柄にもなく困り果てていた。
彼女を怒らせてしまっている。でも、理由がわからない。
「なにが不満なんだ? 言ってみろ」
「…………」
「なんとか言ったらどうなんだ。この俺がわざわざ心配してやってるんだぞ」
それでも恋人からの返答は無かった。
怒りと不安で、目元が引き攣る。
家政婦の分際でこの俺を無視するとは――喉まで出かかった言葉をぐっと堪え、飲みこんだ。
それを口にすれば日頃の繰り返しになってしまう。
もっと冷静にならなければいけない。
「誕生日に何が欲しいか、と聞かれたから、欲しいものは自分で買えると素直に答えた。
この流れのどこに怒る要素がある?」
彼女が「信じられない」といった顔で俺を睨む。
そんなこともわからないのか、と。瞳がすべてを物語っていた。
しかし、彼女も彼女で具体的な理由を言葉にしようとはしない。
眉間に皺を寄せ、黙り込む。
その表情は、先程よりも怒りが上書きされていた。
「もういいです」
「は? よくねえだろ。怒ってる理由を言え」
「怒ってませんから」
「どう見ても怒ってるだろ」
「怒ってませんってば!!」
珍しく声を荒げる彼女に突き飛ばされた。
嫌な気持ちにさせたいわけではないのに、どうして。
怒りと焦りで、身体中に靄が溜まっていくようだ。
「どうして理由を言わない?」
「逆に聞きますけど、どうしてわからないんですか?
頭がいいのに、鈍感なんですね」
こちらの存在を否定するかのような物言いだった。
不覚にも、少し心が傷む。
そんな痛みを隠したかったのだろうか、無意識に彼女の腕を掴んでいた。
「察してもらおうとか思ってんのか?
お前いい加減にしろよ」
いつもよりもずっと低い声が出てしまう。
怖がるかもしれないと一瞬思ったが、その心配はいらなかった。
怯えるどころか、こちらを睨みつけている。
恋人は、自分以上に肝が座っているのだ。
「離してください。私、食事の準備をしなければいけないので」
「待てよ。理由を言えっつってんだからさっさと言え!」
「藤さんと喋りたくないんです。離してください」
「あ? ふざけんな。なんだその口の利き方?
いい加減にしねえとマジで容赦しねえぞ!」
怒鳴った瞬間、彼女の肩が初めて、びくっと揺れた。
しまったと感じた時にはもう遅い。
いじけたように下を向いた彼女にかける言葉が見つからない――。
さっきまでは我慢できていたのに。
本心とは裏腹に彼女を追い詰めることしか出来ないのか。
愛する恋人に、ひとつも優しく出来ないのか。
(傷つけたいわけじゃねえのに)
わかっている、けれど。
いつもプライドが邪魔をして、こんな結果になる。
こんなとき、藍のように女が喜ぶ甘い言葉を吐けたら。
玄のように想いをストレートにぶつけられたら。
誰かのようになれたら、なんて。
らしくもない考えが、ぐるぐると頭を駆け巡る。
誰もが認める完全無欠の天才。
これまで絶対的な自信を持っていた。
恐れるものなどなにもなかった。
揺らぐことなど一度もなかった。
――なのに。
彼女の前になると、ひどく臆病な感情が生まれる。
このまま謝らなければ、嫌われてしまうかもしれない。
もう理由なんてどうだっていい。怒らせたことは事実だ。
まずは――そう、一言。
「悪い。今のは言いすぎ、た……」
無意識にその言葉が飛び出ていた。
彼女の瞳が、大きく開く。
「お前の機嫌を損ねるようなことを言ったのなら、謝る。
だから頼む。ちゃんと理由を話してくれねえか……」
また拒否をされるかもしれない、と思った瞬間、吹き出す声が耳に届く。
「な、何笑ってんだよ!?」
「ふふ、はははっ」
「おい! なんなんだよお前! 人が真剣に謝ってるんだぞ!」
「だって、藤さんがあまりにも必死だから」
笑った顔を見て、一気に安堵した。
沸々とした感情がすっと引いていく。
「藤さんの欲しがっているものが知りたいっていう、私の気持ちもわかってほしかったん
です」
ムキになってすみません、と照れくさそうに彼女が笑う。
「藤さんの喜ぶ顔が見たくて、プレゼントを渡したいって思ってるんです」
「喜んだ顔? ……俺の?」
「はい。恋人の笑顔、見たいのは当然でしょう?」
――ああ、そうか。
答えを知ってしまえばこんなにも簡単なことを、
どうしてわからなかったのだろう?
