気にしないように、「いつも」も別に悪いわけではないと付け加える。
でもあまりにも壱らしくなさすぎた。
それが分からない。
「俺もお前みたいに背伸びしたくなっただけだ」
これ以上壱が背伸びしたら手が届かなくなる。それを伝えるとまた笑われた。今日の壱はやけによく笑う気がする。
「たまにはこういう壱さんもいいだろ?」
茶目っ気を見せて言われ、何度も頷く。
なんだかその言い方にほっとしてしまって、一気に感想を伝えてしまった。
かっこいい、という単語を三十回は使う。
そして最後にもう一度「どうして」と尋ねた。
「別に深い意味はねぇよ。んなことより飯だろ、飯」
ちょうどそのタイミングでコース料理の前菜が運ばれてくる。
カクテルグラスに入ったムースには食用花が飾られていた。
壱はあんまりこういうものを好まない。花は通学路の途中に咲いているものを、蜜を吸うために口にするものらしく、料理に出てくるとよく分からない気持ちになるからだそうだ。
だけど今日は何も文句を言わなかった。
自分に正直すぎる壱のことを考えると異常事態とも言える。
やっぱり不思議で。でも食事はおいしくて。そして恋人はとびきりかっこよくて。
混乱する自分を見た壱が満足そうに目を細める。
「またおしゃれデートしような。今度は夕飯だけじゃなくてさ、朝からあちこち行ってみたりすんの。おとどけカレシっぽいデートだけど、そこにいんのは素敵な壱さんじゃなくて普通の壱さん。こんなデート出来んの、お前だけだぞ?」
言われなくてもこれが特別で貴重で素敵で最高なことはよく分かっている。
また、かっこいい、と告げた。
そのすぐ後に深く考えず、夜はどうするのかと聞いてしまう。
もちろん、夜というのは時間の話ではない。
「お前はどうしたい?」
ずるい、と口にせず心の中で呟く。
こんなに主導権を握って自分を甘やかしてくれるのに、そういう時だけ選択肢をよこしてくるのだ。
どこまで意識してやっているのかは分からない。でもそういう所が壱の『大人』な一面だった。
そして。
「俺はお前と一緒に過ごしたいよ」
与えられていたはずの選択肢がたった一言で奪われる。
好きな人にこんなことを言われて、ノーと言えるわけがなかった。
ずるい大人の言葉に同意してこの後のことを考える。
もう深くは考えない。
壱が特別をくれるなら自分も特別を返すだけのこと。
きっとそれが『恋人』というものなのだろうし、『恋愛』というものなのだろう。
何も知らなかった自分に教えてくれたのは壱だった。
だから、壱のために全部を捧げる――。
***
――後日、壱があんまりにも素敵すぎて壱の妹に連絡してしまった。
一番の相談相手で親友でもある彼女は、先日の話を聞いてあっと小さく声をあげる。
「それ、もしかして……」
そこで真実を知った。
かっこいいお兄ちゃんはかっこいい恋人にならないのかと質問したのが、あのデートの直前だったこと。
お兄ちゃんならきっとすごく素敵なデートをするんだろうと言った結果、やけに壱が張り切っていたこと。
なんとなくいろいろ察して笑ってしまう。
最終的にどうなったのかを事細かに報告して、本当に最高だったことを伝えた。
分かりやすくて単純な人。だけど妹と恋人の理想を叶えるとても素敵な人。
改めて壱への想いを噛み締める。
そうして女二人、壱の知らない所でこっそり笑い合ったのだった。
今日は奈義の誕生日だった。
お祝いをしたかったのは自分だけではなく――。
「ねえねえ、姉ちゃん。折り紙全部作れたよ」
「せんせー……じゃない、お姉ちゃん! こっちもできた!」
ここには奈義の兄弟たちがいる。
弟も妹もみんな揃っているのは、もちろん奈義の誕生日のためだった。
一緒にお祝いをしようと誘った所、こうしてこつこつ準備をするに至ったのだが。
「お姉ちゃん、見て見て」
にこにこ笑顔で差し出されたそれは一冊のアルバムだった。
随分古いものらしく、もともと白かったのであろうそれはうっすら茶色くなっている。
奈義であれば決して触れないような代物だった。
何だろう、と不思議に思いつつ中を開いて見てみる。
最初のページに映っていたのは、奈義の弟たち――ではなく、幼い頃の奈義。
「わー、奈義兄ちゃんちっちゃいねぇ」
「これ、僕と同じくらい?」
「えへへ、奈義兄ちゃん泣いてるー!」
服に虫がくっついて半泣きになっている奈義の写真をまじまじと見つめる。
こんな奈義はもう見られないだろう。
ここにいる弟たちとよく似てはいるが、強気に唇を引き結んでいる所は確かに奈義らしかった。
この人がそうやって自分の心を見せまいとする所は今も変わらない。
きっと虫を取ってもらった後は「別に平気だったし」と強がっていたのだろうと思うと、過去の奈義に対しても無性に愛おしさが込み上げた。
「ね、これも兄ちゃんに見せようよ! 今までのお誕生日の写真も貼ってあるし!」
言われてから、他にもたくさんの写真があることに気付く。
幼少期の誕生日の写真が何枚も収められており、笑顔でケーキを食べているものもあれば、なんだかむっとした顔をしているものもある。
共通しているのは、どれもちょっぴり照れくさそうな顔をしている所だった。
「あー、これ覚えてる!」
弟の一人が指を差した写真の奈義は、何か言いたげにカメラを見ながらケーキの前に座っていた。
今の奈義を思わせるその表情にほっこりしながら写真を手に取ろうとすると。
「何見てんだ、こら」
後ろから手を取られ、アルバムをひったくられてしまった。
振り返ると予想通り奈義の姿がある。
「兄ちゃん! おかえりー!」
「はいはい、ちょっと帰ってくるの早かったな。もう終わってるかと思ってたんだよ」
「なにがー?」
「何がって……そりゃあ……」
ちら、と奈義が助けを求めるようにこちらを見てくる。
誕生日のことは何も話していない。少し出掛けていてほしいとは頼んだが。
「今日は兄ちゃんの誕生日だろ」
「うん! 覚えてたの?」
「……祝いたがる奴が側にいるからな」
奈義が隣に腰を下ろす。
そして、寄りかかってきた。
「なのにあんたはなんで準備してないわけ? 呑気に人のアルバムなんか見てる時間あんの? 今日の主役を待たせる気かよ」
そんなつもりはと慌てて準備のために立ち上がろうとする。
しかし、腰を抱かれて身動きが取れない。
「あー、『でれき』だ!」
「デレ期なんてどこで覚えたんだよ」
「うんとね、姉ちゃんが言ってた。兄ちゃんはたまに『でれき』が来るんだって!」
「……へえ?」
もの言いたげに見られてあわあわしてしまう。
そういえばこの弟たちの口の軽さを忘れていた。思えば彼らがきっかけで奈義はおとどけカレシの自分が本物ではないと知られてしまっている。
「他に姉ちゃんはどういうこと言ってた?」
「うんとね、うんとね……。あ! 兄ちゃんの寝顔を待ち受けにしてるって――んんん!」
よく回る口を急いで塞ぐ。
しかし、もう遅い。
「ちびどもの口塞いだって無駄だ。後で直接あんたに聞くからな」
ふ、と鼻を鳴らした奈義が唇をなぞってくる。
望んだことを言わせるのは簡単だとでも言いたげに。
「今はまだ勘弁しといてやるよ。……子供には刺激が強いだろ?」
キスの代わりに、奈義は指を自分の唇に押し当てた。
人差し指を介した口付けが妙に艶めかしくて心臓が動きを速める。
ついさっきアルバムで見た男の子からは想像も出来ない仕草と表情に、どうしようもなく胸が騒いで落ち着かない。
勝手にアルバムを見たこと、弟たちに余計なことを言ったこと。
更に誕生日祝いのお礼と称して、今夜はご褒美とお仕置きをたっぷり与えられてしまうのだろう。
ある意味それが奈義の一番望む『誕生日プレゼント』なのかもしれなかった――。
――その日、かつて『おとどけカレシ』だった男たちが集っていた。
珍しく今日は葵も壱も千紘もふざけていない。それどころか笑みすら浮かべていない。
その視線の先には、一本のデータディスクがあった。
「奈義、いい加減説明しろ。なんで俺たちを集めた」
ついに痺れを切らした仁が荒い口調で言う。
彼らを集め、そして沈黙を保ち続けてきた奈義が――やっと口を開いた。
「先日、BLOSSOM社の大掃除をしたんです。その時に、そこのディスクと……一通の手紙を発見しました」
「……手紙って?」
この重苦しい空気に耐え切れなかったのか、びくびくしながら海斗が尋ねる。
「……これだ」
奈義が懐から手紙を取り出し、ディスクの上に置く。
どこにでもありそうなただの手紙に見えた。
しかし、そこに書いてある文字を全員が認識した時、誰のものとも知れぬ唾を飲み込む音が響く。
「『伝説のおとどけカレシ、かなめんの記録』……?」
大和が言うと実にちぐはぐだった。
だが、誰も今はそんなことに突っ込まない。
「桜川さんが伝説のおとどけカレシだったらしいっつーのは聞いてたけど、もしかしてこの手紙とディスクにその記録が残ってるってことけ……?」
「……っつーことは、若かりし頃の桜川さんがこの中に……」
「え、桜川さんの彼女見れる? おっぱいでけえといいな!」
三馬鹿がそれぞれそわそわしながら手紙に手を伸ばそうとした。
それを奈義が止める。
「これ、下手に見たら何が起きるか分からないと思うんですよね」
「……確かに」
遥が真剣そのものといった表情でディスクを見つめる。
「誰だって秘蔵のファンディスクには勝手に触られたくないものだし、カモフラージュ先に職場を選んでる辺りでも桜川さんがどれだけこれを隠したいか分かるってものだよね。そもそもこれ、桜川さんの云々っぽく見せてるけど実際ただのアニメディスクとかかもしれなくない? ほら、年齢制限のあるやつってやっぱり家には置いておけないし……」
「俺はAVも家に置いとくけどなー」
「この間彼女に見つからないしまい場所を相談してたべ。んで仁さんに殴られたとこ、俺、見てましたよ」
「あおちゃん、しーっ」
「……とにかく、だ」
誰もが触れなかったディスクを仁が手に取る。
「奈義はこいつをどうするつもりで俺たちを呼んだんだ」
「……そりゃあ、処分の仕方をどうするか相談しようと」
「まあ、オーナーの秘密が隠されてるかもって代物を一人で処分すんのは荷が重いだろうな」
あろうことか仁はぱかりとケースを開いてしまう。
撮った動画を手焼きしただけのものらしく、何も書いていない白いディスクだけが入っていた。
「……仁ちゃん、それ……ほんとに処分しちまうのか?」
壱がうずうずしだす。
――多分、全員が同じことを思っていた。
「ででででも、勝手に中身を見たら桜川さんに怒られるんじゃ……」
「海斗」
「は、はいっ!」
「元暴走族総長の俺が、今更何にビビるって?」
にやりと仁が笑う。
それを皮切りに三馬鹿が天高く拳を振り上げた。
「っしゃああああ! 桜川さんのお宝見てやんぞおおおお!」
いつもならあくびの一つも噛み殺す大和ですら、口元に笑みを浮かべている。
半泣きで逃げ出すはずの海斗と、それに付き合ってきた遥も今は動かない。
誰もがこのディスクを見たがっていた。
「予想通りっつーかなんつーか……」
「奈義、お前……最初っからそのつもりだったろ」
「まあ、そうですね。俺一人で見るより、道連れがいた方が桜川さんにバレた時も安心かなと思ったわけで。っていうかこんなもの見つけておきながら、見ないで捨てる選択肢はないと思います」
「奈義っちやるぅ~!」
もはや秘密の集まりは一種のパーティーと化していた。
そうしている間に海斗が自宅に連絡を入れている。
「ねえ、シアタールーム使えそうだよ」
「なんでそんなもん家にあるんだよ!?」
「えっ、みんなって家で映画見ないの……?」
「規模がちげえ!」
改めて海斗がお坊ちゃんなんだと誰もが実感する。
「とりあえず手紙から見てみませんか?」
遥の一言に一端全員が落ち着いた。
手紙を開封するのは、発見者である奈義の仕事になる。
「……じゃあ、読みます」
奈義の聞き取りやすい心地のいい声が落ちる。
「『いつか俺たちの後を継ぐBLOSSOM社の後輩たちへ。この手紙と一緒に置いてあるディスクは我らがナンバーワン、伝説のおとどけカレシかなめんの記録だ。もしお前らがキャストとして自信をなくしたら、あるいは一週間過ごす彼女をどう扱うか悩んだら、もしくは単純にかなめんの弱みを握りたくなったら、こいつを見ろ。伝説のおとどけカレシがどうやって彼女を――嫁さんを落としたのかここに全部記録してある。ちなみにかなめんはこのことを知らねえ。知ったらぶっ殺されるからな。ってなわけで、後輩のお前らがこれを見て何をしようと俺たちOBは一切関与しねえ。自己責任ってヤツで頼む。せいぜい楽しめよ。おとどけカレシOB一同』」
そこまで読み切って、奈義は便箋の続きに視線を滑らせる。
「『追伸、俺らより売り上げ出せてねえキャストは見る資格なーし!』……だそうです」
「なるほどな。OBも面白い真似してくれるじゃねぇか」
「やっべ! 俺、自分の売り上げ分かんねえ!」
「ちっひ、ちっひ。そんなん気にしなくていいべ。仁さんいるだけでうちの代はおつり出るし」
「俺らみんなの後に入ってるもーん。はっ、一応後輩なんだな!」
「別に先輩なんて思ってねえけどな」
大和のツッコミも今日はなんだか柔らかい。
恐らくここにいる全員が、これから桜川の秘密を暴く戦友だからだろう。
「そんじゃ、これから海斗ん家移動して鑑賞会と行くか」
仁の一言にまた全員が盛り上がる。
――伝説のおとどけカレシがどんな一週間を過ごしたのか。
そしてそんな男を落とした伝説のお迎えカノジョは何者なのか――。
真相を知るまで、あと、少し。
――七日間だけの契約は、永遠の契約に変わった。 千紘は期間限定の恋人と本物の関係になり――。
(はああああああん)
デートの待ち合わせ場所に来た彼女を見て、早速千紘は相好を崩していた。
「かわいい、その服すっげえかわいい、かわいい、好き、かわいい!」
しーっ! と彼女が慌てて千紘の口を塞ごうとする。
それでも止まれない辺りがお祭り男と呼ばれてしまう所以なのかもしれない。
「いや、だってかわいいだろ!? なんで!? 俺、そこまでかわいい格好してこいって言った? 言ってねぇよな!?」
千紘がここまで溺愛する彼女は、ほんのつい最近できたばかりの恋人である。
それまで二人の関係は『おとどけカレシ』のキャストとその客で、疑似恋愛を楽しむだけの偽物の関係だった。
それが決められた七日間を過ごすうちに変わっていき、心から互いを想い合う本当の関係になった。のだが。
「はあん、かわいい」
まだ今日、出会ってから五分も経っていない。
なのに今の時点で千紘は何度『かわいい』と言ったのか。
(もうパーフェクトだよぅ! 満点通り越してプラス点付けたくなっちまう! あー、こういう格好似合うんだなー! おとどけカレシやってたときと雰囲気変えてくるんだもんな! ずりぃよな! そりゃ俺も雰囲気ちげぇけど! 同じだったら俺が混乱するけどぉ!)
まだまだまだまだ彼女を褒めようとする。
それを止めたのは真っ赤になった彼女本人だった。
早くしないと間に合わなくなる、という言葉を聞いて千紘は緩み切っていた顔を引き締める。
「……だな。今日はこのために昨日の夜から飯抜いてきた」
すごい、と彼女が目を丸くする。
これから二人が向かおうとしているのは、一流ホテルのビュッフェ。スイーツはもちろん、ローストビーフやステーキといった肉類、それから世界各国の料理など、心惹かれるものが用意されているらしい。
ものすごい人気だということで必死に予約を取れたのが今日だった。
時間が決められている分、遅れれば容赦なく楽しみを削られる。
二人は、これ以上ないほど真剣だった。
「お前は? 飯、抜いてきた?」
彼女は申し訳なさそうに苦笑する。
どうしても空腹に耐えきれず、朝食もしっかり食べてきてしまったと言う。
昼食の前に軽食を挟まなかっただけまだマシな方かもしれない。
彼女は千紘が驚くほどよく食べる。その小さい身体のどこにどう詰め込んでいるのか分からないくらいよく食べる。もしかしたら胃が別世界に通じているのかと思うくらいよく食べる――。
「よし、行くか!」
これ以上我慢させると、次に捕食されるのは千紘の方かもしれない。
それはそれでありかもしれない、と思ったことは心に秘めておく。
***
そしてお楽しみが始まった。
空腹ではあったが、二人とも会話をはずませつつ料理をきちんと味わう。
(綺麗に食うよなー……)
自分もせっせと料理を運びながら他人事のように考える。
千紘の食事マナーが綺麗なのは育ちのおかげで当然だが、彼女は一般家庭で普通に生きてきたごくごく平凡な女性である。
それなのに、千紘が見とれるほど綺麗な食べ方をする。
――ただ、皿の減りは普通とほど遠い。
「ん? またお代わり? ほんっとよく食うなー」
思ったことをそのまま告げると彼女は恥じらうように赤くなる。
上品な料理が多くて食べた気がしないと聞いたとき、千紘は心から彼女を愛おしく感じてしまった。
(もっといっぱい食わせてやりてぇ……)
その後満足した彼女をいただくのは千紘の方だとして。
次の料理を取りに行った後ろ姿を見つめ、にまにま笑み崩れる。
(髪、後ろから見るとああなってんのか。気付かなかったー。どうやってんだろうな。あれもかわいい)
戻ってきたら聞こう、と思ったとき、彼女の足元を子供が駆けていった。
勢いよく転んだかと思うと、持っていたお皿からパンがひとつ転げ落ちる。
(……あっ)
何気なく見ると、もうそのパンはなくなってしまっていた。
それを子供も分かったのか泣き出してしまう。
(いくら走り回ってたのが悪いっつっても、あれはちょっとかわいそ――)
ぼんやり見ていた千紘の前で彼女がしゃがむ。
そして、子供の皿に自分の皿からパンをひとつ移した。
それはもうなくなったはずのパン。どうやらなくなる前に確保していたらしい。
びっくりしたように泣き止んだ子供の頭を撫で、彼女は千紘のもとへ戻ってくる。
呆気に取られていた千紘を見ると、はにかみながら肩をすくめた。
見てた? と気まずそうにして。
「見てた……けど、よかったのか?」
彼女はここのホテルのパンが好きだと言っていた。
特にレーズンとカスタードの入ったパンが絶品なのだと。それがさっきなくなったパンだと千紘は知っている。
「あれ、好きなんだろ」
譲らなければよかったのに、とは言わない。
千紘だってきっと同じ状況なら彼女の行動をなぞっただろう。
彼女は首を横に振って子供の向かった方に目を向ける。
また千紘が連れて来てくれるだろうからいい、とその横顔が柔らかく和んだ。
(ってことは、またデートしてくれるってことじゃん? いや、付き合ってんだから当たり前だけど! 俺のデート期待してくれてるってことじゃん! フゥー!)
「俺! また予約取っから!」
うん、と彼女は嬉しそうに頷く。
そしてなぜか千紘の手を自分のもとへ引き寄せた。
人差し指を唇に寄せ、そっとキスをする。
ぽかんとしているのには構わず、それを千紘の唇に触れさせた。
「……え、前払い? 次の予約の?」
どうやら今のキスは彼女なりの感謝だったらしい。
――少々、そのやり方は千紘を喜ばせ過ぎた。
「来月の予約、毎日抑えるわ。朝も昼も夜もここの飯食わせてやるからな……!」
うん、とまた彼女が頷く。
残りのお礼は二人きりのときに、という囁きがますます千紘を高ぶらせた。
よく食べる彼女にふさわしい恋人は、当然『よく食べる』肉食系男子なのである――。
――七日間だけの契約は、永遠の契約に変わった。 大和は期間限定の恋人と本物の関係になり――。
「恋人になったからちゃんとしたデート、ねぇ」
鼻で笑った大和の前にはつい先日結ばれた恋人の姿がある。
相変わらず小馬鹿にした様子の大和を軽く睨んではいるが、あまり勢いはない。
なぜならその口元には笑みが浮かんでいる。
「にやにやすんなよ。不審者かと思われても知らねえぞ」
どっちが、と彼女に小突かれて大和も気付く。
どうやら自分の表情もすっかり緩み切ってしまっていることに。
(デートを楽しみに思ってたのは、俺も同じってか)
「……こっち見てんじゃねぇ。バーカ」
恋人らしくキスを贈る代わりにデコピンをひとつ。
大げさに痛がる彼女の不満げな顔もまた、微笑ましい。
二人がこんな関係になったのは本当に最近の事だった。
それまでは七日間だけの偽物の恋人関係で。
そのたった七日間で大和の心も考え方もがらっと変えられてしまった。
もちろん、彼女も同じである。
「俺みたいなタイプは嫌いだっつってたくせに。結局、引き連れて歩くのが好きなんだろ。顔いいもんな、俺」
よくない、とすかさず返事が来る。
このテンポ感も大和には新鮮で愛おしい。
「あんたも思ってんじゃねえの。いい顔の男だなーって。自分の恋人がかっこよくてよかっただろ。ほら、褒めろ」
やだ、とまた望んでいない答えが返ってくる。
否、ある意味では望んでいる答えかもしれない。
そうやってむきになる彼女を見るのが大和の最近の楽しみのひとつだったからだ。
「もうあんたのもんだ。それだけは忘れんな」
軽く頬を撫でながら言ってやると、わかりやすく赤くなる。
まだ、二人は非常に初々しかった。
想いが通じ合った時あんなにキスをしたのに、ここ数日一度もできていない程度には。
(この俺が……って考えるとほんとにすげえわ)
大和自身、そんな自分に驚いていた。
女の付き合いなんて数えきれないくらいこなしてきたのに、目の前にいる本物の恋人には今までのようなやり方が通用しない。
彼女が恥ずかしがって逃げる、というわけではなかった。
驚いたことに大和が手を出せないでいる。
(あー、クソ。今夜はやるからな)
今日、このデートを終えた後は二人でホテルに泊まる予定にしていた。
ほんのちょっとためらった彼女に無理を通したとき、自分のあまりの必死さに引いた覚えがある。
(中学生じゃねえんだぞ)
まるで初めて恋を知ったかのよう。
手を繋ぐだけ、ちょっと目が合うだけ、肩が触れるだけ。
そんなあまりにも小さなひとつひとつのことに、大和はいちいち反応してしまう。
案外、大きく構えているのは彼女の方なのかもしれない。
そしてそれは大和にとってあまり面白くない状況だった。
――だから焦りが出てしまったのだろう。
気付けば余計な一言がこぼれていた。
「キスしてえな」
からん、と彼女が持っていたスプーンが皿に落ちた。
お互い、たっぷり十秒見つめ合う。
「今、俺……なんて言った?」
更に大和は墓穴を掘ってしまった。
それを言ったことで今のは本音なのだと晒したことになる。
「おい、ちょっと待て。今のなし。忘れろ。いいな?」
(クソ、なんだよ。こいつといると全然うまくやれねえ……!)
くす、と声が聞こえた。
一拍置いてこらえ切れなかったとでも言いたげに笑い声が響く。
「てめっ、この……!」
笑いながら彼女は言う。
――そう思っていてくれて嬉しい、と。
「……は?」
ぽつぽつ語り出したのは、ちょっとした不安だった。
大和が女性にとても慣れているのは知っている。そして自分が男性にそこまで耐性がないことも。
そんな正反対の二人だから、大和は物足りなさを感じているかもしれない。刺激的な駆け引きもできないし、なにか男性を喜ばせるようなこともできない。自分は大和に日々刺激を感じているし、デートもいつだって楽しく思えているけれど。
でも、違った。
キスをしてほしいと思っていたこと。それが彼女の顔に安堵の笑みを作る。
「……んな風に考えてたなら、言えばよかっただろ」
言えなかったと彼女はまた微笑む。
いつだって余裕そうだからこういうときも余裕なのだと勘違いしていたと。
だけど。
「別に。……今も余裕なのは変わってねえし」
(……今のはさすがに中学生すぎるわ)
まるで反抗期の子供だった。
なにか言えば言うほど墓穴を掘る。
ほんとに余裕なの、と声がかかった。
遅れてきた反抗期をこじらせた大和はそれに乗ってしまう。
「ほんとだよ。見れば分か――」
声が途切れたのは、身を乗り出した彼女がキスをしてきたせい。
「……な、に……やって……」
ぬくもりを一欠片も残さず、彼女は再び自分の席へ戻る。
余裕? と煽るように呟いて。
「……あのな」
そうまでされたら、もう大和のすることはひとつしかない。
「今夜覚えてろよ」
それだけ言うのが精いっぱいだったというのは内緒にしておく。
ほんの少しのキスが想像以上に大和を追い詰めていた。
もっと触れたい気持ちをどうやって抑えればいいのか、かつて散々女の相手をしてきたはずなのにまったく分からない。
思えば、こんな風に誰かを求めたことがなかった。
(くっそ……!)
不意打ちによる勝ちは譲っておくことにする。
本当の勝負は夜、二人きりの部屋で行うと心に決めて――。
「全員集まったな」
桜川の言葉に、全員がそれぞれ反応する。
揃っているのはおとどけカレシのキャストたち。とはいえ、今は全員『元』がついている。
後輩である大和と千紘ですら、もうおとどけカレシではない。
そんな彼らが今日呼び出された理由はたった一つだけ。
「今日はアニバーサリーだ。存分に食って飲んで楽しめ」
「ヒャッハー! 桜川さん太っ腹ぁ!」
「奢るとは言っていない」
「ぎゃー!」
壱が秒で絶望に叩き込まれる。
こういったやり取りも今となっては懐かしい。
「そっかぁ、今日って記念日なんだね」
「変な感じだなぁ」
ほのぼのした独自の空気を醸し出しているのは海斗と遥だった。
賑やかすぎるおとどけカレシたちの唯一の癒し要素と言ってもいい。
「とりあえずカンパーイ! いぇーい! ちっひーとやまぴっぴもおつかれんこーん!」
「ぎゃはは! おつかれんこんめっちゃかわいい! 俺も言う! おつかれんこーん!」
「……うっせぇ」
既に酒が入っているのかと思うぐらい騒ぐ葵と千紘から大和が逃げ出そうとする。
二人に肩を組まれてしまい、とても逃げられる状態ではなかった。
大きな声で喋る二人がよっぽどうるさいのか、思い切り顔をしかめている。
しかし、助けは入らない。
「瀬戸さんもお疲れ様です」
「ん、お前もな。経理の仕事はどうなんだ?」
「まあ、ぼちぼちって所です。瀬戸さんの抜けた穴が大きすぎてどうするかなって感じですが」
「だからって今更戻るつもりはねぇからな?」
「分かってます。俺だってもう、戻りませんよ」
仁と奈義の非常に落ち着いた会話を聞いた桜川が、そっと含み笑いを漏らす。
どちらもドライな言い方であり、もうおとどけカレシという仕事は面倒だと思っているように見えた。
しかし、この二人はここにいるどのキャストよりもおとどけカレシを辞めた理由に弱い。
たった一週間で恋をしてしまった、大切な恋人。
日々溺愛されすぎているであろうその女性を思うと、どうしても桜川は笑わずにいられなかった。
「ねー、桜川さーん! 早くお楽しみのアレ、やりましょうよー」
千紘に声をかけられ、桜川は時計を見上げる。
まだ会を始めて五分も経っていない。
もう少し交流を深めたり過去に浸ったりする時間を取ってもいいだろうと思いはしたが、既に千紘の発言で壱と葵が乗り気になっている。
「プレゼントこうかーん! 壱おにーさん、ほんっと今回マジやべぇから。俺のプレゼントもらったヤツは一生分の幸運を使い果たしたと思えよ!」
「俺、こういうのよく分かんねぇから彼女に選んでもらったんすよ。面白そうなのにしよーっつって」
「あおちゃん!? いつからそんなハッピーお花畑ちゃんに!?」
「へへ、花なら今は詳しいかんな。お花畑ちゃんは褒め言葉にしかならねぇべ」
「あおちゃんんん!?」
「っつか、いっちーさんもそうだべよ。年下の彼女さんとハッピーお花畑と違うんけ?」
「ふふ、へへへ。聞きたいか? 聞きたいか? 俺が今どんだけハッピー野郎かってのを!」
「プレゼント交換しないんですか?」
止まらない二人に海斗が突っ込む。
その隣で遥は、この二人に突っ込めるあたり気弱というのは冗談だろう、とこっそり思った。
「でもね、俺も彼女と一緒に選んできたんです。俺がもらって喜ぶものにすればいいじゃんって話してたんだけど、気が付いたら二人でお互いのプレゼント買ってて……えへへ」
「えー、いいなぁ。俺、おすすめの美少女ゲームとその特典セットにしようとしたら止められたよ?」
「遥くんは……ほら、アブノーマルだから」
「どこが!?」
今度は海斗と遥まで騒ぎだす。
収拾がつかなくなったのを見て、さすがに桜川が口を出した。
「いつになっても成長しないな、お前たちは……」
「桜川さんは現役時代に比べてすげえ成長したらしいっすね」
「……大和、後で話がある」
「俺はないんでー」
しれっと言った大和を軽く睨み、桜川は更に続けた。
「プレゼント交換をするんだろう? 全員そこに座れ」
「ああ、これアレですね。音楽流して止まった時に持ってたものをもらうってヤツ。だから音楽CDの用意なんか頼んできたんですか? 経理の仕事じゃないと思うんですけど」
「経理だろうがなんだろうが、俺の部下という点に変わりはない」
「鬼畜ですよね、桜川さんって」
やれやれと奈義が音楽の用意をする。
ランダムに止まるよう設定してから、座る元キャストたちの間に入った。
音楽が流れ、桜川も含めた九人は微笑ましくプレゼントを回し合う。
「やまぴっぴも彼女と選んだのか?」
「誰があんな女に頼るかよ。自分で選んだっつーの」
「俺はさ、デートしてて思い出したんだ。野球見に行ってたんだけどな。そんときの彼女がもうすんげえかわいくて!」
「うるせ、あんたの彼女より俺の――」
「……お? おお?」
「こっち見んな、うぜえ」
「っはー! やまぴっぴのデレ見損ねたぁー! こういう時、先輩たちはきっちりデレくれると思うんですけどねー?」
「……おい、なんでこっち見た」
「いやー、なんででしょー?」
千紘に振られた仁が眉間に皺を寄せる。
こんな場所でデレたりはしないが、仁もまた彼女に助言をもらってプレゼントを選んでいた。
男へのプレゼントが分からないと相談した結果、それらしいものを教えてくれたのだ。
ついでにこっそり仁の欲しいものを探り、夜にプレゼントしてきたのは記憶に新しい。
もちろん、仁も彼女には眠れなくなるくらい素敵な夜をプレゼントした。
「あ、音楽終わった」
遥の呟きに全員の手が止まる。
幸い、自分のプレゼントが手元に来た人物はいなかった。
「あああああああ! 俺が仁さんのプレゼント欲しかったあああああ!」
崩れ落ちた葵に海斗がぎょっとする。
壱がそれを見てにやにやしながら、葵の背中をぽんぽん撫でた。
「ええと……」
海斗は一瞬ためらったものの、ここで交換しては意味がないだろうと判断して仁のものらしいプレゼントを開ける。
どこででも使えそうなおしゃれなキーケースだった。
「わあ、ありがとうざいます。ちょうどこの間壊れちゃって……」
「それがいいんじゃねぇかっつったの、俺じゃなくて彼女なんだけどな」
「いいセンスですね、彼女さん」
「俺の女だからな」
さらっとデレたのを見て千紘が大和の肩をばんばん叩く。
あれがナンバーワンなんだと目を輝かせていたが、当の大和は鬱陶しそうに顔をしかめていた。
「……なんだこれ」
ぽつ、と奈義が言う。
何事かと思うと、プレゼントを開いたその手にはかわいいクマのぬいぐるみがあった。
「あ、それ俺からのやつだよ」
「御国以外だったらどうしようかと思った」
「あのね、リングピローってあるでしょ? あれのクマさんのやつなんだ。奈義くん、彼女さんにたくさんアクセサリーあげるって言ってたし、ちょうどよかったね」
「……俺がこんなの部屋に置いておいたら、すげぇ顔されそう」
嫌そうに言ったつもりだったのだろう。
しかし、その顔が恋人を想像して優しく緩んでいることに気付いていない。
そうやって彼らは自分たちのプレゼントを確認していった。
千紘の野球セットをもらった遥がアウトドア派の本気に目を回したり、桜川のバスセットをもらった千紘が「やけに女性らしいチョイスだが、まさか彼女と選んだのでは」と余計な方向に頭を回した結果口を封じられたり。
大和が選んだコーヒー豆五種は葵を思いがけず喜ばせた。彼女と徹夜でゲームをする時に飲むおいしいコーヒーを探していたらしい。
奈義が真面目に決めたハンドマッサージャーをもらった壱が「なんかエロい」と言ったのはともかく、葵のおうちで簡単お手軽手巻き寿司キットを仁が喜んだのは意外なことだった。彼女と一緒に作るかと言ったのを聞いて、仁の頭には恋人のことしかないのかもしれないと全員が考える。
大和が遥からのプレゼントとして美少女ゲームを渡されなかったのは不幸中の幸いだろう。しかも音楽を聴くために必要なヘッドホンなどのセットだったのが非常によかった。帰ってから恋人に自慢することをここにいる誰も知らない。
「……おい」
そして、よりによって壱のプレゼントを受け取ったのは桜川だった。
否、ある意味全員がこのオチを想定していたというのはある。
「へへへ。桜川さん感謝してくださいよ? なんてったってAVソムリエの俺が考えに考えた『真中壱オススメAVセット~今夜はいっぱいおっぱい~』ですからね!」
どうしてそれを選んだのか誰にも分からない。
なぜ桜川の手に渡ることを考えなかったのかも分からない。
そしてこの上なく得意げにしている壱が一番分からない。
「……真中、ちょっと来い」
「えへへ、褒めてくれるんすか? しょうがねぇな~」
別室に連れて行かれた壱を見て、全員が合掌する。
しばらくして聞こえてきた怒声と物音はもうすっかり聞き慣れたものだった。
たとえキャストを辞めても、おとどけカレシたちは変わらない。
来年もまたその次もずっとずっとこんな風に笑い合って日々を迎えるのだろう。
個性的すぎるメンバーはそれを思って特別な記念日を楽しんだ――。
かち、かち、と時計の音が静かな部屋に響き渡る。
床で正座させられているのは壱。
それを軽蔑の眼差しで見下ろす。
他の人に比べれば自分の心が宇宙のように広いと思っていた。なぜなら、壱の本性を知った上で受け入れられているのだから。
こんな人、心配すぎて他の女性には扱いきれない。自分だけがそんなおかしな個性も好きだと思えている。
そう、思っていたが今回ばかりは違っていた。
「……ハイ。俺は恋人に隠れてAVをいっぱい買いました……」
机の上には山のような――いかがわしい動画作品の山。いったいどこからこんなに集めてきたのかも分からないし、どうやって今日まで隠していたのかも分からない。
ただ、見つけた以上無視することはできなかった。
「だってよぉ……これ、俺の趣味みたいなもんだし? ほら、俺……AVソムリエだから……。やっぱ新鮮なAVはちゃんと見ておかねぇと勘がにぶ――痛い! 痛いですごめんなさぁいっ!」
ぎゅむむ、と力を入れて壱の頬を引っ張る。よく伸びるのが面白いと思っていることは、今は言わないことにした。
「好きなもんは好きでいいんじゃんか。そういう俺がいいって言ってくれたじゃんか。なのになんで今更――いだだだだだ」
そこじゃない。
という気持ちを込めて思い切り引っ張る。
先生に叱られた小学生のように唇を尖らせた壱の前に座り、きちんと目線を合わせた。
引っ張りすぎてしまった頬を少しだけ撫でて、どうして嫌だと思ったのかを自分なりの言葉で伝える。
「……へ?」
聞き終えた壱から漏れ出たのはなんとも間抜けな声だった。
「じゃあ、お前……」
驚いたその顔を見て、なぜか――泣いてしまう。
「泣くなよ。分かったから」
ふざけていた壱はもういない。ときたま見せてくれるお兄ちゃんがそこにいた。
そっと抱き締めて、髪を撫でてくれる。
涙を拭う手も言葉にできないくらい優しい。
「……お前じゃ不満だから集めてるわけじゃねぇよ。ほんとにただの趣味なんだって」
許せない――というのとは違ったのだとやっと自分の中ではっきりする。
ただ、哀しかったのだ。
恋人である自分がいながらそういうものに手を出すのは、つまり自分に女性的な魅力がないからで。パッケージに映った女性はみんな大人びた人ばかり。壱が求めているのは年下の女ではなく、こういった女性なのかと――。
泣き顔を見られるのは悔しかった。
こんなくだらないことで泣くなんてそれこそ年下のお子様ではないか。
撫でてくれる優しさに甘えてどうする。大人の素敵な女性はむしろ甘やかす側になるべきではないのか。
これではまた物足りないと思われてしまうかもしれない。子供だと思われるかもしれない。恋人にふさわしくないと壱が気付いてしまうかもしれない――。
「あ、おい」
突き飛ばすようにして立ち上がる。
ごし、と雑に顔を拭ってまっすぐ玄関に向かった。
今日はもう帰ろう。まともに話せる状態ではない。
そう思ったのに、後ろから抱き締められる。
「そんな状態で帰してやるわけねぇだろ」
壱の顔は見えないけれど、とても必死さを感じた。
「悲しませて悪かったよ。でもな、俺は……お前が一番好きだし、お前より欲しいものなんかねぇと思ってる。別に大人っぽい女が好きってわけじゃ……いや、ちょっとはイイと思うけどそれはあくまで他人としての見方であって、恋人にしてぇってのとは違う」
こんな時ぐらいかっこよく決めればいいのに、と少し笑ってしまう。
壱は本当に小学生みたいなお馬鹿さんで、こんな時でも嘘をつけない。
だからこそ、自分を思う気持ちをはっきり感じられた。
「……恋人でいて欲しいのはお前だけなんだよ」
ぎゅ、と抱き締める力が強くなる。
「これでもまだ嫌って言うなら、あのAV全部燃やしていい。見るなって言うならこれから一生見ねぇ。……だから、泣き止んでくれよ」
負けたと思ってしまった。
振り返って、背伸びをする。
「っ……」
泣き顔を笑顔に変えて壱にキスをした。
この人はいつも自分から行動するとびっくりしてくれる。
なんだかんだいって大人の男の顔を見せる壱に早く近付きたくていつも頑張るけれど、こういうことで驚いた時は大人でも子供でもない壱が見られる気がして嬉しい。
結論から言えば、やっぱり壱が大好きなのだった。
だから――趣味を捨てて欲しいとは思わない。
「……許してくれんのか?」
頷いて抱き締めてもらう。
趣味ならしょうがない。しょうがなくはないけれど。
唯一恋人にしたい女性だとまで言われて、AVの女優たちに嫉妬するのは違う気がした。
もっと自分に胸を張っていいのかと尋ねると、壱はいつものふにゃっとした情けない顔になる。
「それ以上胸張ったら、ボタンはじけ飛びそうだよな!」
――ああ、壱は壱だった。
笑ってしまった自分につられて壱も一緒に笑う。
これで仲直りの大団円。
かと思いきや。
「いやー、やっぱ俺って演技派だよなー。お前のこと大好きってのはほんとだけど、もしAV燃やせ、二度と見んなって言われたらどうしようかと思った! はー、こういう時は桜川さんに感謝するわ。俺の演技力は桜川さん仕込みだからな!」
壱は正直すぎる。余計なことまで言うところが。
「……おい、なんで手ぇ振りかぶって……」
わなわな震える手をそのまま振り下ろすと、今までで一番いい音がした。
「ふぎゃっ!?」
思いつく限りの罵詈雑言を吐きながら再び部屋の中に向かう。
ゴミ袋を取り出し、机の中のAVを無造作に放り込んだ。
全部燃やす。残らず燃やす。燃やし尽くして灰にしてやる。
いっそ壱の家ごと燃やした方が世界平和に繋がるかもしれない。少なくとも自分の心の平穏は保たれるだろう。
そんな思いと共に一つ、また一つとゴミ袋へ突っ込む。
「ああああああ!? やめて!? やめてくださいお願いします! 俺の! 人生の宝物なの! 壱さん秘蔵のスペシャルコレクションなのおおおおおお!」
次に泣き出したのは壱の方だった。
それには構わず本棚からはれんちな写真集を引っ張り出す。
当然、これもゴミ袋へ。
「分別しないとだめだから! な!? 俺が分別するからもうやめろよ! 頼む! この通り! うわあああああん!」
どうせそれも演技なんだろうと切り捨てる。
本当は壱ごと捨てるのが一番早いのだろう。
それだけはできない辺り、惚れた弱みというのはなかなか辛いものだった――。
「ええ……またボツですか……」
パソコンのキーボードが響くオフィスで、遥は上司からの指示にがっくりと肩を落としていた。
デスクの上には今日まで何度も、そして何種類も提出してきたとある大作ゲームのキャラ資料がある。
遥はこのゲームの製作主任としてあれこれと日々頭をひねっていたのだが。
(うーん……。もう二十体分くらい案出ししてるのにな……。メインのこの子だけいつまで経っても決まらない……)
「……いまいち惹かれない、ですよね。具体的に何がどう惹かれないのか教えていただけませんか?」
上司は一度遥に戻した資料を再び手に取る。
ぱらぱらとめくり、遥と同じようにうーんとうなった。
「すごくかわいいと思うんだけど……なんだろう、ある意味どこにでもいそうだと思ったんだよね。特にこういう業界のキャラって考えると余計に」
「どこにでも……」
「誰でもこの子に好かれるような設定を毎回盛り込んできてくれるのは分かるんだ。でもどうせならもっと『刺さる』設定が欲しいんだよ」
「個性的な設定ってことでしょうか」
「うーん……なんて言えばいいんだろう……。冒険して欲しいっていうか、この子が本当は人外設定とか……」
「『刺さる』って言ってもあんまり冒険しすぎちゃダメだと思うんです。それでやりすぎたのが五年前に発売された『ちゅんちゅんクエスト』ですよね。あれはヒロインの正体が実はスズメって設定でしたけど、それが発覚するまで普通の女の子のビジュアルだから、ミミズをわし掴みにしたりセミをおいしそうって言ったり、ほんととんでもなくて……。他のヒロインもイソギンチャクがいたり、キツネ娘かと思ったらチベットスナギツネ娘っていう斜め上のチョイスだったり、個性特化型すぎたゲームだったじゃないですか。おかげで一部カルト的な人気を博した以外は評価最底辺、「やりすぎ」「頭おかしい」「開発イカレてる」「ヒロインがスズメで売り上げもスズメの涙(笑)」ってものすごいレビューの嵐だったのを忘れたんですか?」
「は、遥くんってうちのゲームにものすごく詳しいよね……」
「……はっ!」
(い、いつもの癖で……!)
「え、ええと、とにかく! 個性個性って言っても限度があると思います! 今回は人外ってところに頼らず、純粋に性格や台詞でのキャラ性を重視したいです……!」
「燃えてるね、遥くん……」
「せっかく任されたことですから! 本気でいきたいんです!」
遥の言葉に、あいまいなことしか言っていなかった上司がまた考え込む。
「うーん、うーん……。でもそればっかり考えすぎて、肝心の魅力が後回しになってる気がする。だからいまいちしっくりこないのかも」
「……なるほど」
「遥くんはどういう女性に魅力を感じるの? そういう身近なところからヒントをもらってもいいかもしれない」
それらしいアドバイスをしたことで上司は満足したらしかった。
遥の肩をぽんと叩いてから、頑張れと一言残して立ち去る。
その背中を見送り、遥は残されたボツ資料に視線を落としながら今の言葉について考えた。
(魅力的な女性? 俺がそう思う人なんて一人しか……)
***
――その数日後、遥は急いで自宅に向かっていた。
ドアを開けて既に中で待っていた恋人のもとへ飛び込む。
「半年記念日おめでとう!」
今日、遥は彼女と付き合って半年の記念日を迎えていた。
仕事が忙しいのだから無理に祝わなくてもいいと笑った彼女に無理を言ったのは遥の方で、彼女はそれに付き合ってくれた形になる。
「はい、これ!」
ここまで急いで来たために息を切らせながら花束を差し出す。
「インパチェンスって花なんだ。花言葉を聞いたとき、君のことが思い浮かんでね」
やけににこにこした遥を見て彼女は少し首を傾げた。
半年記念日と言っても、あまりにもテンションが高すぎる。
それを指摘され、遥は改めて満面の笑みを浮かべた。
「ずーっと難航してたキャラ案がようやく通ったんだよ! それに合わせて他のキャラも調整が入っちゃったけど、社内ですっごく評判よくてね。ほら、見て。企業秘密だけど、君にだけ特別」
そう言って遥が見せた資料には、花をモチーフにした女の子のイラストが描かれていた。
それぞれ花言葉と色がテーマとして用意されており、個別ストーリーではそれに沿った涙あり笑いありの展開が待っているらしい。
その中の一人を見て彼女は手を止める。
髪型や雰囲気、そしてやけにこのキャラだけ詳細かつこだわりを感じる性格設定。そのどれもに既視感を覚えたからだった。
前向きで誰に対しても公平。主人公がひた隠しにしてきた秘密を知っても、優しく手を差し伸べて微笑みかけてくれる――。
「……うん、そうだよ。これは君をモチーフにして考えたんだ」
遥が照れながら言う。
「俺が魅力的だと思う女性を考えたら君しかいなかった。まっすぐで頼り甲斐があって、いつも明るくてポジティブで……。良い所なんて挙げたらもうキリがないけどね」
キャラ資料を元通り受け取り、遥は少し笑う。
「俺は今までたくさんのヒロインたちを攻略してきたし、どの子もすごい魅力的な子だと思ってた。だけど本気で好きになるくらい惹かれたのってたった一人だけだったんだ。根暗だった俺に鮮やかな世界を教えてくれた、特別な人。……君だよ」
花束を持ったままの恋人を優しく腕の中に閉じ込める。
いつもはにこにこしながら抱き締め返してくれるのに、今日は驚いているのか硬直していた。
「この花を君イメージのキャラのモチーフにしたのも、花言葉が『鮮やかな人』だから。仕事帰りに通った花屋さんがすごく花言葉と……それからなぜかゲームに詳しくてさ。あんまり美少女ゲームはやらないみたいだけど、花モチーフのキャラっていいですよねって言われちゃった。店員さんの彼氏さんもゲームでは花の名前を付けてるんだって。アルテア……だったかな? なんの花か聞きそびれたけど。ああ、ええと、話が脱線しちゃったね」
すう、と遥は息を吸う。
吐き出したのは息と、彼女への気持ちだった。
「付き合って半年だけど、今もまだ毎日君に恋をしてる。きっとこれからもずっとそうだから……。こんな俺をどうぞよろしくお願いします」
うん、と彼女が笑う。その笑った顔だけはどう頑張ってもキャラに投影できなかったのを思い出した。
「俺の人生をこれからも鮮やかに彩ってね」
もう一言付け加えると、首を横に振られてしまう。
目を丸くした遥に向かって彼女は軽くキスをした。
――自分だけじゃ遥の人生を彩れない。だから二人で未来を作っていこう。
思いつきもしなかった答えに再度驚く。
「二人で作っていく……か。そうだよね、二人のことなんだから一人だけじゃ作れないよね」
かつての遥だったら素直に受け止められないような、明るくて前向きな言葉だった。こうして受け入れて納得できるようになったのも、すべて彼女のおかげ。
「じゃあ、俺も君の人生を彩るね。 いっぱい甘えていいよ?」
ふふっと小悪魔めいた笑みを見せると、彼女が微かに頬を染める。
結局のところ、彼女はおとどけカレシだった頃の作られた遥でも、気弱で根暗でネガティブな遥でも愛してくれる。
それを実感して――もう少し、攻めてみた。
「ねえ、二人で未来を作るんでしょ? だったら、二人でしかできないこと……しよ?」
せっかく渡した花束をそっと取り上げる。
意図を察した彼女は、先にお祝いしてからでもいいのに、と笑いながら遥の身体に腕を回した。
どちらからともなく唇を重ねて、次第に触れ合う時間を延ばしていく。
お互いを求めすぎて一緒にソファへと倒れ込んだ。
ふかふかのクッションに笑いながら、もっともっと深く愛し合う。
――二人の時間を楽しむために電気を消したのは、遥の方だった。
今日は珍しく遥の方が先に仕事を終わらせて帰ってきた。
だから風呂に入るのも遥が先だった。
まったりリビングでテレビを見ながらシャワーの音を聞く。
それが止まってしばらくしてから、もう上がったのだろうと判断し、浴室へ向かった。
しかし――。
「わっ!」
ドアを開けるとちょうど遥があがったところだった。
下半身にタオルを巻いただけの姿が思い切り視界に飛び込んでくる。
「び、びっくりした……」
そう言っている遥の声が耳に入ってこない。
今、頭の中を占めているのは意外なほど引き締まった身体だった。
オタクで内向的な遥が運動しているとは聞いていなかったのに、小柄な身体は均整が取れていて妙にたくましい。腕や腹部にはほどよく筋肉がついており、一般的にオタクと呼ばれる男性のイメージとはかけ離れていた。
ベッドの上ならともかく、こんな無防備な状態でまじまじと見ることはほぼない。
そのせいで完全に不意を突かれた形になり、一気に顔が熱くなった。
「ん? どうしたの? 顔……すごく赤いよ?」
遥が純粋に心配してくれる。
残念ながら原因は遥自身なのだが、本人はまったく気付いていない。
もともと自分を卑下するところのある遥だから、自らの身体つきやその他もろもろには疎いのだろう。
そのせいでこちらの動揺には気付きもせず、平然と距離を詰めてくる。
「熱があるときにお風呂ってよくないんだよ。今日はやめておいたら?」
そういうわけじゃないのだとしどろもどろになりながら伝える。
まさか自分が年下の男の子にここまで動揺させられる日が来るとは思いもしなかった。
もちろん、こういう関係になる前の遥にはずいぶんとときめかされたものだが。
「大丈夫そうには見えないけど……」
まだ心配してくれる遥に申し訳なさを感じて、ついにすべてを伝えてしまう。
思いがけず裸体を晒され、しかもそれが――あまりにも素敵だったために恥ずかしくなってしまったのだと。
いつもはどちらかと言えばかわいらしい一面のある遥に、そんな男性的なところを感じさせられるとは思わなかったのだと――。
「えっ、そんなことで照れてたの? そっちの方がびっくりかも……」
ここまで言ったのに遥はまだ肌を隠してくれない。
嬉しそうにはにかんだまま、なにやらうんうん頷いている。
いいから、とタオルを押し付けて肌色を覆い隠そうとした。
しかし、その手を掴まれてしまう。
「そこまで意識されたら……ねえ? ちょっと意地悪したくなっちゃうというか……。もっと意識させてみたくなるよ」
ああ、と嘆息する。
遥には小悪魔じみた一面があることもよく知っていた。ささいなことでそのスイッチが入ってしまうことも。
「これよりもっとすごいもの、知ってるでしょ?」
壁に押し付けられて息が止まる。
声がとても近い。遥もそれをわかっていてやっているのだろう。
強気な笑みもまた声と同じくらい近かった。
「このぐらいで照れちゃうなんて、君もかわいいよね」
耳元で囁かれた声の甘さに腰が砕けそうになる。
いつも似たようなことを言っているのは自分の方なのに。そしてそれを聞いて「年下扱いしないの」とむっとするのは遥の方なのに。
今だけは完全に立場が逆転していた。
「こっち、向いて?」
操られたように遥を見つめる。
触れた唇はやけに熱かった。だからこそ身体に火がともる。
お風呂に入るつもりだったのに、それも忘れて遥を抱き締めた。
首の後ろに手を回し、深いキスを受け入れる。
「……ん。いいよ、甘えて」
風呂上がりだからか、遥の髪が湿っている。
なんだかそれもやけに色っぽく感じられて、ますます身体が疼いた。
キスはやがて唇から首筋に下り、鎖骨に辿り着く。
甘噛みで痕をいくつも残しながら、遥はくすっと声を上げて笑った。
「続きはベッドがいい? それとも――」
こくりと息を呑む。
そこにいるのは年下のかわいい恋人ではない。
どうすればこの疼きを鎮められるのか知っている、『男』だった――。
「ただいまー……。……って、もう寝てるか」
仕事から帰ってきた遥が真っ暗な部屋を静かに歩く。
リビングに辿り着いてから電気をつけると、テーブルの上には手の付けられていない料理が並んでいた。
乾いてしまわないよう丁寧にラップで覆われているそれは、遥が帰ってくるずいぶん前に作られていたらしく、既に冷めきっている。
(……ごめんね。ありがとう)
本当だったら今日、二人で仲良く晩ご飯を食べているはずだった。
仕事で急なトラブルが起きさえしなければ。
(待っててくれたんだよね。ぎりぎりまで)
料理にはまだ手をつけないでおいた。
それより先に彼女のいる部屋へと向かう。
***
深夜だということもあり、彼女は既に眠っていた。
規則正しい寝息を聞きながら、そっと歩み寄る。
(顔を見るだけって思ったけど……)
吐息をすぐ近くに感じると触れずにいるのは厳しかった。
さらりとした髪を撫で、まずは額にキスをする。
(……ありがとうって直接言うのは明日にしよう。ごめんねも明日ちゃんと言う)
閉じた瞼の上にもキスをした。まつげが微かに震える。
(……あ、まずいかも)
次は頬。耳と、鼻の先にも。
数えきれないキスにお礼と謝罪と、好きだという気持ちを込める。
そして遥は最後に唇へキスを落とした。
ん、と小さな声が聞こえたかと思うと、閉じていた目がゆっくり開く。
「あ……」
彼女が目を覚ましてから、止められなくてやりすぎてしまったのだと気付く。
こうなってからではもう遅かった。
ぱちぱち瞬きをする彼女に向かって頭を下げる。
「ごめん! 今日は早めに帰れるから一緒にご飯食べようって言ったの俺なのに、結局仕事優先で君との約束を守れなかった。こんな時間に帰ってきたどころか、眠ってる君を起こすようなことするなんて――」
ぴた、と遥は口をつぐむ。
その唇に押し当てられているのは彼女の指だった。
夜だよ、とくすくす笑いながら言われて、また申し訳ない気持ちになる。
「ごめん……うるさかったよね……」
そういうところも好きだけど、と優しい言葉が返ってくる。
オタクを抜けきっていない遥がついついマシンガントークになっても、彼女はいつもそう言って許してくれた。
それどころか、遥が落ち着いたのを見て「おかえり」と言ってくれる。
「……うん、ただいま」
(文句言ってもいいのに。怒ってもいいのに。……君はいつも俺を許してくれる。年下だからって甘えたくないんだけどな。君は俺を甘やかすのが上手すぎるんだよ。……ほんと、ずるい)
頬を両手で包み込まれ、触れるだけのキスを与えられる。
どこか欲をはらんでいた遥のキスとは違い、かわいらしい子供のようなキスだった。
もっとしてほしい、とねだろうとした遥に、彼女はにっこり笑いかける。
(今日もお疲れ、なんてやめてよ。もっと君を好きになっちゃうじゃん……。何回俺を夢中にさせたら気がすむの?)
連日残業続きだったことを彼女はよく知っている。徹夜した日があったことも、何日か昼食を食べ損ねた日があったことも。
だからこそ、そのたった一言が心に沁みた。
(この人と恋人になって本当によかった……)
好き、というシンプルな気持ちが溢れていっぱいになる。
彼女が欲しくてどうしようもなくなった
「……キス、足りないよ。どうせ甘やかすなら最後まで……ね?」
横になったままの彼女に覆いかぶさる。
またいくつもキスをして、今度は反応があることを喜んだ。
時折漏れる声がますます遥を煽る。
キスだけで終わらせるはずだったのに、もう限界が近かった。
「疲れてたはずなんだけどなぁ……」
そう言うと彼女が笑った。
遥の胸元に手を添わせ、なにも言わずに頷く。
甘やかしてあげる、と顔に書いてあった。
「ずっと甘えたままでいると思ったら大間違いだよ?」
小悪魔、とまた笑われた。
彼女がそうやってころころ笑うところにまた愛おしさを感じて、胸が痛いくらい締め付けられる。
(……知らないからね)
いつもとは趣向を変えて唇を甘噛みしてみる。
おかげで彼女はびっくりしたようだった。目をぱちくりさせ、遥の名前を呼んでくる。
それがまた妙に扇情的で――。
「……ごめん、今日優しくしてあげられない」
夕食もなにもかもきれいに頭から吹き飛んでいた。
欲しいのはたった一つだけ。
目の前にいる大好きな人のぬくもりだった――。
「やけに今日は張り切ってるな」
「理由知ってるくせに絡んでこないでください」
BLOSSOM社にて経理として働く奈義は、今日いつも以上の速度で仕事を進めていた。
内部の人手が足りているとは言いがたいだけに、普段は奈義も遅くまで残業することが多い。しかし、今日だけはできなかった。
「桜川さんも話してる暇あったら手伝ってください」
「俺は俺ですることがあるんだ。残念だったな」
「へー、俺をからかう仕事ですかね。あー忙しそう、大変そうだなー」
「腐るな。定時上がりを許してやっただろうが」
「俺は今日、早退で申請出してたんですけどね……!」
(ったく、キャストじゃなくなっても容赦なさすぎんだろ)
必死に手を動かす奈義の後ろで桜川が苦笑している。
そんな時間も、そう続かなかった。
***
「っ……はぁっ、はぁっ……!」
帰りの夜道、奈義はらしくないほど全力疾走していた。
(くそっ、こういう日に限ってタクシー捕まんねえってなんだよ……!)
もちろん向かう先は恋人の家だった。
(半年、記念日……なのに……っ)
奈義がやけに今日を大切に思って急いでいる理由はたったそれだけのこと。
半年どころか記念日さえ祝う意味を理解できていなかった奈義が、今は誰よりもそれを大切に思っている。
なぜなら、彼女が大切にしたがっているものだからだ。
正直、彼女と奈義は正反対と言ってもいい。
夢見がちで、本気で「お姫様って憧れる」と言うような彼女と、現実主義で夢も希望も理想も何もかもバカバカしいと思う奈義と。
噛み合うはずのなかった二人は、それこそ運命としか呼べない縁で結ばれ、今日まで幸せに思い合ってきた。
(汗、気持ちわりい。喉もいてぇし、それに……)
そのまま駆け抜けようとしてふと立ち止まる。
どんなに急いでいようと、時間が迫っていようと、『必要なもの』を忘れるようでは彼女の望む『王子様』になれない。
(はっ、何が王子様だよ。バカバカしい。……って思ってんのにな)
くるりと奈義は進む方向を変える。
彼女はきっと家で待っているだろう。
それでも、『王子様』だから手を抜けない。
(記念日に花の一つも用意しねぇで、あいつを喜ばせてやれるかよ)
彼女が何を喜ぶか熟知している奈義も、それだけは間違っていた。
特別なものがなくたって彼女は笑う。
奈義がお祝いしてくれたというその事実だけで、一生幸せに過ごせるのだ。
――奈義がそれに気付かないのも仕方がない。
彼女にとびっきりの記念日をプレゼントしたいのも、綺麗な花で飾ってあげたいのも、全部全部、奈義自身のしたいことだったから――。
***
「っ、ただいま!」
無事に花を買った奈義は彼女の家に滑り込んだ。
すぐ出迎えると思ったのに、なかなか出てこない。
(何してるんだ……?)
いぶかしく思いながらリビングの方へ向かう途中――妙な臭いに顔をしかめる。
(焦げ臭い……っつか、なんか生臭いのも混じって……)
キッチンを通りがかったところで、そこにいた彼女が振り返った。
料理に夢中で奈義の帰りに気付かなかったらしい。
……そこまではいい。
「それ……何だ」
奈義がそう言うのも無理はなかった。
フライパンには黒焦げの何か。まな板には恐らく魚だったであろうもの。
唯一スープと思われる液体はまともに見えた。やけに泡立っていることを除けば。
(なんか張り切ったってのはわかる……けど……これはさすがにねぇだろ……)
保育士の彼女はおやつ作りならまだうまく出来る。子供向けのものも一応一通りはなんとかなる。ここまで壊滅的な料理を作るほど悲惨な腕前ではなかったはずだった。
恐らく、記念日だからと張り切りすぎた結果、そこまで料理上手というわけでもないスキルが思い切り足を引っ張ったのだろう。
なぜ、背伸びをしすぎてしまったのか。
(いつも通りでいいだろ……って、俺も人のこと言えねぇか……)
記念日を大事に思いすぎてお互い頑張りすぎてしまった。
走り続けてくたくたの奈義と、魔界で作ったのかと思われる料理をこしらえた彼女と、二人して見つめ合う。
彼女はへらっと笑って「おかえり」と言った。
そうじゃない、とは言えず、とりあえずキスをしておく。
「あのな、それ……食いもんじゃねぇだろ」
デザートは上手にできたと言われて、また「そうじゃない」と考える。
困ったように頬を掻くと、彼女はこうなるに至った経緯を話し始めた。
――今日は記念日。きっと奈義は自分のために素敵なことをしてくれるだろうけれど、仕事終わりで疲れ切っているに違いない。だったら自分だって何かを頑張るべきではないだろうか。今からでもできて、奈義の疲れを癒してあげられそうなもの。そして記念日をお祝いできそうなもの。それが料理だった。
得意じゃない自覚はある、とものすごく小さな声で付け加えられ、奈義は額を押さえる。
「あんたの気持ちはよーくわかった。でもな、さすがに自分でもわかってるだろ。うまいまずいの話じゃなくて、そもそも食えるかどうかってこと」
なんだか長ったらしい横文字の料理名を言われる。一度では聞き取れない長さのそれは、名前だけでも難易度の高さを伝えてきた。
「あとは俺がやっとくから。あんたは座ってろ」
いつものようにフォローに入ろうとして、彼女がぶんぶん首を振った。
それではなんの意味もないと。奈義の仕事を増やしただけになってしまう、と言ってからしょんぼり肩を落とす。
失敗する予定はなくて、奈義が帰ってくる頃にはものすごく素敵でものすごく豪華でものすごく特別な料理が完成しているはずだったのだ。
真っ直ぐな気持ちを向けられ、もう怒るに怒れない。
「……あー。俺、わかったわ。なんであんたにだけは触れんのか」
なんの話、と彼女が言うのも無理はない。
奈義だって今、突然気付いてしまった。
「心が綺麗なんだろうな。俺のためって真っ直ぐで、一生懸命で。……あんまり俺のためになんかしてくれる奴はいなかったから、すげぇ眩しく見えるんだ。……この花みたいに」
来る途中で買ってきた花を差し出す。
花の名前は『カラー』。花言葉は『清浄』。
奈義がこの世界で唯一綺麗だと思える人だからこそ、彼女にプレゼントしたいと願った。
「はは、なんか笑えてきた。どうすっかな、この無残な料理」
しゅん、と彼女がうつむく。
食べられないこともないと思う、だから自分が責任を持って食べる。そう言ったのを聞き終える前に箸でつまんで口に入れた。
「じゃりって言ったぞ、おい」
彼女が止める間もなく、奈義はすべて口にしてくれる。
どれも憎まれ口を叩きながらではあったけれど、きちんと――食べて思いを受け取ってくれた。
「こんなに料理下手だと思わなかった。次の休みは特訓だな」
そうしたらまた奈義のために作ってもいいか、と言われて苦笑する。
(だからさ。なんで全部『俺のため』って言うんだよ)
頑張らなければと張り切る彼女を見ていたら、もう手を出さずにはいられなかった。
引き寄せて、抱き締める。
「先にひでぇ料理作ったお仕置きしなきゃだろ」
え、と小さく声が聞こえたのは無視してカウンターに背中を押し付ける。
呼吸ごと奪うように唇を重ね、吐息を飲み込んだ。
口の中に残っていた微妙な味が、蜂蜜よりも甘い熱に上書きされる。
(俺のために頑張ろうって言うあんたが好きだよ。……俺もあんたのために生きたくなる)
もう既にそういう生き方をしている、と指摘する人はいない。
濡れたキスの音と触れる指先に彼女が力をなくしたあと、微かに衣擦れの音が響いた。
「まずいもん食わせたんだから口直しさせろよ。飯はその後だ」
あくまで意地悪を言いながら、壊れ物を扱うように彼女の肌へ手を滑らせる。
次第に甘い声が奈義の名前しか呼べなくなっても、いじめてもてあそぶのをやめない。
(口直しにしちゃ甘すぎるか)
ぱさり、と服と一緒に下着が落ちる。
「俺、汚すの嫌いだから」
柔らかい温もりにキスをして囁く。
世界で一番綺麗な肌に痕を付けていいのは、奈義だけ――。
BLOSSOM社を出た奈義は一歩踏み出そうとしてぎりぎり足を止めた。
その目の前をぽつりと雫が落ちていく。
(雨かよ)
時期を考えれば不思議ではない。
ただ、今日の天気予報は一日中晴れのマークがついていたはずだ。
そのせいで奈義の荷物に傘はなかった。
(まぁ、仕方ねぇか)
本当は雨に濡れるのは嫌いだった。
何が混ざっているかも分からない、得体の知れない水。
この時期ともなれば気温が雨の温度にまで移るのか、微妙にぬるいのも不快で。
しかし、どうしようもない。
最寄りで傘を買ってもいいが、まずそこに行くまでに濡れる。かといってタクシーで帰るかと言われればそれも困る。奈義はタクシーもそこまで好きではなかった。
誰か見知らぬ人間が座った、見知らぬ感触の残った誰かの臭いのするシート。ときどきタバコの臭いが鼻をかすめるのも嫌いで、自分の肺まで侵された気持ちになってしまう。
こうしてあれこれと考えながら、ふと思い出した。
(そういえば俺、潔癖症なんだった)
ここしばらくずっと忘れていたような気がするのは、それを意識させない相手が側にいるからだろう。
彼女にだけは触れたい。彼女にだけはキスをしたい。彼女にだけは――。
(……あ)
ぱしゃ、と水のはじける音がした。
顔を上げた奈義の目の前に、また雨粒が落ちる。
そしてその視線の先には脳裏に浮かべていた笑顔が見えた。
「……何してんの、こんな時間に」
差し出されたのは一本の傘。奈義の普段使いのもの。
「……わざわざ持ってきたのかよ」
間に合ってよかったと彼女は言った。
奈義がずぶ濡れにならなくてよかった、と。
「なんで」
なんの気なしに聞いてみる。
彼女は、また笑った。
――雨を汚いって思ってそうだから、と言って。
「……は」
(なんだ、それ)
何を好きで、何が苦手か、奈義はあまり人に言わない。それはきっと長男として自分以上に他人のことばかり考えてきたからなのだろう。
気が付けば本心のさらけ出し方を忘れて。
なのに、彼女はあまりにも簡単に、そして当然のように暴いてしまう。
「逆に聞くけど、あんたは綺麗だと思ってんの」
これもまた、大して興味を惹かれての質問ではなかった。
彼女がそう思っていようといなかろうと、奈義の好みが変わるわけではない。
彼女は少し考えたようだった。
差した傘にぱたぱたと雨が当たる。
その雨音に紛れて、一言。
「……そっか」
今は夜だからよく分からない、となんとも微妙な返事が投げかけられる。
確かに空を見上げても地面の水たまりを見ても雨の美しさは分からない。
「あんたはてっきり綺麗だって言うのかと思ってたよ」
そう言って、奈義は自分の傘を差す代わりに既に濡れた小さな傘を奪った。
「それに、傘も忘れるんだと思ってた」
彼女が濡れる前に引き寄せて差した傘の中に入れてしまう。
(相合傘とか、そういうの好きだろ)
二人で入るにはあまりに狭かった。
だけど、奈義にはこの距離が愛おしい。
(こんな狭いスペースにさ。他人を入れてるんだよ、この俺が。……信じらんねぇよな)
もう見上げても雨は見えない。
傘に当たるひそかな音だけがぽつぽつと響く。
「ちゃんと濡れねぇようについてこいよ」
傘は大げさなくらい傾けておく。
大事な人が、絶対に濡れないように。
(……俺にとって、雨は綺麗なもんじゃないから)
汚れないように、傷付かないように。
奈義はようやく見つけた大切なお姫様を守り抜く。
「さ、帰るぞ」
言ってから、大事な言葉を忘れていたことに気付く。
「……迎えに来てくれてありがとな」
雨の音が聞こえる。
傘のせいで手は繋げなかったけれど、確かに二人の心は繋がっていた――。
毎日仕事を頑張り過ぎたせいか、どうやら体調を崩してしまったらしい。
熱があるのを感じながらふらふらと帰宅する。
今日は彼の方が先に帰っていたらしく、玄関で出迎えてくれた――。
***
――甘えたくなって仁に身体を預けると、いきなり抱き上げられた。
一体何事かと混乱している間にベッドまで運ばれる。
せめてシャワーを、と口を開きかけた瞬間、絶妙なタイミングで指が唇に触れた。
「お前、熱あるだろ」
どきりとして仁の顔をまじまじと見つめてしまった。
体調の悪さを顔にも態度にもまだ出していない。甘えて抱き着こうとするのは普段と変わらず、ただいまと言った声も別にいつもと違っていなかった。
それなのになぜ気付いてしまうのか。
顔に出ていたのだろう。仁は軽く笑って頭を撫でてくる。
「お前のことで、俺が気付けねぇことなんかあるか」
いやいや意外とあるのでは、と言いかけたのに鼻をつままれた。
「ぐだぐだ喋ってねぇで大人しく寝てろ。また口移しする羽目になんのはごめんだからな?」
懐かしいことを言われ、熱とは違うもので顔が火照り始める。
あれが二人の始まりだったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。ただ、あの時に何かを意識したのは間違いがなくて。
「ちゃんと寝られるまで側にいてやるから」
優しい声と共に額へキスが落ちる。
言わずとも手を握ってくれた仁に甘えて目を閉じると、まぶたにも口付けられた。
側にいてくれる安心感から眠気が襲ってくる。
そうして眠ってしまった後も、仁はずっとずっと側にいてくれたのだった。
***
――葵を見た瞬間、どっと身体の力が抜けてしまった。
慌てたように支えてくれた葵がはっと目を見開く。
「な、なんか熱くね!?」
そう言うと、葵は頭突きかと思うような勢いで額を重ねてきた。
熱を測ってくれているつもりらしいが、どうにも顔が近くて落ち着かない。
自分から抱き着いておきながら離れようとすると、葵らしくない強い力で引き寄せられた。
「んな状態で歩き回んな。……ほれ、背中貸してやっから」
ん、と葵が背中を向けてしゃがむ。
意図を察して恐る恐る寄りかかってみると、意外なほどたくましく背負われた。
「なんか食いたいもんは? 俺、買ってくっけど」
頼もしい、と思わず声に出してしまう。
部屋に向かおうとしていた葵は一瞬足を止めて、少し笑った。
「こういう時ぐらい安心させてやれる男じゃねぇとだめだべ」
甘えたがりで背伸びしたがりで、ゲームで負けると大人げなく何度も勝負をせがんでくるような年下の彼氏のはずだった。
こんなにも背中が広いことを初めて知った気がして、ぎゅっと抱き締める――。
***
――出迎えた海斗と一緒に部屋の中まで入ると、もう立ち上がれない。
「どうしたの?」
しょんぼり顔の海斗が覗き込んでくる。いつもと同じ顔のように見えて、不安が色濃く表に出ていた。
「なんだか顔色が悪いみたい。……ちょっといい?」
大きくて少し骨ばった手が額に触れる。
普段はもっと温かかったはずなのに、今はやけに冷たく感じられた。
「もしかして、熱ある?」
たぶん、と答えると突然抱き締められた。
自分がいつもしているように頭と背中とを撫でられる。
「そういう時はちゃんと言っていいんだよ。……強がらなくていいから」
そんなつもりじゃないと言ったつもりが言葉にならなかった。
確かに海斗を前にすると強がってばかりかもしれない。ふにゃふにゃでびびりの海斗だから、しっかりしていなければと無意識に思って――。
「いつも無理させてごめんね。今夜は無理しないで」
うん、と頷いて海斗の胸に顔を埋める。
そこまで言ってくれるなら存分に甘えさせてもらおうと心に誓った。
***
――奈義にだけはこの体調を知られたくない。
そう考えて平気な振りをしていたけれど。
「ごそごそ動くな」
なぜかあっさり気付かれたばかりか、先ほどからせっせと看病されている。
「口開けろ、早く」
あーん、とりんごのすりおろしを食べさせてもらう。
そこまでされるほど大変な状態だと自分では思っていなかったが、奈義の顔が怒っているように見えて何も言えない。
食べさせる手つきはもちろん、看病自体、奈義は非常に手馴れていた。
きっと今まで弟たちにもこうしてきたのだろう。
「いくら流行ってるからって、あっさり熱出したりすんな。……なんかあったらどうするんだよ」
奈義は大きく息を吐いてから、軽く頬を引っ張ってくる。
「俺がいいって言うまでベッドから出んな。看病してやるから」
でも奈義には仕事がある。自分にばかりかまけていられないはずだ。
熱に浮かされたまま、自分のことをすぐ蔑ろにする人だからこそ必死で訴える。
なのに、デコピンされてしまった。
「馬鹿な事言ってる暇あったらさっさと治せ。仕事とあんただったら、どっちを大切にするかくらいわかってるだろ」
もう一度馬鹿と言われて額をつつかれる。
奈義からとても特別な言葉を引き出せた気がして、体調不良も一瞬で治せそうだった――。
***
――遥に迷惑はかけるまい、と思った。
なのに、どうも予定が狂ってしまっている。
「はい、アイス! こういう時はバニラかなって思ってバニラ! でも、一応いろいろ買ってきてみたよ。食べられそうだったら好きなの食べて」
遥が自分の好きなものを語る時と同じくらい早口になっている。
そこに焦りと不安と心配を感じて申し訳なさが胸を満たした。
「あとね、おでこに貼る冷たいやつ。それから飲み物と、桃の缶詰と……」
買い物から帰ってきた遥は袋からいくつも購入したものを出していく。どれもこういった時に欲しくなるようなものばかりだった。
「あんまり頼りにならないかもしれないけど、君のためにやれることならなんでもするよ。こう見えても……恋人だから」
言い切ると、頬にキスをされる。
「遠慮しないで、俺に甘えて」
弱っている時にかっこいい所を見せるなんてずるいと思ってしまった。
熱が上がった、と嘘を吐いてきっと赤くなっている顔を誤魔化す――。
***
――寝転がると関節が痛いのだと告げると、壱は座った自分を後ろから抱き締めてくれた。
座椅子のように背中をもたれさせて、思う存分甘えさせてもらう。
「よしよーし。こういう時はな、無理しねぇのが一番なんだ」
不思議なことに、壱の体温を感じていると身体の辛さが消えていく。
普段はちゃらんぽらんなくせに、年上の包容力を感じさせた。
ただ、あまりこうして近い場所にいるのは不安に思う。
甘えたい気持ちはとてもあるし、我慢できずに行動にも出てしまっている。しかし、この苦しさが壱にも移ってしまうかもしれない。
それは嬉しくなくて離れようとすると、すぐ引き留められる。
「こら。んな顔してどこ行こうとしてんだっての。どうせあれだろ? 俺に移しちゃ悪いなーとかなんとか思ってんだろ?」
そうだと頷くと、むぎゅ、と頬を掴まれる。
「お前なー、有名な言葉があんの知らねぇ? 『馬鹿は風邪引かない』んだよ。移せるもんなら移してみやがれ。へっへーん」
この間風邪で寝込んでた、とは言えなかった。
それを言う前に唇を塞がれたせいもある。
「……いっそほんとに移しに来い。全部引き受けてやっから」
大人の顔を覗かせた今の壱にはきっと移ってしまう。
それなのに甘えるのをやめられない――。
***
――咳をした時だけ、大和と目が合う。
ベッドに横たわった自分をちらりと見た後、すぐにまた興味なさげな顔で本を読み始めるけれど。
「あんた、熱出すと大人しくなんのな」
ずっと黙っていた大和がついに口を開く。
そして、近付いてきた。
「俺は黙っといた方がいいのか? それとも、なんか話してやった方がいい?」
なんでそんなことを聞くのかわからなかった。素直にそれを伝えると、微妙な顔をされてしまう。
「こういうのって人によるだろ。あんたが一番楽でいられる状態なんて、俺にはわかんねえし。だから聞いてやってんの」
どうでもいいと思っているわけではなかったのかと軽い驚きを感じる。大和のことだからどうせまた「めんどくせえ」という扱いなのだと信じ切っていた。
「あのな。これでも俺はあんたに惚れてんだぞ。めんどくせえ、なんて言うかよ」
もう一回言って欲しいと期待の眼差しを向ける。
せっかくいい感じだったのに、ふっと鼻で笑われた。
「ベッドの上で誘うなら、もっとイイコトにしとけ」
かっと一気に顔が熱くなった。
大和のせいで熱が上がったと側の枕を投げつける。
いつもならやり返してくるのにしてこないのは、やはり体調を気遣ってくれているからなのだろう――。
***
――ぼふ、と千紘の手によって何枚目かの毛布をかけられる。
まるでミノムシのようにぎゅうぎゅうに包みこまれ、じっと顔を覗き込まれた。
「お前のそんな辛そうな顔見てらんねぇよ……」
千紘にしては弱った声で言われてしまい、ごめんね、としか言えなくなる。
しかし千紘はぶんぶん首を横に振った。
「っし、俺がおろおろしてちゃどうしようもねぇな。任せろ、すぐなんとかしちゃる!」
ちょっとだけいつもの千紘に戻ったのを見て笑ってしまう。
そうするとつられたように向こうも笑った。
「やっぱお前、笑ってる方がいいよ。風邪なんかに負けんな」
うん、と答えて手を伸ばす。
千紘に触れるとそこから元気をもらえるような気がした。
「早く治してデートするぞー。なぁ、どういうとこ行きたい? この間お前の好きそうなケーキバイキング見つけたんだけど! それとも快気祝いっつって焼肉食べ放題でもしとくか? あはは、具合悪い時に焼肉の話なんか聞きたくねぇか!」
そんなことはなかった。千紘が楽しそうに話してくれるなら、どんな話だっていい。
その笑顔を見ているだけで治ると思う、と言うとまた笑われた。
「俺の笑顔で治るんならいいよな。でもどうせなら愛の力で治すってのどう?」
ちゅ、と唇が触れ合ってすぐに離れる。
千紘はまだにこにこしていた。
「続きは治ってからしような。風邪引いてる方がマシ! ってぐらいいっぱいかわいがってやる!」
そんなことを言っても、優しくしてくれるのを知っている。
その証拠にたった今もらったばかりのキスも、とても甘くて優しかった――。
かちゃかちゃと軽快な音が聞こえていた。
今日は奈義がご飯を作ってくれるらしい。
それはとても嬉しい事だけど、どうにも待っているだけというのは落ち着かなかった。
ソファの上でそわそわしながら、時々奈義の様子を見る。
なぜかその度に目が合って嫌な顔をされた。
別に見張っているわけではない。単純に料理をする奈義を見たいだけ――ではなく、一人で料理をさせてもいいのか不安になっているだけ。決して下心があるわけではないのだと、誰に叱られたわけでもないのに言い訳を考えてみる。
なんとなくお互いに目が合うのを数回繰り返した後、大きな溜息を吐かれた。
ぎょっとしていると、背中を向けられてしまう。
名前を呼んでみたのに振り向いてくれない。
とうとう怒らせてしまったのだろうかとしょんぼりしながら、「邪魔はするな」と言われたのも忘れてとてとてキッチンに向かう。
そろりと奈義に近付き、袖を引いてみた。
卵を持ったまま、奈義がやっと振り返ってくれる。
「……あのな」
怒った顔はされなかった。
代わりに少し困った顔を見せられる。
頬が赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。
「今日は俺が作るって言っただろ。心配しなくても失敗しねぇよ。何人弟いると思ってんの。 これでも家事全般は得意な方だって」
別にそこは心配していない。奈義ならとてもおいしいものを作ってくれる事ぐらい当然分かっている。
例えベタに炭の塊や得体の知れない物体が出てきた所で関係ない。奈義の手作りという事に意味があるのだ。どんな有毒物質を出されてもきっと甘いだろう。
何か手伝うか聞いてみるとまた微妙な顔をされた。
特に返事がないせいでおろおろしてしまう。
あっちへ行ったりこっちへ行ったり、せめて自分でできる事を探そうとしていると、また、溜息が聞こえた。
こちらを見た奈義が一言告げる。
「ハウス」
ぴゃっと変な声が出てしまった。
これではまるで犬と同じではないかと訴える。
確かに自分が犬だったら奈義みたいなご主人様だったらものすごく嬉しい。毎日清潔にしてくれるだろうし、多分頻繁に抱き締めてくれる。今と同じように数えきれないくらいキスをしてくれるかもしれない。
しかし、自分は人間なのだ。
大体ハウスと言われた所で家はここである。もしそれでもどこかに帰らなければならないのだとしたら、奈義の腕の中に飛び込むだろう。
その場にしゃがんで文句を言う。
いくらなんでもその扱いはひどすぎる、と恨めしく思いながら見上げると、こつんと額を指で弾かれた。
「危ねぇから向こう行ってろって言ってんだよ。しっしっ」
喜びかけて、またむっとする。
意図は理解できたが、あんまりだ。
こうなったら奈義の邪魔にならない程度にはてこでも動くまいと心に決める。
鬱陶しい視線を料理中ずっと浴びせられて居心地の悪い思いをすればいいのだと言うと、呆れたように笑われてしまった。
「後であーんしてやるから」
光の速さでソファまで戻る。
途中で焦り過ぎて転びそうになったのをやっぱり笑われた。
「何、そんなに甘やかしてほしいわけ?」
ざぁっと水を流す音が聞こえた。
きれいに手を洗った奈義が、なぜかこちらにやってくる。
「俺が飯作ってる間、どうせ待ってられねぇんだろ。だったら先に大人しくさせといてやる」
おや、と思った時にはもう視界が天井を向いていた。
覆いかぶさってきた奈義が、エプロン姿のまま口角を引き上げる。
「さーて、どう料理してやるかな」
この後の展開を理解してパニックに陥った。
これでは食事をするのが遅くなる。早く奈義の料理を食べたい、今すぐ食べたい、と言ってみたものの、もう遅い。
「俺はあんたを食べたいよ」
耳元で囁かれてひっくり返りそうになる。否、もうひっくり返っていた。
「……なんてな」
からかうような声のすぐ後に濡れたキスが耳朶をくすぐる。
きっと真っ赤になっているであろう頬にも痕を残すようについばまれた。
だんだんそのキスが首筋へ落ちていく。
焦ってぱしぱし背中を叩くと、余裕のない表情で苦笑された。
「ちょっと味見するだけのつもりだったんだけど。……あんたがそんな顔するせいで予定狂った。責任取れ」
声にまで余裕がなくなっている。
さっきよりももっと危ないキスが降って、ふっと身体の力が抜けた。
服の中に潜り込んだ手がくすぐるようにお腹を撫でてくる。
まるでじゃれつく子犬を甘やかすように。
そう感じて奈義の全てを受け入れる。
こんなに愛されるなら、本当にペットでもいいかもしれない。なんて思いながら――。
シャワーを浴びて、どきどきしながら買ったばかりの服に着替える。
パジャマを着る時間なのにそうしてしまったのは、奈義にとあるお願いをしているからだった。
袖の辺りがひらひらと羽のように揺れるその服は、同じときに買った奈義の服と色合いがよく似ている。これを二人で着ればお揃いのように見えるのでは、と思った瞬間にはもう財布からお金を出していた。恐らくこの十倍の金額でもカードで支払っていた事だろう。そのぐらい、誘惑が強かった。
ただし、一つ大きな問題がある。
奈義はお揃いなんてものを好むようなタイプの恋人ではない。一応シャワーを浴びる前にお願いだけはしてみたけれど、その際にはいつものように「勝手に買ってきて馬鹿じゃないの」と言われてしまっている。
部屋にいる彼がどんな格好をしているのか。それが気になってなかなか脱衣所から出られそうにない。
そのとき、下ろした髪がふわりと肩の上で揺れた。
せっかく特別な服を着ているのに洗い立ての髪を下ろしただけというのは味気ない。
――王子様のもとへ行くお姫様は、そんな風に手を抜いたりしないのだ。
そう考えて、以前友達に教えてもらった編み込みをせっせと試してみる。
魔法をかけてくれる王子様は向こうで待ってくれている。だったら、自分で自分に魔法をかけるしかない。
「かわいい」と褒めてもらえるような、とびっきりの魔法を。
終わる頃にはこれからデートでもするのかと思うほどど気合いの入った状態になっていた。
でも、これでいい。細かい事に目の行く恋人はそういう所も見逃さないはずだから。
大きな期待と微かな不安を胸にドアを開けようとする。
奈義はどんな顔をして待ってくれているのだろう。
お揃いの服はソファの上にそっと畳まれてしまっているのだろうか。それともおねだりを聞いてくれているのだろうか――。
震える手で今度こそドアを開き、そして――思考が停止する。
「遅いんだけど」
奈義の顔はほんのり赤くなっていた。
そんな事より先に目が行ったのは、ちゃんと着てくれているお揃いの服。
「これで満足?」
もちろん! なんてはしゃぎ回れる気分にすらならなかった。
もしかしたら着てくれないかもしれないと思っていただけに、お願いを叶えてくれたのがあまりにも嬉しすぎて。
もしかしたらこれは夢なのかも、と不安になりながらそろりと奈義に近付いてみる。
遅いと言っていたくせに、急かされる事はなかった。
正面に立って硬直していると、そのまま腕を引かれる。
「乗れよ」
選択肢は与えてくれない。強引に引っ張られ、奈義の膝に乗せられてしまう。
いつもは見降ろしてくる奈義が今日は自分の下にいた。
――こういうとき、奈義はいつもと違う表情を見せてくれる。それを知っているのはきっと、潔癖症の彼が唯一触れられる自分だけだろう。
「お揃いでデートは勘弁したいけど、まぁ部屋で着るくらいならいいか。間違っても遊園地にお揃いで出かけたい、なんて言うなよ。絶対付き合わねぇからな」
そんな憎まれ口さえ胸を締め付けてきた。
――だって奈義は今、とても優しい顔で微笑んでいる。
「で、感想は?」
そういえばまだ何も言えていなかった事を思い出す。
つっかえつっかえお揃いが嬉しい事、奈義がお願いを聞いてくれるとは思わなかった事を伝える。
全部言い終えた所で、ふっと笑われた。
「あんたの願い事を叶えてやるのが俺の役目だろ」
さっきよりはずっと優しく引き寄せられて、当然のように唇が重なる。
最初は触れるだけ。それがだんだん深くなって。
は、と唇を離して乱れた呼吸を整える。
額と額を重ねたまま、とても近い距離でまた奈義が微笑んだ。
「あんたさ、馬鹿じゃない? 俺にしか見せないのにそんな――かわいい格好してきてさ」
さらりと髪を撫でられる。
奈義を想って大事に整えた髪を、壊れ物を扱うように優しく、優しく。
「わざわざそこまでする?」
するよ、と思わず反論する。
奈義のためならなんでもできる。奈義がなんでもしてくれるから。
そう答えると、手が肩を滑り背中を伝って腰に添えられた。
離れないよう、抱き締められる。
「……どうせこれから解くのに?」
ちょっとだけ意地悪で、だけどこの上なく甘い一言だった。
心臓が少しずつ大きな音を立てていく。
「俺も何やってるんだろうな。どうせ脱ぐのに、わざわざ着替えるなんて」
軽く手を掴まれ、奈義の胸元に導かれる。
「もう満足しただろ。……俺の魔法を解けよ、お姫様」
ずるいと心の底から思った。
奈義はこんなにも自分の欲しい言葉を分かっている。
してほしい事も、よく分かっている。
「……どうするかな。汚したくねぇけど、もっとその服着てるとこ見たいし」
ぷち、ぷち、と奈義のボタンをはずしていく間、面白がるように言われてしまう。
「あんたはどうしたい? 魔法がかかったお姫様として愛されるのと、魔法が解けたただの女の子として愛されるのと」
それを聞いてつい笑ってしまった。
どっちにしても奈義は自分を愛してくれる。お姫様だろうとただの一般人だろうと変わりなく。
だからどっちでもいいと言ってみた。
奈義のしたいようにしてほしい、と。
「じゃ、どっちも。……あんたに関しては欲張りなんだよ、俺」
笑いを含んだ声とともにひそやかなキスが落ちる。
その頃にはもう、奈義の服を脱がせ終えていた。
だけどまだやる事が残っている。
――自分から顔を寄せて奈義にキスをした。
他人に触れられるのを嫌がるこの人が、どうしてか自分にだけは触れてこいとせがんでくる。
そんな特別を味わいながら、衣擦れを聞く。
――シーツの上に投げ出されるまで、そう時間はかからなかった。
「そんじゃー、今日は皆さんお集まりいただきあざーっす!」
既に酔っているのではと思われるテンションで壱が声を上げる。
片手に持ったグラスにはハイボールが半分だけ。
「ではでは! この俺! 真中壱の誕生日を祝いましてー!」
「長い」
乾杯までだらだら喋る壱をようやく仁が止める。
ここにいる誰もがそのひと言を待っていた。
「仁ちゃん冷たーい」
「真中さん、早くしないとまた怒られますよ。瀬戸さんのビール、もう泡残ってないですし」
奈義も援護に入り、壱は三十路近いとは思えない不満顔を見せた。
さすがに唇を尖らせていい年齢ではないはずなのに、妙にしっくり来ているのは精神年齢の幼さがとうとう顔にも出始めたからなのだろう。
もう、そういう自分を隠さなくてもいい――。それを壱が知ったということでもあった。
「あーあ、みんなが意地悪するから壱さんやる気なくなっちゃったなー! きっと海ちゃんあたりがいい感じに乾杯してくれるんだろうなぁー?」
「えっ、えっ、ど、どどどどうしようはるくん」
「……こっちに振らないで……」
「はるくん!? 遥くーん!? なんで目を逸らしてるのー……!」
「はっはー! 主役に振られちゃやるっきゃねーべ! 乾杯しよ、乾杯!」
「ひええ」
海斗はきょろきょろ周りを見る。
いつもは心の支えになる遥はこちらを見ないようにしており、葵は壱を煽ってはしゃいでいる。壱はにやにやしているし、仁と奈義に至っては「早くしろ」と睨みをきかせている始末だ。
「お、おおお俺、こういうのうまくできないです……」
「しょうがねーなぁ。じゃあ、海ちゃんの一番好きなバストサイズは?」
「頭おかしいんじゃないですか!?」
「真中の頭がおかしいのはもともとだ。諦めろ」
「そんな、仁さん!」
「海ちゃんが言わなかったらはるちゃんに聞くからなー」
「胸のサイズがいくつだろうと俺の愛は変わりません……! 大体フィギュアになったら妙に盛ってたりして気に入らないんだよね。こっちが求めてるのは巨乳じゃないんだっつの。今まで平面だったかわいい彼女がリアルになるっていうのが大事なわけで、現実にありえないような腰の細さとか胸の大きさされたらもうそれは別人なんだよ。あー、某社のやらかし思い出してイライラしてきた。なんだよ、あんなの絶対認めないからな。炎上すんのも当たり前だ、ばーかばーか……」
「はるちゃん……おっぱいの話は地雷か……そうか……壱おにーさんは悲しい……」
しょぼくれた壱がやっと大人しくなる。
その間にすっかり飽きた仁と奈義は二人で乾杯していた。
慌てたように海斗も葵とグラスを合わせる。遥はまだ踏まれた地雷についてぶつぶつ呟きつづけていたが。
「ってか、いっちーさん。誕生日なら俺たち企画するっつってたのに、なんで自分で企画しちゃったんけ? せっかくならみんなにサプライズされた方がいいべ?」
「この境地に達するには、あおちゃんはまだ若すぎるぜ……」
「どういうことかさっぱりわかんねぇ……」
光の速さで元のテンションを取り戻した壱はまた面倒くさい状態になっていた。
普段よりツッコミ役の仁と奈義が静かなのは、これが壱の誕生日を祝う名目での集まりだからだろう。
誕生祝いの日まで黙らせるのは、という二人の優しさを壱はしみじみ実感する。
普段の言動を反省しようという方向に至らないところは壱らしかったが。
「俺さー、基本的にされるよりする方が好きなんだよな。やっぱにーちゃんだから?」
「長男だけど、こっちがやらずに済むならそれに越したことはないと思ってます」
「奈義ちゃんドライすぎるぅ」
「……俺はしてやる方が好きかもな」
「仁ちゃんと俺って似てるもんな!」
「あ゛?」
「ひっ、二足歩行できるとことかそっくりじゃん! な!?」
「いいなぁ、兄弟……」
「海斗くんはザ・一人っ子って感じだもんね」
「うっ……そんなに?」
「でけーくせに撫で回したくなるよなー。……はっ!? でかくて撫で回したい……!? 海ちゃんってもしかしておっぱい!?」
「頭おかしいんじゃないですか……?」
「海ちゃん、今日それ二回目ーっ」
げらげら笑う壱は非常に楽しそうだった。
酒にそこまで弱くないとはいえ、飲むときは手が付けられなくなる。楽しくなってハイテンションになり、ますます調子が上がってスーパーハイテンションになり、それが頂点に達すると――。
「俺がおっぱいって言ったらもうお前はおっぱいなんだよ!」
「ひえっ……」
――突き抜けた壱は、なぜか理不尽なことで怒り始める。
「なんで誕生会なのにヤローしかいねぇんだ! 全員巨乳になれ!」
「いや、意味がわからないです。とりあえず水飲みます?」
「奈義ちゃんさぁ! もっと自分をさらけ出せよ! ほんとは頭ん中おっぱいでいっぱいのぱいぱいなんだろ!? 男なんかみんなそうなんだよ! 俺だけじゃねぇ!」
「真中さんだけだから安心してください」
「そんなわけあるか! んなクールな顔して、彼女のおっぱいに顔押し付けたいとか思ってんだろーがっ」
「どっちかというと飛びつかれる側というか」
「俺は! 押し付けたい! 埋もれたい! そこで窒息できるなら本望!」
いくら貸し切りとはいえ声が大きすぎる。
奈義が適当に黙らせようとした瞬間――。
「でも窒息したらもうおっぱい揉めねぇじゃんかよぉぉぉぉ」
「……泣かないでくださいよ、いい歳して」
理解できない怒りに燃えていた壱は、突然号泣し始めた。
それだけでも対処しづらいというのに、奈義に抱き着いて肩に顔をこすり付ける。
「俺は死ぬまでおっぱいって言いてぇんだよぉ……!」
「ちょっと、誰か場所代わって」
「…………」
「御国、目ぇ逸らすな」
「ご、ごめん、奈義くん……! 俺じゃ無理……!」
「さっき陽向に同じことされて喚いてただろ。自分もやってどうするんだよ」
「だだだだだって……」
「奈義ちゃああああん!」
「汚いから顔押し付けないでください、マジで無理」
「うあああああん! ――ぐえっ」
声のボリュームを更に上げた壱の首根っこを仁が引っ張る。
「泣きてぇのは構わねぇが奈義に迷惑かけんな。胸なら俺のを貸してやる。こっちで泣け」
「仁ちゃん……」
「これがナンバーワンの対応ってやつけ……」
壱につられてなぜか葵まで感動している。
これで落ち着くかと思いきや。
「仁ちゃん絶壁じゃん! んなまな板以下の胸なんか誰が借りるかよ! ぺっぺ!」
「……てめぇ」
「もうやだー! いっちーおうち帰るぅぅぅ!」
「ったく……」
手が付けられなくなった壱は結局仁に抱き着いた。
絶壁、まな板以下、と称した胸に泣き顔を押し付けてびーびー騒ぐ。
「おい、お前ら。真中の相手は俺がする。適当に飲んで飯食っとけ」
なんだかんだ言いつつ仁はしっかり壱の面倒を見る。
これが本当に誕生日を祝う集まりとして正しかったのかはともかく――泣いたり怒ったり騒いだり大好きな胸について嫌というほど語ったり、壱は非常に楽しい時間を過ごしたのだった。
今日は壱の誕生日だった。
(せっかくならどっか、って思ったのになー。家で過ごす方が俺を独り占めできるからって、そんなん言われたらどこも行けなくなるだろ)
何がなんでも今日だけは壱を独占したいらしく、ちょっとコンビニに行こうとしただけでも追いかけ回してくる。
そこまでするぐらいなら誕生日らしくサプライズでもするのかと思いきや、ケーキを作りたいとはまた不思議な話だった。
イチゴのヘタを黙々と取っていた彼女が顔を上げて壱を見る。
壱ならもっと早くイチゴのヘタを取れるのか、とよくわからない質問が飛んできた。
「取るっつーか切るっつーか……?」
聞いてきた割に、ふーん、となんとも微妙な反応が返ってくる。
(変なこと聞くよなー)
精神年齢が小学生で口を開けば――開かなくても――馬鹿を極めている壱だが、その職業はまさかのパティシエ。
もちろんこういった作業も手馴れていた。
とはいえ、今回は手を出すなと事前に言われている。
自分がやれば五分もかからないのに、と思いつつも大人しく口だけ出して見守っていた。
言われた通りに準備をし、張り切る彼女は実に微笑ましい。
何かしてやりたくなって、つまんだイチゴを彼女の唇に押し付ける。
「もうちっと肩の力抜いてやってみ」
鳥の雛のように壱の手からイチゴを食べさせてもらった彼女は、そう言われて眉間に皺を寄せた。
意識して力を入れているわけではないらしい。本職の人間相手にケーキを披露する、ということに緊張しているせいだと言う。
(俺が見てるせいで失敗するかもしれねぇけど、俺が見てなきゃだめだっつって怒るわけで……。つまり俺は見てるけど見てねぇ振りをすればいいのか!? 視線を確認するまで俺が見てるかどうかはわからねぇ状態にすりゃいいってことだろ! っつーことは……シュレディンガーの俺!? 見てる俺と見てねぇ俺が二人でダブル壱さん……それはもはや壱じゃなくて『二』さんなんじゃねぇか?)
同じ『おとどけカレシ』のキャストの前で言えば、「何を言ってるんだお前は」と一斉にツッコミが入るのは間違いない。
そもそもシュレディンガーの猫という言葉もよく理解していなかった壱は、自分で考えたことに自分で混乱する羽目になった。
頭をぐるぐるさせる壱の隣で、彼女は絶対に失敗しないと燃えている。
ぼんやりそれを見ながら、壱は自分もイチゴをつまみ食いした。
「失敗しててもいいけどな。お前が作ってくれるんなら、砂糖と塩を間違えちった! っつーベタなのでも我慢してやる!」
むー、とまた微妙な反応があった。
例え壱本人が構わないと言おうが、やっぱり彼女は大成功を収めたいらしい。
(イチゴのヘタ取りで失敗するヤツなんか、そうそういねぇと思う)
混乱から戻った壱は、珍しくまともなことを考える。
そこまで気負う必要があるのかと思っていると、やがて彼女は生クリーム作りに移った。
なんとも危なっかしい手つきで泡立て器を手に取ると、ロボットかと思うほど硬い動きで中身を跳ね散らかしながら懸命に混ぜ始める。
(見習いだった時の俺よりすげぇ)
「そりゃ力入れ過ぎだ。俺がクリームまみれになっちまう」
頬に飛んだクリームを拭い、やんわり彼女から泡立て器を奪う。
また、彼女が顔をしかめた。
見守るだけだと約束したはずだと怒るのをなだめて、あくまでやり方を教えるだけだと示す。
「あのな、こーやんの」
さすがプロ、とでも言うべきか。壱のくせに生クリームを泡立てる手つきは非常に綺麗だった。
ついさっきまで難しい顔をしていた彼女も、その手際の良さと鮮やかさに目を丸くする。
怒っていたのも忘れ、すごいすごいとはしゃぎ始めた。
(ふつーのこと、ふつーにしてるだけなんだけどな)
「ってか、どうせクリームまみれにするなら俺じゃなくてお前だろー? 俺、そういうの好き! めっちゃ好き! せっかくなら後で――」
ぐっと彼女の右手に力が入ったのを視界の隅に捉える。これ以上言うとどうなるのか、壱はもうよく知っていた。
「なんだよぅ、誕生日だからいいじゃんか!」
変態、と流れるように罵倒される。壱にとってご褒美であることは言うまでもない。
彼女は警戒するように壱を睨んだまま、もういい、と生クリームの入ったボウルをひったくった。
壱がしていたように丁寧に、そして一生懸命かき混ぜ始める。
慣れないなりにやり方を模倣しているのを見て、壱は素直にきゅんとした。
が、その気持ちは斜め上の感想に変わる。
「なぁなぁ、生クリームってなんかえっちじゃね? お前と合わせるとえっち感が増すよな!」
返事がない。
それどころか、背中を向けられてしまった。
「えー、なんでそっち向くんだよー」
頑張る彼女を後ろから抱き締めて、軽く耳にキスをする。
甘噛みしたところ、邪魔しないでと怒られてしまった。
(こいつ、こういうとこがかわいいんだよな)
「なんでこういうネタで照れるくせに、俺と付き合ってんだ?」
ぴた、と彼女の手が止まる。
うつむいたかと思うと、聞き逃しそうなほど小さい声が聞こえた。
――そういうところも好きだから。
それを聞いた壱は首をひねる。ちょっぴりにやけながら。
(俺のこと変態って言うけど、そういう男だってわかってんのに一緒にいたがるのも変態じゃねぇか? っつーことは、変態かける変態で超変態カップル的な? やべー! 変態カップル選手権があったら優勝間違いなしだろ! 侵略してきた宇宙人に「この地球で一番の変態カップルを出せ」っていつ言われても大丈夫じゃん?)
今は口に出さなかったものの、たぶんこれを言っても彼女は受け入れただろう。
二人とも何かがおかしいし、どう考えても一般的の範疇からはズレている。
それでもこれはこれで綺麗にまとまった両想いというやつで――。
「……んあ?」
ちょっとだけ、と振り返った彼女が指を差し出してくる。
細く綺麗な指の先にはちょこんと出来立ての生クリームが乗っていた。
「……お、おお?」
くりーむぷれい。
たどたどしく言った彼女の顔が一気に赤くなる。
(どこでそんな言葉覚えた! 俺が原因か! 俺しかいねぇもんな!?)
一応、彼女には壱お気に入りのAVは見せていない。そういう本だって目の届かないところに置くようにしている。わざとテーブルの上にさらして反応を見ることもないではなかったが。
だからまだ彼女はお綺麗で純粋なはずだったのに、まさかその口から『クリームプレイ』という言葉が出るとは。
(うっはあ、えっろい! えろさ百億万点! 言わされてる感出しつつ自分から言いましたっていうその恥じらい無限点! 誕生日だからって、んなご褒美もらっていいのか!? いいのか!?)