「なんだ……そういうことかよ」
「……?」
「要は、家政婦が俺のこと大好きって話だろ」
彼女は一瞬口ごもるものの、恥ずかしそうに目線をそらし、呟く。
好きじゃダメですか、と。
こういうところが、たまらなく愛おしいのだ。
「最初からそう言えよな」
「そんなの言わなくても察してください!」
「バーカ。んな面倒なことできるわけねえだろうが」
「女心わかってないですね」
うるせえよ、とデコピンを食らわす。
しかし今日は自分が悪かったのは間違いない。
「ほら、来い。仲直りだ」
腕を広げ、茶化し混じりに言ってみる。
どうせ恥ずかしがって嫌がるだろうと、思っていた。
すると反抗的な態度はどこへやら。
今日は腕の中へとすんなりおさまってきた。
「んだよ、抵抗しねえのか」
「はい……」
「どうして」
「私も藤さんに抱きつきたいって思ってたから、です」
「お前……」
ため息で誤魔化そうとしたけど、誤魔化せなくて。
自分ばかり振り回されるのが癪で、
そのままキスをしてやった。
何度も何度も、角度を変えて、その唇を貪る。
「はしたねえ顔しやがって」
そのままベットへ彼女を押し倒し、身体を組み敷く。
「ふ、藤さん!?」
「誕生日プレゼント。何が欲しいか教えてやろうか」
「え……」
「俺は、お前がいい」
――なにそれ、と反論してこようとした彼女の顎を掴み上げて。
今度は噛みつくように口づけてみる。
愛しい恋人は情事を終えた頃、また真っ赤になって怒るかもしれない。
でもそれでいい。
怒っても、喧嘩をしても、泣かせてしまっても。
その分だけ、何度でもこうして愛せば――きっと。
静寂に包まれた部屋の中は、時計の針音だけが響いている。
――部屋の中にはふたりだけ。
ベットヘッドに背を預け、足を伸ばしている彼女。
その意識は手元の雑誌へと向けられている。
俺はその横にうつ伏せに寝転がり、その横顔をぼんやりと眺める。
(あーあ、せっかく二人きりなのに)
藤くんと玄がふたり揃って不在というのは珍しかった。
久しぶりの、ふたりきりの時間。
誰にも邪魔されない時間。
それでも彼女はいつもと変わらない様子だ。
家主と使用人という関係から、現在は恋人同士になったわけで――。
それでも相変わらず、彼女から接触してくることは少なかった。
キスをするのも、抱きしめるのも、愛してるって言うのも――いつも俺から。
彼女はいつも恥ずかしそうにそれを受け入れてくれるだけ。俺としては物足りない。
もうちょっと、恋人なんだって自覚させてくれてもいいんじゃないかと思う。
自分から愛を表現することが苦なわけではないけど――ただ。
もっともっと、俺の元へ落ちてきてほしいと願ってしまう。
(もう俺だけしか見えなくなっちゃえばいいのに)
いっそのこと、小さな部屋の中にでも閉じ込めてしまいたい。
彼女に関わるすべてのものを遮断して、俺からの愛しか受け取れなくさせてしまいたい。
泣いても叫んでも、絶対に出してあげないんだ。
やがて涙も枯れ果てすべて諦めた頃に、優しく抱きしめて、キスしてあげたい。
俺が居るからもう大丈夫だよって、頭を撫でながら。
(駄目かなあ、そういうのって)
普通じゃないなんて分かっている。
藤くんや玄に聞かれたら、気持ち悪いって言われるだろうな。
自分が一人の相手にここまで入れ込むなんて夢にも思っていなかった。
けれど仕方ない。そう思う相手に出会ってしまったのだから。
雑誌を眺める透き通った瞳は、何度見ても美しく感じる。
(この瞳に映るすべてが俺だけだったらいいのに)
「ねえ、キスして」
――何の前触れもなく、そんな事を告げたからだろう。
隣に座る彼女が、きょとんとした表情でこちらに目を向けた。