いろいろと滾りすぎた壱のちっぽけな脳はあっさり限界を迎えてショートする。
「お……俺もやりたい……!」
指を差し出したままの彼女は心底不思議そうな顔で首を傾げた。
壱がやってどうする。顔には隠すことなくそう書かれている。
が、とりあえず頷いた。
そして、突き抜けすぎて自分でもよくわからなくなった壱と、それにつられて混乱し始めた彼女と、二人はお互いに指に付けた生クリームをあーんし合う。
「へへへへ、甘いなー!」
笑み崩れた壱と一緒に彼女もにこにこ笑う。
かと思えば、その笑顔のまま「チョコフォンデュしてみたい」と恐ろしいことを言い出した。
視線がガスコンロに、そして横に置いてあるチョコレートに向けられる。
きっと特別な味がする! とほくほくしながら準備しようとするのを見て、すべてを察した壱はすぐ逃げようとした。
「待て待て待て待て! 俺、ドMじゃねぇから! そういうプレイは望んでねえええええ!」
悲鳴をあげる壱と、さすがに冗談に決まっているとくすくす笑う彼女と、そう広くもないキッチンはとても賑やかなことになる。
そんな風に寄り道ばかりして完成したケーキは、もちろん壱が一人で作るものと比べれば拙い出来に仕上がる。
しかし、彼女なりに頑張って愛情を込めたそれは、壱にとって特別な誕生日ケーキになったのだった。
ぴ、ぴ、と千紘は携帯を操作する。
しばらくして電話をかけた相手は同業者の桐谷大和だった。
『……なんだよ』
「うぃーっす! やまぴっぴおっつー!」
『相変わらずテンションたっけえな……』
「やまぴっぴが低いんですぅー!」
『はいはい。……んで、どした』
「俺さ、明日から仕事なんだー。なんか誰かと話したくなっちゃったっていうか!? 桜川さんにうぃーっすなんて言えねぇし、やまぴっぴとお話したいお・と・し・ご・ろ! って感じ!?」
『って感じ……って言われても知るかよ。なんかめんどくせえ用事でもあるのかと思ってたわ』
「めんどくせぇって何だよぅ!」
今のBLOSSOMを支える二人は、そこまで仲が悪くない。
むしろ大和の性格を考えれば良好な方だった。
だから千紘も、夜中のいい時間だというのにがっつり甘えてしまっている。
「明日からの子ってさー、なんかフラワーガーデニング? が趣味らしくて。やまぴっぴだったらどんな花贈る?」
『女って言ったらバラだろ。とりあえず』
「はぁ、全然分かってねぇなぁ。ありきたりじゃねぇ花を贈って特別感を出すのが『おとどけカレシ』ってヤツだろ!?」
『んじゃ、聞くな』
「確かに! ぎゃはは!」
まともに答えているようで、大和の声が若干受話器から遠い。
恐らく何か他に作業をしながら、片手間に電話を受けているのだろう。
(やまぴっぴ、何やってんだろな。聞いたらうるせって言われるかな。結構そういうとこ気難しいのよねー、うちのやまこちゃんは)
明らかに会話を流されつつも千紘は大和と電話をする。
気が付けばかなり長い間話し込んでしまっていた。
「やまぴっぴ! ありがとな! そろそろ俺、寝るわ!」
『んー』
「もしかしてもう寝てる!?」
『んー』
「雑ぅ! とりあえずおやすみ!」
『んー』
「んーしか言ってねぇ!」
なんともぐだつきながら電話を切る。
途中で話していた贈り物の花についてはまだ決め切っていなかった。
(なーにしよっかなー。バラはつまんねぇから却下! あとは……)
「……んぁ?」
切ったばかりの電話がまた鳴り出す。
首を傾げながら通話ボタンを押すと――。
『もしもし』
「さっくらがわさーん!」
(うっひゃー、こんな時間になんだなんだなんだぁ? 俺、何かしちまった? してねぇ! 千様最近ちょー絶好調だもーん! ……んん、って事は怒られる電話じゃねぇのか。となると桜川さんから来る内容なんて一つしか……)
『――また、来たぞ』
短く告げられたひと言に、千紘の騒がしい脳内も静まり返る。
「……また、っすか」
『ああ』
今までに何度も何度も何度もこのやり取りをした。
どんなにそれから逃げたくても、『彼ら』は逃がしてくれない。それどころかBLOSSOM社に直接連絡を入れ、千紘を追い詰めていく。
「今度は……なんて」
『お前をやめさせなければ、BLOSSOMを潰してやる。……だそうだ』
「……はは。もう脅しじゃねぇか」
『……一応報告はしておくが、気にするな。俺の方で話はつけておく』
(つけておけるわけじゃないじゃないすか。相手は……あいつらだってのに)
千紘は無意識に自分の胸を掴んでいた。
そこに渦巻く不安と焦りと、そして怒りを押し殺そうとする。
「なんで明日から新しい子の相手しなきゃなんねぇって時に、空気の読めねぇことをしてくるんすかね」
『……そうだな』
「気ぃ引き締めろってことなのかな。明日から俺が演じるのは……あいつらのよく知ってる『俺』だから」
本性は祭が大好きでうるさいほど賑やかな千紘も、『おとどけカレシ』になれば品のある優しい男へと変わる。
王子、というよりは貴族のような、洗練された『矢吹千紘』に。
「教えてくれてありがとうございました。多分明日からなんにもないとは思います、が……」
『そのときはこっちで対応する。お前は仕事に集中しろ』
「……はい」
ぷつ、と電話が切れた。
怒りのやり場が見当たらず、持っていた携帯をベッドに投げつけてしまう。
「なんで……っ」
大和と話して楽しかった。千紘を選んでくれた顧客のために素晴らしい七日間をプランニングしようとしていた。例え作られた自分であっても精一杯綺麗に演じるつもりだった。
何もかもが『あいつら』の存在でぐしゃぐしゃになってしまう。
(今の『俺』に需要がねぇんだってことを改めて伝えにきたって方が近いかも、な)
求められているのは騒がしい千紘ではない。それを演じることの仕方なさはわかっているが、やはり今の自分を思うと胸が苦しくなる。
(本当の俺を受け入れてほしいなんて……甘い、かな)
自分を落ち着かせながら、仕事でよく使う雑誌を手に取る。
明日からのことを考えていれば、もう嫌な過去に意識を向けなくて済むだろう。そう、考えた。
(花、花、花……。そういや、いい花屋があるんだったな。感じのいい店員さんがいるとこ。最悪、店員さんに相談して――)
「……あ」
とある花が目に入った瞬間、ずきんと強く胸が痛んだ。
千紘の胸を突いたのは花の見た目ではない。そこに書かれている花言葉だった。
(『私を拒絶しないで』……)
千紘の抱える気持ちとちょうど重なる意味を持ったその花の名前は、ハナビシソウ。明るいオレンジ色が目に眩しい。
(……はっ、今の俺にぴったりじゃん)
結局考えがそこに戻ってきてしまう。
気付けば千紘はその花から目を離せなくなっていた。
(もし、俺がこの花を贈ったら……)
――私を拒絶しないで。
そんな思いを込めた花を渡せば、もしかしたら本当の千紘を拒絶されることもないのかもしれない。
逃げる千紘を追い詰める『彼ら』が認めなかった今の自分を。
(……そんなもの好き、いるわけねぇ)
そう思っても千紘はついつい明日からの彼女像を勝手に想像してしまう。
もし、本当の恋人だとしたら。
考えてはいけない、そんな優しい夢を。
(同じものを楽しみたいだけなんだ)
うなだれた千紘は目を閉じる。
どこにも逃げられなくなったその時、誰が助けに来てくれるのだろうと絶望にも似た気持ちを抱いて。
(桜川さんにもやまぴっぴにも言えねぇ。……俺のことは、俺が解決させるしか。でも……いつか、誰か……)
明日から千紘は望まれた自分を演じる。
切り捨て、嫌悪したもう一人の『千紘』しか必要とされていないことを知っているから。
同じように、過去ごと受け入れてくれる誰かがいないことも知っている。
そんな夢のような相手は存在しない。
だから千紘は誰にも恋をしない。本気になることだって、ありえない。
それなのに――。
(……あ、やべ。もうこんな時間だ)
時計がぴったり零時を刻む。
重い気持ちで迎える寂しい時間。
それが今日で最後だとは知りもしない。
――そして、君との七日間が始まる。
――今日はなんとしてでも上品な男を演じなければならない。
千紘は心に誓ってデート先に来ていた。
賑やかな音とどことなく懐かしい電飾。ふんわり漂う屋台の食べ物の香り。入り混じった香りは妙に安っぽく感じられる。
そう、今日のデートはお祭りデートだった。
千紘が好きなものランキングを付けるとしたら、間違いなく一位を取るであろう『祭り』だ。
しかし――。
「そ……その浴衣、よく似合う……ね……」
早くも一位は入れ替わろうとしていた。
既に待っていた彼女はきっちり浴衣を着ており、髪もかわいらしく編み込んでいる。
(やべぇ、やっべぇ、かわいい! うわあああかわいいぐわあああ!)
叫ぶのを我慢できたのは今が『おとどけカレシ』の仕事中だからだった。
そうでなければ今すぐ彼女を抱き締めて人の少ないところへ連れ込んでいただろう。
こんなにかわいい人を独り占めできるなんて、と喜びを噛み締めながら。
「髪も君によく似合ってる。自分でやったの?」
こく、と彼女は頷いた。
ちょっと照れたようにしながら自分の後頭部に触れている。
実は少し失敗してしまったらしい。右側がふくらんでしまったのだと残念そうに言う。
(えええ、それずるくねぇ!? めっちゃかわいくて最高! って思ったのにさあ! 実はちょっぴり失敗してるんですーって、そんな隙のあるとこ見せちゃだめだろ! あ、これいけるかもって気になっちまうじゃん!?)
なるな、と冷酷なオーナーの声が頭の奥で響いた気がした。
それをあっさり吹き飛ばせたのはもちろん、彼女の笑みを見たせい。
千紘とのデートで編み込みを失敗したくなかった、と今にも解こうとするその手を押さえる。
「ちょっと待って。いいこと考えたから」
(えーっと、えっと……!)
彼女の手を引っ張り、いくつもの屋台を見ていく。
そのうちの一つに目的のものが並んでいるのを発見した。
「おじさん、これください」
彼女が隣できょとんとしているにも関わらず、千紘は花のかんざしを購入する。
「失敗しちゃったって言ってたでしょ? これ、付けたら隠せるんじゃないかなって」
(失敗のことを知ってんのは俺だけ! なんかそれもイイ!)
かんざしと一緒にうちわをもらい、熱くなる顔をぱたぱた扇ぐ。
かんざしはきちんと彼女に手渡した。
(くあああ! すっげえ嬉しそうにしてる! 大した値段じゃねーのに! 欲しいっつったら店ごと買ってやるのにいいい!)
こんなささやかなプレゼントも喜ぶ彼女が愛おしい。
しかし、早速付けようとしたその手が止まった。
代わりに千紘へ背を向けてくる。
「え? 僕が付けるの?」
(うなじいいいいい!)
無防備なうなじのせいでますます体温が上がってしまう。
必死に本性を隠しながら、震える手でかんざしを髪に挿した。
(ンンンこのまま抱き締めたいぎゅってしたいすりすりしたいでも俺汗臭い!)
千紘の頭の中が大変なことになっているとも知らず、彼女は礼を言って振り返った。
正面から見るとかんざしは隠れてしまうものの、彼女のかわいらしさは変わらない。
(はぁん、かわいい好き)
こんなにかわいいと思ってしまうのも、この偽りの七日間で彼女を好きになっていたからだった。
七日で終わる関係だと誰よりも理解していたのに、もともと突っ込みがちな気持ちはあっという間に限界を超えた。
一度好きだと気付いてしまってからはもう止まらない。
千紘が気を付けるのは上品とは程遠い自分を隠すことから、本気になってしまった自分を隠すことに変わっていた。
(いいよな、お前は。思いっきり顔に出しても……誰も悲しませねぇもん)
千紘が本気になってしまったら、きっと彼女は困ってしまうだろう。あくまでこの関係は契約のもの。終わらせたくないなどと言えるはずがない。
だからどんなに好きだと言いたくても彼女には言えなかった。
上品なもう一人の自分に、かわいいね、と言わせるだけが精一杯。それが心からの言葉だと果たして彼女は気付いているのかいないのか。
(あー、好き。……ほんと、好き)
言えない言葉は奥底に隠す。
気持ちが伝わればいいと願いながら手を握って。
「さ、お祭り、見て回ろうか」
握り返してくる手の小ささは意識しない。
遠慮がちに恋人繋ぎにしようとする動きも気付かない振りをする。
辺りの熱気だけが互いの体温を高めているわけじゃないことも、こういうときに限って伝わってきてしまう鼓動の速さも、千紘はすべてから目を背けた。
(このままお前のこと、攫っちまいたい)
人が多いわけでもないのに、ほどけないよう手に力を込める。
男の自分にこうまで力を入れられたら痛がるかもしれない。
それでも、千紘は繋いだ手を離せなかった――。
今日もBLOSSOM社は賑やかだった。
もちろん、『おとどけカレシ』賑やか三人組のせいである。
「顧客一万人達成ってほんとなんけ?」
「ほんとほんと! 桜川さんから業務連絡ーっつって来たもん」
「これも壱おにーさんのおかげだな!」
「何言ってるんすか、いっちーさん。仁さんのおかげに決まってるべ」
「あおちゃん、仁ちゃんのことになると目がマジすぎて怖いよぉ」
「リスペクトこじらせ系男子だもんなー?」
「こじらせ上等! これからも仁さんの追っかけは続けるっぺよ!」
呼び出しを受けた葵、千紘、壱はそんな話をしながらきゃっきゃとはしゃぐ。
今日彼らは桜川からの連絡を受けてここに集まった。
どうやらBLOSSOM社『おとどけカレシ』の顧客が一万人を超えたらしく、ちょっとしたお祝いを行うらしい。
「お祝いって何するんだろーな! やっぱこう、ぱーっと盛り上がって? 徹夜で大騒ぎみたいな?」
「はー、みんなで集まって飲み会したら楽しいべな」
「どうせ飲み会すんなら、かわいいおねーちゃんがいっぱいいるとこがいいなー。ちっひー知ってる? 駅前んとこのビル、地下にすっげー美人の巨乳が集まってるって話!」
「いや、どう考えてもそれ嘘じゃ……」
「そんなことねーもん! いつか連れてってやるからいい子にしろって桜川さん言ったもん! 俺信じてるもん!」
壱が最年長とは思えない子供っぽさを見せながら、ぶんぶん首を振る。本当に信じているとしたらなぜ今日まで『いい子』にしていないのか、そこはきっと突っ込まない方がいいのだろう。後輩として入ってきたにも関わらず、千紘はその辺りをよくわかっていた。
そうして三人で話していた時、側のドアがゆっくり開いた。
現れたのは桜川と遥。桜川が三馬鹿を見て一瞬眉をひそめたのは気のせいに違いない。
「あっ……」
「遥、いい加減そのオタクっぽい『あっ』はどうにかしろ」
三人を見て言った遥に桜川から呆れ混じりの指摘が入る。
「す、すみません……。もう三人集まってると思わなくてびっくりしたというか……。あはは……オタクっぽいですか……まあオタクなんですけどね……ははは……」
「はるっちおっつー!」
いつもは海斗と行動することの多い遥が今日は桜川といる。
海斗は、と葵が聞こうとしたところで再びドアが開いた。
「ほら、やっぱり一番最初じゃなかった」
「ごめんね、奈義くん……。俺が遅刻したから……」
「そうだよ。分かってるなら二度とすんな」
「うう……」
入ってきた海斗と奈義はどうやら二人で待ち合わせて来たらしい。
話を聞く限り、時間きっちりに現れた奈義と違い、海斗は遅れて来たらしかった。
冷ややかな目をした奈義と、その隣でびくびくぷるぷるしている海斗と、これまたいつも通りの様子である。
そうして集まったメンバーで当たり障りない話をしていると、今度は仁がやって来た。
顔を輝かせた葵が飛びつこうとしたのをあっさり退ける。
「時間厳守っつってた割に、一人足りてねぇぞ」
まだ到着していない大和を示して言うと、葵をうまくかわしながら近くの椅子に腰かける。
仁が現れてしばらく。時計の針が集合時間とされていた二十時を差した。
じりじり待ちながら十分後、大して悪びれた様子のない大和が登場する。
「帰りてーんだけど」
「まだ始まってもいないです……」
だるそうな大和に遥のツッコミが入る。
そうして全員が集まった所で、やっと桜川が今日の目的を話し始めた。
「既に伝えてある通り、『おとどけカレシ』の顧客が一万人を達成した。これも……いろいろあったとはいえ、お前たちのおかげだ」
「いやー、桜川さんに言われると照れますねー!」
へへへ、と千紘が頭を掻きながらくしゃっと笑う。もちろん桜川は黙殺した。
「今後のためにも、今回はボーナスを出してやろうと思ってな。俺の方で用意しておいた。……だが、ただボーナスをくれてやるのも面白みがない。ということで最も『おとどけカレシ』らしい奴にだけ、豪華海外旅行ペアチケットを進呈する」
豪華海外旅行ペアチケット――。
それを聞いた瞬間、キャストたちの目の色が変わった。
「御国は海外旅行くらいいつでも行けるじゃん」
「えっ……。そ、そんなことないよ、奈義くん……」
「……もしかしてフランスのジャパンエキスポ行ける?」
「はるっちはるっち、イベントなら日本にもあるべ? だから無理して旅行しなくてもいいんでねぇかなー?」
どうも雲行きが怪しい。
いつもは仲がいいはずのキャストたちは、明らかにお互いを牽制し始めていた。
異常はそこだけにとどまらない。
「……たまには旅行してやってもいいかもな」
「ちょっと待った! やまぴっぴそういうキャラじゃねぇじゃん!? いつもみたいにめんどくせーって言って俺に譲ろ? な?」
「いやいや、ここは最年長の俺がもらうべき――」
「真中はある意味最年少だからな。海外旅行なんて行かせらんねぇよ」
「仁ちゃん!? こういうの積極的に欲しがるキャラじゃねぇだろ!」
欲なし男の大和も、面倒事は避ける仁まで話に食いついてくる。
その理由を桜川はちゃんと知っていた。
「さっきの話を聞いていなかったのはよく分かった。俺は『おとどけカレシらしい奴にだけ進呈する』と言ったはずだぞ」
八人がそれぞれ自分なりにその意味を噛み締める。
ナンバーワンの仁だけ余裕のある表情だったが、それも桜川の次のひと言で変わる。
「もし旅行するなら『恋人』とどこで何をしたいか。……今からお前たちの中で一番まともな答えを出した奴にチケットをやる」
――『恋人』という単語に八人が反応する。
桜川は分かっていてペアチケットを用意したのだと誰もがここで気付いた。
今、この場にいる全員には大切な恋人がいるのだから――。
「はい! はい! オーストラリアでコアラを抱っこしてぇっす! コアラかわいい! コアラを抱っこする彼女もかわいい! 俺幸せ! コアラごと彼女ぎゅーってする! はっはー! 絶対かわいいべ……!」
「……すさまじく頭の悪そうな内容だが、まぁいい。次は?」
「フランスでジャパンエキスポに参加します。どうせ俺がオタクなのは海外行ったって変わらないし、それならもういっそ吹っ切って彼女と好きなだけやりたいことやった方がいいに決まってるでしょ。この間はまったって言ってた海外アニメも特集されるからちょうどいいや。観光なんてどうでもいいけど、俺なら間違いなく彼女と最高の海外旅行ができます……!」
「早口すぎてほとんど何を言ってるか分からなかった。次」
「ギリシャとか行きたいですね。雰囲気もそれっぽいし、恋人と旅行するならぴったりだと思います」
「そういえばシンデレラの物語はギリシャ発祥という話もあるな。お姫様扱いされたい女性には喜ばれそうなネタだ。そういうことか?」
「……別に深い意味はないです。っていうか、なんであいつの好きなもん把握して――」
「次は誰だ?」
怒涛の勢いで桜川が一人一人に『恋人としたい海外旅行』を聞いていく。
奈義は納得いかない様子で桜川を睨んでおり、葵と遥は既に行く気満々であれこれ想像をふくらませていた。
最も興味がないだろうと思われていた大和が軽く鼻を鳴らす。
「行くならイタリアって決めてます。他の男に声かけられて慌てふためいてるとこ見てみてぇし。俺が適当に女引っ掛けてるとこ見せつけてやんのも面白そうですけど」
「海外に行ってまで恋人をいじめるな」
「そうだぞ、やまぴっぴ。恋人は大事にしてやらねぇと。だから俺はブラジル行ってカーニバル見るつもりなんですけど、どうですかね? 地球の裏側でお祭り男ですってアピールするつもりっす!」
「それのどこが恋人を大事にしてるのか、俺には理解できないんだが」
「桜川さんに理解できねーんだから、あんたはもう除外だろ」
「いやいや大和さん、そりゃあないんじゃないですかねぇ?」
大和も千紘も一歩も譲らない。
千紘はともかく、大和のずるいところはそこだった。普段あれだけ『何も興味ないです』という顔をしていながら、妙に食い下がってくる。
そんな二人の様子は、よほど譲れないものがあるのだと全員に感じさせた。
ただ、マイペースな海斗だけはふわふわした空気を醸し出している。
「俺はハワイかなぁ……。水着とか見てみたいし……」
「海ちゃんえっちぃー! やっぱビキニ? ってか彼女巨乳? 今度俺に見せてくんね? おっぱいだけでいいから」
「え……絶対嫌ですけど……」
「海ちゃんが絶対嫌って言った!」
「当たり前だろ、馬鹿か」
「仁ちゃんの彼女はきょにゅ――」
「殺すぞ」
「ひっ」
ドスの利いた声に壱が情けない悲鳴を上げる。
ぱっと桜川の背中に隠れたものの、すぐ引きずり出された。
「一瞬でも想像してみろ。海外旅行どころじゃねぇ思いさせてやる」
「べ……別に怖くねぇもーん……。想像すんなら巨乳のがいいもーん……」
「あ?」
「じじじじじ仁ちゃんは彼女ちゃん……彼女様とどこ行きたいのかな! 壱おにーさん気になるな!」
あからさまに話題を逸らした壱をとりあえず離し、仁は少し考えた様子を見せる。
「……アメリカだな。ラスベガスって行ってみたかったんだよな。眠らねぇ街なんだろ」
「やだ、仁ちゃん! 彼女ちゃんに『今夜は眠らせてやらねぇ』とか言うんじゃ――」
「てめぇは明日の朝日を拝みたくねぇみたいだな」
「なんでもないでっす!」
奇声と共に壱は仁から逃げ出す。
それでも、冷めた顔の桜川に自分をアピールするのは忘れなかった。
「俺は彼女と行くならインドがいいでーす! カジュラーホー寺院群って知ってます? めっちゃえっちな像いっぱい置いてあんの! 死ぬまでに見ねぇと……!」
「お前の恋人は本当にそれで喜ぶのか?」
「俺、像より彼女のが好きなんで!」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
はぁ、と桜川は溜息を吐いて額を押さえる。
「全員、どこが『おとどけカレシらしい』のか甚だ疑問だな。好き勝手自分のしたいことばっかり言いやがって」
そう言いながら、懐から封筒を取り出す。
その数は――八通。
「仕事意識の欠片もない恋愛馬鹿共が」
いつもと変わらない辛辣な物言い。
だが、その顔には笑みが浮かんでいた。
「海外でも一週間、『恋人』を満足させてこい」
「――っしゃああああ!」
一拍置いて、三馬鹿がガッツポーズと共に叫ぶ。
奈義は耳を押さえつつもしっかりチケットを受け取り、仁と大和もしれっと自分の分を確保した。
遥は桜川を拝み始め、海斗はすぐに飛行機を取ろうと携帯を取り出す。
こうして『おとどけカレシ』は海外へ進出することになった――。
***
――仁は彼女と共にアメリカへ向かった。
行き先はラスベガス。初めてのカジノを前に思考停止する彼女を抱き寄せる。
「ぼーっとすんな。変なのに声かけられても知らねぇぞ」
仁がいるから大丈夫だと力強く答えられ、叱ったはずの仁が黙る羽目になった。
確かに自分の目の届く所では声などかけさせない。万が一触れられそうにでもなった瞬間、本性をさらけ出す自信がある。
「そこまで言うなら、俺から離れんなよ」
それなら、と彼女がにこにこしながら仁の手を握ってきた。
こうしていれば絶対に離れない、と得意気な顔を見てまた口をつぐむ。
(離れないっつーか、離してやれねぇっつーか……)
普通に繋いだだけの手を一度離し、恋人繋ぎに変える。
それに気付いた彼女がほんの少し顔を赤らめた。
きゅ、と指先に力を入れてきたのを感じ、珍しく仁も少しだけ恥ずかしくなる。
海外だからか、なんとなく二人の間の雰囲気も普段とは違っていた。
初々しい空気はまるで本当の恋人になってからのもののようで。
いつもの自分のペースを崩された仁は、誤魔化すようにして口を開く。
「そういや、さ」
言ってから、会話の中身を考える。
チケットを手に入れた時に壱とした会話を思い出し、それを話題にした。
「ラスベガスは眠らない街って言われてるらしい。お前、今夜寝る気あるか?」
ない、と満面の笑みと共に即答される。
それどころか付き合って欲しいと言われてしまった。
「仕方ねぇな」
あの時茶化されたのとは違う意味でそう言うと、よほど嬉しかったのか、彼女はうんうんと首を縦に振った。
今夜は寝かせない、とかっこつけたように言う。
いつもは言われてばかりの台詞を言えたことに満足しているらしく、機嫌良さそうに手を引っ張って歩き出した。
(……かわいいヤツ)
口に出さずに心の中だけで言い、彼女のしたいようにさせる。
彼女のためなら三日三晩でも付き合えるのが瀬戸仁という男だった――。
***
――葵は彼女と共にオーストラリアへ向かった。
念願のコアラを見て、二人でいつものゲームトークをする。
「三匹並んでんの、ボス戦にしか見えねぇべ……」
葵がちょっぴり戸惑っていたにも関わらず、彼女はさっさとスタッフに抱っこさせてもらっていた。
そのまま葵のもとへ来たかと思うと、触ってみる? と軽く差し出してくる。
「噛んだりしねぇかな?」
恐る恐る聞いた葵に向かって彼女は笑い出す。
大丈夫だというひと言の後、葵にコアラを受け渡した。
「ふあ……。なんか思ってたのと違う……!」
うさぎとどっちがいい? とまた笑われ、二人にとって大切な過去を思い出す。かつて動物園に来た時に何をしたのか、今もちゃんと記憶に残っていた。
懐かしさと一緒に、彼女への温かい気持ちが胸を満たしていく。
「あのさ。俺、コアラを抱っこしたあんたを抱っこしたいよ」
それを聞いた彼女は首を傾げる。
少し考えた様子を見せた後、コアラを抱っこする葵を抱き締めた。
「うーん、嬉しいけどちげぇ!」
何かがおかしい――と思うものの、今の葵にはどうすることもできない。
(しょうがねぇ。コアラは返して普通にぎゅーって――)
――赤ちゃんを抱っこしてるみたい。
彼女がそう呟いた。
(……へ?)
葵が硬直していると、わざわざ顔を上げてもう一度言う。
赤ちゃんを抱っこした夫婦みたいだ、とさっきよりエスカレートした台詞を――。
「あ……あああああ赤ちゃんな! うん、赤ちゃん! あー、分かる分かるー! 夫婦! ん、俺もそれ言いたかった!」
(ここここれはどういう意味で言ったんだべか……!)
完全に混乱してしまった葵には気付かず、彼女は笑顔のまま寄り添う。
せっかくならと撮ってもらった写真には、真っ赤な顔の葵が映っていた――。
***
――奈義は彼女と共にギリシャへ向かった。
どうしてそこへ連れて行きたいと思ったのか、桜川が見抜いていたことを今もまだ根に持っている。
(……そんなに分かりやすいか、俺)
案外顔に出ていることも知らず、ギリシャに来てからもなお考え続けていた。
彼女は地中海の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、物語の世界に来たみたいだと呑気に言う。
「こんなとこに来てまで、頭ふわふわなんだな」
憎まれ口を叩いても、いつもの勢いはない。
観光しやすいようにと着てきたワンピースが奈義の好みを突きすぎていたからだった。
(警戒心なんか欠片もねぇんだから、もっと隙のねぇ格好しろよ)
海が近いせいか風が強い。それでひらひら揺れるスカートの裾も気になった。
(もっとズボンとかあるだろ。めくれたらどうするわけ?)
「おい」
あろうことか高台に向かって歩き出した彼女を止める。
これだけ見晴らしが良ければ、下から見上げられたときにスカートの中身が見えてしまうかもしれない。
「勝手にふらふらすんな。……手、繋いどいてやるから」
景色のいい所でシンデレラの話をするつもりだった。
フランスの物語と見せかけてギリシャ発祥の話がある、と。きっと彼女は感心するだろうし、今回の旅行をもっと喜んでくれるだろう。
しかし、言えなかった。
「なぁ」
キスしていい? と聞こうとして、先に身体が動いていた。
(やっぱ、こいつのこと好きなんだな……)
触れたくてぎゅっと抱き締める。
彼女は驚きながらも奈義に応えてくれた。
海外だからといつもより大胆になる。そうして彼女が自分のものであることを他の観光客に見せつけた。
キスに心を奪われすぎたおかげで、べたつく潮風の不快さも何も感じない――。
***
――海斗は彼女と共にハワイへ向かった。
ご機嫌な晴れ空と白い砂浜、青く透き通った海。行き交う人々の格好は涼しげで、海斗も彼女もお互いに選び合った水着を身に着けている。
「その水着、ちょっと心配だよね」
波打ち際に足を浸しながら、海斗は彼女の肩に触れる。
「紐を引っ張ったら脱げちゃうでしょ」
選んだのは海斗だろうと彼女がむっとする。
(かわいいから着てほしかったけど、思ってたより危ないかもって気付いちゃったんだよ)
彼女は軽く海斗の手を払って海の深い場所へ向かってしまった。
それを追い掛けて行くと、不意に彼女が振り返る。
かと思ったら、水を跳ねさせながら海斗に抱き着いた。
「どうしたの?」
足が届かない! と彼女に言われて一瞬意味を理解しかねた。
必死にしがみついてくる彼女の顔からは、いつもの強気な笑みが消えている。
(ああそっか。身長が足りないんだ)
ふにゃふにゃしていても、海斗は海外で通用する程度の身長がある。
だから、彼女の足が届かないことに気付けなかった。
早く砂浜に連れて行って、とねだられる。
大人しく言う通りにしようとした瞬間、少し意地悪な気持ちが芽生えた。
「だーめ。もうちょっとだけこのまま」
くす、と笑って海斗は彼女の身体を抱き締める。
「足、絡めて。しがみついていいから」
(こんなにくっつくの、ベッドの上くらいじゃない?)
それを思うと、どうしても動く気にはなれない。
「君にここまで抱き締められるのって滅多にないでしょ? 堪能させてくれたら嬉しいなーなんて」
海水のせいで塩辛くなった彼女の頬にキスを落とし、もう少しだけ深みに足を進める。
怒った彼女に散々文句を言われたが、主導権は海斗にあった。
「かわいいね」
ドSキャラはやめろと肩を叩かれ、ひたすら首をひねる。
困ってすがりついてくるところをかわいいと感じる。だから楽しんでいるだけ。これのどこがSキャラなのか。
海斗には本当によく分からなかった――。
***
――遥は彼女と共にフランスへ向かった。
もちろん日付はジャパンエキスポ――アニメ、ゲーム、漫画の祭典に合わせている。
「どうやって回ったらいいと思う?」
ふふん、と彼女が会場内マップを遥の前に見せた。
そして完璧すぎるルートを提案する。
「すごい……無駄がない……!」
彼女は職業柄こういう場所に慣れていた。だからこそ、最も効率のいい回り方もすぐに思いつくのだろう。
そんな彼女を本当に心から尊敬する反面、今更になって不安を覚えてしまう。
「……あのさ。本当にここへ来てよかった? やっぱり普通に観光したかったんじゃないかと思って……。君がそうしたいなら今からでもそうするよ。だから……。……んぐ」
言いかけた遥の口を、彼女が指で塞ぐ。
聖地巡礼は後、というひと言を聞いてうっかり笑ってしまった。
(聖地巡礼って、別になんの聖地でもないのに)
こんなちょっとした言い回しでさえ自分に合わせてくれたのが嬉しくて、唇に触れたままの指へキスをする。
ただ触れさせていただけの指にそんな感触を与えられると思わなかったのか、彼女は驚いたように手を引いた。
「君のそういうとこ、大好きだよ」
(夜はたくさん俺が付き合ってあげようっと)
この祭典を目的に来たとはいえ、ホテルはランクの高いものを取り、ディナーも三ツ星レストランを予約してある。
遥なりに気を遣った結果だった。
「俺たちらしい海外旅行を楽しもうね!」
笑った遥に向かって彼女も笑みを向ける。
そうして二人は海外でもたっぷりオタク活動を充実させたのだった――。
***
――壱は彼女と共にインドへ向かった。
好き放題楽しく目的を果たそうとしたのに、残念ながら未だホテルから出られずにいる。
「水……だめ……」
生水は危険だということも忘れて飲んだ結果、腹痛に襲われて寝込む羽目になっていた。
そんな常識さえいまいちよく分かっていなかった彼女は、ぐったりする壱の側でおろおろしている。
大丈夫かと聞きながら壱をよしよし撫でたり、痛みから気を逸らせるよう頭をぎゅっと抱き締めたり。
(いつもなら……いつもなら顔突っ込んでぽよんぽよんのふにょんふにょんなのに……! くそ……!)
頭を抱き締められれば当然とても、とてもとても柔らかい。
この世の天国がここにあるにも関わらず、壱はそれを心から楽しむことができなかった。
(ちくしょーーーー!)
膝枕をされて血涙を流したくなる。彼女の行為は壱にとって天国であり地獄でもあった。
何もできない今、これほど辛い拷問もない。
(せっかくの海外旅行だっつーのに! 象に乗せたかったのに! めっちゃ揺れるとこ見たかったのにぃぃぃぃ! くそっ! くそっ!)
九割下心があるとはいえ、彼女を楽しませたいのは事実だった。
こんなことになってしまって申し訳ないと思いつつ、不満も言わずに心配してくれる心の広さを改めて噛み締める。
「うー……。ごめんなー……」
壱なりに謝ると、すぐ首を横に振られる。
恋人として初めての海外旅行でこうなったのは、逆に珍しい経験でいいと。
早く治るといい、と彼女は壱の頬にちょっとだけキスをした。
(くぅ……今はちょっかい出してくんなよー……。俺、なんにもできねぇじゃん……!)
今すぐ彼女を抱き締めて、そんな微笑ましいキスではなくもっと大人のキスを。
願っても壱には叶えられない。
「治ったら覚えとけよ……」
どうにもズレた方向で彼女に宣言し、至極の柔らかさに顔を埋める。
――夜には完全回復した壱が、我慢していたものを放出させて引っぱたかれるのはまた別の話だった。
***
――大和は彼女と共にイタリアへ向かった。
特に意図したわけではなかったのに、偶然桜川へ言ったのと同じ状況になっている。
(ふーん、声かけられてんじゃん)
その男はさすがイタリア人とでも言うべきか、彼女が断っているにも関わらずのらりくらりとかわしていた。
大和は立ち止まってその様子を見守る。
(このままほっといたらどーするんだろうな)
彼女は気が弱い方ではない。しかし押しに弱い。
雰囲気に流されやすいところもある上、なんだかんだ言って『手馴れた男』を相手にするところっと落ちてしまう。
大和はそれを誰よりもよく知っていた。
それなのに彼女のもとへはまだ戻らない。
(俺のとこ、逃げてくりゃいいのに)
そんなことを思っていると、声をかけていた男が彼女の肩に触れた。
どう反応するかまだ見ていようかと思った時、不意に彼女がこちらを見る。
目が合った瞬間――考える前に駆け寄っていた。
男から彼女を引きはがし、肩を抱き寄せる。
「これ、俺の女だから」
イタリア語で話すのも忘れて言い放つと、見せつけるようにしてキスをする。
それを見て男は快活に笑った。
大和の肩をぽんぽん叩き、手を振って行ってしまう。
「あんぐらい一人でなんとかしろよ」
そう言いながら彼女の身体を抱き締めた。
「はいはい、すぐ助けに行かなくて悪かったって」
胸に顔を埋めたまま軽くつねってくる彼女の頭を撫でる。
(……ちゃんと俺以外にはなびかねーのな)
少なくとも旅行中は目を離すまいと心に誓い、またキスをしておく。
まだ怒っている彼女が機嫌を直すまで何度も、何度も――。
***
――千紘は彼女と共にブラジルへ向かった。
念願のリオのカーニバルを迎え、うずうずしながら目を輝かせる。
「すっげえええ! やっぱ祭りってのはこうじゃねぇとな!」
そんな千紘を彼女は楽しそうに見つめていた。
「なぁなぁ、お前もああいう格好似合いそうじゃね? 羽みたいなのいっぱい付けてさ! おみやげに買っとく?」
うーん、と困った顔をされてしまう。
なかなか露出度の高い衣装はさすがにハードルが高いらしい。
「お前なら何着てもかわいいよ。露出とかしても全然いける」
そう言うと、彼女ははっとした顔で自分のお腹を押さえた。
旅行中にブラジル料理を楽しみすぎてしまい、少々気にしているらしい。
(食ってるとこ見んの好きだし、気にしなくていいのにな)
つん、と彼女が隠したがる腹部をつついてみる。
「真ん丸になっても、嫌いにならねぇけど?」
千紘の前では綺麗でいたいんだと彼女はうつむきながら言う。
いつもかわいいと褒めてくれるから、ちゃんと褒められるに値する自分でいたいらしい。
しかし、どうしてもおいしいものには手を出したい。意思が弱くて申し訳ない、と彼女はしょんぼりした様子で言った。
「そんなら、俺も今夜は意思めっちゃ弱い感じにしとく。明日もあるからーって我慢しねぇよ。そしたらお前ももう我慢しなくてすむだろ? 一緒に我慢なんかやめちまお」
さらっと言われ、彼女は目をぱちくりさせる。
そして、恥ずかしそうに頷いた。
(俺、祭り好きだったのにさ。今はどうでもいいやって思っちまってる。これも全部こいつがかわいいのが悪い……!)
デレデレする千紘には、もう彼女以外のものが目に入っていない。
その結果、夜になってから肉食男子の本領を発揮することになるのだった――。
その日、千紘が連れて来てくれたカフェには魅力的なスイーツが山ほどあった。
メニューを見ているだけで口の中が甘くなるような気がして、しばらく頭を抱えてしまう。
「好きなの、どうぞ?」
そんなことを言われても選べない、と心の中で答える。
欲を言うならメニューの一ページ目から三ページ目まで、ドリンク以外の全てを注文したい気持ちでいっぱいだった。
しかし、相手は穏やかで上品な『おとどけカレシ』なのだ。
いくら好きなものを食べていいと言われても、あまりがっついたところは見せられない。
目の前の彼が超肉食男子とでも言うならまだしも――。
「やっぱりこの店を選んでよかった。君が好きそうなスイーツばっかりだと思ってね。食べたいものが多すぎて悩んでるなら、僕も手伝ってあげるよ。だから遠慮しないで。ほら」
優しく言われて更に悩む。
その結果、このカフェ限定のスイーツを選ぶことにした。
セット、ということで一緒にピーチティーを注文する。
千紘が頼んだのも自分とさほど変わらないスイーツセットだった。
やがて運ばれてきた紅茶をカップに注ぐ。
千紘も同じようにしているのを見て、ふっと笑ってしまった。
「どうかしたの?」
普通の小さなカフェなのに、執事やメイドが出てきそうな雰囲気を感じたと告げる。
その理由は男性とは思えないほど上品に紅茶を淹れた千紘で。
「……君の言い方だと、僕が執事みたいじゃないか」
千紘は笑い方まで上品だった。
うっかりそれに見とれて、少し恥ずかしくなってしまう。
彼との期間はたった一週間だけ。
それなのに本気になるなんて――馬鹿げている。
わかってはいても、心が惹かれてしまうのを止められない。
もっと笑ってほしい、もっといろんな話を聞かせてほしい。
そう思うのに、千紘は基本的に受動的だった。
こちらの話を聞いて表情を変え、話も聞き専に回る。エスコートはしてくれるものの、最初の一歩を踏み出すのはいつもこちらからだった。
そんなことを考えてしまい、つい、思ったことを口にしてしまう。
「……そう? 執事は嫌い?」
嫌い、とまで強い言葉を使ったつもりはなかった。
ただ、千紘には執事であってほしくないと言っただけで。
「じゃあ聞いていい? 君はどんな人が好き?」
促されてスイーツを食べながら考える。
どんな人――と言われると選択肢が多すぎて悩む。
ぽつぽつと思い浮かんだそれが千紘とあまり噛み合わないことに気付いて、それ以上理想を広げるのはやめておいた。
笑いたいときに声をあげて笑い合える人。好きなものを好きだとちゃんと言える人。二人の時間賑やかにしてくれる人。そう、例えばお祭りのように。
千紘のことはもちろん嫌いではない。
少し、違う世界の人に感じられるだけで。
もっと身近に感じられる人だったら――とは言わず、当たり障りなく答えた。
「優しい人、ね。僕は及第点?」
文句なしの満点だと伝える。
そう、千紘はすべてにおいて満点だ――と、思う。
そこに隙を感じられないのが若干引っ掛かるだけで――。
「……あ」
ぼんやりしていたせいか、口に運ぶはずだったフォークの位置が若干ずれる。
食べ損ねたスイーツをフォークに刺したまま、どうしようかと紙ナプキンを探した。
不意に、千紘に手を握られる。
「口のところ、クリーム取ってあげる」
――やっぱり完璧な人だと思ってしまった。
指でクリームを拭うところも、それを自分の口に運ぶところも。『おとどけカレシ』として完璧すぎている。
だからか、と気付いてしまった。
本当の恋人のようでいて、本当の恋人ではない。
その寂しい矛盾が――ぎりぎりのところで自分を冷静にしてくれている。
「はい、きれいになったよ。……あ、君はもともときれいだったね。それとも、かわいい……かな?」
笑顔を見て胸が締め付けられる。
千紘のことが好きだった。どうしようもなく愛おしかった。
だけど、とても素敵な人だと知れば知るほど距離が遠ざかる。
――これはたった一週間だけの演技。この笑顔もきっと作られたもの。
うつむいて、紅茶で唇を湿らせる。
彼の本当の笑顔を見ることは叶わないのだろう。
この関係が偽物である限り。
「……どうしたの」
心配そうな声が落ちる。
そこには嘘がないような気がした。
――いや、千紘にとっては優しい笑顔も穏やかで上品な仕草も本物なのだろう。演技でどうにかできるようなものではない。
……そこに本心が見えないだけ。
「なにか、嫌だった?」
なんでもない、と笑って返す。
千紘もこの偽りの関係に、自分と同じ違和感を覚えていればいいと思いながら――。
嫌な予感を覚えながら招待された会場の扉を開けた仁は、突っ込んできた何かをほぼ反射的に避けた。
鈍い音がどさっと響く。
たった今まで仁が立っていた場所には、勢いよくすっ転んだ葵の姿があった。
「どうせそんなこったろーと思った」
ひとまず葵に手を貸しながら、室内にいる既に準備万端のおとどけカレシメンバーを見る。
「今日まで葵が妙にそわそわしてたからな。こいつが俺の電話に出ねぇってことはそういうことだろ」
「はー、さすが仁さん! そーたことから、今日のお祝いを察してたんけ……!」
メンバーが集まったのは他でもない仁の誕生日を祝うためだった。
そして恐らく、一番張り切っていたのは飛び込んできた葵だろう。
「仁さん、仁さん! 俺、今日すげー頑張った! だから、おめでとーのハグしようと思ったんすけど! なんで避けるんすか!」
「あんなの普通避けるに決まってるじゃねぇか」
「ちぇー」
部屋の中は「ああ、張り切ったのだろうな」と分かる程度にはがっつり装飾が施されていた。
折り紙で作った輪の飾りを見て、少しだけ仁は目を細める。
「いい歳して、そんなん作ったのか」
「俺とはるくんで作ったんです。ね、はるくん」
「俺たち、他にできそうなことなかったんだよね。ケーキは壱さんの担当だし……」
「なんかいろいろ仕込んだ方が面白そうだと思ったんだけどよー。あおちゃんがすげぇ真面目な顔して、『ふざけていいと思ってるんけ』って言うからさー。もー、俺、面白そうなことなんにもできなかった」
壱はぶーぶー文句を言っているものの、仁の横で葵は『褒めて!』という顔をしている。確かに壱の余計な暴走を止めたことに関しては褒めるべきかもしれない、と思いながら、仁はいかにも定番らしいケーキに目を向ける。
本職なだけあって、壱のケーキは本人のいろいろなひどさと相反した素晴らしい出来だった。
また、仁は目を細める。
「ん、これ一応プレゼント」
「悪いな」
いつもなら積極的に参加しない大和も、仁にプレゼントを渡す。どうやらシガレットケースらしい。
「分かってんじゃねぇか」
「まぁ、こんなもんかなっつーか――」
「仁さん!」
葵の声に仁は苦笑する。
大和が褒められたなら次こそ俺! という期待の眼差しが眩しすぎた。
それに突っ込みを入れたのは仁ではなく――。
「東城、鬱陶しい」
「奈義っちー!?」
「確かにあおちゃん、そりゃあやりすぎだろ」
千紘まで同調したのを見て、葵はあからさまにしょんぼりしてしまう。
分かりやすいその態度に、仁はふっと笑った。
「今更改めて言わなくても、お前にはいつも感謝してる。ありがとな、葵」
「ぎゃあああああ!」
「ああっ! 葵さん!」
悲鳴と共によろけた葵を海斗がすぐに支えに向かう。
「仁さんに……いつも感謝してるって言われた……」
「特上寿司用意しといてよかったですね」
遥に言われて、葵は首がもげるぐらいうんうん頷いた。
今日のメインディッシュは葵が全身全霊込めて握った寿司らしく、確かに立派なものがテーブルに並んでいる。
「お前ら、やりすぎ」
珍しく仁がほんの少しだけ照れたように頬を緩めた。
その笑みを見るために一体何人の『カノジョ』たちが大金をはたくのか考えるのも恐ろしい。
「やりすぎてるのは東城だけですよ。俺たちは至って普通にやろうとしてたんですから。あの真中さんだって今回は大人しかったんです」
「あのってなんだよ、奈義ちゃん!」
「――こういうの、さ」
いつもなら「うるせぇ、真中」で遮るはずなのに、仁は珍しく壱を放置した。
代わりにお手製の飾りをもう一度眺め、懐かしそうに肩をすくめる。
「俺、施設育ちだから。なんか……うまく言えねぇけど。折り紙で作った飾りも、こういういかにもなケーキも、こう……懐かしいっつーか。……いや、いいわ。柄じゃねぇし」
血の繋がらない弟や妹たちと、ずっと世話になって――迷惑までかけてしまった院長先生と。かつての『家』を思い出しながら、仁は今の仲間たちを一人ずつ見ていく。
「恵まれてんな、俺も」
「仁さんんんんんんんん」
なぜか半泣きになった葵が再び仁に飛び込んでいく。
今度はもう、仁も避けなかった。
「お前さ、なんでそんなに俺に懐いてんの」
「男としてかっけぇからです! 俺も仁さんみたいになりてぇ!」
「昔っから言われるけど分かんねぇわ」
「そんじゃー、俺もリスペクトー!」
「あっ、ずっちぃぞ、ちっひー! 俺も仁ちゃんリスペクトするー!」
葵に続いて千紘と壱まで仁に飛び込む。
仁が何か言う前に、そわそわしていた海斗と遥も、互いの顔を見合わせてから飛びついた。
「瀬戸さん、キャストの中でも人気ナンバーワンって感じ」
「暴走族時代もこんなんだったんだろーな」
奈義と大和はもみくちゃの中に参加しない。
代わりにこれまた珍しくほのぼのした様子で団子状態になった仁を見守る。
「おい! いい加減離れろ!」
今回ばかりはいつもの説教モードになれない。
なんだかんだ言いながら慕ってくる相手に対して弱すぎる仁を前に、奈義はそっと携帯を取り出す。
そして、桜川に見せるための動画を撮り始めたのだった。
(嘘……だろ……)
仁が彼女の家に入ると、そこは別世界だった。
まず、足の踏み場がある。
(自分で片付けできるのかよ……)
乱雑に散らばっていた雑誌の山は部屋の隅にきちんとまとめられている。
クッションも床に落ちていない。ソファの上というあるべき場所に置いてあった。
そして――部屋の中央には得意げに胸を張っている彼女がいる。
「一人で頑張ったのか?」
仁がいない間、散らかりがちな部屋を必死に片付けたのだろう。
仕事が忙しくて家のことをするどころではないというのに。
「……そっか。俺の誕生日だからか」
さすがに料理までは頑張れなかったと彼女は眉を寄せている。
それでも、ケーキや飲み物、ちょっとしたつまみなどは用意されていた。
仁はそれ以上何も言えず、立ち尽くす。
(寝る暇もねぇぐらい忙しいって言ってただろ。デートしたいけど無理だっつって俺に謝ってきたの、ついこの間のことだったよな? 半泣きになって電話してきたの覚えてるぞ。会いたいけど、暇が作れねぇって)
電話で聞いた、会いたい、という声はまだ耳に残っている。
触れ合えなかった期間が長すぎて仁さえすぐに距離を詰められずにいたのに、彼女の方から近付いてきた。
「……どした」
彼女以外の誰も聞いたことのない、優しい声が落ちる。
見下ろすと、まっすぐな眼差しが仁を見つめていた。
いつもごめんなさい。ありがとう。
それから、誕生日おめでとう。
温かい言葉がいくつもかけられる。
本当はもっとサプライズをしたかったこと、仁の喜ぶことをたくさんたくさんしたかったこと、人生で一番いいと言ってもらえるようなお祝いをしたかったこと。
ありったけの想いを吐き出した後、少しだけ震える声が仁の耳をくすぐった。
――こんな私だけど、これからも恋人でいてくれますか。
(――そんなの、今更聞かなきゃいけねぇことかよ)
答えたつもりだったのに、声を発するよりも早く彼女を抱き締めていた。
「お前以外、俺にふさわしい女なんかいねぇだろ。もっと俺の女なんだって自信持てよ。……嫌いになんて一生なってやらねぇし、させてやらねぇから」
腕の中で彼女の肩が震える。
仁の胸にぐりぐり顔を押し付けてきたのは、きっと泣きそうになっている顔を見られたくないからだろう。
それが分かっていたから、無理にやめさせようとはしない。
代わりに頭を撫でて髪へとキスを落とした。
「毎日、仕事お疲れさん。頑張ったな」
心からそう思って言ったのに、彼女は顔を上げて首を横に振った。
誕生日なのにそれはおかしいだろうと突っ込まれ、確かにそうかもしれないと仁も思う。
「でも、言ってやりたかったんだよ。お前、俺に褒められんの好きだろ」
(そんで、俺は褒められて喜ぶお前の顔が好きなんだよな)
よしよし撫でていると、やがて彼女は落ち着いたらしかった。
けろっとした顔で仁から離れ、ソファに座る。
やけにあっさりした態度に仁が若干違和感を覚えていると、自分の膝をぽんぽん叩き始めた。
仁の方が疲れているから膝枕する、ということらしい。
「なんだよ、ケーキは後でいいのか?」
先に癒すところから始めなければならない、と彼女は謎のこだわりを見せる。先ほど「お疲れ様」と言われたせいで、自分も仁に「お疲れ様」をしなければならないと思ったようだ。
真剣な顔で大人しく膝枕されろと言われると、さすがの仁も反応に困る。
膝枕よりもっとしたいことができてしまったせいで。
「飯が後でもいいって言うなら、やることなんか一つしかねぇと思うぞ」
言いながら彼女に迫る。
ソファが不穏に音を立てた。
「お前だって頑張ったご褒美欲しいだろ」
さらりとした髪に指を絡めてから、頭を引き寄せる。
慣れた様子でキスを落とすと、彼女はくすぐったそうに笑った。
そして、爆弾発言を落とす。
「……は」
――今日は私がご褒美をあげる番、と聞こえた気がした。
はにかみながら仁の名前を呼ぶ。
いつもは照れくさがるくせに、呼び捨てで。
(……はぁ)
彼女の言動の何もかもが心に突き刺さる。
どうやればこんなにかわいいと思える恋人を嫌いになれるのか、仁の方が聞きたいくらいだった。
「……お前のそういうとこ、すげぇかわいくて、好き」
理性の糸がほつれていく。
彼女の吐息と温もりと、潤んだ眼差しと自分の名前を呼ぶ声と――。
何よりも愛おしい恋人の全てが仁を惹きつけた。
「こんな俺だけど、これからも恋人でいさせろよ」
密やかな囁きと一緒に濡れたキスの音がこぼれていく。
それは、さっき彼女が告げた言葉によく似ていた。
――衣擦れが二人の間の空気を裂く。
頬を赤らめた彼女はキスを止めてくれない仁に、小さな声で電気を消して欲しいと訴えた。
しかし仁は、すぐにおねだりを聞いてくれると信じ切っていた彼女を裏切る。
「誕生日なんだから最後まで顔、見せろよ」
今は瞬きする時間だって惜しい。彼女の見せる恥じらいの顔をほんの一瞬たりとも見逃したくはなかった。
やだ、ばか、いじわる、と文句を言う彼女の唇をキスで封じる。
それだけで大人しくなったことに満足しながら、とどめのひと言で完全に抑え込んだ。
「――愛してる」
電気は消してやらず、そのまま彼女を求める。
――誕生日の夜も、長くなりそうだった。
BLOSSOM社にて、大和は机に肘をつきながら溜息を吐いていた。
「やまぴっぴー! 明日から仕事なのにのんびりしちゃって平気かよー!」
「へーきへーき、もう慣れたし」
騒がしく話しかけてくるのは同期の千紘だった。
旧キャストが抜けた今、この千紘と大和とで『おとどけカレシ』を盛り立てている。
(上品でセレブ? どこが?)
鼻で笑ったのは千紘に対してだけではない。
(ま、俺も同じか)
ふあ、とあくびを噛み殺して時計を見る。
こんな風にやる気のない態度を取っている大和は、『おとどけカレシ』として派遣された瞬間、どんな女性もころっと落とすセクシーな男に変化する。
千紘曰くチャラ男とのことだが、大和は単純に軽い男を演じてるだけだった。その方が『遊び』であることを向こうにも意識させられるだろうと思ってのことである。
「なーんかいっつもだらーんとしてるよな。ほんとにそれで明日大丈夫か?」
「へーきだって。あんた、いつからそんなに心配性になったんだよ」
「だってさ、普通もっとなんかあるだろ。向こうは大事な七日間を用意してくれてるわけだし、できることあるなら思いっきり楽しませてあげたいじゃん?」
「まっじめー」
「やまぴっぴが真面目じゃねえんだと思うなー」
「だって俺、そもそも女って嫌いだし」
「なんで?」
「さあ? あんたがそのキャラ隠して仕事してんのと似たような理由なんじゃないの」
(そんなことは全然ねえけど)
千紘がどうしてそうしているのか、大和には全く興味がない。これは千紘相手に限った話ではなかった。
(……全部どうでもいい)
他人のことはもちろん自分のことさえ、大和にはあまり興味がない。この仕事を続けてどうなりたいかだとか、今後どうしていくかだとか、そういうビジョンも見えていなかった。
まだ何か言いたげな千紘を見て、相変わらずだと内心考える。
バカと呼ぶのが一番近いが、バカなりにまっすぐで嘘がない。大和にとっては少し眩しく感じられた。
「……帰るわ」
「えっ、もう?」
「別にやることねえし」
じゃ、と大和は千紘を振り返らずに外へ出て行く。
(明日からまた『おとどけカレシ』か。……金になるからいいけど)
どうせ今までと変わらず、明日もそれらしく演じて適当に女を喜ばせるだけ。
そしてそれは、大和にとってある意味得意なことだった。
***
――夜、大和はパソコンの前で目を細めていた。
(……ネタ切れ感すげえ)
なんだかんだ言いつつ、大和はきちんと明日からのデートプランを考えていた。
千紘にああいう態度を取ったのは、単純にそこから話がふくらむことを避けたためである。
真面目に調べものなどしているところを見せれば、手伝うだのおすすめを教えるだの、非常に面倒なことになってしまう。
千紘のことは嫌いではない。が、たまに鬱陶しい。
だから大和は一人、家に帰ってから黙々とデートプランを考えることにしていたのだった。
(明日の女ってどういうヤツだっけか)
データをチェックし、隅々まで頭に叩き込む。
女性を喜ばせるためにはそもそも喜ばせるためのネタを仕入れておかなければならない。こうして毎回、誰も知らない場所で徹底した準備をしているあたり、大和は他人が思っている以上に真面目だった。
そのせいで過去に何があったのか――それは考えないことにする。
(……へえ、こんなんあるんだ)
何気なく開いた雑誌には『プレゼント特集』があった。
その中の一つ、『かわいいブーケで彼女の気持ちを鷲掴み!』に目を向ける。
(バラ……はさすがに気取り過ぎだろ。ひまわりは時期じゃねえし……。……セラスチウム? なんだこの花、知らねえな)
その白い花はマーガレットに似ていた。違うのは花びらの形がハート型になっていることだろう。
特集に名前と写真が載っているのも、『ハート型の花びらで彼女も胸キュン!』というのが理由らしい。
(なーにが胸キュンだ。くっだらねえ)
鼻で笑いながらも一応メモに取っておく。
花言葉である『幸福』も何か必要になるかもしれないと一緒に記しておいた。
(花なんかよりアクセサリー、カバン、服、その他諸々。女ってのはそういうのを喜ぶもんだろ)
――大和は気付いていなかった。『恋人』へ贈るためのプレゼントが特集されているのだということを。
そして、大和には花を渡して喜ぶような女性とそういう時間を過ごしたことがない。
(明日からの女も今までのと変わらねえ。どこ行っても女なんて一緒だろ)
かつて過ごしてきたように、当たり障りなく面白みのない七日間がやってくるだけ。時間を終えた後は名前どころか顔さえ思い出せなくなる。どんな女性が、どんな声で大和の名前を呼んでいたのかさえ。
(少しは面白けりゃいいな、なんて期待もしねえ。……そんなもん、考えるだけ無駄だ)
デートのための準備をこつこつこなし、軽くあくびをする。
時刻はちょうど零時の針を差したところだった。
――そして、君との七日間が始まる。
ある晴れた昼下がり、『恋人』と二人で公園に到着する。
「へぇ、こんな場所あったんだ」
感心したように言ったその人は、厳密に言うと恋人であって恋人ではない。
桐谷大和――彼は期間限定の恋人を演じてくれる『おとどけカレシ』だった。
「それじゃあ早速」
手を引かれて芝生の方へ向かう。
シートを引き、二人して腰を下ろした。
「いいね、こういうのも。健全っていうか」
ただのお花見デートなのに、どうも大和が絡むと危ない雰囲気が見え隠れする。
この人の知るデートというものは不健全なものが多いのだろうかと思ってしまった。
それは口に出さず、しばらくまったりと桜を見る。
「……なんか、変な感じ」
そんな声が聞こえて振り返ると、大和はシートに横たわっていた。
自分の腕を枕にしながら、ぼうっと桜を見つめている。
「俺、花見の良さってよく分かんないだよね。だって、もっと見ていたいものがあるし」
視線が、動く。
「君を見てる方がずっといい」
明らかにさっきとはトーンの違う低い声が風に紛れて流れた。
どき、と心臓が騒いだのを気取られないよう、少しだけ目を逸らす。
――大和はあまりにもデートというものに慣れすぎていた。
そして、女性の扱いにも。
宝物のように大切にされるのは本当に嬉しかったけれど、時々、それを不安に感じる時がある。
この人はこうなるまで、どれだけの女性に同じ言葉を囁いてきたのだろうと――。
「ね、君もこっちに来る?」
ほとんど反射的に首を振ってしまっていた。
大和が示しているのは明らかに隣。
ぽんぽん、と伸ばした腕をアピールしている事から、腕枕するつもりなのだろう。
そんな事をされたら、今はまだ遠いこの距離を縮めたくなるかもしれない。
そうなれば――ますます短い一週間を意識してしまう事になる。
この関係は、たった七日だけ。
最初は軽くて馴れ馴れしい大和に、不安どころか軽い嫌悪感さえあった。それなのに、こうして恋人として過ごしていくうち、自分が思っていたような人ではないと知ったせいで惹かれるようになってしまった。
それが、辛い。
「遠慮しなくていいのに。でも、いいよ。次はベッドで誘うから」
どこまで本気でそう言っているのか分からない。
頬や手、肌へのキスはあっても、決して一線を越えるような事にはならないと知っていた。
大和は甘い言葉を投げかけ誘っているように見えて、そこの距離感をうまく保っている。
――まるで、興味などないかのように。
「……ああ、いい気持ち」
目を閉じた大和の顔を見つめる。
共に過ごす中で、たまに本心が分からなくなる時があった。
本当に心から――何かしらの欲を感じて言葉を発しているのだろうか、と。
「……そういえば、お弁当作って来たって言ってたっけ」
言われて思い出す。
朝、早起きして作った弁当の存在を。
かばんから出して差し出そうとすると、目を開けた大和が手を伸ばしてきた。
「そんな小さい手で、よくそこまで大きいお弁当を持って来たね」
弁当を持ったままの手に大和の手が触れる。
撫でられたかと思うと、小指に指を絡められた。
大和の視線は真っ直ぐこちらを向いている。
本物の恋人に向けるような甘い眼差し。
――偽物とは思えない優しい表情。
「……やっぱり、花より君の方がいいな」
そう言った大和の瞳に花びらが映っていた。
だけど、偽りとはいえ恋人である自分の姿は――ない。
「……どうかしたの?」
なんでもない、と告げる。
大和の本心はきっとこれからも分からない。
その甘い言葉の裏側に何が隠されているかも知る日は来ないのだろう。
七日で終わらせたくない。本当の恋人になりたい。
――その瞳に映して欲しい。
感じている欲を大和も同じように抱いてくれていたら――。
「お弁当、食べよっか」
明るい声に頷く。
まだ、二人の小指は絡んだままだった――。
物静かなバーには普段あまり聞かないジャズが流れていた。
なんとなく落ち着かなくて、辺りをこっそり見回してみる。
隣にいる大和はとても慣れた様子だった。
「ん? どうしたの?」
耳に心地良い声が二人の間の空気を撫でるように落ちる。
たったそれだけのことにも意識してしまいながら、メニューを指差した。
さっき大和が頼んでくれたカクテルについて聞いてみる。
「ああ、このバーオリジナルのやつなんだって。お酒は飲み慣れてないって言うから、とりあえず女の子らしいかわいいのがいいかなーと思ったんだ。ほら、写真見て分かると思うけど、さくらんぼが乗ってて君っぽい」
さくらんぼと自分と、何がそれらしく関係しているのかはよく分からない。
そうしていると、件のカクテルが運ばれてきた。
「どうぞ?」
囁くように言われ、恐る恐るグラスを手にする。
アルコール分は低いとメニューに書いてあった。
大和曰く、ほぼノンアルコールと変わらないとのことだったが、果たして自分にとってどの程度影響があるのか分からない。
変に酔ってしまわなければいい――と思いながら口に含んでみる。
思っていたよりすっきりした味のカクテルだった。
もっと飲みにくいものだと思っていただけに意外で、すいすい飲んでしまう。
「そんなに飲んだら、酔っちゃうよ?」
酔うのかな、と少し思う。
それすら知らないほど、アルコールのことをよく知らない。
「そうしたらお持ち帰りしちゃうからね」
どき、と驚いて大和を見つめる。
思いがけず意識してしまったのに、平然とした顔で微笑んでいた。
どれだけこの人は女性に慣れているんだろう、と胸の内にもやもやが生まれる。
だからか、それともアルコールに背中を押されたのか――どうでもいいおかしな質問をしてしまった。
「さくらんぼの茎を口の中で結ぶ? できるよ?」
ぐ、と言葉に詰まる。
聞いた話では、口に中でさくらんぼの茎を結べるとキスが上手いということになるらしい。
「やってみせようか」
カクテルに飾られていたさくらんぼは二つ。
その一つを口に入れる仕草から、目が逸らせない。
「……ん」
どきどきしながらその様子を見守る。
やがて――。
「はい、できた」
器用に結ばれた茎を見せられ、すごいと言えばいいのか、キスも上手いのかと聞けばいいのか分からなくなってしまう。
その結果、また、アルコールに背中を押された。
「え、君もやるの?」
できそうにないけど、と言外に含んでいるのを感じ取る。
侮られているようにすら感じられてむっとした。
あと一つだけ残ったさくらんぼを口に入れようとしたけれど。
「どうせできないよ。君、キス下手そうだし」
大きく心臓が跳ねて、すぐに忙しなく動き出す。
やはりキスの上手い下手はさくらんぼの茎に関係しているらしい――と思ったときだった。
「っていうか、下手じゃないと困るんだよね」
さくらんぼを間に挟んだだけの、とても近いキスをされる。
触れ合っていないはずの唇が熱い。
眩暈がするのはキスもどきのせいではなく、アルコールのせいだと思いたかった。
「俺、教えられるより教える方が好きだからさ」
大和の顔が近付いてくる。
何をどう教えようとしているのか、熱くてふわふわした頭では想像もできない。
もし想像できていたら、この場から逃げ出していたに違いなかった――。
今日はエイプリルフールだった。
おとどけカレシのキャストたちも、この日を盛り上げるためにとある企画をすることになっている。
お相手役に選ばれた特別な『恋人』はもちろん――。
***
「……びっくりした?」
落ち着いた余裕のある声に、彼女はこくこくと頷く。
驚きと戸惑いと、それから少しの感動が表情に出ていた。
「今日はエイプリルフールだからね。『おとどけカレシ』じゃなくて『おとどけカノジョ』なんだ。こんな年上の男が女装なんて……恥ずかしいね」
あくまでおとどけカレシとしての態度のまま、壱はそう言ったけれど。
「……え? ポーズ、変かな?」
ポーズに違和感がある、と指摘され、壱は自分の身体を見下ろす。
抱き締めるようにして腕を回し――懸命に詰め物をした胸を強調している。
(だってせっかくの女装だし! アピールしてぇじゃん! 俺のこの巨乳を!)
と、思っていることを彼女は知らない。
ただ、察しているだろうということは顔を見ればすぐに分かった。
「女性の仕草って難しいね。君が教えてくれる?」
(おっぱい強調ポーズってどんなん? どんなん!?)
食い気味になっていることを隠しているつもりでも、隠しきれていない。
その証拠に彼女の目が白けていく。
しかし、彼女も一応『おとどけカレシ』の恋人をやっているだけのことはあった。
壱のどうでもいい妄想もくだらない発想も全部気付かない振りをして、望み通りに女性らしい仕草をしてみせる。
(あっ……待っ……もうちょい……手、邪魔! 邪魔ァ!)
恥じらいを見せてはいるものの、明らかに彼女は壱を挑発していた。
しかも、今は何もできないと分かっていての嫌がらせに近い。
(おまっ……それは卑怯だろ! ばか! ばーか!)
年下なのが悔しいのか、彼女はときどき壱を挑発したり翻弄しようとすることがあった。どうやら今もそのスイッチが入ったらしい。
残念ながら、本人に諸々の経験がないせいで拙さは出てしまっていたが。
「は、はは。そっか、そういう感じなんだね……」
(後で覚えとけよ、ばーーーーか!)
壱の視線がひとところに集中するのを知っていて、彼女はわざと胸元を隠している。
――見えそうで見えない感じもいい、と壱が新たな性癖に目覚めたのはまた別の話だった。
***
壱が家に帰ると彼女は部屋の真ん中にちょこんと座っていた。
仕事終わりの壱に気付くなり、嬉しそうにへらっと笑う。
「お前なー。今日のアレ、俺がなんにもできねぇって知っててやんのずりぃだろ」
昼間の文句を言うと、ふふんと得意げな顔をされる。
そんな彼女の頬を思い切りつついた後、壱はゆっくり肩を寄せた。
「なぁなぁ、壱おねーさん美人だったろ? イメージは美人女教師な! 巨乳の!」
壱が今はもう何もない自分の胸をとんとん叩く。
彼女がそれを真似したせいで、ふよんふよん揺れたのを見逃さなかった。
(巨乳できつめの美人女教師もいいけど、今は天然女子大生のが好きだなー……なんちて)
年下だからなのか、どうも雛鳥のような彼女にほっこりする。
珍しく純粋に彼女をかわいいと思ったのに、壱の本能は正直すぎたらしかった。
視線は当然ふよんふよんに釘付けられている。
そして、彼女はそういう壱の遠慮ない視線に敏感だった。
「んあ? なんだよ、俺がおっぱい見てちゃわりーのかよ。俺に見せねーで誰に見せるんだっつの。揉むぞ、おら」
そう言いながらも、壱はそこまで自分から彼女に触れようとしない。壱にすらある良心というものがいつもほんの少しだけ存在を主張してくるせいだった。
(恋人いたことねーっつってたしな)
壱なりに彼女を大切に想っていて、それこそ親鳥が雛を育てるようにゆっくりゆっくり関係を育んでいっている――のだが。
「おわっ!?」
彼女から壱に攻めの姿勢を見せることは少なくない。
今も勢いよく飛びつかれ、壱はその場にひっくり返った。
「なんだよー、壱おねーさんの美人女教師レッスンしてほしいってか? うふふ、仕方ないわねぇ! そこまで言うならおねーさんがお勉強教えてあ・げ・る。……って、どした?」
いつものように冗談で言ったのに、彼女はそこそこ真剣な顔で頷く。
壱の理想の美人女教師というものを演じてみたい、と。
「俺、そんなことしたら男子学生のピュアな欲望が爆発しちまうけど」
学生じゃないしピュアでもないし、そもそもくだらない欲望はいつも爆発させてるのでは、というツッコミが入る。
それを全て華麗にスルーすると、壱は笑って彼女の頭を撫でてやった。
「お前にゃ向いてねーよ。今のまんまのが好きだし」
なんの裏もない心からの台詞を吐くと、彼女は分かりやすく顔を輝かせる。
いつだって彼女の行動原理はそこにあった。壱に気に入られたい、壱に好きだと思ってもらいたい、壱好みの女でありたい――。
(そういうとこが子供っぽいんだっつの)
そう思っていることは言わない。
言ったら最後、背伸びしようとしてまた余計なことをしでかすのは分かり切っていたからだった――。
今日はエイプリルフールだった。
おとどけカレシのキャストたちも、この日を盛り上げるためにとある企画をすることになっている。
お相手役に選ばれた特別な『恋人』はもちろん――。
***
「こんにちはっ、はるちゃんって呼んでね!」
明るく言った遥の声はいつもより少し高い。
そう、まるで女子のように――。
「ふふふ、驚いちゃった? かわいいでしょ、この服!」
くるりと一回展してみせた遥は、何処からどう見ても女子だった。
今日はエイプリルフールということで『おとどけカレシ』ではなく『おとどけカノジョ』。だから遥はこうして女装している。
――とは知らなかった彼女は、やけに気合いの遥を見てわなわな震えていた。
(あれ、さすがにやりすぎた? そうだよね、女装なんて気持ち悪いよね……。ただでさえクソキモオタなのに、今度は女装に目覚めたのかよってドン引きしてるでしょ……。どうしよ、他のキャストも徹底的に監修したって言ったら喋ってくれなくなりそ――)
かわいい! と想像以上に大きな声が響いた。
驚いた遥は、一瞬女子を演じていたことを忘れる。
「え、えっと……俺……じゃない、私のこと?」
うんうん頷きながら、彼女は遥の周囲をぐるっと回る。
(ええ……なんか思ってた反応と違う……けど、もともとこういう人……だもんね……)
かつて、遥がオタクだとバレたときも彼女は優しかった。偽物の自分を作って騙していたことに怒りもせず、好きなグッズの売り場を教えてくれたのだ。
否定的な遥と違い、基本的に彼女はなんでも肯定する。だからこそ、女装に対しての反応もこの程度で済んでいるのだろう。
嫌われたわけではないとほっとして、すぐに気を取り直す。
「えへへー。髪の毛もウィッグ使ってみたんだぁ! ここ、三つ編みするの大変だったんだよ? でも、妹がいるーってキャストがいてね。すっごい綺麗に編んでくれたの!」
(……なんか熱心に見すぎじゃない? どうしたの? やっぱり気持ち悪くなった? ねぇ、見られてるだけじゃ分かんないよ……! なんか言って……!)
彼女は遥の三つ編みを手に取ったり、服を真剣に観察したり、ただかわいいと思っただけにしては妙に熱が入っていた。
遥というより、遥が身に着けているものに興味を示しているように見える。
(ははは……まぁそうだよね。クソキモオタ女装野郎なんか見てたら目が腐るよね……)
そうなるかもしれないと分かっていても頑張ろうと決めたのは、遥が『美少女』というものに並々ならぬこだわりを持っていたからだった。
本当は男なのだから、無理をして女の子の真似をしなくてもいい。それでも遥は自分を私と呼び、いつもよりちょっとだけ声を高くした。こう見えて仕草もかなり女の子らしさを意識しているし、足も内股気味にしている。
しかし――彼女の意識は遥に向いていない。
(……ちょっと寂しいな、なんて)
そう思っていると悟られるわけにはいかなかった。
今は、仕事中なのだから――。
***
遥が彼女の家に向かうと、昨日までとは様子が違っていた。
「えっと……何、この大量の布の山」
部屋の真ん中には大きなミシン。その周りに散らばる様々な色の布。針やはさみといった道具が床のそこかしこに散らばり、うっかり踏みでもすれば怪我をしかねない。かといって避けて歩こうとすると、型紙を踏みそうになる。
「前から裁縫とか……してたっけ……?」
彼女が疲れた表情をしながら笑う。
説明するのも億劫だったのか、一冊の本を渡してきた。
服飾の本かと思ったのに、違う。
それは、遥が好きなゲームの公式ファンブックだった。
(これ……俺のじゃない)
遥が暗記するほど読んだ跡がこの本には残っていない。となるとこれは彼女の私物ということになる。
だから、大量の付箋があるページにだけ貼られているのだろう。
そのページに描かれているのは、遥がこのゲームの中で最も推しているキャラ、ハルコ。フィギュアもポスターも、公式から出たグッズはすべて所有している。
貼られた付箋には「袖の装飾確認」「背中のこれ、何?」などが書かれていた。
遥はゆっくり部屋の中の惨状と、苦笑している彼女と、そして渡されたファンブックを見る。
「ハルコの服……作ろうとしてたの……?」
サプライズにしたかったんだけど、と言われる。
遥がこのキャラをとても愛しているようだから、服を作ってプレゼントしてみたかったのだと。自分が着てキャラになりきるのではなく、あくまで服だけ渡そうとするあたり、彼女はよく分かっている。
遥が何を好きでも、彼女は応援してくれる。三次元での一番は自分だと分かっているからだろう。
「創作意欲湧いたって……そんな、俺の女装なんか見て張り切らないでよ……」
(あんなに服とか髪を見てたのは、結局俺のためだったってこと……だよね。……なんだ、寂しいなって思う必要なかったじゃん)
彼女が目をこすっている。きっと頑張りすぎて眠くなってしまったのだろう。
それを見て――ぎゅっと抱き締めた。
「一応聞いておくけど、はるちゃんモード……何点だった?」
答えはなかった。
その代わりに、キスが降る。
(百点以上、だったらいいな)
ありがとうの気持ちを込めて、遥もキスを返す。
なんだかズレた二人のオタクカップルは、今日も幸せだった――。
今日はエイプリルフールだった。
おとどけカレシのキャストたちも、この日を盛り上げるためにとある企画をすることになっている。
お相手役に選ばれた特別な『恋人』はもちろん――。
***
「なに、綺麗すぎて見とれちゃった……?」
ふふふ、と妖艶に笑ったのは確かに奈義だった。
彼女は絶句したまま、女装した奈義を見つめる。
「今日はエイプリルフールでしょ? だから『おとどけカレシ』じゃなくて『おとどけカノジョ』なんだって」
(普通に考えて、イカレてる)
内心毒づきながら、こんな奈義にさえぽやーんと見とれる彼女の顔を覗き込んだ。
「でも、君の方がずっとかわいい。どうやったらそんな風になれる? 後で、二人きりになったら……教えて?」
まともに聞いていたのかいないのか、彼女は一拍置いた後にうんうん頷いた。
今日はお姉ちゃん、と呟いたのを奈義の耳は確かに捉えている。
(何がお姉ちゃんだよ、馬鹿か。女装してるだけで、ふっつーに男だっての。ってか、嫌じゃないわけ? 自分の恋人が女装してるってさ。どう考えても頭おかしいじゃん。俺だったら、あんたがいきなり男装したとき――)
そこまで考えて、少し、どきりとしてしまった自分に気付く。
ふわふわお花畑ちゃんの彼女が、いつもとは違う男装――ボーイッシュな格好に身を包み、ちょっとだけきりっとした顔で「奈義くん」なんて呼んだとしたら。
ありかもしれない――とほんの少しでも思ってしまい、唇を噛む。
(こんなふわふわちゃんに男装なんか似合うわけねぇし)
まだぽやーんとしている彼女を見つめ、ふいっと目を逸らす。
(……見たいなんて、思わねぇし)
***
帰るなり、奈義はいつも着ている服を彼女に向かって放り投げた。
彼女は明らかに混乱した様子で、服と奈義とを見つめる。
「それ、着ろよ」
昼間ずっとそうだったように、彼女は目を丸くしたまま奈義を見返している。
「なに、わざわざ理由教えてやらないと、俺の言うことも聞けないわけ? だったらいいよ。あんたじゃない別の女に着せるから」
そう言いながら、放り投げた服を奪おうとする。
思いがけず強い力で引っ張られ、必死に抵抗された。
絶対だめ! と彼女らしくない激しい口調で言われ、こっそり笑ってしまう。
(着せるわけねぇじゃん。俺、潔癖症だぞ)
彼女だから服にも、奈義本人にも触れさせる。
奈義だって彼女にだけは積極的に触れるし、触れたいと常に思っている。
それをよく分かっているはずなのに、今は「別の女に着せる」発言が衝撃的すぎたせいか、すっかり抜け落ちているらしい。
(男装はどうでもいい、けど。俺の服着たらどうなんのかなーって。それだけ。別に深い意味はねぇし、たまにいつもと違う刺激がねぇとだめじゃん。なんつーの、倦怠期とかそういう。飽きるっつーか)
心の中であれこれと言い訳したがるのは奈義の癖だった。
今も彼女に大事なことは告げず、自分の中だけで完結させてしまう。
とはいえ、心の中が彼女に見えてしまっていたら困ったことになっていただろう。どう考えても奈義のそれは「俺の服をあんただけに着せたい、見て愛でたい」という独占欲にも似たわがままだったのだから。
「早く着て。じゃねぇと今日は帰る」
待って待って、と彼女が慌てだす。
いそいそ服を着替え始める姿を、奈義は緩む口元を隠しながら見守った。
「おい、なんでそっち向くんだよ」
下着姿の彼女が背を向けてしまう。
照れた顔まで見せてほしかったのに、それではなんの意味もない。
「いちいち言ってやらなきゃ分かんねぇの?」
意地悪をしている自覚はあった。
あんまりいじめたらかわいそうだろう、とも一応奈義なりに思っている。
やめられないのは、ただひたすら彼女の反応がかわいいから。
「俺に見えるように着替えろ」
後ろから囁いて抱き締める。他の誰か相手だったら、こんなに距離を近付けることすらあり得ない。
びく、と身を強張らせた彼女は動かなかった。
焦れて、振り返らせながら引き寄せる。
そのまま、奈義は彼女を自分の膝の上に乗せてしまった。
「脱がせてほしいんだったら、最初っからそう言えばいいじゃん」
彼女が硬直した理由はそれじゃないと分かっていながら、やっぱり意地悪く言う。
もう脱ぐものなんて下着しかないのに、わざと意識させるよう、指を背中に滑らせた。
「やっぱ、こういうのは女が着るべきだよな」
(……頭ん中ふわっふわの、お姫様みたいな女が)
ふんわりしたスカートを軽くつまんで引っ張る。
微かな衣擦れが奈義を煽るように響いた。
(ま、あんたならどんな格好してても……かわいいよ)
真っ赤になっている彼女の肌に顔を寄せ、いつもは服で隠れた場所に唇を押し当てる。
首筋、鎖骨、そして胸元へ、徐々に甘いキスの回数を重ねていき――。
――その夜、彼女は奈義の服どころか、自分の服さえまともに着ることを許されなかったのだった。
今日はエイプリルフールだった。
おとどけカレシのキャストたちも、この日を盛り上げるためにとある企画をすることになっている。
お相手役に選ばれた特別な『恋人』はもちろん――。
***
「こんにちは、千紘です。……ふふ、なんてね」
雰囲気だけはどこからどう見ても上品なセレブ女性――の千紘に手を取られ、彼女は目を丸くする。
「……ああ、この格好? 驚くよね。僕も企画の話が来た時は驚いたよ。まさかエイプリルフールだからって『おとどけカノジョ』をやらされることになるなんて」
千紘はまだ衝撃が消えていない彼女にゆっくり説明する。
これは今日だけの特別企画。普段『おとどけカレシ』をしているキャストが女装をし、『おとどけカノジョ』として選ばれた『恋人』と接するのだ、と。
「どうしようかな。もっと女性らしい話し方をした方がいい? こんな格好をしていてなりきるのも、逆にシュールな気はするけど……。君がそうしてほしいなら、僕なりに努力してみるよ」
千紘がそう言うと、彼女は難しい顔で考え始める。
(見てみたいけど元の俺を考えると見たくねえような……でもこんな機会またあるか分かんねえし……うーんうーん……。……ってとこだろ?)
勝手に彼女の心の中を想像して、千紘はにこにこ笑う。
(かわいいよなー)
彼女は悩んでいるところまで見ていて飽きない。
だから千紘は、ずっとずっと、彼女が答えを出すまで笑顔で待っていた。
***
仕事が終わると、彼女は少し照れた様子で今日の感想を語り始めた。
「女装姿でエスコートすんのはやっぱ変かー。俺もなんとなくそんな気はしてたんだよなー。でもさ、だからって女っぽくすんのもなんか変じゃん? いやー、まだまだ勉強不足ですなあ」
二人で今日のことを振り返りながら、昼間に行くわけにはいかなかった大衆向けの居酒屋でせっせと食事をする。
いつもお祭りのように賑わっているこの店は、二人のお気に入りの店だった。
「っつっても、女っぽくって難しいよな? あんまお前も女っぽいかって言われると……。あっ、いや、なんでもねえ! 悪い意味じゃなくて!」
焼き鳥を口に運んでいた彼女がきょとんとする。
どうやら食事に夢中でよく聞いていなかったらしい。
(俺の知ってる女ってのとは、なーんか違うんだよなあ。こう……金とか顔とか、そういうのに目ぇ輝かせたりしねえし。キラキラしたもんが好き! とか言わねえし。……あ、でも甘いもんは好きだな。そこは女っぽいや)
「もしお前がおとどけカノジョで俺んとこ来たらどーしよ」
ぽつりと千紘が呟いたのを聞いて、彼女はくすくす笑い出す。
「貢がせる!」とやけに強気に言われ、千紘もつられたように笑った。
「お前だったらほんとに貢いじまうかも。ほーら、いっぱい美味いもん食えよー」
それは餌付けだと思う、と彼女が不満そうな顔をする。
そう言われたところで、彼女が喜ぶものを思い付かなかった。
(アクセサリー……は嫌いってわけじゃねえよな。でも別に好きってことでもねえし、あげたら普通に「ありがとう」で終わっちまう気がする。……って、これ結構真面目に考えなきゃいけないんじゃねえの? 今後、恋人としてやっていくならちゃんとしとかねえと……)
悩み始めた千紘の前で、彼女はごちそうさまと手を合わせる。
気付けば、自然とその頭を撫でてやっていた。
「おとどけカノジョじゃなくても、好きなもんいっぱい買ってやるし、好きなこともいっぱいしてやるからな」
撫でられた彼女がちょっとだけ嬉しそうにする。
それを微笑ましく思っていると、「それなら」と小さな呟きが聞こえた。
「ん?」
はにかんだまま、彼女がしてほしい好きなことを告げる。
――帰りは手を繋いで、家の前でまたねのキスをしてくれたら嬉しい。
聞いた千紘は、撫でていた手を止めた。
代わりに自分の額に手を当て、天を仰ぐ。
(かっわいーーーーーー!)
彼女はそう特別なことを要求したつもりはないらしかった。
この後はそれを叶えてくれるんだろうとわくわくした様子を見せている。
「よし帰ろう。今すぐ帰ろう。秒で帰ろう」
お願いを叶えるために彼女の手を引いて店を出ようとする。
その際、千紘は好きなことを待ちわびている彼女の頬にキスをした。
「またねのキスは今日、無理だ。ごめんな」
一瞬、彼女はその言葉の意味を分かりかねたらしかった。
ぽかんとして――すぐ、顔を赤くする。
またねと言うからには、別れなければならない。
しかし、千紘には今夜彼女を一人で過ごさせるつもりなどないのだった――。
今日はエイプリルフールだった。
おとどけカレシのキャストたちも、この日を盛り上げるためにとある企画をすることになっている。
お相手役に選ばれた特別な『恋人』はもちろん――。
***
「そこのお姉さん、かわいいわねぇ」
声をかけると、彼女がびくっと反応する。
しかし、とても女性には聞こえない低い声と、楽しげな笑みを見て相手が誰なのかを悟ったようだった。
「びっくりした? そ、今日は女装」
大和は自分の身体に目を向ける。
エイプリルフールということで、今日は『おとどけカノジョ』というイベントを行っていた。
キャスト全員が女装し、選ばれた『恋人』に披露するというものだったけれど。
「ふふ、今日は大和じゃなくてヤマ子ちゃんとでも呼んでもらおうかしら」
(頭おかしいんじゃねえの)
心の底からそう言いたいのは我慢する。
一応仕事ということでそれなりの言動をしてはいるものの、大和自身はこのイベントに対して「だるい」「めんどくさい」「気が狂ってる」「誰だ企画したヤツ」と思っていた。
多分、それを彼女も気付いている。
まじまじと大和を見て――ふっと鼻で笑った。
(このクソ女……)
明らかにその顔には「わあ、かわいそう」という哀れみが浮かんでいる。
いつもの彼女だったらそれをそのまま口に出すどころか、そういう趣味があったなんて知らなかった、だの、人の嗜好にあれこれ言うつもりはないから気にしないで、だの、大和の神経を逆撫でするようなことばかり言うのだが、今日は違っていた。
それはもちろん、今が『おとどけカレシ』の仕事中だからだろう。
言いたいことを全部押さえ込んで目で語るのは、大和も同じだった。
(やりたくてやってるわけじゃねえからな)
苛立っているのは極限まで隠しきる。
表面上は穏やかに二人は手を握って歩き出した。
――にやにやすんな、といつもより力を込めて。
***
帰宅するなり、大和は玄関で彼女を壁に押し付けた。
「朝から晩までアホ面晒しやがって」
昼間とは違い、きっちり男に戻った大和が彼女を睨みつける。
彼女はというと、大和を見上げたまま不思議そうに首を傾げ、あろうことかこのタイミングで「ヤマ子ちゃん」と呼んだ。
そのたった一言のせいで、ここまで我慢してきた大和にとうとう限界が来る。
「もういいわ。ぜってえ泣かす」
押さえ込んだまま顎を掴み、半ば強引に唇を塞ぐ。
驚いた彼女が肩を叩いてきたのは無視して、そのまま深く深く口付けた。
だんだんその抵抗が弱くなっていく。
肩を叩く手は大和の胸元へ移動し、すがるようにぎゅっと襟を掴んでいた。
(そろそろ、か)
そう判断して解放してやると、思った通り彼女はくたりと大和の胸に倒れ込んでくる。
「生意気言うからだ、バカ女」
ひどいと言った彼女に、もう一度だけキスをする。
膝に力が入っていないのを知りながら、その場に放置してさっさと部屋の中へ向かった。
振り返りつつ、鼻で笑う。
「キスぐらいで立てなくなるとか、今更うぶな振りしてんじゃねーよ。俺はそういう手に乗らねえから」
しゃがみ込んでしまった彼女に向けて言いながら、視線を前に戻す。
そして、口元を軽く押さえた。
(……まだ俺にキスされてあんなんなるのかよ)
大和としては手加減したつもりだった。
それなのに、と軽く唇を噛む。
(……この後、手ぇ出しづれえじゃん)
今日はずっと彼女に対して『おとどけカノジョ』を演じ続けていた。
普段ならもっと触れられる場面で抑え、極限まで『カノジョ』らしく友人のように接してきた。
だからこそ――あんなキスをしてしまった。
一日中ずっとずっと側にいたのに、何もできなかったフラストレーションが溜まりすぎて。
面白がる彼女を見続けるのが嫌だったのは、馬鹿にされていると感じていたからではない。かわいいと思ってしまっても、キスをできないのが嫌だったから――。
(二度とあんなめんどくせえことするか)
まだ彼女は玄関でへたりこんでいる。
渋々迎えに行った大和は、手を伸ばしてきた彼女を抱えて部屋に運んでやったのだった。
今日はエイプリルフールだった。
おとどけカレシのキャストたちも、この日を盛り上げるためにとある企画をすることになっている。
お相手役に選ばれた特別な『恋人』はもちろん――。
***
(こら!)
女装姿の葵を見て、彼女は必死に笑いをこらえていた。
はたから見ればうつむいて照れているようにも見える。
しかし、側にいる葵にはよく分かっていた。彼女が肩を震わせ、口を手で覆っていることを。
(ここは笑うとこじゃねーっつの! ってか、笑いすぎ!)
葵までつられて一緒に笑いそうだった。
ここでいつものように笑ってしまえば、後で桜川から何を言われてしまうか分からない。明日の陽の目すら拝めない可能性があった。
「あの、ね……? 今日はエイプリルフールだから……女装、しなきゃいけないんだって……。……どう、かな」
『おとどけカノジョ』としての葵の設定は、『おとどけカレシ』のときと変わらない。方言は控える、大きな声を出さない、息継ぎなしに喋り続けない。ゲームの話なんてもってのほか。
もしするとしたら――と考え、葵はふふっと笑った。
「今の俺……私……? は、お花が似合う女の子に見えてる?」
葵なりにきちんと仕事をこなしたつもりだった。
なのに、彼女は思い切り噴き出してその場にしゃがんでしまう。
(こーら!)
「どうしたの? お腹痛い……?」
心配する振りをしながら、すぐ側に座る。
そして、彼女の耳元に顔を寄せた。
周りに聞こえないよう、極限まで声を抑える。
「笑っちゃだめだべよ! あんたがそーた笑ってたら、何かと思われんべ!」
今、その言葉遣いは卑怯だ――とまた彼女は笑う。
(ああ、もう! 俺、そんな女装似合わねぇか!?)
もしそれを口に出していたら、『そうじゃない』と突っ込まれていたのは確実だった。
彼女の笑いの発作が落ち着くまで、葵は隣でしゃがんだまま、その背中を撫で続ける。
何も知らない人間が見れば、微笑ましい女の子同士のやり取り――に、見えたかもしれない。
***
「はい、そこ座って!」
家にて二人きりになると、葵はわざと怒った顔をして彼女を座らせた。
彼女はまだ思い出し笑いをしながら、葵の言った通りに座る。
「今日の反省会! はい、はなぽんさん! 何かありませんか! ――ん?」
ぷるぷる震える手が葵の髪に伸びる。
そこには、まだ昼間『おとどけカノジョ』だったときに付けた花の髪飾りがあった。
「あっ、はずすの忘れてた」
それがまたツボに入った彼女は、反省会だと言っているのにまた笑ってしまう。
(まぁ、もう仕事終わったしいっか!)
もともと葵はいつまでも深く考えるタチではない。
あっさり気持ちを切り替えると、はずしたばかりの髪飾りを彼女の頭に乗せた。
「やっぱさ、そういうのはあんたのが似合う。俺じゃ、タンポポ乗っけた刺身みたいだもんなぁ」
さっきまでは彼女一人で笑っていたのに、今は葵も一緒になって笑う。
本当は昼間にずっとそうしたかったのを、この瞬間まで我慢していただけ偉いだろう。
「なんかさ、感想ねぇの? 葵ちゃんかわいすぎるべ! みたいな」
速攻で首を横に振られる。
どうやらかわいいとは思わなかったらしい。彼女にとっては、ただただ面白い代物でしかなかったようだ。
(俺はあんたのこと、いっつもかわいいって思ってんのになー……)
かわいいと言われたいかはともかく、褒め言葉もなく笑われ続けるのはなんとなく残念だった。
自然と唇を尖らせていた葵を見て、彼女はすぐその心に気付く。
何もしていない自然体の葵が一番好きだと、優しく手を握りながら言った。
「……そう? 今の俺が一番好き?」
さっきは首を横に振られてしまった。
しかし、今は大きく縦に振られる。
「そっかぁ。俺もあんたが一番好き! 女装で着た服もさ、あんたが着たら似合うんじゃねぇかってずっと思ってた。あんまりああいう格好しねぇよな? 今度、一緒に服買いに行こ? そんでそんで、花見とかすんの! この時期ならまだ間に合うべ? あ、早くしねぇと梅雨が来ちまうな。花見の計画、早く立てねぇと!」
(手作り弁当とかおねだりしていいかなー。からあげいっぱい入れてもらお! 俺もなんか手伝えればいいけど、やれることっつったら寿司握るくらいだもんな。……あ、ちらし寿司作る? それなら俺もできる!)
脳内であれこれとしたいことが浮かんでいく。
そんな葵を見ていた彼女が、あ、と小さく声をあげた。
「ん? どした?」
急に顔を曇らせたのを見て心配になる。
てっきり嫌なことでもあったのかと思いきや、「エイプリルフールなのに嘘をつけなかった」と文句を言われてしまった。
「そしたら、来年なんか嘘ついたらいいべ。俺がびっくりするよーなやつ!」
うん、と頷いた彼女が、今日一日で一番優しい笑みを浮かべた。
葵がその笑みに見とれていると、楽しそうに口を開く。
「……あー、確かに、そっか。もう俺たち、来年の話もできるんだなー……」
昔は七日間の期限があった。その先なんて二人の間にはないはずだったのに、ちょっぴり自分の気持ちを押し通したおかげで幸せな未来を手に入れられている。
「そんじゃさ、その次も、もっとその次の次の次も嘘つこ? 相手が本気で信じる嘘ついた方が負けな! 今年は引き分けだから……来年から勝負すんべ!」
約束を交わして、今のうちから面白そうな――それでいて誰も傷つかない優しい嘘を考えてみる。
実際にどんな嘘をつき合うことになるのか、それは来年にならないと分からない――。
今日はエイプリルフールだった。
おとどけカレシのキャストたちも、この日を盛り上げるためにとある企画をすることになっている。
お相手役に選ばれた特別な『恋人』はもちろん――。
***
「この俺がお前のためにこんな格好してやってるんだ。喜べよ」
彼女は長身の海斗をひたすら見上げていた。
今日だけは女装した、いつもと違う姿の海斗を。
(ひええ……絶対引かれてる……)
エイプリルフールということで、今日は『おとどけカノジョ』になりきっている。服はきっちり女性のもの。海斗は体格が体格だけに、着る服を選ぶのが大変だった。
(……あっ、もしかして、俺って言っちゃだめかな? でも……私って言ったら変じゃない? すごい偉そうじゃない……?)
俺様――女装中は女王様なのだろうか――になるなら、偉そうに見えるのが正しいはずだった。
演じている俺様ですら、心の中ではびくびくしながらの海斗にとって、更に余計な属性を足すのはなかなか難しい。
「はっ、お前なんかより俺の方がよっぽど美人に見えてたりしてな。ちょっとは見習って女らしい格好してみたらどうだ?」
(そんなこと思ってないよ! いつもかわいい服だなって思ってるから……!)
せめて本心が伝わるよう、じっと彼女を見つめて念じる。
彼女は本人の性格を表すようにいつもシンプルな服を好んで着ていた。女の子らしい、と言われると確かに怪しいが、ぴったりした服は彼女の女性的なラインをさりげなく見せている。
すらりとしたその身体が、触れると意外に柔らかいことを海斗は知っている。
(……こんなこと考えてるって思われたら、そっちの方が引かれちゃうかな)
海斗は彼女が大好きだった。
だから、彼女のことはどんな小さなことでも記憶している。
柔らかさも、香りも、それこそ絹のような手触りも。
(わー……変態みたいだねぇ……)
昨夜のことまでうっかり思い出してしまい、今は仕事中だと急いで意識を現実に戻す。
「そうだ、エイプリルフールだって言うなら、なんか嘘の一つでもつかなきゃならねぇな」
彼女はどうぞとばかりに海斗の言葉を待っている。
かつてはその真っ直ぐ見つめてくる瞳が怖くて、少し苦手だった。
今はその目に見つめられるのが嬉しくてならない。
「今日はお前につかせてやるよ。俺を驚かせるような嘘、言ってみな」
じっと彼女が海斗を見つめる。
そしてついた嘘は――。
***
――部屋の隅で、海斗は膝を抱えてしょんぼりしていた。
その隣に寄り添った彼女が笑っている。
「ひどいよ……。あのタイミングで好きって言うなんて……」
エイプリルフールだから嘘をついてみろ、と海斗は言った。
それに対しての答えが「海斗くん、大好き」だとは思いもせず。
(嘘だったら、俺なんか大嫌いってことになる。本当だったら嬉しいけど、仕事中なのに言うはずないし……。……うう、でも仕事中だからああやって言うのは普通……? 分からないよー……)
いつもするように彼女は海斗の頭を撫でていた。
そうされると悔しいのに、今はそれが海斗の心を落ち着かせてくれる。
しばらくしょんぼりし続けていると、やがて彼女は海斗が抱えていた膝を割った。間に入り込み、うつむいていた顔を両手で挟む。
ついばむだけのキスは一回だけ。
どんな言葉よりも分かりやすい「好き」の気持ちが海斗に伝わってくる。
「……女装するような恋人でも、好き?」
似合ってなかった、と彼女ははっきり言い切った。
(似合ってるって言われたくなかったけど、そこまできっぱり言われるのも複雑だよ……)
一度は浮上しかけた気持ちがまた沈んでいきそうになる。
しゅんとしかけた時、海斗は彼女が少し頬を赤らめていることに気付いた。
「……どうかした?」
彼女は言う。
海斗が選んだ服は、俺様を演じようと思った時のように海斗の理想のものなのか、と。
(どう……だろう……。好きな服にしろって言われて、まず着られるサイズから考えて……。ええっと……)
「……理想、なのかな。自分でもよく分からなくて」
ふむ、と彼女が考え込んだ様子を見せる。
「どうしてそんなこと聞くの?」
彼女はくすぐったそうにはにかんだまま、照れ隠しするようにこつんと海斗の額をつついた。
「……え」
いつもだったらはっきり話す彼女の声が、今は珍しく小さい。
「今度から、ああいうの着てくれるの……? ほんとに……?」
てっきり、彼女は似合わない女装と苦手な俺様を演じる自分を面白がっているだけなのだと思っていた。それ以外の感想などないと思っていたし、そもそも嘘か本当か分からない「大好き」の言葉で頭をぐるぐるさせていたけれど。
(そんな所、見てたんだ)
彼女は海斗の知らない海斗を見てくれる。
無意識に選んだあの服が、もし海斗の理想なのだとしたら――。
「……ねぇ、ちゃんと確かめていい? 昼間の大好きって言葉、あれは嘘? それとも本当?」
そんな好意を示されたら、海斗だって返したくなる。
そのためには彼女の本当の気持ちを教えてほしかった。
だから聞いたのに、またこつんとつつかれる。
なんで嘘だと思うんだ、と彼女はむっとしていた。
「う……。だ、だって嫌いだったらどうしようかと――んむっ」
肩を押されて後ろにひっくり返る。
それとほぼ同時にキスされてしまえば、やめてと声を出すこともできなかった。
(女装なんてしたから押し倒されるのかな……)
好きに決まっていると何度もキスしてくる彼女の髪を撫でてみる。
手を滑らせて、頬も触ってみた。
首筋もくすぐり、そのまま服のボタンを一つ外してしまう。
「あのね」
そう告げて――彼女が逃げられないよう、腰を掴む。
「俺、男だよ」
次にキスをするのは海斗の番だった。
彼女には抵抗の隙も逃げる隙も与えない。
昼間に女装を笑われた分、自分がどういう男なのか、きっちり教えることにする――。
今日はエイプリルフールだった。
おとどけカレシのキャストたちも、この日を盛り上げるためにとある企画をすることになっている。
お相手役に選ばれた特別な『恋人』はもちろん――。
***
(ふっざけんな、桜川の野郎)
ぽかん、と目を丸くする彼女の前で、仁は内心口汚く桜川を罵っていた。
しかし一切顔に出さない。
それどころか、いつも以上の王子様スマイルを見せている。
「今日はエイプリルフールだからね。『おとどけカノジョ』……ってことで、キャスト全員女装してるんだ……はは……」
何があるかを彼女には言っていなかった。
言えるはずがない。女装して今日を過ごすことなど。
(『仁さんは女装姿も素敵なんですね!』って顔してんじゃねぇぞ……)
似合っているなど、自分ではこれっぽっちも思っていない。同じキャストたちからは「さすがナンバーワンだべ!」だの、「バストが足りてねぇ! やり直し!」だの、なんとも言えない感想をもらってはいたが。
彼女は、ただひたすら穴が開くほど仁を見つめていた。
いつもと違ってすぐ照れたように目を逸らさないのは、やはり女装だからなのだろう。
「……ん? どうかした?」
きょろきょろ辺りを見回してから、彼女が仁をそっと手招きする。
(他の奴には聞かれたくねー話ってわけか。余計なこと言わせる前に、さっさと口塞いじまった方が――)
そう思いつつも、彼女が話しやすいよう少し屈んで耳を寄せる。こそこそ小さな声が鼓膜をくすぐった。
(『お姫様みたいだけど、やっぱり本性はヤンキーなんですか』じゃねぇだろうが……! そこか!? 仮にも恋人が女装して感想がそれなのか!? いや、かわいいとか綺麗とか言われても嬉しくねぇけど!)