「え? 何ですか?」
「何って、言葉のまんま。キスしてよ。お願い」
「は……?」
今度は訝しげな目線を向けてくる彼女。
期待通りの反応が返ってきて、つい頬が緩みそうになる。
悟られないよう何食わぬ顔をしながら、俺は上体を起こすと、
柔らかな頬を人差し指で優しく撫であげた。
「いいじゃない。君からしてほしくなったの」
「む……っ、無理です!」
「どうして? 俺は君の恋人だよ? その恋人が、キスしてってお願いしてる。何が駄目なの?」
「そういう問題じゃなくて……急に、どうしたんですか?」
「どうもしてない。キスしてほしくなっただけ。だから、ね、して」
――また変な事言ってる。
口に出されずとも、彼女の視線からそのメッセージを受け取ることができた。
だからといって引く気はさらさら無い。
俺は彼女の耳元に唇を寄せると、
「駄目なの? ねえ、お願い」
いつもよりも低く甘い声色で囁いてやった。
途端に、面白いほど耳まで真っ赤になった彼女が、身体を縮こませた。
この子が誰よりも分かりやすくて、翻弄しやすい人間だということは、
きっと俺が一番理解している。
「あれ、どうしたの。顔赤いよ? 熱でもあるのかなあ」
彼女の前髪を少しかき上げ、俺は自分の額を彼女の額へとくっつけた。
唇と唇が今にも触れてしまいそうな距離。
彼女はごくりと唾を飲み込んだ。
「熱いね。本当に熱が出ちゃってるのかな。
それとも……俺にキスするのが恥ずかしくて、こんなに身体を熱くしてるの?」
「ちがい、ます」
「へえ。恥ずかしくないんだ。ならしてよ。ほら。はやく」
向こうの吐息が唇へとかかるたびに、俺の理性は侵食されていく。
今すぐにでも襲ってしまいたい衝動に駆られるが――まだ、駄目だ。
「ら、藍さん……私……」
「なあに? 恥ずかしくないなら、出来るでしょう?」
「………っ」
「あれ? どうして出来ないの? 俺のこと、嫌い?」
「そんなわけないじゃないですか!」
「じゃあ、好き?」
ぎゅっと目を瞑る彼女が、
「……好き、です」
絞りだした声でそう呟いた。
唇にふわりとやわらかな感触を感じる。
唇と唇をくっつけるだけの、子供同士がするかのような可愛らしいキスだった。
瞬間、おどろくほど征服欲が満たされていくのを感じる。
恥じらいに涙を浮かべるその瞳は、欲望を掻き立てるには十分過ぎるものだった。
「よくできました。えらいね。……俺も、好きだよ」
薄く開いた唇の隙間から舌を滑り込ませると、躊躇いがちに、彼女がそれに応えた。
「好きだよ。愛してる」
合間に吐いた言葉に反応したのか、俺の服をぎゅっと掴む。
それが可愛くて、少しいじめたくなって、角度を変えながら口内を貪った。
途端に力を抜かしはじめた身体をベッドへと組み敷く。
その時、彼女の瞳から涙が伝っていることに気付いた。
「……泣いてるの?」
親指でそっと涙を拭ってやると、不安そうな瞳が俺を捉えた。
「ごめんね。それでも優しくしてあげられそうにないや。
今からもっと泣かせちゃうと思う」
そんな、と揺らぐ視線。
だからといって、止めるつもりはなかった。
「うん、駄目だよね。わかってる。でも、ごめんね」
いや、と弱々しく首を横に振る彼女に気づかないふりをして、再び口づけた。
服の中に滑り込ませた手を、赤子のような力で掴まれる。
「なにしてるの? この手は首に回して」
できるよね、と念を押せば、彼女はためらいがちにそれに従った。
彼女の身体も、俺の身体も、ひどく熱を帯びている。
余裕がなくなってきているのはお互い様だ。
(あーあ。こんながっつくタイプじゃなかったのになぁ)
終わったら沢山甘やかしてやろうと心に決める。