「は……はは……どうだろうね……」
曖昧に答え、仁はゆっくり深呼吸する。
(泣いても笑っても今日の俺は『おとどけカノジョ』だ。プロの本気を見せてやろうじゃねぇか)
「『おとどけカノジョ』の本性を知ってるのは、もちろん今日を一緒に過ごせる君だけ。……楽しみにしてて?」
***
――家に帰ると、彼女は仁が引くほど興奮状態にあった。
理由はもちろん、昼間の『おとどけカノジョ』である。
普段の『おとどけカレシ』でいるときと同じように、仁はそれはもう完璧なお姫様を演じきった。一瞬本当に男なのかと疑う気遣いの数々に、彼女は途中で「友達とデートしてるみたい」と呟いたほどだった。
仁にとっては完璧な仕事を示す称賛だったが、彼女にとっては違ったらしい。
誰の目もなくなったのをいいことに「かわいいと思ったのが悔しい」「ちゃん付けで呼びそうになった」等々、ずっと文句を言っている。
あまり文句に聞こえないのは、言い方を変えれば全部褒め言葉にしかならないからだろう。
「わーった、分かった。もうよーく分かった。『元暴走族は女子力も暴走するのか』って意味分かんねぇよ。俺はただ仕事で――」
彼女が勢いをつけて仁の唇を奪う。
さすがに言葉を失った仁をまじまじと見上げ、どこか満足そうに頷いた。
よかった、男の人だ、と呟いて。
「……俺が女になったら困んのか?」
声のトーンが若干変わったことに、彼女だけが気付かない。
当たり前だとなぜか得意げに言うその鼻をつまんで黙らせる。
むっと顔をしかめて抵抗した後、彼女はぺたぺたと仁の身体を撫で回し始めた。
服に隠れたその部分がきちんと男性のもので、いつもの仁だということを確かめているらしい。
(こうなったらどうなるか、いい加減分かるだろ)
もちろん、手を出そうとする。
ここにいるのは本物の男なのだと分からせようとして――。
「――っ、は!?」
仁が行動に出るより早く、彼女の方から服を脱がせようとしてくる。
これではいつもとパターンが違う。襲われてうろたえる彼女を見るはずが、どうしてこんなことになっているのか。
ベルトにまで手をかけられた仁は、らしくなく余裕をなくす羽目になった。
「おい、やめろ! バカ、何やって……」
あまり本気で抵抗するわけにもいかず、シャツを奪われてしまう。
そのまま、仁はソファに押し倒された。
ぎしりという音を押し倒される側として聞くと、なんとも危ない何かを感じる。
しかも彼女は目の前で大胆に自分の服を脱ぎ捨てた。
(ったく……。俺を襲うような女、お前だけだぞ)
それならそれで、と落ち着きを取り戻す。
「お前の好きにはさせてやら――」
反撃に出ようとした瞬間、更なる行動に出た彼女を見て、仁は頭を抱えたくなった。
「……あのな」
非常に満足そうな顔で――彼女は仁のシャツを着ていた。
身体のサイズが違うせいで袖がだぼだぼになってしまっている。
突拍子もないことをした理由は、仁が聞く前に彼女が自分から語った。
「……ああ、そうかよ。俺が女装したから、今度はお前が男装な……うん、そうか……」
(クソ、なんで振り回されなきゃならねーんだ……)
予想の斜め上すぎて、さすがの仁も思考が停止した。
仁のシャツを着ていい気分になっている彼女を、半裸のまま抱き締める。
「着るなら俺の服だけにしとけよ。好きなだけ貸してやるから」
理性を抑えつつ囁いてやると、彼女は少し首を傾げる。
そして、さっきの仕返しとでも言うように仁の鼻をつまんだ。
――たばこくさい服はやだ。
そんな文句と一緒に。
(こ、の……女……っ)
彼女は知らない。
そうやって嫌がるから、以前よりかなりたばこの本数を減らしたことを。
風呂上がりに「仁さんいいにおい」とくっついてくるのがかわいらしくて、あれこれにおいには気を遣っていることを――。
(……後で覚えとけよ)
いつまでも好き勝手振り回され、言いなりになっている仁ではない。
どんな復讐が待っているのか、それを知っているのはやっぱり『選ばれた恋人』だけなのだった。
一年に一度のエイプリルフール。
『おとどけカレシ』は『おとどけカノジョ』に。
あまり似合わない女装をして頑張った――のだけれど。
***
「いい仕事したー!」
爽やかと言っていいかはともかく、顔だけはいい三人組が気持ちのいい汗を拭いながら満面の笑みを浮かべる。
その背後にずらりと並んでいるのは、昨日までは確かになかったパネルだった。
描かれている八人の美少女たちは、なんとなく既視感のある女性ばかり。
「おい」
満足げな三人に向かって、地を這うようなドスの利いた声がする。
既に現役を退いたはずの暴走族総長の声だった。
「この三馬鹿……綺麗にハモってんじゃねーぞ、コラ」
三馬鹿――もとい、千紘、葵、壱の三人が意味もなく寝る間を惜しんで作ったのは『おとどけカレシ』のキャストが本当に女性だったら、というのをテーマにした等身大パネル。
「仁さん仁さん、これすごくね? 俺、仁子ちゃんのこと、ナンバーワン美少女にしましたよ!」
「ちっひーが俺……じゃねぇ、壱子ちゃん巨乳にしてくれたんだよ! 見ろ! この盛り方……っ! 個人的にはもっとばいんばいんのぽよんぽよんでもいいけどなっ」
「いやー、ほんっといい仕事したなー。このパネル持ってパレードしてえわ。祭りだわっしょい! っつって!」
とんでもなくどうでもいい仕事に対し、仁が指を鳴らし始める。
更にその後ろには鬼のような形相の桜川の姿があった。
「また、お前らか」
そのたったひと言だけで、近くにいた海斗が涙目になる。
「さっ、さささ桜川さんんん」
今、仁と桜川に近付くのは非常にまずい。
命の危険すら感じ、海斗はいつものように遥のもとへ逃げようとした。
しかし――。
「ちっがぁぁぁぁぁう!」
パネルを眺めていた遥が本気の叫びを聞かせる。
びくっとした海斗がその場にへたり込んだ。
「あのさあ! ぜんっぜん分かってない! これ、俺だよね? 便宜上遥子ちゃんとするけど! 俺モチーフならもっと小悪魔っぽさを出すべきでしょ? 小悪魔って分かってる? これじゃただのあざとい系年下少女じゃん! 小悪魔っていうのはもっと、裏で舌ペロって出してるようなあの腹黒さが顔に出てなきゃだめなの! 分かるかなぁ!? それでいてほどよく憎めない感じのかわいさが必要なわけ! いい!? あざとさはスパイス! これじゃあざとさ山盛りすぎてぜんっぜんだめ! やり直し! あああああもう! 美少女ゲーの小悪魔勉強してきてよ!」
「ひええ」
頼みの綱の遥でさえ、狂った三馬鹿に毒されてしまったらしい。
「そ……そこなんだ……?」
それしか言えなかった海斗は、まだまだ語り足りない遥の餌食となった。
そうしている間に、三馬鹿はきっちり仁と桜川に締められる。
正座させられた三人は、全員唇を尖らせて不満を露わにしていた。
それを呆れた様子で見ていたのは奈義と大和の二人。
がみがみ言われ続ける三人の背後にあるパネルを指差し、淡々と会話する。
「なぁ、あのパネル割っていい? あんなのが俺だと思われんのめんどくせえ」
「俺だって女になんの嫌だわ。割るならなるべく細かくやって。加勢するし」
「待っ、割るなよ!」
全ての努力を無に帰そうとする二人に、いち早く反応した千紘が立ち上がりかけるものの。
「おい、誰が動いていいっつった」
「ひっ」
ぱき、と指を鳴らしながら仁に言われ、千紘の隣にいた葵が息を呑む。
「だってさ、だってさ。エイプリルフールに女装っつったら、やっぱちゃんと女の子のやつも必要だべ……?」
「てめぇ、まだ説教が足りねぇのか」
「仁子ちゃん、短気ぃー。ちょべりばー」
「真中。お前、年代が違うのバレるぞ」
「えっ、うっそ!? 今の子ちょべりばって言わねえの!?」
桜川にも通じている――のはともかく、遥には分からないネタである。
その遥本人はなぜか海斗に対して『理想のカノジョ』とは何かを語り続けていた。
何も悪いことをしていない海斗まで正座して、えぐえぐ涙を呑んでいる。
「誰から割る?」
「奈義子」
「そんじゃ、次ヤマ子な」
騒々しい中でも冷静な二人はブレない。
既にパネルに手をかけ、真っ二つに折ろうとしている。
「お、応募者全員サービスに取っといたらいいべ! そしたら割らなくても……!」
「壱子のおっぱいだけは! おっぱいだけは許してください!」
「頑張って作ったのにいいいいい」
「うるせえ! ガタガタ騒ぐな!」
「あのねえ、海斗くん! そもそも美少女っていうのは……」
「もう分かったよぉ。家に帰してよ……」
阿鼻叫喚の中、説教の怒号と遥の美少女語りが混ざり合って混沌とする。
つまるところ、エイプリルフールだろうとなんだろうと、おとどけカレシたちはいつもと変わらないのだった――。
――ああ、なんてものを見てしまったんだろう。
そんな衝撃と共に毛布の中でしゃくりあげる声を抑える。
こうなってしまったのはほんの少し前。
仕事終わりの葵を迎えに行った時のことだった――。
***
「あ、いや、えっ? ち、ちげぇ!」
店の前で見知らぬ女性に抱き締められた葵が悲鳴に近い声を上げる。
何がどう違うのか、その様子からは判断できない。
女性はぴったり葵に密着しており、どこからどう見ても恋人にしか見えなかった。
「ちょっ、あ、あんたもいつまでくっついて――」
もう、見ていられなかった。
葵が自分を裏切ることはないと分かっていても、目の前の光景が衝撃的すぎて。
「……あっ」
本当はそうやって抱き締めるのは自分だった。
今日もお疲れ、と声をかけたかった。
一緒に手を繋いで帰りながら、今夜やる予定のゲームについて話したかった。
葵と二人きりでしたいことが数えきれないくらいあったのに。
「待っ……」
背を向けて思い切り走り出すと、葵の声はすぐに遠ざかってしまう。
――つ、と頬を熱いものが流れていった。
違う、と言いたいのはこちらの方。
葵が他の女性と通じることなんてありえない。
だってたくさん好きだと言ってくれたから。
疑っているわけではないのに、どうしても――あの女性が頭から消えなかった。
葵を見つめるあの眼差しを、自分はよく知っている。
かつて――今も、鏡を覗けばいつでも見られる眼差しだ。
あれは恋をしている人の目だった。
対照的に浮かんでいた葵の表情は戸惑い。
絶対に違うときっぱり断言できるのに、こんなにも心が痛い理由は一つしかない。
――葵の良さに気付くのは、自分だけだと思っていた。
以前、葵はお喋りで方言のきつい自分をみんなは避けたのだと話してくれた。だからもう一人の甘えん坊であまり喋らない静かな自分を演じたのだ、と。
そしてどちらの葵も受け入れたある意味で奇特な女性は自分だけのはずだった。
それなのに、どうだろう。
あの女性は働いている姿の葵に抱き着いていた。ひっきりなしに喋り続けた挙句、雇っているバイトにまで「店長、黙らなくていいんですか」と言われる始末の葵に。
たまに翻訳を求められるぐらいばりばりの訛りを使いこなす、あの葵に――。
***
そして話は冒頭に戻る。
なんてものを見てしまったんだろう、と抱えた膝に顔を埋めた。
頭からすっぽり毛布をかぶっているのは、きっと追いかけてくるだろう葵に泣いている所を見られたくなかったから。
葵が裏切ったと思って悲しいのではない。
とうとう自分以外の人間も葵の素敵な部分に気付いてしまったのが悲しい。
そして、そんなある種歪んだ独占欲を抱いてしまっていた自分が恐ろしい。
どろどろした気持ちは、女性の顔を思い出せなくても消えてくれなかった。
――自分は、よく知っている。
葵がとても優しくて、一途で、恋人想いで、愛情深い人だということを。
そのとても素敵な内面は、賑やかすぎる一面に隠されている。だから今まで誰も気付かなかった。だけど、これからはどうなってしまうというのか。
ぎゅうう、と強く自分の手を握りしめる。
葵の良さを知ってもらえるなら、こんなに嬉しいことはないはずだった。
自分を押し殺してきた分、受け入れてもらえたと分かれば葵も喜ぶだろう。その笑顔を隣で見たい、と心から思う。
同じくらい、あの笑顔を独占したい。
本当の葵を知ったら誰でも好きになるに決まっているから、誰も知らないままでいてほしい――。
身勝手すぎる汚い自分の思いが本当に情けなくて、葵に申し訳なくて。
また、頬を涙が伝った。
「……っ、鍵! 開いたままじゃねーか!」
どたばた騒がしい音と共に葵の声が聞こえる。
来て欲しかったのに、今は来ないで欲しい。やっぱりわがままな気持ちがいっぱいになって、目の前で足音が止まっても毛布から顔を出せなかった。
「……なあ」
葵が声をかけてくる。
だけど、返事ができない。
「ごめん。さっきの……なんでもねぇんだ。あの子に告白されたのはほんとなんだけど、ちゃんと断って……。でも、その、いきなり抱き着かれちまって……」
葵がそうすることぐらい誰よりもよく知っている。
謝る必要なんてこれっぽちもないんだと、喉まで出かかっていたのに、声は嗚咽になってしまった。
「……俺が好きなの、あんただけだよ。あんただけ、うんと好きだよ……」
葵の手が毛布にかかる。
一瞬、身体を強張らせたけれど――葵は毛布ごと抱き締めてくれた。
「ごめんな、泣いてるんだよな……。分かるよ。なぁ、俺どうしたらいい? あんたの笑ってるとこ見てぇのに、今、どうすればいいのか思いつかねぇんだ。こーた情けねぇことしか言えねぇなんて、彼氏失格だべな……」
毛布の中から顔を出さないまま、葵にしがみつく。
そのまま、我慢していたものをとうとう吐き出した。
「……うん、うん。……うん」
葵はゆっくり、ちゃんと話を聞いてくれていた。
その優しさに甘えて、自分の汚い心も全部さらけ出してしまう。
「……あはは。あんた、ズレてんなぁ……」
ちょっぴり笑った声が聞こえる。
「よーく考えてみ、はなぽんさん。お喋りで訛ってる俺でもいいって子は、これからいくらでも会えると思う。でもさ、深夜までゲーム付き合って、デートもゲーセンでいいって言ってくれる子はあんたしかいねぇと思うんだ。……そんな子もまだいるだろって? そんじゃ言うけど、俺は俺よりゲーマーな女の子じゃなきゃやだよ。どんだけ練習しても一回も勝たせてくれねぇような、ちっとも容赦してくれねぇ意地悪な子がいい」
ついいつもの癖で、誰が意地悪だと突っ込んでしまった。
それと同時に毛布から顔を出してしまい、葵と目が合う。
「……あ」
分かりやすくほっとされた。
涙に濡れた頬をそっと撫でられる。
「笑わせるって決めたのに。泣かせちまったな」
首を横に振って、葵は悪くないのだと伝える。
深呼吸するとだいぶ気持ちも落ち着いた。言いたかったことを全部伝えたからかもしれない。
葵がした以上の謝罪をして、邪魔な毛布を横にどける。
きちんと座り直してから――なんとか、笑った。
「ばっかだなぁ。無理して笑ってるって、俺が気付かねぇと思ってんの。……いいんだよ、泣きてぇならいっぱい泣きな。……その、俺の胸でよかったら貸すけど」
言い切られる前に、改めてその胸の中に飛び込む。
いつもは葵の方が甘えてくるのに、今日は逆だった。
「今日の俺、頼り甲斐ある? ……あ、でも泣かせたのも俺だからやっぱだめ?」
笑った葵につられて、一緒に笑ってしまう。
今度は無理をしていない普通の笑顔になったはずだった。
その証拠に、葵の笑みが深まる。
「ん、元気なった?」
頷いて、ほんのちょっとだけ顔を上げる。
「心配しなくてもさ。俺、あんたしか見えてねぇよ」
近かった距離がもっと縮まって、そっと唇が触れ合った。
「……なに、仲直りのキス? へへ、そんならあと三回くらいちゅーして」
葵も徐々にいつものペースを取り戻す。三回と言わず、五回くらいキスしておいた。
お互いそんな時間を恥ずかしく感じ始めた頃、そういえばと大切なことを思い出す。
そもそもどうして今日は葵のもとへ向かおうとしていたのか。
それは、たまたま見た花を渡したいと思ったからだった。
脇に置いてあったビニール袋を引き寄せ、中の花を取り出す。
そして、目を丸くした葵に手渡した。
「んっと、これ……鈴蘭?」
違う、と答える。
よく似ているし、ある意味名前も似ているけれど、これは別の花だった。
花の名前を伝えると、大袈裟なくらい大きく頷かれる。
「鈴蘭水仙……って、ああ! スノーフレークってやつだべ? こないだ教えてくれたの、ちゃんと覚えてっかんな。ふふん、花言葉だってあん時に聞いたの覚えてたもんね。あれだろ、『純潔』だっけ? ……っははー! そっかそっか、俺が仕事中、白い割烹着着てるからって? あんた、考えること単純だなー。ってか、そもそも男に花は贈らねぇべ! 俺が贈るもんだと思うんだけど! あんたの方がこの花、よく似合いそうだし」
それはありえないときっぱり言っておく。
『純潔』の花言葉にふさわしい綺麗な心じゃないことは、既に伝えたはずだった。醜い独占欲でいっぱいの、どろどろしたものを抱えているんだと言ったはずなのに。
「あんたの心は綺麗だよ。だって独占欲って俺のことが好きだからだべ? そんな真っ直ぐ好きだっつってくれる人の心が、なんできたねぇんだよ。他の誰がきたねぇっつっても、俺には綺麗に見えてる。ってか、俺にしか綺麗に見えてほしくねぇ」
こつ、と葵が額を重ねてくる。
焦点が合わないほど近くで、その表情が笑みに変わった。
「これもさ、独占欲じゃねぇかな?」
素直に頷くか悩んでいると、葵に頭を掴まれて強制的に頷かされてしまう。
「あんたが花を贈りたいって思うのは俺だけ。俺が花をもらいたいって思う相手はあんただけ。やっぱ似た者カップルなんだなー」
そうかなあ、と笑って返せるだけの余裕を今はもう手に入れている。
ただ――不意打ちのキスに反応する余裕はなかった。
「これ渡すってことは、一生私だけ見ててーってことだべ?」
はにかんだ葵のキスが、もう一回落ちる。
「俺の中はもうあんたでいっぱいなんだって、改めて教えっからさ。あんたも、俺のことだけ一生見てな」
さっき横に追いやったはずの毛布が床に敷かれる。
――おかげで、その後背中と腰が痛くなる羽目にはならなかった。
誕生日当日、遥たちは普段なら寄り付きもしない高級ホテルに来ていた。
「夜景がすごいね。おとどけカレシやってる時にも、こういう場所ってあんまり来なかったんだけど」
最上階のレストランから、二人して夜景を眺める。
テーブルにはフレンチのフルコース。グラスに注がれたワインが光を透かしていた。
彼女が不意に食事の手を止める。
その顔には若干の戸惑いが浮かんでいた。
「……あはは、やっぱり……変?」
誕生日にも関わらず、こんな時間を用意したのは遥の方だった。
最初は彼女が一日の予定を立てようとしたのに、敢えて自分からこうしたいと願い出たのだ。
その理由は、たった一つだけ。
(今日、俺は君に一歳だけ近付いたよ。またすぐ離れちゃうかもしれないけど……)
年下の遥と年上の彼女と。それを嫌だと思ったことは一度もない。
かわいいと言われるのも嬉しかったし、甘やかされるのだって嬉しい。遥はそんな扱いを受け入れていて、彼女もそれをよくわかっている。
だから、と遥は考えていた。
たまにはちょっぴり違う自分を見せて、もっともっと好きになってもらいたい、と。
(君は俺のいろんな姿を知ってる。今夜も、こんな陽向遥がいるんだって知ってほしいよ。……だけど)
彼女と見つめ合う。
遥らしくない時間をどう受け止めればいいか、わかりかねているように見えた。
「変だとかおかしいとか、ちょっと気持ち悪いなーとか……そういうの、思ったらちゃんと言ってね」
(……ああ、こういう言い方やめようと思ったのに)
自分を卑下しがちな遥は、いつも癖でそんな言い方をしてしまう。以前までは本気でそう思っていたが、今は彼女のおかげで、思っているほどだめな人間ではないのかもしれないと学んでいた。
彼女が、ゆっくり首を横に振る。少し怒っているように見えるのは、やはり遥の言い方が引っ掛かったからだろう。
「……え?」
呟かれたひと言に反応する。
「……あはは、そう? 大人っぽく……見えたんだ……?」
いつもの遥と違う、と彼女は言った。照れたように頬を染めて。
「かっこいいって思った?」
茶化して聞いてみると、声を上げて笑われる。
自分の中ではいつもかわいい彼氏だよ、とにっこりされてしまった。
(大人っぽく見えたんなら、かっこいいって思ってくれてもいいのに――)
そう思った遥に、もうひと言付け加えられる。
――夜景を見てた時の横顔は、見とれるぐらいかっこよかったかもしれない。
「かもって何! そこは素直にかっこよかったーでいいでしょ」
(別にこだわってるわけじゃない、けど。……嬉しいな)
彼女は遥にどう言えば喜ぶのか誰よりも理解していた。まっすぐな言葉と、ちょっとだけ意地悪なひねり。正直、何を言われても心が弾んでしまう。
「やだなーって思ってないならいいんだ。この後もこういう感じだし」
食事の後の予定はざっくり伝えてあった。
明日が休みなのをいいことに、このホテルで一夜を明かす。既に一番いいスイートルームは押さえてあり、後は一緒に過ごすだけだった。
「俺はいっつも年下系かわいいキャラで仕事してたからさ。他のキャストみたいに、こういうデートもしてみたかったんだよね。……その時の君の顔を見てみたかったし」
遥はそっと手を伸ばして彼女の頬に触れる。
柔らかくて、少し熱い。
「いいじゃん、俺の誕生日に君を喜ばせても。だって、俺にとって嬉しいことは君が喜ぶことだもん。好きな人の笑った所が見たいって、当たり前じゃない?」
そう言った遥の顔が普段よりずっと男らしいことに、本人だけが気付いていなかった。
「ね、もうデザートも食べ終わっちゃったし……。……そろそろ部屋、行かない?」
彼女は頷くと、遥の手を握り返した。
そこから伝わる熱の愛おしさに、この後の時間への期待が募る。
「今日は誕生日だから。……昨日とは違う俺を見てね」
手を引くと、彼女はすぐに従った。
顔を寄せて口付けてみる。辺りに人がいることも忘れて二回もしてしまった。
「部屋では二回じゃ済ませないよ。全然足りない」
指を絡め合って歩き出す。
部屋でどんな夜を過ごすことになるのか、やっぱり彼女は理解しているのだろう――。
遥の誕生日前日――。
普段から気弱同士親しくしている海斗が会場を提供し、ささやかながらも温かいパーティーが開かれた。
「ん、プレゼント。前欲しいって言ってただろ」
「ありがとうございます、仁さん……!」
シンプルながらも高級感の漂うキーケースを受け取り、遥は満面の笑みを浮かべた。
仁が新調したのを見せてもらった際、「自分もそういうキーケースが欲しい」と呟いたのを覚えていてくれたらしい。
それを横から覗き込んだ葵が唇を噛み締める。
「仁さんと……お揃い……!?」
「お揃いじゃねぇよ」
「じゃあ俺の時はお揃いにしてくださいね! ね!」
「俺が嫌だっつの」
「あはは、葵さんもさっきはプレゼントありがとうございました」
「いいってことよー。気に入ってくれたら俺もはっぴー!」
葵が遥に向かってピースする。
その間に仁はそろりと逃げ出そうとしたが、葵が見逃すはずはなかった。
「仁さーん、俺の誕生日について語りましょ?」
「いつの話だよ、遠いわ」
「遠いってこと覚えてくれてるんすね!」
「くっそ、墓穴掘った……」
遥がいつものように仁が葵に付きまとわれているのを見ていると、端の方で海斗と奈義が手招きしていることに気付いた。
何事かと近付いてみると、二人で一つのプレゼントを差し出してくる。
「奈義くん、海斗くん、これ……」
「御国が一人で選べないって言うから付き合ってやっただけ」
「え? 奈義くんがどうせなら一緒に買いに行こうって……」
「御国うるさい」
事情はまあ聞かなくても理解できた。
奈義はもともと素直に誰かを祝いたがるタイプではない。かといって何もしないという選択肢はなかったのだろう。結果、海斗を誘ってプレゼントを選んでくれたに違いない。
遥は敢えて突っ込んで聞かなかった。
ただ笑って、二人にお礼を言う。
「ありがとう……!」
「んーん。これからもよろしくね、はるくん」
「俺は別によろしくしなくてもいいから」
「どっちもよろしくしたいよー」
にこにこしながら、せっかくもらったプレゼントを見てみようとした時、ばたんと扉が開いて遅刻者がやって来た。
「わり! 張り切りすぎちった!」
年長者とは思えない緩さで言うと、壱は大事そうに抱えていた箱をテーブルの真ん中に置く。
「いっちーさん、ケーキ作ってたんだもんなぁ。遅れんのもしょうがねぇべ」
「はっはー! 見て驚け食って驚け! はるちゃんバースデー特別仕様ケーキだっ!」
なんとなく集まった面々の目の前でケーキが披露される。
その瞬間、遥はその場に崩れ落ちた。
「ははははははるくん!?」
「尊い……」
「は?」
奈義の冷たい視線も今の遥には気にならなかった。
――そう、壱の作ったケーキはいわゆるキャラケーキというもの。
遥激推しの『ちぃたん』というキャラクターがプリントされており、芸の細かいことに、吹き出しを模したチョコレートで「遥くん、誕生日おめでとう」と書かれている。
「すごいですよ壱さん! ちぃたんが俺を祝ってくれてる……! っていうかこのイラスト、トゥルーエンドまで行かなきゃ見られないやつじゃないですか。横にあるイチゴの形もこれ、第三章のランダム発生イベントに出てきたパフェに乗ってるやつと同じなんですけど! どうなってるのこれほんと謎技術じゃないですかうわああああ」
「ふふーん。わざわざおすすめのゲーム借りてべんきょーした甲斐あったな」
「神と呼ばせてください」
「いっちー神な! 巨乳教だからそこんとこよろしく!」
「っていうか……この間貸したばっかりですよね……? どこまでプレイしてくれたんですか……?」
「全部! クリア率ひゃくぱーにした!」
「うっわ、いっちーさんすっげ」
クリア率百パーセント、に食いついたのはゲーマーの葵だった。他のキャストにはいまいちそのすごさが伝わっていない。
もちろん遥も壱の妙な勤勉さにわなわな震えることとなった。
「だってあれ……メーカー史上最凶最悪の鬼畜ゲーですよ……? フルコンプできずに涙を呑んだ同志たちが地球上に何億人いることか……!」
「いや、そんなにギャルゲばっかやってる奴いねぇだろ」
今日も奈義のツッコミが冴え渡る。
「だってはるちゃん、このキャラ好きなんだろ。誕生日なんだから一番嬉しいことしてやんなきゃだめじゃん?」
「壱さん……!」
「いっちーさんかっけえ!」
「はっはっはー、もっと褒めろー」
得意げな壱を見て、なんだかよくわからないながらも海斗が拍手する。横から奈義に微妙な顔をされ、すぐ直立不動になったが。
「たまにはまともなんだな、真中も」
「ナンバーワンの仁ちゃんに褒められたってことは、実質俺がBLOSSOMのナンバーワン……?」
「なんでそうなるんだよ」
「あはは、でも俺の中ではナンバーワンになったかもしれません。なんせ神ですからね、神!」
「はるくん嬉しそうだねぇ」
「うん!」
普段はおどおどして人の顔色を窺う遥が、今は眩しいくらいの笑顔を見せている。
つられたようにそこにいるメンバーも自然と頬を緩ませていた。
しかし、そのほのぼのした空気は奈義のひと言によってかき消される。
「で、これ切り分けていいわけ?」
「……奈義くん、何言ってるの」
「このままじゃ食えねえじゃん」
「食べないよ!?」
「えっ、食わねえの!?」
壱が目を丸くする。
既にナイフを持った奈義から守ろうと、遥は慌ててケーキの前に立った。
「一生取っておくって決めたんだよ!」
「腐るだろ」
「ちぃたんは腐らない!」
「はるくん、さすがにそれは……」
「永遠のアイドルは腐らないよ! 海斗くん馬鹿なの!? 仁さんだって自分の顔プリントされたケーキは腐らないと思いますよね!? イケメンは腐らない! 美少女も腐らない! はい論破!」
「何が論破なのか分からねぇし、そもそも俺の顔がプリントされたケーキって何だよ」
「腐ったら酢飯みたいな臭いのアイドルになるんだべか」
「葵さん! そういうこと言わない! ちぃたんはフローラルなんです!」
「俺、フローラルな味にはしてねぇかんな。普通にショートケーキだぞ」
「心で感じたらフローラルになるんですよ! 壱さんもゲームやったならわかるでしょ!」
どう考えても遥がおかしい。あの壱でさえ混乱して首をひねっている。
奇行を止めるべくメンバーが迫った。
遥はらしくないほど厳しい顔をして、ぶんぶん首を横に振っている。
「ちぃたんは俺が守る! 俺の大事な人だから……!」
――そういう台詞は仕事中に言えばいいのに。
珍しく遥以外の全員が同じことを考え、そうして賑やかな攻防戦が始まったのだった。
その夜、葵が家に帰るとやけにしんと静かだった。
いつもなら彼女は葵を待ちながらゲームに勤しんでいる。あるいは、料理を作って待っている。
それなのに――と葵は足を踏み入れて気付いた。
寝室から明かりが漏れている。
(もう寝ちまったんだべか。……けど、電気付けっぱだしなぁ。あ!もしかして俺のこと驚かせようとしてんのかも。ははー、そういうとこあるもんな。簡単には驚いてやんねぇぞっと)
こっそりこっそり寝室のドアを開ける。
てっきりそこで「わっ」と声がかかるのかと思ったのに、何もない。
不思議に思いつつベッドに目を向けると、毛布も羽織らずに眠る彼女の姿があった。
(なーんだ、寝てたんだな)
起こさないよう静かに近付いて、ちょっぴり顔を覗き込んでみる。
いつ眠ってしまったのかはわからない。ただ、あちこち電気が付いているのを見る限り、きっと眠ろうと思って寝たわけではないのだろう。
葵はそっと部屋の電気を消した。少しでも彼女が心地よく眠れるように。
(お帰りーって言ってくんねぇのは、ちーっと寂しいけど……。……あんたの寝顔見られたから、まぁいいや)
穏やかな寝息が葵の瞼まで重くしていく。
もう少しだけ彼女に近付き、ベッドに身体を乗せてみた。
そのまま、そろそろと距離を縮めて、柔らかそうな頬をつついてみる。
「……っ、おわ」
びくんと反応され、思わず出てしまった声を慌てて押さえる。
彼女は何事かむにゃむにゃ口の中で呟きながら、また眠りに沈んだ。
(……あーもー)
今、彼女の寝顔を自分だけが独り占めしている。
それが葵にとって嬉しくて、幸せだった。
(あんた、なんでそったらかわいいの? ……俺、余裕なくなんべよ)
起こしてしまう危険性をわかった上で、葵はまた彼女の頬をつついた。
ふにふにした感触が気持ち良くて、眠る彼女よりも葵の方が緩んだ顔をしてしまう。
(キスしてぇなー……。いっぱいしてぇ)
そう思うのに、まだ葵は指で触れるだけにしていた。
ここでキスしてしまえば、止まれなくなることをよくわかっていたからだ。
(あー……好き。……ほんと、好き)
頬に触れて、閉じた瞼に触れて、さらさらの前髪にも、そこに隠れた額にも触れる。長いまつげもくすぐって、鼻も輪郭も顎も、すべて指でなぞっていく。
ここに触れられる特別な男は自分だけなのだ、と確認するように。
(あんたに触ってると、胸がきゅうってする。おかしいよなぁ、もうキスだってしてるし、毎日嫌んなるくらい抱き締めてんのに。……でも、まだ全然足りねぇよ。あんたに触りたい。起きてるときも、寝てるときも)
もう一回つついて、そのまま唇に指を滑らせてみる。
何の夢を見ているのか、かぷりと彼女に噛み付かれた。
「こら、いてぇべ」
歯は立てられていなかったが、ついそう言ってしまう。
指をはむはむ食まれた葵はくすくす笑った。
「俺の指、おいし?」
(寿司くせぇと思うんだけど。……だからうめぇのかな?)
「……俺はあんたのが」
言いかけて、葵はほんのり頬を染めた。
なんとなく危ない気がしてしまったのは、きっと気のせいではないだろう。
(先に寝ちまったってことは、きっと疲れたんだべな。いっつも俺を待っててくれてありがと。……でも俺、あんたが待ってるて知ってっから、この家に帰ってくんの好きだよ)
結局我慢できずに唇にキスをしてしまう。
また何か勘違いしたのか、触れた唇がもにゅもにゅ動いた。
「俺は食いもんじゃねぇっての」
薄く開かれた唇から甘い吐息を感じて、くらりと酩酊感にも似たものを覚える。
それでも葵は唇を離し、彼女から距離を取った。
「疲れてんのに起こしちゃ悪いもんな」
もう一度キスをする代わりに、ぽん、と頭を撫でる。
「いつもありがと。……今日はいっぱい寝な。おやすみ」
部屋を後にしながら彼女を振り返り、安心しきったその姿に葵の方がほっとする。
葵にとって彼女の側は大切な居場所だった。だからこそ、彼女もここを居場所だと思って心を許してくれているのがこんなにも嬉しい。
(次のデート、なんか癒し系な感じにすっか)
そう心に決めて、彼女との楽しい一日を想像する。
いつだって笑顔が想像できてしまうことに、また胸がきゅんと疼くのを感じながら――。
バレンタインデーにチョコを贈った女性の中から、たった一人だけ。
選ばれた『恋人』だけが葵からホワイトデーのお返しをもらうことができる。
そんなイベントで選ばれたのはもちろん――。
***
ホワイトデーのお返しを渡され、葵にお礼を言う。
それが嬉しかったのか、葵はふわっと柔らかい笑みを見せた。
「君のために選んだんだよ」
お返しとどっちの方が甘いのだろうと思うくらいとろける声。不覚にもどきっとしてしまったことは葵に隠しておく。
用意された椅子に座ると、葵も隣に座った。
そして、ことんと肩に頭を乗せてくる。
「あのね。君のお礼……本当に嬉しかった」
いつもの葵はもっとやかましく喋り倒す。どれだけ嬉しかったのか三日くらいかけてじっくりぎっちり喋り、最後に豪快な笑い声をあげてくれるのだ。
でも今は違う。仕事中の葵はとても甘え上手で、口数も――普段に比べれば驚異的なほど――少ない。
「……ふふ。ありがと」
そっと葵が手を繋ごうとしてくる。それに応えてみると、思っていたよりも強い力で握り締められた。
「……あんたの前でこれやんの、恥ずかしい」
こちらを見ずに呟かれた言葉にはきつめの訛りが混ざっている。
される側も恥ずかしいんだと言いたいのは飲み込んで、こちらからもぎゅっと葵の手を繋いでみた。
最初はただ繋ぐだけ。いつの間にか当然のように恋人繋ぎへ変わってしまう。
「……寝ちゃいそうだね」
葵はそう言ったが、眠れると思えなかった。心臓がどきどき騒いで少しも眠気が襲ってこない。どんなに葵が緩い空気を醸し出していようと、だ。
だから、葵がしたようにこそっと声をかけてみる。
それを聞いた葵はくすくす甘えた笑い声を響かせた。
「眠くならないなら、おやすみのキスもできないよ。……したいのに」
また、心臓が跳ねる。
こちらを見上げた葵と目が合って、どちらからともなく顔を近付けた。
本物の恋人だと伏せているのだから、そんな風に自分からキスしてはいけなかったのに――。
***
仕事を終えて帰ってきた葵は、昼間の大人しさはなんだったのかと思うほど勢いよく喋り出した。
「っかー! 昼間の俺、めっちゃ頑張ってなかった? あんたの前だとなーんかいつもの俺に戻っちまいそうになんだけど! うわ、あっぶねー! ってずーっと心ん中で思ってたの! でもちゃんとやれたべ? へへ、褒めて褒めて! あ、でもご褒美もうもらってたわ! あんたからちゅーしてくれたもんな? なあなあ、もっかい! 今度はほんとの恋人としてちゅーして!」
夜だから静かにしてほしいと葵の頬を引っ張る。それでも葵はまだ笑っていた。
「黙れったって無理に決まってんべよ。俺、あんたと喋りたいこといっぱいあるもん」
嘘のない笑みを見せられたら、もう黙らせることなどできなかった。
一つだけ方法があるのを思い出し、背伸びをしてキスをする。
案の定、葵はぴたっと口をつぐんだ。昼間とは違った意味で頬がでろでろに緩んでしまう。
「へへへ。俺もしていい? いい?」
いつでも来い! と両手を広げて目を閉じる。
葵が勢いをつけながら飛び込んできたせいで、ベッドにひっくり返ってしまった。二人してシーツの上に転がり、声をあげて笑い合う。
横になったままこつんと額を重ね、もう一度キスをした。それだけでは足りない気がして、更に二度三度繰り返す。
昼間はすぐにできなかった恋人繋ぎを、今度はすぐにした。指を絡めるとくすぐったくて、ますます葵を好きになってしまう。
「……あ! 俺、あんたに見せたいもんあるんだった!」
なんだろうと葵が見せてきたものを受け取る。
それは葵ともう一人、おとどけカレシのキャストが映った写真だった。
どちらも軽くはだけた胸元が実にセクシーで、若干目のやり場に困ってしまう。
「こっちの人ね、仁さんっつーの! 俺が超リスペクトしてる人! すっげーかっこよくね? 俺もこーた色気欲しかったー! 真似してみたんだけどさ、やっぱ俺じゃだめっつか。どうやったらいいんだべな。生まれ直してくっか……」
改めて、写真と現実の葵を見比べる。ついでに葵が尊敬しているらしいキャストも。
そして率直に感じたことを伝えた。
「……え。俺のが好み? マジ? 仁さんより? おかしくね?」
おかしいとは何事だと写真を横に置く。
確かに隣のキャストも非常にかっこいい。こんな王子様のような笑みを向けられて見つめられたら気絶するかもしれない。
だけど、と起き上がって葵の上に覆いかぶさる。
どんなにかっこいい人でも一緒にゲームをしてくれなければ意味がない。たくさん喋って、たくさん笑わせてくれる人じゃないと側にいたくない。更に言うなら自分は理想のハードルがものすごく高い。恋人の必須条件に『方言がきつい』というものを加えているからだ。
それをつっかえつっかえ、どうにか葵に告げる。
しばらくぽかんとされて――すぐ、甘えん坊のときと同じようにくすくす笑われた。
「あのさ、もしかして俺が思ってるよりずっとずっと俺のこと好き?」
答える前に葵が起き上がる。そして、位置が反転した。今度はこちらが天井を見上げる羽目になる。
「俺もあんたのこと、すっげー好き。……だから、仁さんより好みって言ってもらえて嬉しかったよ。あの人より俺のがいいって言ってくれるの、世界中にあんただけだ」
数えきれないくらいのキスが降り注いで、ぱしぱし葵の肩を叩く。そのぐらいにしてくれないと後で困ってしまうのに、いつまで経ってもやめてくれない。
結局触れ合いはそこで留まらず、更に深く甘く変わっていく。
――さすがの葵も静かになる、二人だけの夜の始まりだった。
バレンタインデーにチョコを贈った女性の中から、たった一人だけ。
選ばれた『恋人』だけが仁からホワイトデーのお返しをもらうことができる。
そんなイベントで選ばれたのはもちろん――。
***
「バレンタインデー、ありがとうね。すごく嬉しかったよ」
眩しい笑顔と共にお礼を言われ、つい手で顔を覆いそうになってしまう。一切容赦のない仁の王子様スマイルを向けられて直視できる人間がいたら見てみたいものだとすら思ってしまった。
そんなことを考えているとはもちろん知らず、仁はにこにこと優しく微笑んでいる。
「俺は君に何を返せばいい? いろいろ考えてみたんだけど……やっぱり、これ?」
ふふ、と吐息の混ざった笑い声が響く。
手を取られたかと思うと、指先に仁の唇が触れて――。
「っと、どうしたの? びっくりしちゃった?」
反射的に手を引いてしまい、大騒ぎする心臓を落ち着かせようとする。
ほんの一瞬しか触れていないのに、仁の体温がまだ指に残っていた。柔らかくて甘くて、今すぐ気絶しそうなとびきり愛おしい感触。
ほとんど無意識にその手を口元に持っていってしまい、仁に笑われた。
「ああ、ごめんね。……そっちにしてほしかった?」
家でならこれ以上はだめだと肩を押しのけられる。――その抵抗に意味があるかは別として。
だけどここではおとどけカレシと選ばれた特別な恋人の一人。心の準備をさせてほしいと拒むわけにはいかない。
そうこうしている間に仁の顔が近付いてくる。このままでは本当に心臓が破裂してしまうかもしれなかった。もはや自分が何を考えているのかさえわからなくなる。
散々見慣れているはずの声も顔も、どうしてか毎回どきどきさせられてしまう。そんな自分はどこかおかしいんじゃないかとす思っていたけれど――。
「……お前、顔真っ赤」
いつも聞いている、恋人の仁の声がした。
あ、と顔を上げた瞬間、キスが唇に触れている。
「君だけ、特別だよ」
すぐにまた声が元に戻ってしまう。
ただ、その瞳には恋人の自分にだけ向ける少し意地悪な光が宿っていた。
***
そして、夜。
家に帰ってきた仁は、いつもの仁だった。
そのことにほっとしながら出迎えると、つん、と額をつつかれる。
「お前、演技しなくて済むからいいよな。本物の恋人だったらあんな反応しねぇだろうし。ってか、毎回毎回照れすぎなんだよ。どんだけだっつの。いつか気絶するんじゃねぇか?」
さすがにそこまではないと憤慨する。気絶まではいかないはずだ。多分。
そう訴えても仁は笑うばかりだった。
確かに笑われても仕方ないぐらい、いつも反応してしまうけれど。
ぐぬぬ、と思っていると、仁が額から頬に指を滑らせてきた。
少し強めにぐりぐりされて、柔らかい肌を弄ばれる。
そんなちょっとした意地悪も、仁にされていると思うだけで心が躍る。ちょっかいをかけられてすごく嬉しい気持ちはあったが、素直に見せるのはためらわれた。触れられるのいい。でも、からかわれるのは悔しい。
だから触れてくる手をなるべく優しく、仁が痛い思いをしないように――そして嫌な思いをしないように軽く振り払う。
そんなことで遊ばれて喜ぶ女じゃないの、と示したつもりだったのに、小さな抵抗を示した手を掴まれて引き寄せられた。
「俺にそんなことしたらどうなるか、わかってんだろ」
どくんと大きく心臓が跳ねたのとほぼ同時に唇を塞がれてしまう。
仕事のときはあんなに優しいキスだったのに、今は奪うような荒っぽいキスだった。息ができなくなってその身体にすがる羽目になるまで深く口付けられる。
顎にそえられた手がそっと喉をくすぐって熱を高めてきた。このまま何もかもゆだねてしまいたくて、ついに敗北を認める。
いつだって仁はこういうところがずるいのだった。
てっきりそのままもっと甘やかしてくれるかと思っていたのに、今日は予想外の反応が返ってくる。
「そういや、お前におみやげ」
おみやげよりこの続きをしてほしいと訴える。
一瞬、仁の瞳が揺らいだ気がした。
けれど、続きどころかキスもない。
「先にこれ見た反応知りてぇから」
渡されたのは一枚の写真。
仁と、もう一人おとどけカレシのキャストが映っている。
――しかし、そのもう一人の存在は正直あまり印象に残らなかった。
写真の中の仁が胸元をはだけさせてこちらを見つめている。そんな仁を見て他のものなど目に入るはずがない。
写真からですら伝わる色気に耐えきれず、よろよろとソファに沈み込んだ。さすがに驚いたらしく、仁が焦った様子を見せる。
「おい、どうした?」
もう一度写真を見られる気がしない。
恐らく二度目は本当に気絶する。今そうせずにいられたのは、不意打ちだったおかげでしっかり見ずに済んだから。
もっと見たい。でも見ると大変なことになる。
すさまじい葛藤に悩んでいると、それに気付いた仁が笑い出した。
「バカだな、お前。本物がここにいるじゃねぇか」
言いながら、仁が写真と同じように胸元をはだけさせる。それどころかボタンを一つずつ全て外してしまい――。
「写真より実物のがいいだろ? もっと過激なもんも見せてやるよ」
――よく、悲鳴をあげずにいられたと自分を褒めたくなる。
恐らく仁はこの反応を楽しむためにおあずけをしてまで写真を見せてきたのだろう。
そして、きっと予想していたより満足する結果を得られたに違いない。
――そうでなければ、ベルトにまで手をかけているはずがなかった。
「葵、にやけるな」
「ふあっ! 俺、今にやけてました?」
「訛るのもやめろ」
桜川からびしびし言われても葵の表情はどうも引き締まらないままだった。
BLOSSOM社の会報誌第一弾の撮影を行うということで、憧れの仁とツーショットで表紙を飾らせてもらうことになったからである。
「おい、いい加減にしねぇと俺は降りるからな」
「あー! 仁さんだめ! 俺と一緒にピースしてくださーい!」
「するな」
また、桜川が冷たく言い放つ。
仁に呆れられようと、桜川に叱られようと、葵が反省した様子はこれっぽっちもなかった。
とはいえ――マジリスペクト! な仁の機嫌を損ねるのも葵の本意ではない。
気の抜けた顔で笑った後、ふっとその雰囲気が変わった。
「もう大丈夫です。……頑張るから、後で褒めて?」
「あと一時間、その状態でいられたら俺が褒めてやるよ」
「えっ、マジすか仁さん!?」
「五秒すら保ててねぇ……」
ふー、と仁が息を吐く。仕事でもそれ以外でも、葵はいつも仁に対してこうだった。ナンバーワンだからという以上に、人柄やらなんやらに入れ込んでいるらしい。
仁はそれを見ていると、かつての舎弟たちというよりはどうも大型犬を思い浮かべてしまう。真っ直ぐすぎるきらきらした目を向けられると、正直住む世界が違いすぎてどうしていいのか困ってしまうほどだった。
自分はそんなに尊敬されるような男か? と思う仁と、仁さんマジすげー! な葵はいつもうまく噛み合わない。
それなのに仁は葵を嫌いになれなかった。そもそも懐かれるということに慣れ切っているというのもある。仁に認められようと危険な真似をしていた舎弟たちに比べれば、尻尾を振りながらご褒美を待つ葵はかわいい方だった。
「桜川さーん、仁さんと肩組んじゃだめっすかー」
「だめだ」
「んなことより。ひまわり、俺の顔に当たってる」
「っさーせん! 仁さんに当たっちまったひまわりは俺が責任持って宝物にします!」
「そんなもん宝物にすんなよ。枯れるだろ」
「その辺、俺にはプロがついてるんで!」
「お前ら、これが仕事中だってわかってるか……?」
何度目になるかわからない桜川のツッコミに、葵はわざとらしく額を手に当てた。
たはー、と笑うのを聞いて、うっかり仁までつられて笑ってしまう。
葵に気付かれる前に、すぐ真顔を作ったが。
「……はぁ、今回も長引きそうだな」
そう呟いた仁の声を葵は聞いていない。仁が触れたひまわりの花を嬉しそうに見つめている。
こんな風にわいわいする撮影会は、仁も葵も初めてではなかった。
キャストたちの中で誰が一番仕事をしやすかったか聞けば、仁は奈義で、葵は壱だと言うことだろう。後者の二人組によって桜川が死ぬほど苦労する羽目になったのは言うまでもない。
これが奈義だったらもう撮影は終わっていた、と考えながら、仁はカメラの方を向く。
「とりあえず、ポーズはこんな感じか?」
「ああ、さすがに飲み込みが早いな」
「まぁな」
おとどけカレシとしての顔を作り、胸元をはだけさせながらカメラを見つめる。仁のこの姿を見ただけで一体何人が予約をしてくるのか考えるのも恐ろしい。
葵はそんな仁をちらっと見て「さすが仁さんだべ」と小さく呟いた後、自分も真似をして胸元をはだけさせた。
自分にはそこまでの色気がない、と思いながらの真似ではあったが、それによって普段甘えん坊キャラの葵から男の気配が滲む。ただ甘えるだけではない、とこの写真を見た誰もが思うことだろう。
仁とは違った空気の出し方に、さっきまで顔をしかめていた桜川も納得したようだった。
ようやくまともに仕事ができる――とシャッター音が鳴り響く。
その二秒後、黙っていられなくなった葵がこそこそ喋り出した。
「仁さん仁さん」
「あん?」
「これ終わったら、俺と飲みに行きませんか」
「……少しだけだぞ」
「っしゃ! いっちーさんも呼ん――」
「あいつはうるせぇから呼ぶな」
「じゃ、じゃあ俺と二人っきりで飲んでくれるんけ!? ……はー、どうすんべか。もっとおしゃれしてくりゃよかったぁ……」
「……お前な」
うっかりまた笑いそうになり、仁は必死に表情を保つ。
噛み合わないのに噛み合ってしまうのは、多分、葵が笑わせ上手で、仁の面倒見が良すぎるせいなのだろう――。
かちかちとコントローラーを扱う音が、楽しげなBGMに混ざって響く。
彼女が夢中になってゲームをしている側で、葵は体育座りしていた。
(はー……相変わらずすっげープレイ……)
いつもは二人でするのにどうして今日は彼女だけなのか。
それは、葵がこのゲームをどう頑張ってもクリアできなかったからに他ならない。
(エクストラモードんときはそうやんのか……はー、なるほど……)
もちろんノーマルモード、ハードモードはクリアできた。
しかしエクストラモードとなると断然難易度が違ってくる。まず、敵のダメージを一度も受けてはいけない。こちらの使える武器は一番弱いもの。しかも敵の数がハードモードの倍。ステージのギミックもいやらしいものがいくつも増えており、ゲームのパッケージ裏には「製作者ですら投げました!」と書かれていたほど。
それを、彼女はさくさくプレイしている。
ボタンを押す指が止まることはなく、楽しげな笑みを浮かべながら鼻歌まで歌い始める始末だった。
(すんげー……。……でも、悔しいな)
彼女の集中力を切らしてしまわないよう、横からそっと応援する。
だけど、それがなんだか葵にとってはもどかしい。
(俺があんたに、すげえ、って思わせたかったよ。だって恋人なんだし)
ずっとずっと、葵は彼女をすごいと思い続けていた。
それは今日に限った話ではない。
複雑な日々を送っていた頃だって、それを終えて恋人になってからだって、葵は自分の彼女を心から尊敬していたし、そんなところに憧れと天井知らずの好意を抱いていたけれど。
(あんたは俺のこと、そうやって思ったりすんのかな?)
流れていたBGMが変わる。どうやらボス戦らしい。
さっきまで笑っていた彼女の表情が引き締まり、思わず息を呑んでしまう。
(邪魔しちまわねーように風呂入ってこよっと)
まだ、なんとなく胸に残るもやもやは消えない。
シャワーを浴びればきっと落ち着くはず、と思っていたけれど。
***
葵が再びリビングに戻ってくると、彼女は別のゲームをしていた。
恋人の訪れに気付くなり、ぱっと振り返って満面の笑みを浮かべる。
誇らしげにクリアしたんだと言う姿を見て、また悔しさが滲んだ。
「次はタイムアタックするって……。あんた、俺よりゲーマーだべな……」
(……けども、そろそろ俺を構ってくれてもいいんでないの?)
とてもすごい人で、憧れている人で、大好きな人。
彼女に勝てることの方が少ないとよくわかっているし、打ち負かしたいと思っているわけではない。
だけどたまに、そんな彼女の表情を崩してみたくなるわけで。
「……な、そろそろ俺と遊んで?」
画面を見ずにコントローラーさばきを見せていた彼女が顔を上げる。
(これ、やられんのやだって知ってっけど)
葵はわざと視界を塞ぐように彼女の身体を抱き締めた。
こんな状態でもまだコントローラーから手を離さないのはさすがというべきか。
「構ってくんねぇと、このまま邪魔しちまうよ」
ぽたりと葵の髪から水が滴った。彼女の服に落ちて薄いしみを広げていく。
それに驚いたのか、彼女がびくっと反応した。
ようやくコントローラーから手が離れ、葵は内心勝った気持ちになる。
(ゲームより俺のが好きだもんな。な?)
嬉しくて笑いそうになるのは堪える。ここでほのぼのいつもの空気を出してしまっては、彼女のいろんな表情を引き出せない。
葵だって、笑顔以外の顔を見たくなるときぐらいある。
「こーら、逃げようとすんなって。……シャワー? 後でいいべ。今は俺と遊ぶの」
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ強気に出てみる。
葵の狙い通り、彼女はびっくりしたまま硬直してしまった。
(あんた、俺に攻められると弱いもんな)
普段は年上の彼女が葵をからかったり、面白がったりしてくる。
だからこそ、葵が反撃に出るとすぐには反応できないらしかった。
いや、反応は一応している。
――顔を真っ赤にして。
(ああ、ほんっとかわいい)
その顔を見ているだけでぎゅっと抱き締めたくなる。キスして胸の想いを全部ぶつけてみたくなる。
しかし、今はまだ我慢する。もっともっと彼女を翻弄してみたい。
いつも自分がされてしまっているように。
(こういう駆け引きってのも悪くねぇ。あんたの恋人は、甘えんぼのかわいいあおちゃんじゃないんですよーってか。……ほんとの俺は、もっと)
葵は彼女の動揺が最高潮に達したのを見計らって、わざと身を引いた。
この後を想定していただろう彼女はやっぱりびっくりして目を瞬かせている。
「しないのか……って? はは、あんた、俺に何されると思ったの」
こんな風に彼女をいじめようとしているからか、葵の声に艶が混ざる。それに葵本人は気付かない。その声で囁かれた彼女が、顔どころか身体まで熱くしてしまったことにも。
「続けてほしいんだったらさ。ちゃんとそう言ってくんねぇと。……な?」
期待しながらそう告げる。
すぐに彼女が求めてくれると思ったのに、やんわり肩を押しのけられた。
(んがっ!? や、やりすぎたんけ!? そりゃ、あんま俺っぽくねぇっつか、たまには攻めてみたいっつか、なんか、あああああ、もう! 失敗!? 失敗した!?)
内心大慌てする葵を押しのけると、彼女はその唇にそっと指を触れさせる。
「え……。ゲーム片付けて、から……?」
彼女の触れた場所がとても熱い。
はにかんだ彼女より、今は葵の方が赤くなってしまっていた。
自分でもそれに気付きはっとする。
(け、結局、俺のが手のひらで転がされてんじゃねぇか!)
こんなはずではない。そしてこのままでいていいはずがない。
一応、演技力に自信のある葵は、そそくさとゲームを片付け始めた彼女を後ろから抱き締める。
やたら大げさに肩が跳ねたのを見て――つい、笑ってしまった。
(ああ、そっか。あんたも強がってたんだな。……年下に弄ばれんの、悔しい?)
再び硬直した彼女の耳に口付けて、さっき与えられた熱を返す。
きっと彼女はゲームを片付けている間に平常心を取り戻そうとしていたのだろう。しかし、そうはさせない。
「今は俺のこと、優先して」
シャワー、と彼女が言いかけたけれど、聞き終える前に振り返らせ、唇を塞いでしまう。
また肩を押しのけられそうになり、いつもとは違って手首を掴んでみた。
あんなに強い人だと思っていたのに、押さえ込んでしまえばこんなにも弱弱しい。
(俺、悪い男だ)
誰もクリアできないゲームをこなせても、日々をたくましく生き抜く花のような心を持っていても、彼女は――葵にとても弱い。
(……へへ、いい気分)
ちょっぴり感じていた悔しさはもうどこにもなかった。
自分の前でだけ弱くなってしまう恋人を抱き締めながら、そっとソファに押し倒す。
さっきまで掴んでいた手首から手をほどき、代わりに指を絡めて繋いだ。
一緒に唇も重ねて、吐息を交わらせる。
――付けっぱなしのゲームだけが、ひどく場違いだった。
――海斗と付き合って、今日でちょうど半年が経とうとしていた。
もうそんなに日にちが経っているとは、正直信じがたい。
かちゃかちゃとキッチンでお祝いの準備をしながら、今日までの長くて短い日々をそっと回想する。
最初は、それはもうひどい出会いだった。
いきなり偉そうな俺様男――しかもテンプレをこじらせている――が現れたかと思えば、ご主人様だのなんだのと聞くに堪えない言葉の数々を振りまき、なんとも腹立たしい顔でにやりと笑ってきた。
今だからこそ言えるが――過去にも海斗本人に言ったかもしれない――あの俺様キャラはどう考えても頭がおかしかった。正気とは思えない。
大体、笑えてしまうくらい言動がテンプレートを拾いすぎている。
一体どこの少女漫画かと思った始末だ。
むしろ、どこぞの少女漫画よりよっぽどそれらしい台詞を並べ立てていたかもしれない。
今はもう、どうして海斗がそうだったのかを知っている。
きっとあれは海斗なりに一生懸命考えた結果の『俺様ドS』だったのだろう。
真面目で熱心な性格だから、本当に少女漫画を読み漁って必死に頭にキャラクターを叩き込んだに違いない。
海斗は理想のキャラを作り上げるために、数多の理想を拾い集め、そうしてあの『御国海斗』を生み出したのだ。
料理をしていた手がぴたりと止まる。
鼻持ちならない海斗を思い出すと、なんとなくイラっとした。
そして一秒も経たないうちに笑ってしまう。
かわいがってやるよと昼間は鼻で笑っておきながら、夜、二人きりになるとびくびくしながらこちらの様子を窺い、『おねだりしていい?』と聞いてくるのだ。
そのギャップが、面白い。同時にとても愛おしい。
どちらを演じていても海斗は育ちの良さと優しを隠し切れなかった。
そういう隙のあるところについつい惹かれてしまったのだと今ではよくわかっている。
再び料理を再開しながら、壁にかけられた時計の方へと目を向けた。
時間はもう夜の二十三時を過ぎようとしている。
今日は二人でお祝いをしようと以前から言っていたはずだった。ご馳走を作っておくから楽しみにしておいてほしいと告げた所、それなら走って帰ってくると目を輝かせて言っていたのを思い出す。
それなのに、連絡がない。
律儀な海斗なら必ず電話を入れるはずだった。
もしかしたら何かあったのかもしれないと不安になり、濡れていた手を拭う。
そうして、テーブルに並べられた料理のいくつかを流し見た。
今日、海斗は医者として研修に行っている。何があるかわからず、即時臨機応変な対応を要求される仕事だと考えると、今夜は日付が変わる前に帰ってくることも難しいのではないだろうか。
そうなると、どんなに料理を用意していても時間が時間だけに食欲がわかないだろう。
だけど海斗はきっと無理をして食べようとする。ごめんと何度も謝りながら、たくさんの料理を口に詰め込んでおいしいと笑うに決まっている。
そんな海斗を見たいわけではない。純粋にお祝いがしたくて、二人の記念日を一緒に喜び合いたいだけなのだから。
少し考えた結果、豪華な料理はまた今度にしようと決める。
お休みの日でもなんでも、手料理を披露する機会はいくらでもあるのだ。
なぜなら、もう海斗とは恋人になれている。偽物の、たった七日間だけの恋人関係ではなく、二度と会えないかもしれないと寂しく思った他人の関係でもない。
決めてしまうと行動は早かった。さっさと料理を冷蔵庫にしまい、こんな時間でももたれてしまわないような軽食を用意しようかと思っていると。
玄関の方で音がして、振り返る。
海斗だろうか、と考えた瞬間、すさまじい勢いでインターホンが鳴らされた。
自分でなければ警察を呼んでいたことだろう。
ただ、こんなことになるんじゃないかと予想していたおかげで警察は呼ばずにすんだ。
代わりに玄関を開いて、今にも泣きそうな恋人を出迎える。
「ごめん……! 遅くなってほんとに……ほんとにごめん……っ」
泣きそう、どころか既に半泣きになっている気がする。
ひとまず落ち着かせようと室内に招き入れ、ぽんぽんと頭を撫でておいた。
そうしてしばらくしていると、思惑通り落ち着いてくれたらしい。相変わらずのしょんぼり顔をしながら、ひく、と喉を鳴らしている。
「あ、あのね、研修が長引いて、それで……。ああ、違うんだよ。言い訳が言いたいんじゃなくて、ただ、ちゃんと説明しなきゃって……。あっ、でもすごく言い訳みたいだよね。ごめんね。今日、ご馳走を作って待っててくれるって言ったのに。ごめん、ごめんね……」
前言撤回、落ち着いていなかったようだ。
改めて海斗を撫でながら、少しも怒っていないことを伝える。むしろ遅くなって心配していたぐらいだと伝えてから、ようやく違和感に気が付いた。
海斗はなぜか、白衣を着ている。
「え? 服? ……あ、ほんとだ。なんで白衣なんて着てるんだろ。……はっ、思い出した! 急がなきゃと思って、着替えないまま来ちゃったんだった」
へら、と海斗は笑う。
気の抜けた笑みにつられて、こちらも一緒に笑ってしまった。
「でもおかげで間に合ったよ。二人の大事な半年記念日に。……ふふふ。これ、お祝いにどうぞ」
じゃーん、と得意げに差し出されたのはクマのぬいぐるみだった。
そういえば海斗の部屋にも同じものがあった気がする。
それとよく似てはいるものの、サイズはこちらの方が小さい。
ふと見ると、クマの胸元にはぬいぐるみサイズの小さな花束が挟まっていた。
「これ、いいでしょう? 君はこういうの好きじゃないかなって思ったんだけど……どう……?」
さっきまで得意げだったくせに、またいつものびくびくモードになってしまう。それだけ気に入るかどうかを心配してくれたんだと思うと、なんだか嬉しくて笑ってしまった。
ついでにクマの胸元を軽くつついて、どうして『フリージア』の花を選んだのか尋ねる。
「あ……これ、フリージアって言うんだね。お花屋さんで一番かわいいお花を選んだだけだよ。店員さんもすごく親切に教えてくれたんだ。花言葉に詳しいみたいで……。あっ、せっかくならフリージアの花言葉を聞いてくればよかった! 詳しいって言ってたのに聞きそびれるなんて……」
驚いたり喜んだり、落ち込んだり悲しんだり、海斗の感情がくるくる変わって面白い。
ぬいぐるみを受け取り、花束を抜き取ってからクマの鼻を海斗の唇に押し当ててみた。
フリージアの花言葉もついでに教えておく。
「『無邪気』? へえ……! じゃあ君にぴったりだね!」
そう言われて思い切り首をひねってしまった。無邪気にふさわしいのは海斗だとしか思えない。
着替えることさえ忘れて家まで走ってくる海斗の純真さは、まさに無邪気と呼べるのではないだろうか、と。
少々ぽやぽやした部分があるとはいえ、緩い笑みはこちらの心まで和らげてくれる。というか、そういう邪気のない人だからこそ、この世から滅んでしまえばいいと思っている俺様キャラを演じていても好きになってしまったのだ。
改めて海斗が好きなのだと実感し、嬉しくなる。
そうして笑いながら海斗に今思ったことを伝えると、なぜかむっとされてしまった。
「それって、なんだか子供っぽくないかなぁ。君のために一生懸命走ってきたのに……」
海斗がクマのぬいぐるみを押しのける。
ついでに小さな花束も奪い去ってしまった。
代わりに引き寄せたのは、もちろん――。
「ねえ、君は知ってるじゃない」
抱き締められ、耳元で囁かれる。
「俺が無邪気なだけじゃないって、一番詳しいのは誰?」
くすくす笑う声と吐息が耳朶をくすぐった。
さっきまで撫でられてえぐえぐしていた海斗はもうどこにもいない。
どこか艶めかしい笑みを浮かべた恋人の瞳には、無邪気の無の字が消えていた。
「あ、そうだ。せっかくこんな格好だし、お医者さんごっこでもする? 前、したら面白そうって言ってたよね?」
意味を曲解してはいないかと止めようとしたのも束の間、腕を取られ壁に押し付けられてしまった。
この流れは非常にマズイ。
「あれれ、患者さん。今日はお熱ですか? 顔が赤くなってますよー。……ふふふ」
顔を覗き込みながら、海斗が楽しそうに笑う。
赤くなっている所なんて見られたくないと俯いた。それなのに、長い指が顎を持ち上げてくる。
唇が重なるまで、さほど時間はかからなかった。
「どこか悪いんですか? ちゃんと調べますから、言うこと聞いてくださいね」
だめ、と声を上げたのに黙殺される。
既に海斗の手は服の中に潜り込もうとしていた。
「触診って大事なんだよ」
冗談なのか本気なのか、きりっと言った海斗に毒気を抜かれてしまう。
そのせいで抵抗も緩み、更に奥を許してしまった。
「なんて。……ふふ、君にしかこんな『診察』しないよ。だってなんだか……やらしいもんね?」
見せつけられた笑みはやっぱり無邪気に見えた。――見えるだけだと知っている。
海斗は嬉しそうにお祝いを囁きながら肌にキスを落としていった。その度に声が漏れて、静止する手に力が入らなくなっていく。
「……あ、診察台に行かなきゃ」
思い付いたように呟く声が聞こえる。
横抱きにされ、診察台という名のベッドへ運ばれながら、『無邪気』ほど恐ろしいものはないとしみじみ実感したのだった。
今日はバレンタイン。
BLOSSOM社でも当然、おとどけカレシたちが『仕事』に勤しんでいた。
過去のキャストも、今のキャストも関係なく――。
***
きちんと制服に着替えた千紘は、照れくさそうに微笑んだ。
「この歳で制服なんて恥ずかしいな。君もそう思うよね……?」
恐る恐る、といった様子で反応を窺われたが、首を思い切り横に振ることで応える。
確かに年齢を考えれば制服が似合っていいとは思えない。
それでも、千紘はその姿がよく似合っていた。
私服の際にもにじみ出ていた上品さは、制服によって多少緩和される。
そのおかげで取っつきやすい雰囲気になっていた。
とてもよく似合う、と今度は言葉にして伝える。
見とれていたせいでうっかり忘れていたチョコを慌てて取り出し、千紘に差し出した。
「ありがとう。僕のために用意してくれたんだね。嬉しいよ」
嬉しいと言われてこちらの方が嬉しい。
こんなに優しい顔で笑ってもらえるなら、このために一生懸命チョコを選んだ甲斐があるというものだった。
喜んでもらえたのを本当に嬉しく思っていると、不意に頭に微かな重みが乗った。
顔を上げると、千紘が撫でてくれている。
「僕一人で食べるのももったいないし、一緒に食べようよ」
自分が食べてしまうことの方がもったいない気がした。
千紘の食べる分がひとつ減れば、その分喜んでもらえる数まで減るように思えて。
「……ほら。こういう食べ方なんてどう?」
返答に困っているうちに、千紘はチョコをひとつ口にくわえる。
ん、とそのまま見つめられ、驚いて後ずさった。
足がもつれて転びそうになった所を支えられ、当然のように顔を近付けられる。
ビターの香りを感じた瞬間、唇にチョコが触れていた。
今はチョコを介しているおかげでキスにはなっていない。
でも、動けばすぐに。
うろたえていると、千紘が優しく手を引っ張った。
その目には「早く食べて」と急かす色が見える。
「ん」
さあ、と更に急かされて心を決めた。
どきどきしながらゆっくりチョコを噛んでみる。
もう溶けかかっていて、ほろりと口の中に甘さが広がっていった。
もっとビターな大人の味にしたはずなのに、なんだかやけに甘い。
「……ふふ、ははは」
キスをするぎりぎりの所まで頑張って食べると、急に笑い声が聞こえた。
千紘が楽しそうに声をあげながら、また撫でてくる。
「恥ずかしがってる顔、すごく可愛い。もっと見たいな」
今度はなにをされてしまうんだろうと不安に思ってしまう。
またチョコを食べさせられるのかと思いきや、千紘は縮まらなかった距離を当然のように縮めてきた。
唇と唇が重なり、勢いよく心臓が跳ねる。
「チョコと君の唇と、どっちが甘いのかな。どっちだと思う?」
そんなの分からないと首を横に振る。
しいて言うなら、甘いのは千紘の笑顔だし、声だし、キスだし、と自分の思うことをひとつずつ告げていった。
最後にとても恥ずかしいのだということを訴えると、千紘はまた声をあげて笑う。
「恥ずかしくてもやめてあげないよ。ごめんね」
優しいのに、言っていることは意地悪だった。
俯くと顎を持ち上げられ、またキスを落とされる。
まだ残っていたチョコが互いの舌の上で溶けて、熱を交わらせていった。
ぎゅ、と千紘の胸にすがりながらキスを受け入れ、顔が赤くなっていないことを願って目を閉じる――。
今日はバレンタイン。
BLOSSOM社でも当然、おとどけカレシたちが『仕事』に勤しんでいた。
過去のキャストも、今のキャストも関係なく――。
***
「高校生に見えないね、俺」
そう言ってけらけら笑った大和が、口にチョコを放り込んでくる。
それは大和のためにとこちらから贈ったものだった。
「ん、どしたの。不思議そうな顔しちゃって。……ああ、なんであげたものなのに食べさせてくるのかってこと?」
口の中にチョコを詰め込まれて何も言えない。
ただうんうんと頷いて大和に疑問の眼差しを向ける。
「そんなの簡単じゃん?」
大和の指が、ゆっくり焦らすように唇をなぞってきた。
「俺が一番おいしく食べられるやり方で食べようとしてるだけ。……これでキスしたら、最高に甘いと思わない?」
囁かれた言葉から感じる隠しきれない色気と危なさに、顔が一気に熱くなった。
もしこれが漫画か何かだったら、湯気でも出ていたに違いない。
「ってことで、高校生らしくゲームしてみよっか?」
どうしてそうなるの、と言ったのに黙殺されてしまう。
大和は懐から棒状のお菓子を取り出すと、それをまた口元まで運んできた。
意図を察し、少しの期待を抱きながら先端をくわえてみる。
「じゃ、俺がこっちから食べるね。……目、閉じちゃだめだから」
少しずつ大和がお菓子を食べる。
必然的に顔がだんだん近付いて、息が触れ合うまでの距離になった。
目なんて閉じられるはずがない。
ずっと大和が見つめてきているのに。
「……ん」
やけに色っぽい吐息が本当に目と鼻の先で感じられた。
あとほんの少しでキスをしてしまう――。
そう思ってついに目を閉じてしまったのに、唇が触れ合う前にぽきりと軽い音がした。
はっと目を開けると、大和は折ったお菓子を口にくわえて笑っている。
「ふふ、ざーんねん。俺にキスしてほしかったでしょ? ごめんね」
その笑みと言い方に、わざと途中でやめたのだと気付く。
弄ばれていたことを知ってもやもやしたものが胸に生まれた。
いつもこうやって翻弄してくる大和に、ずるいという感情しか浮かんでこない。
何か反撃したくてもできない悔しさを抱えながら、ふい、と顔を背ける。
またお菓子を食べさせようとしてもそうはいかないのだと態度で示して。
「……こーら。なんでそっち向くの」
後ろから聞こえた声がやけに近い、と思ったときにはもう、大和が後ろから抱き締めてきていた。
半ば強引に振り向かされ、さっきはくれなかったキスをいとも簡単に与えられる。
「君が可愛いから、遊びたくなっちゃったんだよ」
そんなことを言っても許さない、と言いたかったのに、チョコ味のキスが言葉を封じてしまった。
身体の力まで奪われていくようで、思わず後ろに一歩下がる。
かくん、と膝が砕けたとき、背中が壁に押し付けられていた。
ここまで追い詰めた張本人が至近距離でにっこり悪い笑みを浮かべる。
「ほら、また俺のこと誘ってる」
バレンタインのお返しに、と大和は囁いた。
なんのことかと問う前に首筋を軽く吸い上げられる。
「ハートマークにはできなかったけど、俺の気持ちは伝わるでしょ?」
唇の触れた場所がじわじわ熱を持ち始めていた。
こんなにも全身が溶けそうで鼓動も落ち着かないのに、大和は慣れた様子で涼しい顔をしている。
「さ。もっともっと夢中にさせてあげるよ」
さっきとは違う場所にまたキスが落ちた。
ふわりと香るチョコの甘さがまた憎い。
大和のキスと声を刻まれて、他のことなど考えられなくなっていく――。
今日はバレンタイン。
BLOSSOM社でも当然、おとどけカレシたちが『仕事』に勤しんでいた。
過去のキャストも、今のキャストも関係なく――。
***
珍しく、壱は照れた様子を見せていた。
いつもの大人びた余裕はこれっぽっちもない。
それもそのはず、今、壱は学生時代の制服に身を包んでいた。
「恥ずかしいな。どっちかって言うと、もう教師の歳なんだけど」
学生服のせいで、そこはかとないアダルティさが逆に引き立っているような気もする。
確かに同級生などと考えるよりは教師の方がしっくりきた。
ただ、いつもとは違うスタイルを楽しみたくて、おとどけカレシモードなのをいいことにちょっぴり攻めてみる。
以前は先生と呼んでみた。
今日は――。
「今、なんて……呼んだ……? 壱くんって……言った……?」
あくまで落ち着いた姿を保とうとする壱に、ある種の尊敬を覚える。
「壱くんか……。いいね、いつもとは違って新鮮だよ。じゃあ、君のことはちゃん付けで呼んでみようかな? ……ふふ、なんだか付き合いたてのカップルみたいだね」
ちゃん付けするときもあるじゃないかと言いかける。
ただし、そう呼ぶときは名前ではなく『巨乳ちゃん』という非常に不本意な呼び方だった。
「さて、関係もはっきりしたことだし、バレンタインらしく……いいかな?」
そう言われて、今日のために用意したチョコを取り出す。
ただし、壱はこれをもらうことを当然知っていたし、中身の味だって既に知っていた。
「ありがとう。このチョコはどうやって食べさせてもらおうか悩むね。……そうそう、チョコレートフォンデュってあるんだけど」
壱に手を取られ、薬指に甘いキスを落とされる。
「溶けたチョコを君の肌に付けたら、どんな甘さになると思う?」
匂わせるどころか、ストレートに危ない発言をされてかっと全身が熱くなる。
完全に硬直したのをいいことに、壱は耳元に唇を寄せてきた。
「指だけじゃない。頬も唇も全部甘くして……君のこと、味わいたいな」
くらくらしすぎて倒れそうになる。
そうならずにいられたのは、壱の唇の端にいつものふざけた笑みが残っていたからだった。
***
「やっぱこれ、ちょっと苦すぎたよなー」
もそもそチョコを食べながら壱は顔をしかめる。
その隣に座って、壱に差し出されるまま食べさせてもらった。
「にしてもまさか、俺にプレゼントするチョコの作り方を俺に聞いてくるとは思わなかったわ。普通こういうのってサプライズじゃね?」
また一つ壱がチョコを食べさせてくれる。
ついでに指を甘噛みすると、こら、と怒られた。
「別にいいけどな。なんか頼れる完璧彼氏って感じだし?」
ふふん、と壱が得意げに胸を張る。
そうやって二重の意味で喜んでくれることもあって壱にチョコの作り方を聞いていた。
お菓子作りのプロである壱に下手なものを出したくなくて、それならいっそ本人に教えてもらえば一緒にいられる時間も増えると思ったのは内緒である。
多分、気付かれてはいるだろうが。
「でさ、でさ! チョコフォンデュさせてくれんの? 最悪、板チョコおっぱいに挟むだけでもいいぜ……!」
ひたすらきらきらした純粋な目で言われたものの、発言の内容は不純すぎた。
大体、溶けたチョコなんて肌に落としたら熱いに決まっている。
「はっ、確かに火傷しちまうな。お前が怪我すんのはやだけど……でも、なんかそういうえっちなのって男のロマンっつーか……」
絶対に嫌だと両手で胸を隠す。
壱の顔が非常に情けなく緩んだのは見なかったことにする。昼間のあのアダルティな大人の男性は一体どこへ行ってしまったのか、きっと壱本人にもわからないに違いない。
「そんじゃ、せめて口移しでどうだ!」
どうだ、じゃない。
とは思ったものの、若干ありかと思ってしまったのが悔しい。
壱が提案してくる数々の変態行為に比べれば、口移しくらい普通すぎるためだった。
「でもなんか、そうなったらチョコどころじゃなくなるしな。やっぱ普通にキスだけでいいわ。……ほれ、来い」
壱がぽんぽんと膝を叩く。
誘われているのが嬉しくて飛びつくと、頭を撫でられながらキスされた。
「この重み、いつ感じても……イイ」
なんの重みなのか、今だけは突っ込まないでおくことにする。
今日はバレンタイン。
少しぐらい、壱の発言に寛容でもいい日だと思うことにした――。
今日はバレンタイン。
BLOSSOM社でも当然、おとどけカレシたちが『仕事』に勤しんでいた。
過去のキャストも、今のキャストも関係なく――。
***
「うわぁ、かっわいい!」
動物の形をしたチョコを渡すと、遥は目を丸くして喜んでくれた。
本当はそれ以上の反応をしたいだろうに、今はおとどけカレシモードのせいで遥にしてはずいぶん控えめになっている。
「これ、ハムスターだよね? 箱もすっごくキュートだよ。君みたい!」
にこ、と笑みを向けられて不覚にもどきりとしてしまう。
今のが演技だったのかそうでないのかはわからないが、こういう所が小悪魔と呼ばれる所以なのだろう。
「でも、今日は俺の方がかっこいいと思うんだー。どう? この制服姿! おとどけカレシの中で一番似合ってると思うんだよねー」
それは否定できなかった。
さっき他のキャストの写真を見せてはもらったものの、他の誰より遥がかわいくて、一番きらきらして見えたと思っている。
もちろん、恋人としてのひいき目は大いにある。
「海斗くんに着方のアドバイスなんてしちゃってさ。自分の魅力を引き立たせるスタイルってやっぱりあると思うし。だから俺はみんなと違ってシャツじゃなくてパーカーなわけ」
わざと袖をだぼだぼにしながら、遥はにっこり笑った。
さらっと出した名前は、以前から名前を耳にする遥の友人のもの。
オタク趣味だということもその海斗という友人は知っているらしく、一緒にバーを見に行った話など散々教えてもらっている。
「学生時代もこうやってパーカー着てたんだ。冬はあったかくてちょうどいいんだよ。ポケットにいろいろ入れられるし!」
制服姿を披露するように、遥はその場で回ってみせる。
そして、わざとらしくよろけながら寄りかかってきた。
「かわいいって思ってくれてるなら、チョコみたいに甘いキスをちょうだい?」
あざとい、以外の感想が出てこない。
期待でいっぱいの目で見つめられ、遥が望んだ通りに口付けた。
そのすぐ後に、遥からもキスをしてくる。
「そんなんじゃチョコより甘くないよー。もっともっと甘い方が好きだな」
指を絡められ、大きく鼓動が飛び跳ねる。
かわいい顔をしているくせに、こういう攻め方はいつされても心臓に悪い。
今はまだ触れるだけのかわいらしいキスをされながら、一応、お互い偽物の恋人を演じておいた。
***
遥より少し遅れて帰宅すると、既に部屋はライブ会場と化していた。
しっかりキャラもののTシャツに着替えた遥はテレビの大画面にとあるアイドルキャラを映し出している。
それは、遥の好むゲームのワンシーンだった。
五分もの間、フルでキャラのライブシーンが流れるというものであり、もう見すぎたせいで振りを覚えてしまっている。
「お帰り! 準備しといたから……!」
頷いて、すぐに着替えをする。
そのキャラにくっついているマスコットアニマルが喋り出した。
彼女はこのライブが終わった瞬間、超能力を使うミラクルな少女に変身する。
そして、そのマスコットアニマルは――。
「君が作ってくれたチョコ、モケモケでしょ! おいしかったし、フィギュアみたいに本格的で感動したよ!」
そう、遥に渡したハムスターの形をしたチョコはモケモケというキャラクターだった。
オタクの遥に一番喜んでもらえるチョコはと考えた結果、それを渡すことにしたのだが、どうやら大正解だったらしい。
「もうあれもらってからずっと、今日はももぴーのムービー見ようって思っててさ……!」
興奮気味に言っていた遥は、急にあっと声をあげる。
「ご、ごめん、興奮しすぎてた? チョコを作ってもらったことより、キャラものだったことに喜んでるみたいだよね。そうじゃないんだよ。もちろん君が作ってくれたっていうのが一番嬉しくて、でもその見た目がモケモケだったのが本当に本当に嬉しくて……!」
特有の早口になった遥は、一生懸命喜びを訴えてくる。
気にしなくてもいいんだと首を振りながら、もうひとつ、チョコを渡した。
「え……? まだあるの……?」
ためらいながら、遥は箱を開ける。
なかなかに大きいその箱を開いた瞬間、きれいにその場で五体投地した。
「やばい……。まさかももぴーのミラクル変身モードフィギュアそのもののチョコまであるなんて……。っていうかこれどういう技術!? どうやって作ったの!? ここの服のしわの再現とか完璧すぎない!? 髪の質感どうなってんの!? これもういろんな意味で尊すぎて食べられないよ。ああ、もう、なんか全部吹っ飛んだ!」
大興奮で一息に言い切ると、勢いよく抱き着いてくる。
「今、世界中に君のことを自慢したい。こんなに俺をわかってくれてる恋人なんだってこと……!」
勢いに押されてベッドにひっくり返ってしまう。
そのはずみにテレビがライブシーンを流し始めた。
でも、もう遥の耳には入っていない。
大好きなももぴーの歌声も、キスに紛れて聞こえなくなってしまう――。
今日はバレンタイン。
BLOSSOM社でも当然、おとどけカレシたちが『仕事』に勤しんでいた。
過去のキャストも、今のキャストも関係なく――。
***
――ほとんど、ひったくられるようにしてチョコを奪われた。
勝手に箱を開けた海斗はにやりと笑って中のトリュフを食べてしまう。
「へぇ、お前にしちゃまともなもん作ってきたじゃねぇか。ありがたく受け取っておいてやるよ、バレンタインだしな」
仕事モードの海斗はそれはもう偉そうにぐいぐい来る。
ひとつだけしかチョコを食べない辺り、本来の性格が隠しきれていない気はした。
「こんなもんでももらっちまったし、なんかお返ししねぇとな? お前みたいな女にはキスがいいだろ。ほら、顔上げろよ」
上げろと言いながら海斗は顎を持ち上げてくる。
本当は頬を引っ張ってやりたかった。今はそうしていいときじゃないと我慢する。
顔が限りなく近付いて、不覚にも俺様状態なのにどきどきしてしまった。
それを察したのか、海斗がくすっといつもの笑みを浮かべる。
そして、誰にも聞こえないよう小声で囁いた。
「残りは帰ってから食べるね。ありがとう」
今、言わなくてもいいのに、と思いながらキスを受け取る。
おとどけカレシとして俺様キャラを演じている今、もし誰かにそんな一言を聞かれたらどういうことだと言われてしまうだろう。
それでも海斗がお礼を言ったのは、本来の性格のせいだった。
びびりで臆病な海斗は育ちのいいお坊ちゃんであり、人にはきちんとお礼を言うものだと教育されている。
ときどきそういう育ちの良さが俺様状態のときも出てしまっていることに、果たして本人は気付いているのかいないのか。
もっとも、隠しきれていなかったからこそ、恋人として付き合うに至ったわけだが。
「なんだよ、その顔。一回だけじゃ足りねぇなら言えばいい。上手におねだりできたらしてやるよ」
帰ったらどっちがおねだりをすることになるのか。
そんなことを考えながら、かつてとは違い、余裕を持って海斗の相手をする。
「はっ、なーに顔赤らめてんだ。高校生に迫られて興奮してんのか?」
言われて、そういえば今の海斗は学生服だな、とまじまじ見つめる。
今となっては俺様モードの方が新鮮すぎて、そっちにばかり意識が行ってしまっていた。
「似合うだろ、学生服。いけない教師にお仕置きしちまったりしてな」
キスは唇ではなく首筋に落ちる。
お仕置きと言われるとちょっとだけむっとした。俺様タイプのこういう所がなんとも受け入れがたい。
ただ――きっちりボタンを留め、いかにも育ちの良さを見せつけた制服姿とはどうにも噛み合わなくて、俺様な言動もついつい許してしまう――。
***
「チョコ、おいしいねえ」
家で海斗はすぐに渡したチョコの残りを食べ始めた。
俺様だったときには飲み込むようにしてさっさと食べたそれを、今はちびちびかじりながら大事に味わっている。
「これ、君が作ったんでしょう? すごいね、パティシエになれるよ……!」
ふわふわした声で褒められるとなんだかくすぐったい。
大きな身体をべったりくっつけてきながら言うせいで、少し暑苦しくはあったが。
「……えー、別にくっついたままでもいいじゃん。君がくれたものを、君を抱き締めながら食べるなんて幸せすぎる。次は君を食べちゃいたいなーなんて。……いたっ」
俺様のときにはできなかったことを、と海斗の頬をつまむ。
そのまま横にみょーんと伸ばすと、ふにゃふにゃ笑われた。
「あのね、制服の着方が下手だってはるくんに言われちゃった」
よく海斗から聞く友人の名前だった。
実際に会ったことは一度もないが、おとどけカレシだった頃からずいぶん仲良くしてもらっているらしい。
「俺様キャラなんだからボタンは留めちゃだめって。もしかして君もそう思ってた?」
深く頷くと、海斗はほんのりショックを受けたようだった。
わかりやすく眉を下げてしゅんと肩を落としてしまう。
「言ってくれればよかったのに……。俺様っぽい制服の着方なんて誰も教えてくれなかったよ」
落ち込んだ海斗の頭をよしよし撫でてみる。
すると、すぐにむっと顔を上げられた。
「それやだ」
あぐ、と海斗が手を掴んで指に噛み付いてくる。
甘噛みされて指先にちゅっと口付けられた。
「ほんとに食べちゃっても知らないから。……君が悪いんだ、全部」
まだ残っていたチョコの箱がそっとテーブルに置かれる。
彼がチョコの次に何を味わうつもりなのか察しても、もう逃げられない――。
今日はバレンタイン。
BLOSSOM社でも当然、おとどけカレシたちが『仕事』に勤しんでいた。
過去のキャストも、今のキャストも関係なく――。
***
ぽと、と手からチョコレートの箱が滑り落ちる。
そのまま硬直していると、原因である奈義が上品な笑みを浮かべながら箱を拾ってくれた。
「どうしたの、ぼんやりして。もしかして俺が王子様にでも見えた?」
柔らかい声で冗談めかして言われると、顔が熱くなってしまう。
奈義が王子様に思えるのは今に限ったことではない、と言いかけて飲み込んだ。
今、びっくりしてしまったのはいつもと違う制服に着替えているせい。
まさか高校生の制服に着替えておとどけカレシをする日が来るなんて思ってもみなかった。
意外にも似合うのが衝撃的で、更に言うならちょっぴり不良っぽく襟を緩めている所のポイントが高すぎる。
カーディガンをチョイスしている辺りも実によくわかっていると言わざるをえなかった。
「はい、チョコ。……って、これ、きっと俺にくれるものだよね。今開けてもいい?」
そう言われて、しまった、と唇を噛む。
人にあげるものだというのに、落としてしまうとはとんでもない。
それでも、奈義は嬉しそうに受け取ってくれた。
――催事場で一時間悩んで手に入れたバレンタインのチョコを。
「……てっきり手作りなのかと思ったよ」
ぽつりと聞こえた声が責めているように聞こえた。
既製品を選んだのは、奈義が潔癖症だと知っているから。
本当に本当に悩んだものの、少しでも嫌な思いはさせたくなくてそれを選んでいる。
奈義の顔色を窺ってみた。
おとどけカレシをやっているときの奈義は常にミステリアスな雰囲気を漂わせていて、表情を読み取るのがなかなか難しい。
既製品のチョコを喜んでいるのかいないのか――それもわからなかった。
***
帰宅した奈義が、部屋の真ん中で正座した自分を見て眉を寄せる。
「なにしてんの」
反省を、と伝えた。
奈義の欲しいものが最後までわからなかったのが申し訳なくて。
そう伝えたのに、奈義はまっすぐ近付いてきて鼻をつまんできた。
「馬鹿じゃない?」
そして差し出されたのは空になったチョコの箱。
昼間、奈義にプレゼントしたものだった。
「あんたがくれるならなんでもいいよ。そんぐらいわかんないわけ?」
形だけでなく、ちゃんと受け取って食べてくれたのが嬉しかった。
だけどまだ不安でぽつぽつ尋ねてみる。
「……手作りだと思ったのは、あんたならそうするんじゃないかって思ってたから。別に深い意味なんてねぇ。そりゃあ……ちょっとは手作りだったらいいなと思わないこともなかったけど」
え、と顔を上げる。
「あんたの作ったものなら、平気だし」
奈義は目を逸らしていた。
やれやれ、と言いたげな気だるい雰囲気を漂わせてはいるが、その横顔は若干赤い。
「あーあ、気ぃ使えよな。彼氏にあげるチョコって言ったら、手作りに決まってるだろ」
ごめんなさい、と謝罪すると、今度は鼻をつままれる代わりにキスされる。
びっくりしていると、もう一度。
奈義の名前を呼んで更に二回。
「もう一回プレゼントしろよ。今度は手作り。ナッツ入れて」
わがままだし横暴だとちょっとだけ文句を言ってみる。
そのせいで生意気だとまたキスされた。
「言っとくけどがっかりしたわけじゃねぇから。……手作りが食べたかっただけで、その」
言えば言うほどドツボにはまっていくのを奈義自身も察したのだろう。
結局の所、奈義はがっかりしているのだった。
きっともらえると思っていた手作りチョコが既製品だったのが原因で。
「あー、もうほんと気にしなくていい。あんたが俺のために買ったのを選んだのはわかってる。俺が勝手に手作りチョコをバレンタインにもらうってのに憧れてただけで――」
言ってから、奈義は気まずそうに口を押さえた。
「……あんたのこと、夢見がちなふわふわちゃんなんて言ってらんねぇな」
夢を見ていたのは奈義も同じ。
それにもう少し早く気付けていれば、望んだ展開をプレゼントできていた。
それなら、と立ち上がる。
「……え、今から作んの?」
うん、と頷く。まだ冷蔵庫に食材は残っている。
バレンタインが終わってしまうまで時間は少ないものの、手作りをプレゼントすることはできるだろう。
それなのに。
「馬鹿な奴。……まぁ、俺のが今日は馬鹿だったかも」
ふっと笑った奈義に抱き締められて身動きを取れなくなる。
何度目になるかわからないキスが、また唇に落とされた。
「チョコは明日でもいいから。……今はあんたが欲しい」
囁きが唇に触れた。
奈義が望むことならなんでもしたくて、今度はこちらからキスをする。
自分に魔法をかけてくれたように、その夢を叶えてあげたかった――。
今日はバレンタイン。
BLOSSOM社でも当然、おとどけカレシたちが『仕事』に勤しんでいた。
過去のキャストも、今のキャストも関係なく――。
***
ぺた、と無遠慮に胸元に触ってみる。
突然のことでびっくりしたらしい葵が、小動物のようにぷるぷる怯えた目で見つめてきた。
「どうして触るの……?」
今の葵はおとどけカレシで、口数も普段に比べれば少ない上に声も柔らかくて甘い。
しかもバレンタインということで制服姿だった。
普段のテンションの葵なら高校生と言われて納得いくのに、今は逆にかみ合っていない気がしてならない。
だからこそ、本当に葵だよなあという思いを込めて触ってみたのだが。
「くすぐったいから、触っちゃだめだよ」
くしゃ、と葵ははにかんだ。
そんな顔で言われると、思い切り抱き締めて頭をわしわし撫でてみたくなる。
「ねえ、俺を撫でるよりもっと……すること、あるでしょ?」
はい、と葵が両手を差し出した。
満面の笑みを浮かべてひらひら指先を動かす。
「君のチョコが食べたいな……?」
頷いて、用意してきたチョコを渡す。
葵はぱぁっと顔を輝かせ、きれいに包装されたそれに頬擦りした。
「大事に食べるね。君がくれたチョコだから……」
大事にしてくれるのはわかる。ただ、今夜までにチョコが残っているかは怪しかった。
***
おとどけカレシとしての仕事を終えた葵は、早速家でチョコの箱を開いた。
しかもなかなか豪快に。包装した意味がないと笑ってしまう。
「あー! やーっとあんたのチョコ食える! やっぱさ、やっぱさ、ああいう甘えんぼっつの? そういうときはもったいないなーなんて顔してなきゃだめだべ? でもさー、俺、やっぱ無理! だってあんたがくれたもんだし! あの場でがっつかなかっただけ頑張った方だと思わねぇ?」
我慢していた分、葵の勢いが止まらない。
しゃべり続けている間も、ぱくぱくチョコをつまんで、ものの三十秒もしないうちにすべて食べ終えてしまった。
からっぽの箱に手を伸ばし、ようやくなくなったことを悟ると、葵は愕然とする。
「俺……もう全部食っちまったんけ……!」
夢中になるくらい大事に大事に味わってくれたのはもちろんわかっていた。
それなのに、葵はあわあわしている。
「ち、違うかんな! これでもすげー味わって食ったから! こーたうまいもん、初めて食ったから……その、全然後のこと考えてなくて! 一瞬でなくなると思ってなかったんだよ! ほんと!」
両手を合わせて葵はぺこぺこ頭を下げる。
ごめんねごめんね、と謝るその姿を見て、つい頬が緩んでしまった。
それを見て安心したらしく、ようやく葵は落ち着きを取り戻す。
「なんつーかよ、やっぱ人の作ったもんってうめえなあ。しかもさ、あんたの愛情たっぷり込められてたもんだろ? あと千個くらい食えそう。もうないんけ?」
さすがにそんなにたくさんは用意していない。
というより、一気に千個も食べれば後で具合が悪くなってしまうのではないだろうか。
そう思ったのに、葵はからっぽの箱をひっくり返して残念がっている。
こんなことならかっこつけずにきれいなものを五個、なんて言わず、タッパーにざらっと用意すればよかったと思ってしまった。
「俺さ、ホワイトデーのお返しちゃんと考えとくから。寿司なら今でも握れっけど、どうする?」
今すぐなにかしたいんだと葵は目を輝かせていた。
もし犬だったら、ちぎれるくらい尻尾を振っていたのだろう。
その勢いと熱意に、また声をあげて笑ってしまう。
「え? ……んー、まぁ、確かにチョコのお返しが寿司ってなんか変かもしんねえな。そんじゃさ、サーモンチョコロールみたいな……。あ! それ店でやってもよかったなー。バレンタイン限定とかなんとか言ってさ! だめ?」
だめだろうと笑いながら答えると、葵もつられたように笑ってくれた。
恋人になってからずっと、こんな風に笑いが絶えなくて楽しい。
ただ、こんなやり取りをしていると恋人じゃなくて友人のようだと葵に伝えようとしたとき――。
「他に今用意できんの、俺だけだ」
笑顔が近付いたかと思うと、唇が重なっていた。
不意打ちのキスに驚いて目をぱちくりさせていると、頬を両手で挟まれる。
「いっぱいちゅーすっから、とりあえず今日のお返しはそれってことで!」
葵の勢いに飲まれて、ごろんとカーペットの上に転がってしまう。
言葉通り葵は数えきれないくらいのキスをくれた。
そのどれもが愛おしくて、幸せな気持ちにさせてくれる。
落ち着きがなくて騒がしくて、こっちまで元気になるようなテンションの葵を見ているうちに、やっぱりこっちの方が高校生らしいじゃないかとまた笑ってしまう――。
今日はバレンタイン。
BLOSSOM社でも当然、おとどけカレシたちが『仕事』に勤しんでいた。
過去のキャストも、今のキャストも関係なく――。
***
「これ、俺に?」
制服姿の仁が、渡したチョコを見て軽く目を見開く。
昨日作ったそのチョコは、もちろん仁のためだけのものだった。
「ありがとう。もったいなくて食べられそうにないよ。……でも」
言いながら、仁はチョコの包みを開く。
「君が俺のためにくれたものだから、早く食べたいっていうのもあるんだ」
きらきらした笑顔を向けられて嬉しくなる。
仁が我慢の苦手な人だということは知っていた。
それが、おとどけカレシとしての今も見えた気がしてますます幸せな気持ちになる。
「チョコ味のキス……はありきたりかな。俺にどんなお返しをしてほしい?」
こうやってゆだねてくる辺りがずるい。
仁の表情には明らかに楽しむものが見えて、こうなったらなにか困るようなお返しを要求してみようと思ってしまう。
やがていいことを思いついた。
これならきっと、仁は困るだろう。
「――え? 『俺』が欲しいの?」
その通り、と胸を張ってみる。
『プレゼント』にされるのは大抵自分の方で、仁がそうだったことはない。
もしそうなったとき、なにをしてくれるんだろうと前々から気になっていた。
今がそれを知る絶好のチャンスである。
「そっか、それならあげるしかないね」
おお、と心の中で拍手してしまう。
たくさんオムライスを作ってもらおうか、それとも寝かし付けでもしてもらおうか。
一日付き合ってもらっておいしいお菓子を買ってもらおうか――。
そんなことで胸をふくらませていたのに。
「……お前、んなこと言って後で覚えてろよ」
こっそりこっそり囁かれたひと言に飛び上がる。
見上げた先で、仁は――恋人の顔をしていた。
***
「俺の思ってたのとちげぇ……」
おとどけカレシを終えた仁がそう呟いたのも無理はない。
『仁』が欲しいという具体的な意味を求められ、考えた挙句マッサージを指定したからだった。
「普通、そういうのってなんかこう、イイ意味で考えるもんだろ」
なんだかんだ言いながら、仁は足を揉んでくれている。
いつも仕事から帰ると労いながらしてくれるそれを、今日は休日だったのにしてくれる。それがなんだかとても特別に感じられて、つい掴まれている足を軽く振ってしまう。
「こら、ばたばたすんな」
ぐっと足を掴まれ、足の甲にキスされる。
驚いて引っ込めようとしたのに、そのまま引っ張られてソファから落ちてしまった。
「次、背中出せ。先に肩のがいいか?」
呆れたように尋ねられ、ちょっとだけ考えてみる。
起き上がって仁に抱き着いてみた。
溜息が聞こえたかと思うと、よしよし背中を撫でられる。
「お前も大概偉いよな。そういうとこ、俺の仕事中は出さねーんだから」
褒められてものすごく嬉しくなる。
いつもおとどけカレシ中の仁に抱き着いて、その胸に顔を埋めたい衝動を抑えていた甲斐があったというものだ。
「なぁ、今日の俺……どうだった?」
おずおずと聞かれ、仁が制服姿の自分を気にしていたのだと知る。
もちろんただかっこいいだけだとは思っていなかった。
昼間は言えなかったことを、仁の腕の中で言わせてもらうことにする。
「……ボタンちゃんと留めろ? そもそも学生時代だって、ちゃんと制服着てなかったっての。……あ? 第二ボタン? なんで今そんな話になるんだよ。女になんかやってねーって。あー、でも舎弟の誰かが持ってったっけな。つーか、俺の制服でオークションなんかやってたし。……やりたい、じゃねぇよ。なんでお前もオークションに参加する気満々なんだ」
社会人の財力を舐めないで欲しいと訴える。
仁の現役時代の制服が手に入るのなら、貯金をはたいても構わない。
必死にそう伝えると、笑われてデコピンされる。
「お前、そもそも『俺』を持ってんじゃねーか。好き放題していいんだぞ?」
とびきり甘い声で言われてはっとする。
確かに仁は恋人で、わざわざオークションに参加しなくても好きなだけ服を鑑賞することができる。
そろりと仁が腰に手を伸ばしてきたのを感じながら、『好き放題』を提案した。
「……だからもうマッサージはいいだろ。なんでそうなるんだよ」
次は手をやってほしかったのに、返されたのは溜息だった。
好き放題していいのかいけないのかこれではさっぱりわからない。
納得いかない思いでふてくされていたせいで、仁もいまいち不満げな顔をしていることには気付けなかった――。
たまの休み、映画を楽しもうと二人でテレビの前に座る。
面白そうだと個人的に思っていた映画は――ホラー映画だったらしい。
そのせいで少し前から隣からずっと微かな振動を感じていた。
「……ひっ」
何やら音がする度に、隣で膝を抱えた海斗が小さな声をあげる。
室内だというのにしっかりフードをかぶっているのは、それで少しでも恐怖を軽減させようとしているから、らしい。
「う……うう……」
どちらかというと海斗の方がよほど腐った死体のような声を出している。
とは言えず、ぷるぷるする海斗の手を握ってみた。
大丈夫だよと勇気付けるつもりでそうしたのに、びくっと反応されてしまった。
「い……いきなり手なんか握ってこないで……」
こちらを見た海斗は目に涙を浮かべてやっぱり震えている。
大きいくせに小動物のようだとこっそり思ってしまったのも仕方のないことだった。
「君が悪いんだよ……。怖いの嫌だって知ってるのに……こんな……」
海斗が言いかけた瞬間、ばん! とひと際大きな音が響く。
「ひぎゃっ!?」
叫んだ海斗が勢いよく抱き着いてきた。
とっさに受け止めて落ち着かせるようにその背中を撫でておく。
大きな身体を必死に縮こまらせて、海斗は少しでも怖いものから逃れようとしていた。
顔を思い切り胸に埋めているのは下心があってのことではないだろう。
「もうやだ……ここで終わりにしよ……?」
いいよ、と言いかけて首を横に振る。
こういう海斗は少しおもしろい。
もともとドS俺様キャラでやってきたというのは嘘じゃないかとすら思う。
ただ、彼が本当にそんなキャラを演じていたことを誰よりも知っていた。
「なんで終わりにしてくれないの……意地悪だよ……。さっきの見たでしょ……? いっぱいぎゃーってして……あんなの痛いよ……かわいそうだよ……」
えぐえぐ半泣きになりながら、海斗は嫌がって声を震わせる。
それをよしよし撫でていると、急にはっと顔を上げられた。
「こ、怖いの忘れさせてくれたら頑張れるよ。だから……だめ?」
いいことを思いついた、と言いたげな顔を見て軽くデコピンしてみた。
海斗はおねだりが上手で、隙あらば甘えようとしてくる。
かつて、甘え方を同僚に聞かれたことがあると言っていたような言っていなかったような。
「うう……」
まだ海斗はぷるぷるしている。
おねだりが通用しないとわかったからか、名残惜しげに離れていった。
再び体育座りをして、またこちらを見つめてくる。
「手だけ繋いでて……」
消え入りそうな声を聞くと、やっぱりこっちの海斗の方が好きだと思ってしまう。
本性がこれだと知った今、強気を演じる俺様な海斗もなんだか好きに思えてきてしまうから不思議だった。
とりあえず、と海斗の手を握り直す。
ついでにこれ以上怖くならないように頭を撫でてみた。
「……子供じゃないのに」
不満げな声がして、涙目のままにらまれる。
なんだかかわいいと思ってしまって、もう一度デコピンしたくなった。
それを悟ったのか、海斗が非常に嫌な顔をする。
そして、伸ばしかけた手を掴まれた。
「意地悪するなら、俺もするからね。もう知らないよ」
しまった、と思ったときにはもう視界がぐるんと動いて天井を向いていた。
海斗が覆いかぶさって、また何か思いついたようにはっと目を丸くする。
「そっかぁ、最初からこうすればよかったんだ」
なんの話、と言いかけた瞬間、呼吸ごと唇を奪われてしまう。
落ち着いてと言いたいのにキスでそれが叶わない。
深く深く口付けて、やがて海斗はふにゃっと笑った。
「どうせ借りるなら、次はこういう感じのにしてね。あ、動物ものはホラーよりだめだよ」
もう海斗は震えていない。
叫び声が流れてきてもさっきのような反応はなかった。
今、海斗が見ているのは恋人だけで、聞こえているのも恋人の声だけなのだろう。
そして恋人というのは自分のことで――。
「今度は君の方が震えてる」
くすくす笑うと、海斗は妙に艶めかしく頬に触れてくる。
怖さを忘れるためのキスは、それだけを目的とするには甘すぎた――。
「わあ」
思わずそんな声が出てしまい、海斗は少し恥ずかしくなった。
目の前には大事な恋人が作ってくれたケーキ。
本人はたまたま気分が乗ったからだと言っているものの、その顔を見れば海斗のためのものだということぐらいすぐにわかる。
(ふふふ、嬉しいな。俺のために作ってきてくれたんだ)
「大事に食べるね。ありがとう」
そこまで大事にするほどいい出来じゃないと思う、と身もふたもない返しをされる。
それも彼女の照れ隠しだということぐらい海斗にはお見通しだった。
「ねぇ、食べたい。あーんしてくれる?」
ぐ、と彼女が言葉に詰まった。
素直に海斗の要求に応えるかどうか悩んでいるらしい。
海斗も顔に出やすい性格ではあったが、その恋人である彼女も割とわかりやすかった。
それを隠そうとして強気な言葉を吐いてしまうところが、海斗にとってはかわいくてたまらない。
「口、開けてればいい? あーん」
彼女に食べさせてもらうのを待って口を開けておく。
急かすようにぱくぱく動かしてみた。
彼女は呆れたように海斗の鼻をつまむ。
「んーん、息できなくなっちゃう」
彼女がそうやってなんの気兼ねもなく触れてくるのが本当に嬉しかった。
恋人になってからというもの、海斗も彼女もお互いへの遠慮がずいぶんと減っている。
触れれば反応してくれるし、海斗も触れられれば何かしら反応を見せる。
細い指に触れられるとくすぐったくて、胸の奥がほっこり温かくなった。
たまに彼女が遠慮をなくしすぎて首筋や鎖骨に触れてくることもある。
そういうときは、海斗も遠慮せず彼女に触れさせてもらうのだった。
「あーんするかキスするかどっちかにして」
やだ、と即答される。
彼女のそういうはっきりしたところがとても愛おしくて、表情が簡単に緩んでしまった。
「キスがいいなぁ」
彼女はちょっぴりだけむっとした顔をすると、やれやれ、と言いたげに触れるだけのキスをしてくる。
それだけで海斗の体温は確実に三度くらい上がった。
(ああ、やっぱりこの子のことがすごく好きだ……)
結局、キスもあーんもすることに決めたらしい。
彼女はケーキを取り分けようとフォークに手を伸ばした。
その途中、指にクリームがついてしまう。
(そっちの方がおいしそう)
ほとんど反射的にそう思って、彼女の手を引き寄せる。
そして、クリームのついた指をぺろりと舐めてみた。
まだそれしかしていないのに、彼女の顔が一気に赤くなる。
「こういう食べ方もあり? なんてね」
あながち冗談でもなくそう言うと、海斗は彼女の指を口に含んで甘噛みした。
すぐに手を引っ込められそうになる。
でも、海斗が少し力を入れただけで彼女は行動の自由を奪われてしまうのだった。
「俺もお返しした方がいいよね、キス」
まだ口の中にクリームの甘さが残っている。
それをわかっていて、海斗は大好きな恋人に顔を寄せた。
「クリームと君と、どっちの方が甘いかな?」
(……あ、今のおとどけカレシっぽい。ちょっと懐かしいかも)
「……ほら、口開けて」
じっと見つめながら囁く。
おずおずと小さな口が開いていった。
それを見て、主導権がすっかり自分に移ったことを理解する。
「いただきます」
育ちのいい海斗はきちんと食前に挨拶をする。
今も同じだった。
「……ん」
クリームが香るキスをして、二人でその甘さを共有しあう。
こく、と彼女の喉が鳴った。
(……キスなんて何回もしてるのに、まだどきどきする。不思議だね)
ゆっくりゆっくり甘さを味わいながら、海斗はくすりと笑う。
「それじゃ、ここまで」
え、と小さく戸惑いの声が聞こえた。
もっとこの触れ合いが続くと思っていたのだろう。
本当は海斗もそのつもりだった。ただ、期待されていることに気付いた瞬間、意地悪な気持ちになってしまって。
「食べて欲しいなら、あとでおねだりして」
(何を、とは言わないけど)
まだ自分の温もりが残る唇を指で軽くつつく。
焦らすようになぞらせると、彼女の目がすっと逸らされた。
(先にケーキからいただきます)
フォークを取って、クリームの上に乗ったイチゴを食べる。
頬を紅潮させた彼女のようだと思うと、甘味が口の中で強くなった。
まるで砂糖の塊のようなのに、海斗はこれよりももっと甘いものがこの後待っているのを知っている――。
派遣期間中、たまに突発的なイベントがあることもある。
そう教えてくれた遥が、なんとミニライブに誘ってくれた。誰のライブかと思いきや、遥自身のものらしい。
いくら女性の扱いに手慣れた『おとどけカレシ』でも、そんなことまでこなすとは思わなかった。
軽い驚きを胸に、いつもの癖で現地入りが早くなる。
当然、席は最前列のセンターを取った。
しばらくすると、他にも大勢の女性たちが集まってくる。ぱっと見た限り、学生らしい観客は少なかった。
その理由もなんとなくわかる。遥は年下の小悪魔カレシとして派遣されるキャスト。主な層は遥よりも歳上の女性たちなのだろう。
そわ、と落ち着かない気持ちになる。
彼女たちは全員、一度でも遥とデートをしたことがあるのだろうか?
かつて遥はこの女性たちと、今、自分にしているように幸せな七日間を送ったのだろうか――。
「みんなー! 今日はありがとー! 遥のとっておきシークレットライブ、楽しみにしててくれたかなー?」
はっと顔を上げると、遥がステージに出てきたところだった。
愛想よく振りまかれる笑顔を見て、胸が強く締め付けられる。
――彼が見ているのは、ここにいる『カノジョ』たち。
今日まで恋人として自分を見てくれていたのに、今はみんなの遥になってしまっている。
まるで、ここにいる全員が恋人だとでも言うかのように。
無意識に手を握り締めると、ステージ上の遥と目が合ってしまった。
誘ったのは遥の方なのに、一瞬びっくりした顔をされてしまう。
その顔が不意に引き締められた。いつもはあざとくてかわいい表情ばかりなのに、突然恋人――否、男性を感じさせるものになる。
どき、と心臓が音を立てた。
遥がそんな顔を見せるのはもちろん初めてではない。
だけどまさか、こんなところで見せるとは思わなくて――。
「ふふっ! 俺のために来てくれたんだ? じゃあ、今日は君のために歌ってあげる!」
そう笑顔で言ってくれた遥の顔はいつも通りのものに変わっている。
いつも通り、と言っても彼との関係は七日に満たないが。
ぼんやり考えていると、ステージにいる遥が手を振ってきてくれた。いつもこういうとき、どう反応すればいいかはよくわかっている。
だから、いろんな思いを込めて振り返してみた。
遥がそんな風にしてくれるのは自分だけ。――今、恋人の自分だけ。
たくさんの『カノジョ』たちの唯一になりたくて、じっと遥を見つめる。
「ねえ、君はどこを見てるの?」
遥の歌う曲は知らない曲だった。
それなのに、今の自分の気持ちとシンクロする。
「俺じゃなくて甘いケーキ? こっち見てよ、お願い」
歌う遥はこっちを見てくれない。
彼が眼差しを向けるのは自分一人ではないから。
「もっともっと甘いキスをあげるから……」
どきん、と心臓が音を立てる。
遥が自分だけを見てくれたとして、『甘いキス』なんてあげられるのだろうか?
本当に恋人として、キスしてもいいのだろうか――?
***
ミニライブの名にふさわしい短いライブを終えた後、もしかしたらと期待を抱いて遥に会わせてもらえないかスタッフに聞いてみた。
本来なら当然許されないことではあったものの、今の彼女は遥の恋人だった。たとえ期限付きでも。
それならば、と特別に控え室まで案内される。
ドアを開けてもらい、中へ通された。
「え、なんで?」
休憩していたらしい遥が目を丸くする。
なぜか、一瞬悲しそうな顔をしたように見えた。
ただ、気のせいだったのだろう。
遥はにっこり笑って、側までやってくる。
「君の顔を見れて嬉しいな。でも、俺に会いたくてこんなところまで来ちゃうなんて、おあずけが苦手なんだね?」
どうして無理をしているように見えたのかわからなかった。
きっと疲れているのだろうと判断して、その笑みに合わせる。
「アイドルと恋人同士っていうのも、鉄板ネタだよねー! やっぱり君もそういうの、好き? 俺は……んー、相手がアイドルでもなんでも関係ないかな。君ならなんでもいい!」
やっぱり遥の笑みはどこか『本物』に見えない。
その顔を見ていると、まだ耳に残っているあの歌が思い出された。
――こっち見てよ、お願い。もっともっと甘いキスをあげるから。
今、遥は自分だけを見ていてくれる。
なにかが背中を押してくれたような気がした。
「あっ、もう!」
勇気を踏み出して頬にキスをすると、遥がびっくりして目を見開いた。
さっきの無理をした笑顔より、その顔の方がよっぽど自然で――胸がざわつく。
「びっくりさせないで? そんなことするなら、俺だってキスしちゃうよ」
その言葉に今度はこちらが驚いた。
ほんの少し赤くなった遥の顔が近付いたと思ったときにはもう、頬にくすぐったい感触が落ちている。
どう反応していいのか、ものすごく悩んでしまった。
これは恋人なのだから、当たり前のキス。
でも、本物の恋人ではないのだから、してはいけないキス。
戸惑いとためらいと、小さな胸の痛み。こんな感情も七日で終わって、消えてしまう。
楽しい時間の終わりを意識した瞬間、猛烈に悲しくなった。
遥が笑ってくれるのも、特別扱いしてくれるのも、もう終わり。
いつまでも終わらなければいいのに、と心から願う。
その願いを刻んだかのように、優しいキスの感触はいつまでも頬から消えなかった。
「うっそでしょ……」
遥がそう呟いたのも仕方のないことだった。
桜川に命じられるがままにした結果、とんでもないことになってしまっている。
(ううう、今派遣中の恋人に見せてやれ、じゃないよ!)
遥は今、とびっきりキラキラしたアイドル衣装を身につけていた。
いつも『おとどけカレシ』としてあざとい小悪魔を演じていたのに、今日はまさかアイドルにされた上、ちょっとしたミニライブまで行われる。
遥の魅力をより多くの女性におとどけする。
それが桜川の余計な――もとい、完璧な宣伝だった。
(あの子もこの中にいるんでしょ? 無理無理、人前で歌うのってどういうことか桜川さんわかってる? 絶対わかってないよね? すごい緊張するんだよ? そんな簡単にアイドルだよーきゃぴー! なんて言っていいもんじゃないの! アイドルっていうのはさ、ものすごい苦労と血の滲むような努力があって本当に輝く存在なの! あー、もうこんなことなら桜川さんに『あいどるでーもん♪』やってもらえばよかった……! ああ、でもだめだ! 小悪魔アイドルがテーマのギャルゲーなんてやらせたら、「小悪魔系アイドルなら遥にもできるな。よし、やれ」って言われるううう)
わああ、と集まった女性たちの黄色い歓声が聞こえる。
どんあに遥がその視線や熱気を恐ろしいと思っても、もう逃げられなかった。
(今まであっち側だったけど、思った以上に狂気じみてる……! みんなそんなに見たい? そんなに歌ってほしい……!? うう、あー! もう、全員フィギュア! ものすごいハイスペックな動く人形……!)
震える身体を押さえ、なんとかステージに一歩踏み出す。
本当はすぐに引っ込みたい。そんな気持ちは一切顔に出さず、逆に眩い笑顔を浮かべた。
「みんなー! 今日はありがとー! 遥のとっておきシークレットライブ、楽しみにしててくれたかなー?」
(声優のライブに行ったことあってよかったー! じゃなかったらなに言えばいいのか全然わかんない! 楽しみにしてるから来てるんでしょ!? なんで今、聞いたの!? いや違うって、聞いていいの! 今日はアイドルなんだから!)
歳上のお姉様方を次々に魅了する小悪魔の笑みの裏で、遥は頭をフル回転させていた。
ものすごく厳しくはあるけれど大丈夫、そう思ったのに――。
(あ……)
最前列に、ちょうど派遣期間にある彼女が立っていた。
(なんでよりによってそこ!?)
彼女はもちろん、遥の本性を知らない。
かわいく翻弄しながら心の中では三次元の女性に怯え、美少女ゲームやグッズのことばかり考えているなんて知られていいことではなかった。
(ととととりあえず頑張らなきゃ……!)
なぜか、彼女が視界に入った途端、気が引き締まった。
同じくらい緊張は高まったが、「いいところを見せたい」と心のどこかが訴えてくる。
「ふふっ! 俺のために来てくれたんだ? じゃあ、今日は君のために歌ってあげる!」
(それっぽいそれっぽい!)
笑いかけて手を振る。
こういう場所に慣れているのか、それとも逆によくわかっていなくてとりあえず応えただけなのか、彼女も遥に向かって手を振ってくれた。
(――かわいい)
遥が今日披露する歌が流れてくる。
ノリのいいアップテンポの曲は――なかなか自分の気持ちに気付いてくれない恋人をテーマにしていた。
(『ねえ、君はどこを見てるの? 俺じゃなくて甘いケーキ? こっち見てよ、お願い。もっともっと甘いキスをあげるから』……)
遥は歌いながら心の中で歌詞をなぞる。
気が付けば彼女のことばかり考えてしまっていた。
(俺を見てよ、ねえ)
彼女は今、ちゃんと遥を見ている。
でも、遥にはそう思えない。
(『俺』を見て)
彼女が見ているのは『おとどけカレシ』としての陽向遥。年上の恋人を翻弄する、魅力的なカレシの姿。
それは、本物の遥ではない。
(……こんなの、辛いよ)
曲調が落ち着いていく。この曲は中盤からほぼ別の曲に変わる。盛り上がりが徐々に静まり、今度はバラードへと。
(たった七日間なんだって。知ってた?)
歌に気持ちを込めながら、遥はただ一人を見つめる。
遥の今の――そして、やがて別れる恋人。
約束の期日はもうすぐそこまで迫っていた。
(現実なんて今でもクソだと思ってる。なのに、君を見ていると……)
その気持ちを理解するよりも先に曲が終わってしまう。
それで、ライブは終わりだった。
***
控え室で水を飲んでいた遥は、ライブ中の自分の気持ちについて考えていた。
(曲に乗りすぎたかな? ああいうの、ついつい自分と重ねちゃうんだよね……)
握っていたペットボトルが情けない音を立てる。
(……本当に君に対していろいろ考えてたわけじゃないから。七日が過ぎても一緒にいたいなんて……本当の『陽向遥』を見てほしいなんて……)
こんこん、と音がして控え室のドアが開く。
通されたのはまさかの彼女だった。
「え、なんで?」
今、派遣期間にある彼女だからこそ、特別に通されたのだという。
思いがけず現れた彼女を前に、遥は知らず、自分の唇を噛み締めていた。
「君の顔を見れて嬉しいな。でも、俺に会いたくてこんなところまで来ちゃうなんて、おあずけが苦手なんだね?」
遥はきちんと『おとどけカレシ』を演じる。
それが彼女の望んでいる姿だと知っていたから。
「アイドルと恋人同士っていうのも、鉄板ネタだよねー! やっぱり君もそういうの、好き? 俺は……んー、相手がアイドルでもなんでも関係ないかな」
(……気持ちが歌に引きずられてるだけだから)
「君ならなんでもいい!」
笑って言うと、彼女も笑ってくれる。
そして、いつもは遥からなのに、頬へキスしてくれた。
「あっ、もう! びっくりさせないで? そんなことするなら、俺だってキスしちゃうよ」
(でも、これは……偽物のキスなんだ。本当の恋人のものじゃない)
遥もまた、彼女の頬にキスを返す。
(こんな展開、ゲームで見たことない。だってゲームはいつもハッピーエンドだったから――)
彼女の柔らかい頬の感触が唇から消えなくなってしまう。
一生懸命笑ったつもりが、少しだけ引きつってしまっていた――。
「どうぞ、甘いからって飲み過ぎないでね」
そう言って色鮮やかなカクテルを差し出してきたのは、一番人気のバーテンダー『瀬戸仁』だった。
このバーに勤め始めてそう時間も経っていないのに、その甘い囁きと王子様のような優しい対応が女性のリピート客を急増させているらしい。
だからなのか、女性だけで来ているグループや、女性一人の客が目立った。
それに少しむっとしてしまったのは仕方がないことだと思いたい。
なぜなら、彼は人気バーテンダーであると同時に、自分の恋人なのだから。
「瀬戸さぁん、おすすめのください!」
「いいよ。君にぴったりのカクテルを作ってあげる」
にっこり笑って、仁は別の女性客の方へ向かってしまった。
きゃあっと声が聞こえて、ますます複雑な気持ちになる。
仕事帰りに寄ろうと思ったのは自分だし、その時間の仁が仕事モードなのもよく分かっていた。
それなのに、こうして目の前でちやほやされている姿を見るとどうも面白くない。
彼がかつて『おとどけカレシ』だったときのように、ここでも人気者なのは喜ばしいことのはずだった。
現に、店の従業員は羨ましそうな顔をしつつも仁を認めている節がある。対応だけでなくカクテルの知識もずいぶんなものになった仁は、今や店にとってなくてはならない存在となっていた。
「ねぇねぇ、瀬戸さんって付き合ってる人いんの?」
ぴくり、と反応してしまう。
ここにいますけど、と立ち上がって詰め寄らずにすんだのは、まだ酔っていないからだろう。
もう少しカクテルを飲んでいたら、ふらふらだろうがなんだろうが関係なく、仁は自分の大事な恋人なのだと牽制しに行ってしまっていた。
本当はこんな嫌なことを考えてはいけないと自分でもわかってはいる。
これは仁にとって大切な仕事で、自分も頑張る仁を心から応援している。
仕事帰りに寄ると必ずこっそり一杯サービスしてくれて、ときどきドライフルーツのセットをくれる仁が大好きだった。
他の客がいないときは「頑張りすぎるなよ」「今日もお疲れ」と特別扱いしてくれるのが本当に好きなのに。
「んー、どうかな」
つきん、と胸が痛んだ。
こういう仕事なのだから、あまり女性関係を匂わせるのはよくないだろう。だから仁がそう答えるしかなかったことなんて、ちゃんと理解できているし納得も一応している。
だけど、それはそれとして悔しい。
そう思ってしまう自分も情けなくて悲しい。
いつからこんな風に独占欲を見せるようになってしまったのか。
本当はどの客のもとにも行かせたくないもやもやを抱えながら、作ってもらったカクテルで唇を湿らせる。
「どうかなって……。焦らさなくていいのにー」
「焦らしてるんじゃないよ。例え相手がいなくても、君とは付き合ってあげられないから」
「え? どうして?」
「好きな人がいるんだ。……すごく大事で、大切な人が」
え、と思わず顔を上げてしまっていた。
仁は当然こちらを見ていない。
だけど――ほんの一瞬、視線が動いて目が合った。
「えーっ、どんな人なのか知りたーい!」
「ふふ、だーめ。彼女のことは俺だけが知っていたいしね」
「そんなこと言って、ほんとは好きな人なんていないんじゃないの? そうやって私たちのこと、牽制してるんでしょ!」
「さあ、どうだろう?」
「もー、瀬戸さんってずるーい」
賑やかな笑い声と話し声が他のざわめきに紛れていく。
自分でも気付かないうちにほっと肩の力を抜いていた。
***
「おい」
声をかけられてはっとする。
どうやら、うたた寝してしまったようだった。
起こしたのは当然仁だったが、その顔は営業モードの王子様ではない。
「そろそろ店仕舞いだぞ。いつまで寝てるつもりだ?」
はっと辺りを見回す。確かに人の姿がない。
奥に見えるのはテーブルの片付けをしている従業員。
いつの間に客がいなくなっていたのか、少しも気が付かなかった。
「んなとこで寝たら風邪引く。またお前の世話すんのは嫌だからな。……口移しで水飲ませて欲しいって言うなら、考えてやらなくもねぇけど」
にやりと含みを持たせて言われ、慌てて首を横に振る。
おとどけカレシだったときですらどきどきさせられたのに、恋人になった今、あのときと同じことをされたらどうなってしまうのか――。
……というより、自分以上に仁の方が大変なことになってしまうのではないだろうかと思ってしまう。
それはともかくとして、風邪を引くのも店に迷惑をかけるのも避けたかった。
急いで身支度しようとすると、なぜかこのタイミングでカクテルグラスを差し出される。
――それと一緒に、花束も。
「別に記念日ってわけでもねぇけどさ。……俺が営業中になにをして、どんなことを言っててもお前だけは特別なんだってわかっててもらおうと思って」
小さな花束は星のような形の淡いブルーの花で作られていた。
差し出されたカクテルと色がよく似ている。
「それ、ブルースターって花。花屋で見た瞬間、なんかお前の顔が浮かんだんだよな。……んで、そのカクテルの名前もブルースター。お前だけの、特別な一杯だ」
驚いて、花束とカクテルと、そして今は恋人の顔をしている仁を見つめる。
つん、と額をつついてきた仁は、くすぐったそうに笑っていた。
「それやるから、あんまり店で怒った顔すんな。嫉妬してんのバレバレだぞ?」
そんなまさかと思わず口を手で覆う。
仁は一人一人にとても丁寧な接客をしていた。だから、自分の反応を知っているはずがない。
そう思っているのがきっと顔に出てしまっていたのだろう。
笑われた上に鼻をつままれてしまう。
「……誰と話しててもお前のことばっか考えてんだよ、こっちは」
少しだけ照れたような口調が、今は本心をさらけ出してくれているということを伝えてくる。
他の誰にも見せない本当の仁の姿がそこにはあった。
「嫉妬すんな。わかったか?」
子供に言うように諭されて、つい、反論してしまう。
だったら他の女性と楽しく話さないでほしい。王子様の顔を見せないでほしい。こっそりじゃなくて、もっと堂々と特別扱いしてほしい。
仁が驚いた顔をして目を瞬かせる。
なにか言いかけたのを制して、でも、と続ける。
好きな人だと言ってくれたことは嬉しかった。
あまりそう言ってはいけないだろうに、ちゃんと自分の存在を伝えてくれたのが嬉しかった。
――気持ちを訴えているうちに、なんだか瞼が熱くなって泣きたくなる。
「……バーカ。なんて顔してんだ」
仁は困ったように言うと、他の従業員には見えないように額にキスをくれる。
「もっと俺を信じろよ。こんなにお前を好きな男なんか他にいねぇだろ? この俺がここまでべったべたに甘やかしてかわいがってやんの、お前だけだぞ?」
次はキスが目尻に落ちる。そして頬へ。そして。
唇が触れるぎりぎりの距離で止まると、仁はふっと微笑んだ。
「まだわかんねぇなら、この後じっくり教えてやるけど……どうする?」
うん、と頷く。
ぜひともじっくり教えてほしくて、つい勢いがついてしまった。
「お前のそういうとこが、すげぇかわいくて好き」
囁かれてのぼせそうなくらい頬が熱くなる。
この店で騒ぐ女性たちは誰も知らない。
仁がこんな声で、こんな眼差しをして、甘く愛を囁いてくれるなど。
触れそうで触れなかった唇がほんの少し重なって、ぬくもりより甘さを残しながら離れていった。
「……ああ、やっぱその花でちょうど良かったな」
脈絡なく言われて首をひねる。
そして、渡されたブルースターの花に目を向けた。
「それの花言葉、『信じ合う心』って言うんだよ。俺とお前と、もっとお互い信じ合ってやっていこうな。……その、なんだ。俺もあんまり嫉妬しねぇようにする、からさ」
ついでのように付け加えられ、うっかり笑ってしまう。
少しいつもと違う格好をしただけで慌てるほど、仁は自分を特別すぎるくらい特別に愛してくれている。
同じように自分も仁が他の誰かと目を合わせただけで落ち着かないくらい、好きだと思っている。
こうした独占欲は、まだお互いに相手への信頼が足りていないということなのかもしれない。相手が自分を好きであると信じていればこんな気持ちを抱くこともないのだろうから。
「さ、とりあえずそれ飲んで帰るぞ。さっさと帰らねぇと、時間なくなっちまう」
なんの時間を言っているのか、とりあえず触れないことにする。
……仁との夜は、ここからが長いのだった。
――新年最初の仕事を済ませ、無事に『おとどけカレシ』のキャストたちは飲み屋に来ていた。
「はい! はいはい! 俺、ビール!」
「真中さん座って。わかってるから。……で? 他は?」
相変わらずはしゃぐ壱をなだめながら、奈義は全員の希望をメモに取っていく。
「俺もビール」
「はい、仁さんもビール」
「ナンバーワンは二つっすか!?」
「懐かしいネタ出してきやがって」
「東城は?」
「あ! なんかうめぇの!」
「じゃあ、この激辛トマトジュースにしておく」
「いやー、今年も芸人枠もらえて嬉しいなー!」
はいはい、と奈義は照れる葵を横目に、本当に『激辛トマトジュース』と加えてしまった。
そのすぐ下に自分の注文であるモヒートを書き入れ、一生懸命食い入るようにメニューを見ていたびびり二人に目を向ける。
「そっちの二人は?」
「も、もうちょっと待って……。遥くん、甘いのどれだと思う……?」
「カルーアミルクは? もしくはカシオレ……?」
「だっていっつもそれだよ……。俺たち全然去年から成長してない……」
「いいからさっさと決めてくんない?」
おろおろする二人がとりあえず『カンパリオレンジ』と『キティ』のカクテルを告げる。
それぞれ、名前がかわいいから、という理由で選んだらしい。
カンパリオレンジはともかく、キティはワインのカクテルである。
アルコールに強くない海斗が飲むにはハードルが高いと察し、奈義はそっと『アマレットジンジャー』にしておいた。
もともとキティがどんなものかわかっていない海斗なら、何に変更しようとわかりはしない。
それでも、とりあえず代わりに注文するものの説明はしておく。
そうこうしているうちにコースの料理が運ばれ、そして――。
「んじゃ、今年もよろしゃーっす!」
「なんでー乾杯の音頭がーいっちーさんなんすかー? 仁さんしかいないべ?」
やっと乾杯、というときになったのに葵がぶーぶー文句を言う。
どうやら仁の今日の和服姿がよほどツボに入ったらしい。
葵いわく『リスペクトゲージ』がマックスになったどころか、おそらく限界を超えてしまっている。
「俺は仁さんに新年一発目を決めてもらいてーの!」
「あおちゃんの裏切り者ぉ! 俺とコンビ組んでやってくって言ったじゃねーかよ!」
「音楽性の違いってやつだべ。ごめんな、いっちーさん……」
「茶番はいいから」
すぱっと止めたのはやはり奈義だった。
仁が感謝するようにちらりと奈義を見る。
「この二人だとうるさいんで、瀬戸さんお願いします」
「わーったよ」
奈義に頼まれ、仁はグラスを手にとった。
大騒ぎのせいで既にビールの泡は消えかけている。
「仁さん! 王子様モードで! ナンバーワンっぽく!」
「てめ、ちっと黙ってろ」
「仁ちゃーん、それじゃ王子さまじゃないぞぉ?」
「……っぜぇ」
囃したてる二人と、端でうろたえている二人と、そして苦笑しながらグラスを持った奈義と。
今日までやってきた仲間たちを見回し――仁は軽く笑った。
「みんな、去年は本当にお疲れ様。今年もお世話になることがたくさんあると思う。だけど、お互い力を合わせてBLOSSOM社を……ううん、『おとどけカレシ』を盛り上げていこうね。……それじゃ、乾杯」
「仁さあああああん」
「うるせぇな」
乾杯だと言っているのに、葵は飲むどころか仁にくっついて泣き真似を始める。
そんな葵になんとか激辛トマトジュースを飲ませようとする壱を、奈義がさりげなく引き止めていた。
その横では海斗と遥がアタリのカクテルを引いたことに悦んでいる。
「これ、甘くておいしいねえ……」
「ほんと? じゃあ次はそっちにしよっと」
「カンパリオレンジは甘くないの?」
「んー、ちょっと苦い? かも? ……あ、でも、そっか。カンパリってお酒のこと、前にやったゲームで……」
仕事に引き続き、飲み会ももちろんぐだぐだの大騒ぎになった。
途中からうざ絡みを始めた壱(といっても、壱は常日頃からうざがられている)の相手を、なんだかんだしてあげている仁や、仁を取られて面白くない葵に「俺の仁さんリスペクトポイント百選」を語られて聞き流す奈義、次はなんのカクテルが甘いか挑戦しようと既に出来上がりつつある海斗と遥。
いつもの『おとどけカレシ』たちと言えばそうだった。
ただし、ここに忘れてはならないもう一人の姿があって――。
「遅くなったな。お前たち」
ひ、と壱が息を呑んだ。
あの壱にそこまでの反応をさせる相手は一人しかいない。
「桜川さんも来たんけ! ひゅー!」
「俺が呼んどいた。前にそんな話あったし」
奈義によって登場することになったのは、彼らの雇い主でもある桜川だった。
硬直した壱の隣に座ると、その肩を抱いてにこやかに――壱にとっては非常に恐ろしい――笑みを浮かべる。
「今年もよろしく頼むぞ」
「はははー……もちろんでーす……。……ちくしょう、なんで陰険説教メガネとよろしくしなきゃなんねーんだよ。どうせそういうキャラ属性ならないすばでぃーの美人女教師とかにしろ」
「お前、わざと聞こえるように言ってるだろう」
「そしたら女教師になってくれるかなーって」
「なるか、バカ」
仕事ではないとなると、桜川も比較的穏やかだった。
ここにいる全員の本性を知り尽くしていることもあり、雇い主とキャストという関係ではあるものの、 場の空気は重くない。
おかげでずいぶんとまた盛り上がり始める。
誰もが楽しく過ごす中、ふと桜川が笑った。
「今年……か。とんでもないことが起きそうな気はするんだがな」
グラスを傾けた桜川の言葉はみんなの笑い声に紛れて誰の耳にも届かない。
今年、『おとどけカレシ』に何が起きてしまうのか――。
その答えは、桜川にもまだわからなかった。
目を擦りながら起きた海斗は、最初に視界に入った影を見て口元を緩ませた。
腕の中で穏やかに眠る彼女からは、心から安心した気配が漂ってくる。
(……今日、一番最初に見られたのが……。ううん、今年一番最初に見られたのが君の寝顔なんて、最高の誕生日プレゼントだね)
ふふふ、と笑った海斗は彼女の身体を抱き寄せる。
しっとり吸い付くような手触りの肌が気持ちよくて、肩や背中を撫でてみた。海斗よりも若干体温が高くなっているのは、昨夜の余韻を残しているからなのかもしれない。
「おはようございまーす……」
一応、ひっそり声をかけてみる。そんな小さい声で目覚めるはずもなく、彼女はぐっすり夢の中にいたままだった。
(まぁ、いいんだけどね)
毛布の中から出した手を彼女の頬に滑らせる。身体のどの部分とも違う柔らかさが好きだった。
今、思い返してみてもまだ実感がないのは、こんなに好きだと思える相手が自分の彼女だということ。
しかも、最初は大嫌いだと思い切り拒絶されていたことだった。
「……ね。俺のこと、好き?」
昨日もたくさん言ってもらったのに、どうしてもまた聞きたくて尋ねてみる。
眠っている彼女が答えるとは思っていなかった。だけど、瞼を閉ざしたまま、唇が開かれる。
笑い混じりにこぼれ出た言葉を聞いて、海斗はくすっと声を上げた。
「ありがと。俺も君が大好きだよ」
今度こそ彼女は目を開けた。どうやら眠った振りをしていたらしい。
(ずるいよね。俺が声をかけてるって知ってたのに、寝た振りしてるなんて。……別に眠ってる君には変なことしないよ?)
二人はしばらく見つめ合って、どちらからともなくキスをした。
あんなにしたにも関わらず、なんだか初めてしたときのような甘酸っぱいキスに感じられて、少しだけ恥ずかしくなる。
キスは触れるだけで終わった。それ以上のキスなら、もう昨夜のうちに済ませてしまったから。
「……あ、照れてる」
彼女が海斗から離れようと身じろぎした。背を向けてしまったのを見て、後ろから抱き締める。
柔らかくて、温かくて、何よりも大好きな匂いがした。
人肌がこんなに甘く香ることを知らなかった海斗は、今も彼女が側にいるだけで鼓動を高鳴らせてしまう。
「だいすき」
子供のように呟いてから、まだそっぽを向いている彼女の肩にキスをする。
その耳が赤くなったのは気のせいじゃないだろう。でも、触れずにキスを続けてみた。
彼女の身体を隠す毛布を徐々に剥ぎ取って、白い肌をあらわにしていく。
背中に口付けた後は腰に手を伸ばし――。
「いたっ」
振り返った彼女が海斗の頬をつねった。
いい加減にしなさい、と怒ったような――でも顔は真っ赤になっている――声で言われてしまう。叱られたにも関わらず、海斗はへらへら力のない笑みを浮かべていた。
「誕生日なんだから、いいでしょ?」
なにが、と彼女は言った。
わかっているくせにそんなことを言って試してくる。
焦らされているのを悟り、海斗はさっきよりも強く彼女の身体を抱き締めた。
今度は彼女も海斗の背中に腕を回してくれる。
(君が欲しいよ)
「……今日は俺の誕生日プレゼントになって」
それなら昨日――と言いかけた唇を塞いでしまう。
――普段は気弱でびびりなお坊ちゃん。かつて演じていたのはドSで強気な俺様男。
でも、彼女は知っている。
ベッドの上だけではまた本性が変わってしまうことを――。
貸し切られた個室の真ん中、飾り付けられたテーブルの上にはたくさんの料理が乗っていた。
その前に座らされ、いかにもパーティーグッズと思われる三角帽子をかぶせられているのは海斗だった。
「みんな、よく俺の誕生日を祝おうと思ったねぇ……」
しみじみ言うのも無理はない。
海斗の誕生日は一月一日。つまり元旦にあたる。
今、目の前に勢揃いしているBLOSSOMのメンバーも忙しいはずの時期なのだが。
「御国は俺を祝ってくれただろ。だったら、返さないと気分悪い」
「あくまでお返しって? またまたぁ! 奈義っち、超ノリノリで企画してたべ!」
「海斗くんを喜ばせてやらなきゃって言ってたの、奈義くんだよね?」
「あー、もう。うるさいな」
奈義は隠したかったことをあっさり暴いた葵と遥を睨みつける。
そこに、キッチンの方から仁と壱がやってきた。
その手にはそれぞれ追加のご馳走とケーキがある。
「それ……もしかして二人が作ったんですか?」
「そ! 仁ちゃんが料理担当でー、俺がケーキ!」
「……こいつ、ケーキ作るときだけは真面目な顔すんのな。腹立った」
「え!? 仁ちゃんそれどういうこと!」
いそいそとみんながテーブルを開けてご馳走とケーキを置いていく。
壱がそこに置いてあった缶ビールを開けた。海斗の前にあるグラスに注ごうとしたのを遥が止める。
「海斗くんはお酒弱いんですよ」
「たまにはぱーっとやろーぜ?」
「てめぇはいつもぱーっとしてるじゃねぇか」
仁からの鋭いツッコミに壱が騒いでいる間、さっさと奈義がノンアルコールのカクテルをグラスに注いだ。
微炭酸のそれは、海斗が以前、奈義と話していたときにおいしいと伝えていたもの。
「俺がおいしかったって言ったの、覚えてたんだ」
「こんぐらいすぐ覚えるだろ。職業柄」
「あはは、そうかも」
ここにいる全員は『おとどけカレシ』として、普段、女性たちに幸せな時間を届けている。
相手の好きなものを把握し、サプライズとして用意するのはもはや様式美ですらあった。
(まさか、自分がそうされるなんて思わなかったけど。……俺はあんまりサプライズするカレシじゃないしなぁ)
海斗はいつも俺様ドSキャラを演じている。
サプライズをすることはあっても、その数はそう多くなかった。おそらくこの中で一番手馴れているのは仁だろう。その次はセレブキャラの奈義だろうか。
(葵さんはサプライズされる側だよね、きっと。はるくんもそうかな。壱さんは……どっちもうまくこなしそう)
「ぎゃー! 仁ちゃんが拳握り締めてるー!」
「真中さん、それ、自業自得」
「いやああああ!」
(……『おとどけカレシ』でいるときのこと、一番想像できないのって壱さんなんだよね)
苦笑しながら、海斗はグラスに注がれた飲み物を見た。
しゅわしゅわと泡が底から表面に上っていく。
「……奈義くん、俺ね」
「なに?」
「気弱な自分が嫌なのもあって、『おとどけカレシ』になれたことをよかったって思ってた。だってそこでなら、強くてかっこいい御国海斗でいられるから」
「……で?」
「でも、もう一個『おとどけカレシ』になってよかったって思うことがあったよ。……みんなに出会えて、本当によかった」
「……バカじゃない?」
吐き捨てるように言いながら、奈義は肩をすくめる。
そして、海斗を小突いた。
「俺は逆によくなかったよ。ただでさえ家で弟の面倒見なきゃならねぇのに、職場でも面倒見なきゃいけない相手がいるからな」
「え? それって俺のこと?」
「御国と、真中さんと、陽向かな」
「えっ。奈義くん、俺も?」
びっくりした遥が海斗と顔を見合わせる。
「俺はセーフ! っしゃあ!」
「東城は瀬戸さんに言われればおとなしくなるし」
「そりゃあそうに決まってんべ? 仁さん超リスペクト!」
「うるせーぞ、葵」
「はいっ! 仁さん!」
(あはは、おもしろい)
「なあなあ、俺のケーキ乾いちまうだろ? さっさと食って!」
「壱さんのケーキ、楽しみです」
「はっはあ、ついに海斗坊ちゃんもロウソクプレイに目覚め――」
「そういうドSじゃないです!」
咄嗟に否定した海斗を、全員が驚いたように見る。
「……海ちゃん、意味わかってて言ってるんけ?」
「いや、今のはそういうことだろ。まさか海斗がな……」
「御国、あとでちょっと話聞かせて」
「奈義くん、なにを聞くつもりなの……」
「決まってるだろ。誰がそんなこと教えたのかだよ」
「にしし、俺もその話知りてぇ!」
「お……男の子なら誰だってそのくらいの知識はあるでしょ!?」
(なんで俺のときだけ、みんなそういう扱いなの!)
海斗はひたすらあわあわして追及から逃れようとする。
(っていうか、この間壱さんが喋ってたじゃん! ドSなんだからそのぐらいやらないのかって! 悪いのは俺じゃなくて壱さんだからーっ!)
まさかこんな誕生日になってしまうとは思わない。
普段は怖いと思っている桜川の鋭い静止を、今ほど望んだときはなかった――。
なんとなく自分の位置が定まらなくてもぞもぞしていると、仁がすぐ近くで笑った。
「なにしてんだ」
その声に、さっきまでの熱っぽいものは感じられない。
ただ、まだ広い胸には名残があるような気がした。
触れてみると、ぴくりと反応される。
「……まだ足りねぇのか?」
耳元で囁かれながら腰を撫でられると、それだけでほんの少し前のことを思い出してしまう。
この声がどんな風に自分の名前を呼んで、大きな手がどんな風に触れて、そして……。
「……今日はこのぐらいにしとけ。じゃねぇと、明日も仕事なんだろ。おやすみのキスならしてやるから」
まだ汗がにじんでいる額にキスが落ちた。
顔を上げると、唇にも。
眠るよう促してくる割に、仁が眠そうには見えなかった。
それにつられているのか、単純に余力が残っているのか、同じく眠くない。
仁自身、それは不思議に思っているようだった。
「お前、今日は夜更かしだな。いつもさっさと寝るくせに」
首を横に振る。
この人は、疲れ果てて眠ってしまう理由が誰にあるのか考えたことがあるのだろうか?
今日だっていつもと同じか、それ以上にじっくり優しく……。
途中まで考えてから、もう一度首を横に振る。
顔を仁の胸に押し付けたのは「赤くなってる」とまたからかわれるのを避けるため。
仁はそういう顔を見るのが好きで、わざと意地悪なことをする。
今日は負けない――と気持ちを新たに恋人を見つめると、また、笑われた。
「だから、誘うな。……俺の理性なんかねぇようなもんだって知ってるだろ。また襲うぞ」
かぁっと身体が熱くなっていく。
今はのんびりしているが、そもそも今日はネグリジェというものに挑戦したせいで、仁の言う『襲われた』状態になってしまったのだった。
せっかく身につけたそれを、仁は果たして何分きちんと見てくれたことか。
それを思い出し、もう襲わないでほしいと懇願する。
……鼻で笑われたのは三度目だった。
「そういうこと言うからだめなんだって、なんで言われなきゃわかんねぇんだ」
やけに密着している時間の長い、濡れたキスが降る。
こんなはずでは、と思いはするものの、やっぱりキスされると嬉しい。
もっと仁にくっついていたくて、すりすり顔を寄せてみる。
溜息と一緒に頭を撫でられた。
「本の読み聞かせでもしてやらなきゃ眠れねぇってか?」
そう言われてふと思いつく。
どうせ聞かせてもらうなら、仁の過去の話がいい。
できれば、暴走族の総長としてあれこれやんちゃしていたとき。
目を輝かせたことに気付いたのだろう。
仁は若干気まずそうに――しかし、満更でもなさそうに――口を開く。
「大しておもしろくねぇけどな」
案外抵抗なく仁は語り始める。
あまりにも若く、子供じみていた過去の話を――。
***
「瀬戸さん! お待たせしやした!」
屋上で一人、時間を潰していた仁は聞こえた声に顔を向ける。
駆け寄ってきたのは、最近舎弟にならせてほしいと教室まで飛び込んできた後輩だった。
「あ?」
「焼きそばパンっす! そろそろ腹が減るんじゃねぇかと思って!」
(……それ、購買の)
一瞬、仁が腰を浮かせかけたのも無理はない。
購買の焼きそばパン。それはこの学校においてすさまじい意味を持つ。
売店が開いた瞬間にはもう売り切れているという、存在さえ疑われるほど人気のパンだからだった。
元三ツ星シェフが作る焼きそばパンだからと囁かれているが、まぁ噂にすぎないだろう。
「瀬戸さんにどうしても食ってもらいたくて! 俺、今日朝六時にはもう校門の前にいたんすよ!」
(はえーよ。……ってか)
くしゅんと後輩がくしゃみをする。
いくら天気がよくても最近は冷え込んできた。朝六時に学校の前で待っていたら、風邪のひとつも引いて当たり前だと言える。
(……バカか)
「頼んでねぇよ」
仁はさらっとそう告げた。
もし犬だったらちぎれんばかりに尻尾を振っていただろう後輩が、見るからにしょんぼりする。
そんな表情の変化は放っておいて、仁は更に続けた。
「てめーで手に入れたもんなら、てめーで食え。俺もそうする」
「でも、これ超人気の……」
「だったら余計いらねぇ。自分で手に入れるもんだろーが、そういうのは」
「せ……瀬戸さん……!」
仁としては割と当たり前のことを言っているにすぎない。
それが熱狂的な信者を増やしているのだと知りはしなかった。
「俺のために余計なことはすんな。風邪引かれてうろつかれる方が迷惑なんだよ」
そう言うと、仁はだるそうに立ち上がる。
立ち尽くす後輩を一度だけ振り返り、パンを指さした。
「食った感想だけ聞かせろよ」
「は、はい……!」
後輩はぶんぶん首を振って仁の言葉に頷いた。
この様子では作文用紙に何百枚感想を書き上げてくるかわからない。
こんな舎弟たちはこの学校に何十どころか何百といた。
男だけならともかく、その顔のよさから女子生徒たちにも騒がれ――。
***
「いって」
鍛え上げられた腹筋を軽くつねると、仁は話を中断させて睨んできた。
「んだよ」
女子生徒の話はいらないのだと伝える。
仁がちやほやされるのは当たり前として、もしかしたら登場するかもしれない過去の恋人の話なんて聞きたいはずがなかった。
見知らぬ誰かにも自分に向けたような優しい囁きをしたのだと思うと――。
「だからいてぇって」
叱られて顔を上げると、噛み付くようにキスされる。
「嫉妬すんな。いもしねぇ女に」
キスの合間に言われて、心を読まれていたのだと悟る。
きっといつものように表情からバレてしまったのだろう。見逃してくれない辺り、仁はずるい。
そして、それを面白がるのも仁のずるくて許せないところだった。
「俺の恋人はお前だろ? 忘れてんなら思い出させてやる」
仁の腹部をつまもうとした手はやすやすと捉えられた。
覆いかぶさられ、シーツに縫い止められてしまう。
自分を見下ろす仁の姿ならさっきも夢に出るくらい見た。
まさか寝ろと言われていたのに再びこんな展開になるとは思わず、どう逃れようか混乱する。
――けれど、すぐに諦めた。
仁から逃れる術なんてあるはずがない。
そうして結局、次の日は寝坊する羽目になってしまうのだった。
ドアが開く微かな音に目を開ける。
真っ暗だった部屋に細い光が入ってきて、誰かが来たのだとわかった。
誰か、なんて考えなくてもよくわかっている。
「……寝てんのか?」
聞こえてきたのは大好きな恋人の声。
こちらの様子を窺っているのか、仁の声は大きくない。
「……クソ、もう少し早く帰ってくりゃよかった」
次に舌打ちが聞こえる。
そして、足音。
どきどきと心臓が音を立て始めていた。
別に「起きてたよ」と仁を迎えればいいのにそうしないのは、なんとなくこのまま反応を見ていたかったからで。
「……はぁ」
ベッドのすぐ側に仁が近付いた。
ぱち、と枕元の電灯がつく。
瞼を閉じている限り眩しさはそこまで感じない。あくまで寝た振りをしながら、仁がなにをしようとしているのか待ってみることにする。
「……起きろよ。俺が帰ってきたんだから」
なんとも傲慢な呟きが聞こえたかと思うと、唇に柔らかい感触が落ちた。
「……おい」
またキスが降る。これがキスじゃないと呑気に思えるほど、この人と過ごした時間は短くない。
たとえ始まりがたった一週間からだったとしても、だ。
「なぁ」
仁が、あまり仁らしくなく呼びかけてくる。
とても近い場所で吐息が聞こえるのは心臓に悪かったものの、それでもまだ我慢してみた。
そうすると、今度は頭の下に仁の手が入ってくる。
「おかえりって言わねぇのかよ。……お前に出迎えてもらわねぇと、帰ってきた気がしねーんだ」
珍しく甘えているというか、弱っている様子が感じられた。
それを知ってまたどきどきしてしまう。でも、まだ焦らしたい。
「……おーい」
本当に起きてほしいなら揺さぶればいいのに、仁はそうしない。
考えていることならなんとなくわかった。
いつも気を使ってくれる仁は、疲れているのだからこのまま寝かせておいてやりたい、と思っているに違いない。同時に、自分で言っているように起きて出迎えてほしいとも思っているのだろう。
さすがに申し訳なさを感じて起きようとした瞬間、頭を抱え込んでいるのとは反対側の手が寝間着の裾をまくりあげた。
「……っ」
直接、肌に触れてきた仁の方が声を押し殺す。
なにかこらえているようには感じられたものの、正直、こちらはもうそれどころではない。
仁が、触れている。
お腹をくすぐるように、それでいてなにか危険な熱を引き出そうとなぞりあげて。
へその周りをつついたかと思えば、今度はもう少し上に指を滑らせてくる。
大変困ったことになってしまった。
先に眠るからいいだろうと下着をつけていない。
このまま仁が手を伸ばせば、きっと――。
「……ん?」
ひくりと喉が鳴ったのを聞かれてしまった。
慌てて――ぎゅっと目をつぶり直す。
「……へえ?」
どうして仁が面白がるように呟いたのか、理由はわからなかった。
だから一生懸命目を閉じていたのに、触れていた手から遠慮が消える。
びくっと思い切り肩が跳ねて、同時に声が漏れてしまった。
もうとっくに隠しきれなくなっているのに、仁はやめてくれない。
声と一緒に荒い息が何度もこぼれて、うっかり仁の名前まで呼んでしまう。
触れるだけでは飽き足らず、身体にいくつもキスをされてしまった。
一際大きく声が出てしまい、つい、いつもの癖で口を押さえてしまう。
「やっぱ寝た振りしてたんだな」
恐る恐る目を開けると、余裕のない表情をした仁と目が合ってしまった。
「んなことだろうと思った。……わかりやすいんだよ、お前の反応」
口を押さえたままの手にキスを落とされる。
別に悪いことをしようと思ったわけじゃないと首を横に振ったけれど、どうも分が悪い。
「なぁ。……このまま無事に眠らせてもらえると思ってねぇだろうな」
つつ、と手を撫でられる。
その指がさっきまで身体に触れていたことを思い出すだけで、顔が熱くなってしまった。
「だからお前、その顔……っ」
仁の端正な顔がゆがむ。
ひどく焦っているようにも見えた。
「……っ、今日、ほんと無理。お前のこと欲しすぎて」
声が出ないように蓋をしていた手を、ゆっくり掴まれる。
「こっちにもキスさせろ。……んで、声ももっと聞かせろ」
仁の距離が近付いて、唇と唇が触れ合ってしまう。
さっきだってしたくせに、と言いたかったのに言えなかった。
あまりにも仁が必死な表情を見せていたせいで――。
「……無理、させねぇようにするから」
キスがもっと深いものに変わる。
そうしながら、仁はせっかくつけた電灯を消してしまった。
真っ暗な部屋に二人分の吐息と衣擦れが響く。
――あとはもう、ぬくもりを重ねるだけだった。
ぱしゃぱしゃとシャッターを切る音が鳴り響き、それに合わせて眩い光が散る。
数え切れないほど写真に収められているのは今話題の『おとどけカレシ』でも特に人気の高い二人だった。いつも予約でいっぱいの二人がこうして揃っているのは、BLOSSOM社を宣伝するために撮影を行うためである。
非常にカメラ映えする被写体ということもあってか、カメラマンの熱も尋常ではない。さっきから何度も何度も指示を飛ばしては、加工を入れてもいないのにきらめく二人を撮り続けていた。
「真中さん! 瀬戸さんの肩に手を乗せてもらってもいいですか?」
「構いませんよ。こうですか?」
「あっ、いいですねー! ちょっと流し目でこっち見てもらえます?」
「ふふ、照れくさいですね」
落ち着いた対応を見せたのは『おとどけカレシ』キャストの中で最年長の真中壱。大人の余裕の影に見え隠れするアダルティな色気が、数多の年下女性たちを虜にしてきた。
今もまた、その魅力を余すことなくカメラに向けている。
「瀬戸さんも、もう少し真中さんに寄ってもらっていいですか?」
「困りましたね。真中さんの隣じゃ、俺の魅力を伝え切れるか心配です」
「いやいや! 充分すぎるくらい伝わってます!」
「ははは、それならよかったです。やっぱりナンバーワンとしては負けたくないので」
直視することすら畏れ多く感じるほどの笑みを浮かべているのは、人気ナンバーワンをキープし続けている『おとどけカレシ』、瀬戸仁。彼の前ではどんな子供もプリンセスに変えられてしまうと言われるほどの王子様である。
再びシャッターが切られる中、照明担当の女性スタッフが口元を押さえていた。正確には鼻だろうか。確かに今の二人は刺激が強すぎて、鼻血のひとつやふたつ、出てしまうかもしれない。
――これが『おとどけカレシ』なのか。
壱と仁以外、そこにいるすべての人間がそう思った。
なぜ世の女性たちが高額な金をはたいて彼らとの七日間を求めるのか、こうして目の前にしてしまえば嫌というほど理解できてしまう。
たった七日でも、こんな恋人ができれば充分だろう。しかも彼らはその間、本物の恋人のように接してくるのだというからとんでもない。
普段は絶対に行かないようなレストランへの予約も、極上のスイートルームで過ごす一晩もプランニングするのは彼らだった。かと思えば、遊園地や動物園など、気を使いすぎないデートも提案してくれる。
これで恋に落ちない女性などいないだろうに、そういった面での問題が起きたという話は聞かない。それは、別れ際の最後の一瞬まで徹底した恋人のプロなのだろうということを感じさせた。
「カメラさん、瀬戸君よりこっちをかっこよくお願いしますね?」
「あ、ずるいですよ。カメラマンさん、俺をお願いします」
「は……はい……!」
二人が同時に魅惑の笑みを向けたことで、カメラマンはついついほうっと溜息を吐いてしまう。自身も男だというのに、ここまでその雰囲気に魅せられてしまうとはカメラマン自身思いもしなかった。
「カメラマンさん、大丈夫ですか? お疲れなら休憩を挟んでも……」
「あっ、いえ、続けさせてください!」
カメラマンがこぼしたほんの一瞬の溜息さえ、仁は見逃さない。その完璧すぎる気遣いが彼を王子様たらしめている。
そして、その気遣いは同じキャストの壱にも向けられた。
「真中さんは? 俺の前にもソロで撮影があったんでしょう?」
「まぁね。でも、ナンバーワンの君に勝つためなら、多少の努力はしておかないと」
「真中さん相手だと気が抜けないなぁ。簡単に譲る気はありませんけど」
「そこは年上に譲ってくれてもいいんだよ? 世の中のかわいいお姫様たちも一緒に、ね」
どこかで「ひっ」という引きつった声が聞こえたような気がした。おそらく、女性スタッフの何人かが、今の意味深な発言と艶やかな眼差しに心臓を撃ち抜かれたのだろう。
こんなに非の打ち所がない男を見たことがない、と誰もが思った。
――しかし、その本性はもちろん違う。
(あぁ? まだ撮り続けんのか? ……おい。コレ、マジでいつ終わんだよ! クソが……っ)
輝く王子様スマイルの裏で、仁はこめかみをひくひくさせる。
その隣では壱もまた、その笑みからは想像もつかないことを考えていた。
(早く帰ってー、ビール呑みながらエロ本読みてー! むっはー! 巨乳ちゃーん!)
あまりにも外面と違いすぎる内面は、彼らの顔に一切出てこない。
本当は口の悪い元暴走族総長だ、頭の中は下ネタでいっぱいの小学生バカだ、と言ったところで信じる人間は一万人に一人もいないだろう。
どんな相手にも最高の夢を見せる、究極の恋人たち。
これが『おとどけカレシ』だった。
(あー、仁ちゃん、今頃めっちゃ怒ってそー。さっさと終われって思ってんだろーなー。まぁ、俺も思ってるけど! だって飽きちゃったもーん。写真めんどくせぇし、そろそろ笑いすぎて顔痛くなってきたし。ってか、俺を撮ったって面白くねぇだろ! どうせ撮るならパンチラ! グラビアアイドルの谷間! 焼き増しプリーズ!)
(クソ、真中のヤロー、どうせまたくっだらねぇこと考えてるんだろうな……。こんなに近くにいたら、俺までバカが移っちまいそうだ。これが終わったら、「飲みに行こう」だの、「AV鑑賞しよう」だの、ぜってぇ誘ってくるに決まってやがる。んなことに付き合ってられっか。ただでさえクッソなげぇ撮影で疲れてるってのによ……!)
「あれ? お二人とも、笑顔が強張ってませんか?」
「「そんなことないですよ?」」
たった今まで考えていたことは彼方へ吹き飛ばし、二人は同時にカメラマンへにっこり笑いかける。
それはまごうことなき、プロの姿だった――。
(あいつ、珍しくおせーな……)
今日は大切な彼女とのデートだった。
仁はきっちり十分前に到着し、いつ彼女が来てもいいように辺りに気を配っている。
それなのになかなか現れる気配がない。
この日、この時間を指定したのは彼女であることを考えると、首を傾げざるをえなかった。
待つことを苦には思わない。
ただ、いつもなら連絡も一本も入るだろうと少し心配する。
(どっか転んでたりしねぇよな。もしかしたら、急に呼び出し食らってシマ争いに……って、俺とはちげーんだ。そんな事にはなってねぇだろ。じゃあ、なんだ? 休日なら仕事はねぇだろうし……。……やっぱ事故ってんじゃねぇか? 俺に連絡できねぇ状況なら、こっちから――)
たた、と走る足音が聞こえて顔を上げる。
散々目に焼き付けた笑顔が仁の名前を呼びながら駆け寄ってくるところだった。
(……ったく、心配させやがって)
ほっと一安心したことは彼女に見せない。
申し訳なさそうに下げられたその頭に、ぽん、と手を置く。
「遅くなるなら連絡しろ。なにかあったのかと思ったじゃねぇか。……まぁ、お前がわざとお仕置きしてもらいたくて連絡しなかったって言うなら、期待に応えてやってもいいけどな?」
わざと煽るように耳元で囁くと、白かった肌が一気に赤く色付いた。
彼女は何度も謝罪を繰り返しながら、どうして遅れたのかその理由を告げる。
(服装選びに悩んでたって、そんなことぐらいで……)
そう言われて初めて、仁は彼女の服を見た。
「っ……!?」
普段は動きやすい格好を好むくせに、今日は――かなり攻めたミニスカートだった。
仁が絶句しているのを見て、彼女は得意げに胸を張る。
いつも驚かされてばかりだから、たまには驚かせたかったのだと言った。
(驚く……とか、そういう問題じゃ……ねぇ……だろ……?)
もしここに元同僚の真中壱がいれば「性癖直撃ミサイル」と叫んでいたことだろう。
そのぐらい、いつもと違って女の子らしいスタイルの彼女は仁のいろいろなものを刺激した。
「……あー、うん。かわいいよ。すげーかわいい」
彼女が望んでいる言葉を、お世辞抜きに告げる。
ますます調子に乗った彼女は、どこに視線を向けていいのかわからなくなっている仁の頬を軽く指でつついた。
――今日は仁さんの方が照れてる。
ふふふと勝ち誇った笑みを浮かべられ、仁は悔しげに唇を噛んだ。
(う、るせ……このバカ……っ)
散々、数多の女性をときめかせてきた自分が、まさかミニスカート程度でどきどきさせられるとは思ってもいない。
その油断が、仁から余裕を奪っていた。
しかし、だんだんそれも落ち着いてくる。仁が彼女にときめくのも、理性を吹き飛ばしそうになるのも初めてのことではなかったからだ。
頭が冷静になればなるほど、仁はある種の苛立ちを感じ始める。
(……お前さ。そんなかわいい格好して、他のヤツに目ぇ付けられたらどうするんだよ、おい)
仁を驚かせ、しかも照れさせた。そのことで上機嫌になった彼女は、デートをせがんで手を引っ張る。
細い足が動くたび、ひらりひらりとスカートの裾が揺れた。
(俺が気を付けてやらねーとな……)
そう固く誓って彼女についていく。
それが、仁にとってすさまじいストレスになるとは知りもせず。
***
(こいつ……!)
仁が作り慣れた笑みを消しかけたのは一度や二度ではない。
それもこれも、彼女が能天気でまったく危機感のない行動を繰り返すせいだった。
「さっきも言ったよな? 走るなって。俺の言うこと聞いてなかったのか?」
彼女が仁の言うことを聞かなかった理由はきちんとある。
たまたま仁が先に行ったタイミングで信号が赤になってしまい、二人は車道を挟んで離れ離れになってしまった。
向こう側でしょぼくれた顔をしながら待つ彼女を、ついさっきまではかわいらしいと思っていたのに。
(走ったらスカートの中身が見えるだろうが……!)
今度はもう離れ離れにならないように、と彼女は急いで手を握ってきた。
それもたまらなくかわいいとは思ったものの、気にかかるのは無防備なその足だった。
「走るな。次、走ったらもう帰るからな」
え、と小さく声が聞こえた。
いつの間にか手に絡んでいた指がほどけて離れていく。
ここまで来るとさすがに彼女も仁の不機嫌に気が付いていた。
ただ、原因がわかっていないらしく、どうすれば仁の機嫌が治るのだろうとおろおろしている。
やがて彼女は困ったように眉を下げ、今日の遅刻を謝罪した。
(それじゃねぇ)
仁が首を横に振ると、泣きそうな顔になってしまう。
最後までデートしてほしい。ずっと一緒にいたい。悪いことがあったなら教えて。
一生懸命すがってくる彼女を見下ろし、仁はその額をぴしっと指ではじいた。
「じゃ、デートコース変更だ。……ここまで来ると、俺の方が悪い気がしてきたしな」
彼女がぽかんとして、それからすぐ笑顔になった。
どこか喫茶店にでも入るのか、それとも近くの水族館か。もしかしたらプラネタリウムかもしれない。
彼女は本当に嬉しそうにデートコースを予想する。
それを、仁は軽く鼻で笑った。
(そんな場所、連れて行ってやるかよ。……キスできねぇだろ?)
***
仁が彼女を連れてきたのは、仁自身の家だった。
途中からそれに気付いた彼女は不思議そうにしていたものの、そこが獣の巣だとも知らずについてきてしまう。
仁は玄関のドアを開け、中に彼女を放り込んだ。
今度は後ろ手にドアを閉め、振り返った彼女を――壁に押し付ける。
「……なぁ」
小さな身体が仁と壁の間でびくっと震えた。
腕で閉じ込めてしまえば、もう逃げられない。
「お前、そんな格好していいと思ってんのか? おい」
不安げに首を振ったのを見て、仁は左手を彼女の腰になぞらせた。
そのまま下へと伸ばし、無遠慮にスカートをまくりあげる。
彼女はもちろん慌ててそれを止めようとした。仁にとっては笑ってしまうほど意味のない抵抗を、完全に無視する。
仁の大きな手が太ももに触れた瞬間、彼女は小さく声を上げた。
その唇を塞ぎたい気持ちは堪え、今日一日ずっと我慢してきたことを告げる。
「今日ずっと誰かがお前を見てねぇか、そればっかり考えてた。……その辺歩いてる男の目ぇ、全部潰してやろうかと思ったぐらいだ」
過激な発言と押し殺した声が彼女を怯えさせてしまう。
どうやらこれは仁のお気に召さなかったらしい、と判断したのか、ごめんなさいと声がした。
――もうこういう格好はしない。
みるみるうちにその目が潤んで、目尻が赤くなっていく。
それを見て――さすがに仁はやりすぎたと気付いた。
「あっ、おい、泣くな! 違う、俺が言いてぇのは、かわいい格好するなってことじゃなくて……!」
(ああ、クソ!)
「そういうのは俺にだけ見せてりゃいいんだよ……!」
情けない嫉妬を彼女の前にとうとう晒してしまう。
まだ触れたままの太ももにぎゅっと指を食い込ませ、彼女の額に自分の額をこつんと重ねる。
「これじゃ、ただの嫌な男だよな。悪い、分かってる。でも……お前のことになると、うまく頭が回んなくなるんだ。もっといい言い方ができるはずなのに、全部吹っ飛んじまって……。お前が俺のためにかわいい格好をしてくれたのはすっげぇ嬉しい。だけどさ、俺がかわいいって思うなら、世界中どこにでもいる他の男もそう思うってことだろ。そんなの……むかつくじゃねーか。お前のかわいいところは俺だけが知ってりゃいい。他のヤツになんか、見せんな。……頼む」
本当はキスしたかった。それを我慢できたのは、彼女がまだ泣きそうかもしれないと不安だったから。
仁がそう思う目の前で――彼女はくすくす笑っている。
「なに、笑って……」
必死すぎ、と笑いながら彼女は言った。
そして、ちょびっとだけ背伸びをし、仁にキスをする。
「……おい」
そんなことで怒らないでほしいと彼女は言う。
そこまで自分をかわいいと思ってくれるような人は仁しかいない、と。
(鏡、見たことねぇのか?)
あながち冗談でもなくそう思ってしまう。
そんな仁を抱き締め、彼女はぐりぐり顔を押し付けた。
――他の人が絶対に見られないいろんなものを全部見たくせに。
そんな呟きが腕の中で聞こえ、仁の頭の中でぷつりと音がする。
「いろんなものって、なんだよ?」
また、彼女がくすくす笑う。
知ってるはずだと言ったその視線が、部屋の奥へ移った。
(たまにこいつ、すげぇ小悪魔だよな)
「……見せてもらおうじゃねぇか。俺にしか見せねー『いろんなもの』ってやつを」
もう、彼女が自分で部屋の奥へ行く時間すら待てない。
仁はまだ笑い続けている彼女を抱き上げ、寝室へと運んだのだった。
聖夜、といえばクリスマス。
恋人たちが甘く幸せな時間を過ごす年に一度の素敵な日。
もちろん、恋人派遣サービスをおこなっているBLOSSOM社も――。
「大和、サボるな」
「……めんどくさい」
「ちょ、めんどくさいって! せっかくクリスマスなんだから盛り上がっていこーぜ!」
そこにいたのは『おとどけカレシ』たちの取りまとめを行う桜川たち。
だるそうに答えたのが桐谷大和で、それとは対照的に異様なほど張り切っているのが矢吹千紘だった。
桜川とは違い、この二人は現役の『おとどけカレシ』として仕事をこなしている。
もちろんそこで見せる顔は今のどうしようもなさそうなものではない。
「はぁ……俺の代わりにやっとけよ」
「そーれーじゃーいーみーなーいー」
ついにしゃがみ込んだ大和を、千紘がぐいぐい引っ張って立たせようとする。
「いっつも女の子にはとびっきりのプラン組むじゃん! 今もおんなじっしょ!?」
「今は仕事じゃねーし……」
「じゃあさ、じゃあさ! 俺を女の子だと思って!」
「てめえのどこが女なんだよ……」
賑やかすぎる千紘と、静かすぎる大和と、そんな二人を見ながら桜川は苦笑した。
「さっさと飾り付けないとクリスマスが終わるぞ」
「そもそも、なんでヤローだけでクリスマスしなきゃならないんすかね」
「ばっか、お前! 男しかいねーからこそ、あんなことやこんなことで盛り上がれるんじゃねーかっ!」
「盛り上がる必要あるか……?」
「お前の疑問はどうでもいい。俺が飾り付けをやれって言ったらやるんだ。立って手伝え」
「……はぁ」
桜川に言われてしまえば、大和はもう逆らえない。
というより、桜川に逆らえるキャストなんて聞いたこともない。
――運命の相手を見つけて去っていったキャストたちなら過去にいたが。
「ほい! 帽子かぶって! サンタさん役おなしゃーっす!」
「だからそういうのいいって……」
「クラッカー鳴らそーぜ! クラッカー!」
邪険にされてもめげない千紘を見て、桜川はふと懐かしさを覚えた。
かつて、ここにもハイテンションかつおしゃべり大好きなキャストがいたこと。
そこに悪乗りして余計なことをし始める、小学生もどき。
それから、そんな二人におろおろしていた、気弱なびびりと根暗オタク。
毎回呆れながらも世話を焼いていた現実主義者に、やりすぎたバカ二人をシメる元暴走族総長……。
「……ここも変わらないな」
ぽつり、と桜川が呟いたことを二人は知らない。
「メリークリスマース!」
「うるせー……」
今はこんな新キャスト二人も、派遣されたときはその姿を一変させる。
何事にも無関心でめんどくさがりな大和は、女性の扱いに慣れた究極のフェミニストに。
賑やか大好きお祭り男の千紘は、上品で物静かな紳士に。
――彼らの本気は、おとどけされたあなただけが知ることになる。
年に一度のクリスマス。
結ばれた恋人たちがどんな風に過ごすのか、それは二人だけが知っている。
クリスマス当日ともなると、スーパーまでなんだか賑やかだった。
音楽はもちろんクリスマスのもの。惣菜コーナーにはチキンとオードブルばかり。
当然、特設のコーナーだってある。
「お、これこれー」
壱が手に取ったのは製菓材料だった。
これから二人は家でゆっくりクリスマスの夜を過ごす。
ついでにケーキも自作してしまおう、ということだったのだが。
「生クリームいっぱい買っていいよな! お前に付けてぺろってすんのやりたい! へへっ、なんかえっち――うぐっ」
なんとも鈍い声で呻いたのは、彼女が壱の足を踏んだからだった。
(ひ……ひっぱたかれなかっただけマシ……)
付き合ってますます距離が縮んでからというものの、彼女は壱に遠慮がなくなった。
とはいえ、壱は本性をさらけ出したその瞬間から彼女への遠慮をしなくなっていたし、もともと他人に遠慮をするようなかわいらしい性格はしていない。
だからこそ、容赦のない彼女の行為が嬉しかった。
(俺にそういうことするってのは、つまりこのいっちーさんと同レベルまで落ちたってことだからな!)
彼女が聞いたら、「壱さんほど子供じゃない」と憤慨することだろう。
(俺からすりゃ、じゅーぶんお子様)
実は彼女にとって壱は初めての恋人になる。純粋培養で育てられ、男というものがどんな生き物なのかすら知らなかった彼女に、手とり足とり教え込んだのは壱だった。
初々しく応えていた彼女は、最近キスに自信が出てきたらしい。
隙あらば壱の反応を見ようとキスしたがるところが微笑ましく、壱のあれやこれや、あまり彼女には聞かせられない欲求に対して非常に効果があった。
(ひひひ、今日はなんかイイコトしてくれねーかなー!)
とは思うものの、壱も一応ちゃんとした大人で、恋人がクリスマスにどういうことをするものなのかくらいわかっている。
(プレゼントっつってケーキ作るじゃん? きゃー壱さんこんなにおいしいケーキ作るなんて素敵ー! って言うじゃん? お礼に私をプレゼントってするじゃん!? 俺、超天才! ひゃっふう!)
結局のところ、壱が下心なく純粋に考えることなんて滅多にないのだった。
***
そして家に帰った二人は、それぞれクリスマスを楽しむための準備を始めたのだが。
「おーい、飾り付け終わったかー?」
手元で生クリームを泡立てながら、壱はリビングにいるはずの彼女へ問いかける。
(そんなに時間かかんねーはずだし、こっち手伝ってほしいんだけどな)
飾り付けに購入したものを壱は記憶している。
彼女がなにをそんなに手こずっているのかと思ったそのときだった。
「ン゛ッ」
すとーん、と手から生クリームの入ったボウルが落ちる。
その壱の視線を釘付けにしているのは――ミニスカサンタだった。
(なななななななー!?)
ついに小学生レベルの語彙力さえ出てこなくなった壱の前で、彼女は見せびらかすようにくるりと回ってみせる。その顔は着ているサンタ服の十倍赤い。
――プレゼント、です。
確かに彼女はそう言った。興奮した壱の耳に正しく届いたかは別として。
「お、おおおお……お前……それ……」
彼女は壱からすれば世間知らずのお嬢さんだった。それがたまに大胆な行動に繋がってきたものの、まさかこれほどのことをやらかすとは思ってもみない。
「ぱ……ぱんつ見たい……」
壱が必死に絞り出した感想が、それだった。
(あっ、やべ、また怒られる……!)
そう思ったのに、彼女はちょっとだけ裾を持ち上げる。
見える。いや、見えない。
そのあまりにも攻めたぎりぎりのラインは壱の理性を軽々と空の彼方へ吹っ飛ばした。
「今、ちょうど生クリームできたからさ! だから! 俺!」
裾を掴んだ彼女の手が、ぐっと握られる。
「あっ、待って! 俺むしろ舐められたい! 唇の端に付いてるよ、ってやられたい! やって! ひー! 壱さんの壱さんが壱さんで壱さん!」
もはや支離滅裂なことしか言えなくなった壱に向かって、彼女はつかつかと歩み寄った。
そして、その襟を掴んでぐっと引き寄せる。
そんなことをすれば当然、唇と唇が重なるわけで。
――そういうのはケーキを食べてからにしましょう。
より一層赤くなった彼女の有無を言わせない一言を聞いて壱ができるのは、壊れたおもちゃのようにぶんぶん首を振って頷くことだけだった。
年に一度のクリスマス。
結ばれた恋人たちがどんな風に過ごすのか、それは二人だけが知っている。
遥は彼女といつものようにアニメの上映会を楽しんでいた。
夜までびっちりそんな風に過ごし――おすすめアニメの映画版を三本立て続けに見たところで、ようやく今日がクリスマスだったと思い出す。
(あああああ! やっば! クリスマス!)
彼女と過ごすこんな時間が楽しすぎた。なにも隠さず、好きなことをしていい時間が幸せすぎて。
しかし、それは恋人を持った男が言っていい言い訳ではないだろう。
「ごめん! 今日クリスマスなのに、すっかり忘れてた!」
(ありえないありえないありえない! 普通恋人がいるのにクリスマス忘れる!? どうせ二次元にしか恋人いませんよー、現実の彼女とクリスマス過ごすなんてレアイベント中のレアイベントですよー……!)
「い、今からでもよかったらどっか行こ? イルミネーションなら見られると思うし、ケーキだって買う時間ならまだ……!」
大慌ての遥に向かって彼女は怒ることなく、ただ笑った。
そんなことだろうと思った、という一言を聞いて愕然とする。
(クリスマスもまともにできないくらい、どうしようもないクソキモオタだと思われてたってこと……!?)
もともと遥の自己評価は地を這うほど低い。
さすがに言葉を失っていると、構うことなく彼女は立ち上がった。
その足で冷蔵庫まで向かったかと思うと――。
「……え。それ、ケーキ? ってか、そのシャンパンなに? え? え?」
彼女が冷蔵庫から、いかにもクリスマスといった料理の数々を出してくる。
こんなこともあろうかと用意しておいた、とにっこり言いながら。
「嘘……でしょ……?」
よくもまぁ隠し通せていたものだと衝撃を受けるほど、豪勢な料理が並んでいく。
「……ねぇ、俺がもしクリスマスを思い出せないまま明日になってたら……どうするつもりだった?」
恐る恐る聞いてみる。今はたまたま思い出して言ったからこの料理が出てきたものの、これが明日や明後日や……とにかく、遥が指摘するまでなにも起きない可能性もあったわけで。
そのときは、と彼女は遥の頬をつつく。
――そのときは、明日をクリスマスにしよう。
(えええ、明日をクリスマスって、もうイブですらないじゃん! なのに、なんで……)
こらえきれずに遥は自分の大事な恋人を抱き締めていた。
よしよし、とその背中を彼女が撫でる。
「クリスマスって言ったら、すごく大事なイベントじゃん。俺、忘れてたのに……」
忘れていてよかった、と彼女は言う。
自分たちの始まりは『おとどけカレシ』なんていう派遣サービスからだった。一般的に普通と思われる恋人たちとは大きく違い、二人はデートよりアニメやライブを優先させることだってある。そんなある意味特別な恋人同士だからこそ、当たり前のクリスマスは過ごしたくなかった、と。
「俺が言うのもなんだけど……君も相当オタクだし、変だよね」
へへへ、と遥は嬉しそうに笑って彼女の頬にキスをした。
「今からでも当たり前じゃないクリスマスするの、間に合うと思う?」
どんなクリスマスを過ごすのかは言わない。
それでも、彼女は心からの笑顔を見せて頷いた。
***
クリスマスの夜だというのに、二人は泡風呂を存分に楽しんだり、来季から始まる新作アニメの原作について熱く語り合ったりした。
どれも普段はなかなか時間が取れなくてできなかったこと。でも、今夜はたっぷりその時間がある。
入浴を済ませた後、遥たちはとある声優のクリスマスライブの映像を見ていた。
踊りやコールまで完璧に尽くし、熱気冷めやらぬ中、休憩のためにクリスマスケーキを食べることにする。
(これも忘れてる間に用意してくれてたんだよね……)
本当によかったんだろうかと思いつつ、そもそも遥を恋人に選ぶようなかなり変わった女性だったんだと思い出し、自分を納得させる。
(せめて、もう少し恋人らしいこと)
彼女がおいしそうに生クリームたっぷりのケーキを口に運ぶ。
遥は明らかに後で食べようと避けられていたイチゴをフォークで刺し、自分の唇に挟んだ。
あ、と声をあげて抗議しようとした彼女に向かって懐かしの小悪魔スマイルを浮かべる。
「……ん?」
(君が欲しいのって、これ?)
イチゴを指で示して「食べたいならどうぞ」とアピールする。
彼女はびっくりしたように目を丸くしてから、そっと、遥の唇に自分の唇を重ねた。
(……あ、こんなことしなきゃよかった。止まらなくなるじゃん……)
離れようとした彼女の後頭部を掴み、深く深くイチゴ味のキスを続ける。
キスは甘くかわいらしくても、遥の顔に浮かんでいるのは恋人を求める狼の顔だった――。
年に一度のクリスマス。
結ばれた恋人たちがどんな風に過ごすのか、それは二人だけが知っている。
その夜、御国家では実に盛大なパーティーが行われた。
「あ……あはは……ごめんね、なんか驚かせちゃって……」
彼女が驚くのも無理はない。
海斗は正真正銘のお坊ちゃんというやつで、クリスマスも恋人と二人っきりにはなれないらしかった。
「あの……あちこちから偉い人が集まるんだ。それで……君を恋人として紹介しても……いい?」
なんでだめだと思ったの? と、当然の疑問が彼女の口からこぼれ出る。
そんな一言にさえ、海斗は「ひぃ」と小さく声を上げた。
(だって、クリスマスなのにこんなお仕事みたいなことに付き合わせるなんて、君に申し訳ないから……。そんな、二人っきりのスケジュールさえ押さえられない甲斐性なしに恋人扱いされるのは嫌かと思って……!)
言ったつもりでも、もちろん声には出ていない。
それでも、彼女はおどおどしている海斗を見て察したようだった。
こういうクリスマスは初めてだから緊張する。でも、海斗の恋人として恥ずかしくないよう振舞うから。
そう言ってくれた彼女の表情を窺い、海斗はどきどきする自分の胸を押さえる。
もちろん、彼女に対する申し訳なさから不安と緊張で倒れそうになっているのはあった。
それ以上に、今日のため、ドレスアップしてくれた彼女があまりにも綺麗すぎて。
(誰にも見せたくない)
ほんのりそう思ってしまい、そもそも連れ出したのは自分だろうと慌てて首を横に振る。
そんな風に落ち着かない海斗を彼女はくすくす笑いながら見ていた。
また頼りないところを見せてしまったと気付き、すぐに直立不動になる。
せめて、と海斗は彼女の腰を抱いた。
「あんまりこういう場は慣れてないと思うから、エスコートするよ。俺に任せて」
自分基準で考えた海斗は、きっと彼女が知らない場でびくびくしているだろうと判断した。
だからそう言って、安心させるように微笑む。
残念ながら彼女が考えていたのは、びしっと服装を決めた海斗がかっこよくて、今の頼もしい言葉も倒れるくらいときめいた、ということだったが。
***
「ふあ……」
パーティーを途中で抜け出したのは、海斗がお酒を飲まされすぎてしまったせいだった。
御国家主催のパーティーなのだから、その子息である海斗が挨拶回りに出歩くのは当然のこと。その結果、彼女を紹介すると同時に断りきれない量のお酒を飲む羽目になった。
いつものラフな格好に着替え、海斗はベッドに横たわる。
(うう……情けない……)
介抱させてしまうなんて、恋人としてこんなに恥ずかしいことはあるだろうか。
彼女がそんな海斗を大丈夫かと心配しつつ、かわいいと嬉しく思っていることは知らない。
「ごめんね……。君がよかったら、会場に戻って平気だから……」
ぼんやりする頭でそう言うと、側にあったぬいぐるみを顔に押し付けられてしまう。
エスコートしてくれる人がいないなら、嫌。
かつて俺様は大嫌いだときっぱり言い切った彼女の言葉は強くて、切れ味が鋭い。
同時に、海斗に安心感を与えてくれる。
――私がいなかったら、誰がその間あなたの側にいるの。
気遣わしげな声が海斗の口元をほころばせた。
ちょっぴり気が強くて、言いたいことはきちんと言う、海斗とは正反対の大好きな恋人。
その優しさも、海斗には眩い。
(ずっと、一緒にいてくれるんだ……)
ふふふ、と海斗は笑う。アルコールが回っているせいであんまり頭が働かない。
「あのね。もし一緒にいてくれるなら、君と寝たい。ぎゅーって抱き締めたいよ。それから、キスも――」
言いかけた海斗に、ぐいっとぬいぐるみが押し付けられる。
「んむっ」
(な、なに……?)
びっくりした海斗は軽く目を瞬かせた。
なぜか彼女が怒ったように唇を尖らせて――赤くなっている。
「ど……どうしたの……?」
不安げに聞いた海斗にぐりぐりぬいぐるみを押し付けながら、彼女は言った。
――抱き締めてキスだけで済むならいいけど、今日は他に着替えを持ってきてないんだからね。
(ん……?)
彼女の言葉の前半と後半が繋がっていないような気がした。
ややあって、その意味に気付く。
「でも、脱がせたらだいじょ――んむむ」
彼女はその先を海斗に言わせてくれない。
照れているその姿がなんだかとてつもなくかわいらしくて、海斗はへらへら笑ったのだった。
年に一度のクリスマス。
結ばれた恋人たちがどんな風に過ごすのか、それは二人だけが知っている。
「おい、バカみたいにきょろきょろするなよ。前見て歩け。転ぶだろ」
そう言いながら奈義は彼女の手を引っ張った。
クリスマス時期にしかやらない期間限定のイベント。それは外にある木々をすべてツリーに変え、装飾と電灯できらきら輝かせるという夢のような空間を演出するものだった。
お姫様というものに憧れている、と言った彼女が喜ばないはずもなく。奈義がいちいち手を引かないと、どこへ歩き出してしまうかわからない。
(夢中になんのはいいけど、ぼんやりしすぎ)
今までの奈義なら、はぐれないように手を繋ぐなんてことは絶対にしなかった。
迷子になるなら勝手にすればいい、どこかにぶつかるならぶつかればいい。基本的に奈義はそういう考え方で、面倒を見てやるのは弟たちぐらいだけのはずだったのに。
(……ってか、なんでこんな寒いのに手だけあったかいんだよ)
寒い冬空の下、握るその手が温かいことなんて知らなかった。
だから、離せない。放っておけない。
(……まぁ、ふらふらされても困るし)
仕方がない、と奈義は自分自身に言い聞かせる。
さりげなく普通の握り方から恋人繋ぎに変えたのは、彼女が手を解いて離れてしまわないように。
と、いうことにしておいた。
「せめて、もうちょっと早く歩けないわけ? レストランの予約時間、間に合わなくなっても知らねーから」
はっとしたように彼女が小走りになる。
何気なくその足元を見た奈義は、少し、照れた。
(……バカ。クリスマスだからって、俺がプレゼントした靴履いてくんなよ)
それは彼女にとって特別な、そしてとっておきの靴。
普段使いしていないと知っているだけに、どれだけ今日奈義との時間を楽しみにしてくれていたかがよくわかる。
(待ってろ、ふわふわお姫様。この後はあんたの大好きなサプライズだ)
――レストランで楽しく食事をした後は、照明がそっと落ちてオルゴールが流れる。
彼女の目を塞いだ奈義は、レストランの中央にあるツリーに向かってそっとその手を引くのだ。
そこにある、彼女のためだけのプレゼントを渡すために。
きっと彼女は驚くだろう。もしかしたら感極まって泣いてしまうかもしれない。
(あんたの間抜けな顔、早く見せろよ)
彼女はどうして奈義がずっと嬉しそうに頬を緩ませているかまだ知らない。
だから、手を繋ぎながら不思議そうに首を傾げていた。
***
サプライズは奈義が行うはず――だった。
照明が落ちてロウソクの火がぼんやり灯ったレストランには、クリスマスのメドレーがオルゴールで流れている。
そこまでは奈義も知っている。
ただ、プレゼントした後からは違っていた。
――私からも、サプライズ。
(ああ、クソ)
どうして奈義はこの瞬間まで気付かなかったのだろう。
サプライズを好むなら、自分がする側に回ることだって好きに違いないのに。
「……これ、俺に?」
彼女に差し出されたのはなかなか大きい箱だった。
こんなときにも、持ち帰るのが面倒だろう、と思ってしまった夢のなさが悲しい。
「開けていいか?」
うん、と彼女は頷いた。
自分の心臓がこれまでにないほどうるさく騒いでいるのを感じながら、奈義は夢がいっぱいに詰まった箱を開く。
そこには、靴が入っていた。
(この間、二人で見たカタログに載ってたやつ……)
興味があると言ったのを彼女はきちんと覚えていた。おそらくあのときから、クリスマスのプレゼント候補として挙げていたに違いない。
(んだよ。サプライズ返しなんか聞いてねーのに……)
奈義がどんな顔をするのか、ほんの少し前に奈義が彼女の顔を楽しみにしていたのと同じように、彼女も待ちわびていた。
じっと見つめるその眼差しが、更に奈義のいろんな想いを高めていく。
「……バカ」
顔が熱くなっていくのが本当に、本当に悔しい。
(頭ふわふわのお花畑ちゃんのくせして……)
「今、こっち見んな……っ」
ああ、と彼女は安心したように息を吐く。
どんなに目をそらそうと、どんなに憎まれ口を叩こうと、奈義が喜んでいるのは明らかだったから――。
年に一度のクリスマス。
結ばれた恋人たちがどんな風に過ごすのか、それは二人だけが知っている。
葵は彼女と外へイルミネーションを見に行った。
そこでの会話はもちろん――。
「あのでっかいやつ、絶対ボスだべ! 多分、そっちにある赤い電気と青い電気をどっちも壊さねぇとダメージ通んない! 下のちまちましてるやつはボスの体力回復担当で、それから……」
およそ、恋人同士の会話とは思えないものの、彼女はそのすべてにきっちり答えていた。
それどころか、三つ並んだ装飾を見て「実は右が本体のパターンだろう」と言ったり、「電気属性なら地属性の攻撃が通用するのでは?」と言ったり、むしろ葵も驚くほどゲーマーらしい答えを出してくる。
(あー、楽し!)
どんなに人混みがものすごくて、イルミネーションを見るのがやっとの状況でも少しも辛くない。
気の合う恋人がいるというだけでこんなにもただの電飾がきらびらやかに見えるとは、葵も今日まで知らなかった。
「これ、ここにいんの全員恋人同士なんかなぁ。すげー数」
(ゲームなら一気に倒せば――)
ゲームだったらまとめて倒すとボーナスタイムなのに。
葵が頭に浮かべたのとほとんど同じ内容が、隣でぽつりと呟かれる。
(ああ、やっぱあんた、俺と一緒になるためにいるんだ)
同じことを考えていた、というそれだけのことが葵の胸をほっこり温めて喜ばせた。
「……あっ」
しかし、そんなことに気を取られていたせいで二人の間に無粋な男が割り込んでしまう。
離ればなれになってから初めて、葵は手を繋ぐべきだったのだと気付いた。
(気ぃ利かねぇなぁ、俺。そんなんじゃ呆れられちまうべ)
再び二人が寄り添うことに成功したとき、葵は一言付け加えることなく、彼女の手を握った。
びく、と驚いたように微かな反応がある。
次いで、彼女の顔が少し赤くなった。
「はぐれんなよ。ちゃんと繋いどいてやっから」
いつもは葵が彼女にリードされる方が多い。
それでも。
(今日はクリスマスだかんな)
葵にだって、譲れないと思うときぐらいあるのだった。
***
特別な夜を二人で楽しんで、あとはもう家でまったりと過ごす。
いつもはすぐに始めるゲームも、今日はなかなか電源を付けるところまでいかない。
(俺がゲームを後回しにしたくなるくらい、夢中になれるもんを見つけるなんてなぁ)
彼女が側にいるだけで葵は嬉しくてたまらなかった。
クリスマス、なんていう特別な日を丸々葵のために空けてくれたことも。
だから、葵は今日頑張ったのだ。
彼女が来年も一緒にクリスマスを過ごしてくれるように。
例えもう『おとどけカレシ』ではなくても、素敵な恋人だと思ってもらえるように。
(あー、でもそろそろ限界)
葵はくすくす笑って、彼女を見つめた。
「なぁ」
ごろん、とその膝に頭を乗せる。
「そろそろ俺にも甘やかさして?」
(あんたを甘やかすのも好きだよ。だけどさ、やっぱ俺ってちょっと甘えん坊みたい)
微笑んだ彼女の手が葵の髪を優しく梳いていく。
その感触が心地よくて目を閉じようと思ったけれど、彼女を見つめていられなくなるのがもったいなくてやめておいた。
「メリークリスマス」
今まではゲーム内のイベントでしかなかったそれを、心からお祝いする。
笑いかけてくれたその笑みが愛おしくて、また胸が疼いた。
(あんたの笑ったとこ、やっぱ大好きだ)
これからも自分の手で彼女の幸せな笑顔を作っていこうと、葵はそっと聖夜に誓った。
年に一度のクリスマス。
結ばれた恋人たちがどんな風に過ごすのか、それは二人だけが知っている。
仁はクリスマスの日にまで仕事を詰め込まれた彼女のために、先に家で料理の準備をしていた。
例年特にクリスマスを楽しんでこなかった彼女は、オードブルも食べたことがないらしい。
(大体こんなもんでいいか……っと、そろそろ帰ってくる時間だな)
テーブルの上にご馳走を並べ、さすがに作ることはできなかったケーキをその中心に置く。
メリークリスマス、とプレートに書かれたケーキは二人で食べるには大きかったが、仁は彼女がこういうものを好むとよく知っていた。
シャンパンを用意し、グラスもきっちり二つ分置いておく。
あとは主役の彼女が、と思った所で玄関が開く音がした。
ただいま、と声が聞こえた時、仁は自分が緊張していたことに気付く。
(思ってたのと違う……なんて言われねーよな)
彼女が食べたいと言っていた料理は全て並べてある。シャンパンだってそれなりの値段をしたいいものだ。ケーキも人気店のものを予約し、こっそりプレゼントだって――。
(俺もまだまだ仕事の癖が抜けてねぇ)
どこまでも完璧なカレシであること。それはかつて『おとどけカレシ』だった仁のポリシーだった。
ぱたぱたと足音が聞こえ、仁は高鳴る胸を押さえながら振り返る。
そこには絶句した彼女の姿があった。
「あー……お帰り。クリスマスにパーティーしたいって言ってただろ? だから……その、なんつーんだ。ちょっとでもそれっぽい気分になればと思ってだな」
どこまですれば喜んでもらえるのか、仁にも正直わからない部分があった。
(よ……喜ぶ、よな……?)
いつも彼女は仁のすることを子供のように喜んでくれる。
今回はどうなるだろうかと思っていたとき。
「……おわっ!?」
どさっとカバンを投げ捨てた彼女が、勢いよく仁の胸に飛びついた。
「いきなり飛びかかってくんな。危ねーだろ」
(……そこまで喜ばれると思ってなかったな)
どれほどこの準備を喜んでいるのか、それはもう顔を見なくてもわかる。
彼女はぐりぐり仁の胸に頬を押し付けながら「大好き」と繰り返しているのだから。
「ほら、遅くなる前に飯にするぞ」
(お前が喜んでくれてよかった)
この日のために仁がどれだけ入念にクリスマスのことを調べ、準備したのか彼女は知らない。それでも、心から嬉しそうに笑うその顔さえ見られれば、そんな努力は一瞬で報われてしまうのだった。
***
早速二人きりのクリスマスを始めると、仕事の疲れもあったせいか彼女は一息にシャンパンを飲み干した。
(相変わらずすげー飲みっぷり……。これ、また介抱しなきゃならねーな)
冷静に彼女の様子を窺いながら、今日のことを話したりと料理を楽しんでいると。
「……おい」
隣に座っていた彼女が、当たり前のように仁の膝に座ってくる。
そして、にへら、と笑った。
(お前、俺にそんな近付いていいのかよ)
今日、この瞬間まで仁はずっと彼女のことだけを考え続けていた。クリスマスの準備を優先させるためにデートを断念した日だってある。
その温もりに触れたのは、本当に久し振りのことだった。
じんさん。といまいちろれつの回らない声が甘く響く。
「仁、だろ? 呼び捨てにしろっていつも言ってるじゃねーか。さん付け苦手なんだよ」
へへー、と頬を赤くしながら彼女は仁の身体に寄りかかる。
「こら、あんまかわいいことすんなっつの」
またお酒に手を出そうとした彼女からグラスを取り上げ――膝から下ろそうとしたはずだった。
それなのに仁の手は勝手に彼女の頭を引き寄せていて、自分自身も更に密着しようと近付いてしまっている。
(ったく、クリスマスまで俺の調子を狂わせんのか)
彼女に出会ってからずっと、仁は仁でいられていない。
楽しいパーティーを終えても、クリスマスプレゼントを交換しても、きっと狂わされたままなのだろう。
(今夜ぐらいは優しくしてやりたかったのにな)
仁がそんなことを考えているなんて、彼女はまったく知らない。
それどころか、機嫌よく調子外れな鼻歌を歌いながら大好きな仁に甘えるのだった。
からん、とグラスの中で氷が音を立てた。
それに合わせて仁の視線も隣にいる彼女の方へ動く。
(さっきから結構飲んでるけど大丈夫か……?)
仕事で嫌なことがあった、と彼女は言った。
だから仁はこうしてバーに連れてきたのだが。
「お前、それで何杯飲んだ?」
首を横に振られる。
自分が何杯飲んだのかすら、彼女はもう覚えていないらしい。
その頬は上気して赤くなっていた。
相当アルコールが回っているのか、目もとろんとしていて、仁を見ているのかそうでないのかいまいち判断がつきにくい。
そんな彼女が仁に向かってへらっと笑った。
お酒、強い。
なんだか妙なカタコトで言われてしまう。
それがおかしくて、仁は彼女の頭をぽんぽんと撫でてやった。
「お前が弱いんだ……って言おうかと思ったけど、まぁ、俺、酔ったことねぇしな」
彼女はそれを聞いて目をぱちくりさせた。
舌っ足らずな声で、すごいすごいと子供のようにはしゃぐ。
(あー……これ、完全に酔ってんな……)
普段の彼女だったらもう少し大人びた反応を見せる、と思う。
たくさんお酒が飲めて羨ましいとか、なるべくすぐに酔わないようにする秘訣はあるのかだとか、そんなことを聞いてきそうなのに、と。
「……もう嫌な気持ち、抜けたか?」
バーに来たそもそもの理由を思い出し、仁は彼女にそう尋ねた。
上司に無理を言われ、必死に頑張ったにも関わらず手柄を横取りされた。それなのに、その後で小さなミスが見つかった途端、すべてを彼女に押し付けた、らしい。
飲んで忘れたいと言った彼女は、それを聞いた仁が隣で指を鳴らしていたことに気付かない。
更に言えば、「二度とそんなことができねぇように締めるか」と思っていたことも知らない。
もー、だいじょーぶ。
さっき以上に彼女の呂律が危うい。
もっとカクテルを飲むんだとごね始めたのを見て、仁は苦笑した。
「もう大丈夫なら、家帰ろうな。あんま飲むと身体に悪いだろ」
いつもの彼女ならすぐ仁の言うことを聞いてくれる。
しかし、今日は違った。
やだ――とごねたのだ。
「やだ、じゃねぇ」
仁がそう言っても彼女は首を横に振り続ける。
空っぽになったグラスを取られまいと、潤んだ目で仁を睨みさえした。
(それで俺に威嚇してるつもりか? ……ったく)
子猫が必死に唸ったところで、恐ろしいと思う人間はいないだろう。
仁にとっての彼女が今その状態だった。
恐ろしいと思うより、むしろ――。
(……かわいい顔しやがって)
仁がそう思っているなんて露ほども知らず、彼女は小さく「嫌い」と言った。
「へぇ、俺のこと、嫌いになったのか?」
そう聞いてやると、しまったと明らかにわかりやすい反応を見せられる。
いくらぐだぐだに酔っていても、言ってはいけないことの判断はつくらしい。
「嫌いならもう帰っちまうぞ」
(お前が俺を嫌いでも、俺はお前を好きなままだけどな)
彼女のちょっとした発言を、わざと意地悪で返す。
仁が思った通り、酔っているにも関わらず、彼女は慌て始めた。
よくわからないことを言いながら擦り寄ってきた彼女を見て、仁は必死に笑いを堪える。
(焦るぐらいなら、変なこと言うなよ)
彼女の顎を指で持ち上げて、唇にキスを落としてやった。
それだけで慌ただしかった動きがぴたりと止まってしまう。
「わかってるよ。お前が俺を好きなことぐらい」
ほっと彼女の肩の力が抜けたことで、仁はまた笑いを噛み殺す羽目になった。
なんとも感情の変化がわかりやすくて、だからこそ小さな意地悪がやめられない。
「そんじゃ、俺の言うこと聞けよ。今日はもう帰る。いいな?」
てっきり今度は頷くかと思ったのに、彼女はまだ渋っていた。
さっきのように嫌だとは言わない。ただ、やっぱり顔に「それはちょっとなぁ」と出てしまっている。
「なんでそんなに帰りたくねぇんだよ」
(……こんなわがまま言うなんて珍しいな。よっぽどストレス溜まってたのか、それとも……)
仁が心配し始めたその瞬間、彼女はことんと仁の胸に頭を預けた。
そして、顔を見ないようにしながら消え入りそうな声で言う。
――もっと一緒にいたい。
その言葉はまず、とりあえず音として仁の耳に入った。
数秒経って意味を理解し、更に数秒使って――理性を押し留める。
「……わかったよ、今日はお前んとこ泊まる」
それはそれは冷静に、そして余裕を持って返答ができた――と仁本人は思った。
彼女が顔を上げずにすんでよかっただろう。
そうでなければ、笑み崩れて崩壊寸前の恋人の顔を見てしまっただろうから。
(一緒にいたいなら最初から言えよ。的確に人のツボを突いてきやがって)
「じゃ、帰るか。足元気を付けろよ。お前、ふらふらしてんだから」
あくまで冷静に。頼れる恋人として彼女に接する。
一緒にいたいと言ってくれた彼女になにをしたいと考えているか、なにをするつもりでいるかは悟られないようにしながら。
店の外に出ると、急に彼女がしゃがみこんでしまった。
すぐに仁もその側に膝をつく。
「どうした? 吐きそうか?」
あれだけ飲んだのだから、と心配して聞くと、むっとした顔で頬を引っ張られてしまう。
デリカシーがない、と叱られた仁は目を丸くした。
(んなこと言われたってな)
もし本当にそうなら水を買ってこようとコンビニまで走ろうとしたとき、彼女は強めに仁の袖を引いた。
おんぶしてくれないと歩けない。
そんな子供みたいなわがままを訴えてくる。
(飲みすぎて吐きそうってわけじゃねぇのか)
そのことにほっとしながら、恥ずかしかったのか、俯いている彼女の頭に手を置いた。
「お姫様抱っこじゃなくていいのか?」
(お前のためなら、なんでもしてやるよ)
それは恥ずかしすぎると彼女は首を横に振ったものの、正直、仁にはおんぶが恥ずかしくない意味がわからない。
おそらく、酔っているせいでうまく考えられていないのだろう。
まだ仁が返答していないにも関わらず、勝手に背中へよじ登ろうとしてきた。
「こら。おい」
口では止めながらも、振り払いはしない。
むしろ彼女が背中に登りやすいよう、更に姿勢を低くしてやった。
やがて彼女はぺったり仁の背中に張り付き、くふふと奇妙な笑い声を漏らした。
よほどこの状態が気に入ったらしい。
「ちゃんとくっついとけよ。じゃねぇと落としちまう」
落とさないよ、と彼女は即答する。
――落とさないよ。いつでも私を守ってくれるから。
機嫌よく笑って、後ろから仁の横顔に頬を擦り付けようとしてくる。
今回も仁の顔を見ずにすんでよかったのは確かだった。
そこまで彼女に信頼されていることを実感して喜ぶ仁が、なかなか人には見せられないくらい嬉しそうな笑みを浮かべていたからだ。更に言うなら、酔ってもいないのに顔が赤くなっている。
「側にいねぇと守りたくても守ってやれねぇんだからな。……だから、これからも俺の側にいろよ」
うん、と返事がすぐ耳元で聞こえる。
それから五秒も経たないうちに、小さな寝息が聞こえ始めた。
仁は彼女を背負って運びながら、ほんのりもやっとする。
(この状態、最悪じゃねーか……。顔も見れねぇ、抱き締めんのも無理、キスはもっと無理。……こんなのもたねぇぞ)
信頼しきった重みが仁の背中にかかる。
かつて施設にいたときにも歳下の兄弟たちをこうしておんぶしたことがあった。
それとは違う、もっと愛おしくて心地よいぬくもり。
早く家に帰りたいのは山々だったが、あえてゆっくりゆっくり歩いていく。
少しでも彼女が安心して眠れるように。
今だけ、仁は彼女のためだけのベッドになることを誓ったのだった。
家に着き、足元に散らばる雑誌を蹴り飛ばしながら、仁はベッドへと向かった。
細心の注意を払って彼女をそこに下ろす。
甘えるような吐息が耳に触れたのは意図的に無視した。
そうでもしないと、理性が振り切れて眠る彼女を襲いかねない。
(生殺しって言うんだからな?)
無事、ベッドに横たえた彼女に向かって心の中で告げる。
それが聞こえたのか、閉じていた瞼が薄く開いた。
――ぎゅってして。
伸ばされた腕。甘えているくせにどこか艶めかしさを感じさせる声。
シーツに散った髪。仁だけを見つめる瞳。運んでいる途中にはだけたらしい胸元。
その何もかもが、ここまで耐え抜いた仁のすべての頑張りを無に帰した。
――誓って、今夜手を出すつもりなんてなかった。
嫌なことがあったなら休ませてやりたかったし、たくさん飲みすぎたなら落ち着くまで寝かせてやりたかった。
本当に、この一瞬前までは心からそう思っていた。
それなのに。
「……お前が誘ったんだからな?」
ぬくもりを望んでいるなら、与えてやるだけ。
こんなにわかりやすく求められて自分を保っていられるほど、仁は完璧な男ではないのだった――。
お邪魔します、と言った彼女の声はやけに硬かった。
「どした? びくびくしてねぇで入れよ」
彼女をここまで連れて来た仁は、そんな小動物のような姿を面白おかしく思いながら見つめる。
「まさか初めてだからって緊張してんのか?」
こくこく、と彼女が真剣な顔で頷いた。
――そう、今夜彼女は初めて仁の家に来たのだった。
恋人になってから、仁が彼女の家へ向かう事は少なくなかった。そもそも『おとどけカレシ』として働いていた時にも――部屋の掃除をさせている。
「別に今更部屋に来るくらい、どうってことねぇだろ」
そう言いながら、仁は彼女の耳元に顔を寄せた。
そして、にやりと口元に笑みを作る。
「さすがに俺も連れ込んだ瞬間、襲ったりしねぇよ」
わざと意味を込めながら、耳朶に音を立ててキスを落とす。
そうすると照れやすい彼女はすぐに顔を真っ赤に染め上げた。
(連れ込んだ瞬間、は襲わねぇからな。……その後は、まぁ、うん。そりゃあ、な?)
こっそり仁がそう考えている事も知らず、彼女は意を決したように部屋へと足を踏み入れた。
男の家、と考えると随分綺麗な場所だった。
さっぱりと片付いており、きちんと足の踏み場がある。
彼女はそれをそのまま仁に伝え、笑われてしまった。
「あのな、足の踏み場がねぇのはお前の家くらいだ。こんぐらい片付けとくのは普通だろ、普通」
ころころと表情を変える彼女が愛おしくてわざと嫌味っぽく言うと、ぐぬぬ、とでも言いたげにかわいらしく睨まれてしまう。
(なんだ、その顔? 襲うぞ?)
あながち冗談でもなく思いながらも、ぎりぎり仁は自分を抑え込んだ。
まだ、さすがに早い。
(ガキみてぇだな、俺。目の前にいるだけで抱き締めてキスして、それから……。……それから、じゃねぇよ。どんだけこいつのことが好きなんだっての)
日々、その想いは強くなっていく。
仁の世界を変えた彼女は、もはやなくてはならない存在になっていた。
「適当に座っとけ。なんか飲むか?」
彼女は緊張した顔で首を横に振ると、やけに背筋を伸ばしてソファに座った。
部屋が気になっている様子を見せているものの、子供っぽく漁ろうとはしない。ただ、非常に興味はあるらしく、落ち着きなく辺りを見回していた。
(猫……いや、ハムスターか……?)
かわいらしい姿を動物に例えながら、仁は彼女の前に麦茶を用意する。
そして、家主として遠慮なくその隣に座った。
それに驚いてしまったらしく、びくりと彼女が跳ねる。
すすす、とさりげなく離れようとしたのを、仁は片手で腰を引き寄せて阻止した。
「緊張しすぎだ。お前の家みたいなもんだろ、俺の家なんだから」
そんな超理論は聞いたことがない、と指摘されても仁は気にしない。
更に彼女を自分の方へ寄せ、当たり前のように頬へとキスをする。
「大体、何にそんな緊張してんだ」
彼女はとうとううつむいてしまった。
ああ、と仁はわざとらしく頷いて、意味ありげに身体のラインをなぞる。
「泊まりだもんな。そりゃ、いろいろ考えちまうのもしょうがねぇ。……そういうことか?」
彼女の身体にわかりやすく力が入ったのを見て、仁は自分の考えを確信する。
「じゃ、お前の希望通りにしてやる。……今夜は寝顔より恥ずかしい所、見せてもらうからな」
寝顔を例えに出したのは、彼女がそれを恥ずかしがるからだった。
仁からすれば彼女の表情のどれも恥ずかしいと思えるようなものではない。むしろ、どんな情けない顔も困り顔も――取り繕えなくなって甘えてくる顔も、何もかもが愛おしかった。
彼女はいつも頭の奥まで溶けそうな声で仁の名前を呼ぶ。
きっと今夜もそうなるのだろうと考えて、仁はすぐに煩悩を振り払った。
(だからはえぇっての!)
一応、仁だって今夜の泊まりについて考えていないわけではなかった。
元『おとどけカレシ』キャストとしての癖のようなものかもしれない。
連れ込んだ後は適当にアルコールでも楽しみながら会話を楽しみ、映画を付けて徐々に距離を詰め、そしてなんとなくいい雰囲気に持って行った後は……。
(手順すっ飛ばす奴がいるか!)
仁が理性を保っているのは、プラン通りにしなければならないという妙な意地もあった。
彼女が笑顔一つ見せただけで、あっさりプランをなかったことにしてしまう自分を情けないと思っているのもある。
今、彼女は仁の腕の中でもぞもぞ身じろぎしていた。
どうやら落ち着かないらしい。
しかし、すぐにちょうどいい収まりどころを見つけたらしく、大人しくなった。
ちょこんと座ったまま、仁を見上げてくる。
「……どうした?」
聞いておきながら、答えは聞かない。
吸い寄せられるように唇を塞いで、またやっちまったと自分を悔いる。
(初めての泊まりでビビらせたら、二度と来てくれねぇかも……)
そんな風に、かつては暴走族の総長として恐れられた仁の方がビビっていた。
ただ、彼女は仁を拒まない。
黙ってキスを受け入れ――あろうことか、背中に腕を回してきた。
そうなるともう止められなくて、添えた指で彼女の顎を固定する。
「……口、開けろよ」
微かに頷かれた気がして、もう一度唇を重ねる。
舌で割ってキスを深めると、仁を抱き締める小さな手に力が入った。
(調子狂わされてばっかだな……)
吐息をこぼし始めた彼女とは対照的に、仁は余裕を保つ。
だからこそ彼女を怯えさせないように、それこそ真綿でくるむように優しく優しくキスを繰り返した。
は、と仁も濡れた息を吐く。
それが妙に艶めいた響きをはらんだことにも気付かず、頬を赤らめた彼女の前髪を耳にかけてやった。
「……先に風呂だよな」
ためらいがちに了承される。
小さな声で、「背中を流そうか」という提案まで聞こえた。
(……まだだ、まだ堪えろ)
もうほとんど堪えられていない、というのはともかく、仁は自分を律する。
「ありがとな。……じゃ、俺はお前の身体洗ってやる」
もちろんそういう意味を含めて囁くと、思い切り首を横に振られた。
別にいい、やっぱりいい、そんなのいい。
まくしたてられ、少しむっとする。
「遠慮すんな。明日は休みなんだし、ちょっとぐらい長風呂しても誰も怒らねぇだろ?」
(もういいわ、我慢なんかするだけバカバカしいしな)
まだ抵抗しようとする彼女を、そのまま浴室へ連れて行こうとした。
じたばたもがくのを見て、くっと喉を鳴らす。
「明日の朝飯作ってやるから、俺の好きなようにさせろよ」
今の今まで暴れていた彼女が、たったそれだけで従順になった。
彼女の好きなものは仁の作った料理で、どんな簡単なものでも大喜びして食べる。
お泊まりどころか朝食まで付いてくる――。
それが、彼女の心を掴まないはずがなかった。
「何食べたいか考えとけ」
仁の言葉を聞いて、ついに彼女は陥落した。
オムライスがいいかな、それとも……と早速食べたいものを挙げていく。
(色気より食い気かよ。……俺が目の前にいるの、わかってるか?)
こんなに自分は彼女のことだけで心を乱されているのに、と悔しささえ覚えた。
せめてもの意趣返しに、彼女の服のボタンを一つ外す。
「風呂入ってる間も考えてられんなら考えとけ。俺がそんなに優しいカレシだと思うなよ?」
いまいち意味がわからなかったらしく、彼女も仁の服を脱がせようとしてくる。
今度は仁が陥落する番だった。
(……もう知らね)
浴室へ向かう予定だったのに、その予定すら彼女のせいで狂わされる。
仁は彼女を壁に押し付け、さっきよりもずっと深くて余裕のないキスを落とした。
それは『もっともっと、アナタがカレに恋をする』日々の始まりにすぎない。
明日から何が待っているかも知らず、二人は幸せな夜を過ごすのだった。