だから今からすこしワガママになってもいいだろう。
「安心してね。いくら声出しても、誰も居ないから」
君の可愛い声を聞くのは、俺ひとりだけ。
だから今日は、自分の思うがままに愛したって――。
「……よかった」
彼女の瞳を覗き込んで安心したように笑うと、
どうしたのかと問われる。
「もう俺しか映ってないなぁって」
意味を理解しているのか、していないのか。
彼女は小さな声で「馬鹿」と言った――。
――クリスマスイブ。聖なる日。
そして、それは一番大切な人の誕生日でもある。
扉の前で深呼吸をすると、意を決してノックをする。
「失礼します」
扉を開くと、机に向かい、小難しい化学式が羅列された本に目を通す藤さんが居た。
よほど作業に集中しているのだろう。
私がドアを開けたことに気づいていないらしい。
黙々と本を読む真剣な瞳。
あの我儘大魔王と同一人物だとは思えなかった。
「藤さん、すみません。少しだけいいですか?」
呼びかけると、ようやくこちらを向く。
が、視線はすぐに手元の本へと戻ってしまった。
「何か用か?」
低音で、どこかに冷たさを含んだ声。
作業中の藤さんはもっぱらこんな態度だ。
「ちょっと渡したいものがあって」
部屋の中へと足を踏み入れる。
両手に持ったお盆の上に乗るデコレーションケーキ。
カラフルなフルーツで彩られ、真ん中の白いプレートには、
「Happy Birthday」の文字。
――そう、今日は藤さんの誕生日だ。
今日の為に、数日前から何回も試作を重ねてきたケーキ。
初挑戦ということもあり、ケーキ作りは想像以上に難しいものだった。
何度失敗したかわからないが、ようやく満足いく出来のものが完成したのだ。
食にはうるさい藤さんにも、合格点をもらえそうなのが、やっと。
(美味しいって、言ってくれるといいな……)
心の中には、ほんの少しの期待が生まれていた。
「なんだそれは」
藤さんはケーキの存在に気づくと、眉間に皺を寄せた。
「クリスマス兼、誕生日ケーキです」
「誕生日ケーキ?」
切れ長の瞳が、大きく見開かれる。
「もしかして忘れてました……?」
「そうか……完全に忘れてた。もう24日か」
――来週に控えた学会の資料の準備で忙しく、
この数日、藤さんは部屋に籠もりきりだった。
食事はおろか、睡眠さえちゃんと取っているのかと、心配になるほどに。
今日くらい、肩の力を抜いてもいいのではないかと思う。
(せっかくの誕生日だし、一緒にお祝いしたい)
藤さんが戸惑いながら私を見る。
「そのケーキ、お前が作ったのか?」
「そうです!」
「俺の、為に?」
「……? はい、そうです」
どうぞ、と目の前にケーキを差し出してみるものの――。
彼は受け取らずに目をそむけた。
「フ、フン! 前も言ったろ。誕生日は何もいらねえって」
「…………」
「大体、この俺が庶民の作ったケーキなんて食うと思ってんのかよ」
藤さんの口元が緩んでいることには、気づいていた。
やっぱりこういう時の彼は素直じゃない。
――だったら、こちらにも考えがある。
「そうですか。なら……残念ですけど諦めますね」
「え」
「藤さんのお口に合うかどうかわからないですし……。
これは、藍さんと玄さんに食べてもら――」
「おい待て!!」
踵を返した途端、後ろから腕を掴まれる。
振り向くと、物凄い形相の藤さんが居た。
「あいつらには食わせんな。いいか、ぜってえに食わせんな!」
「でも、藤さんがいらないって」
「仕方ねえから食ってやる!
庶民が作ったケーキがどれほどのもんか、
この西園寺藤様が味見してやる!」
「…………」
――嬉しいなら嬉しいと、口に出して言えばいいのに。
西園寺藤のプライドは、エベレストよりも高い。
そんなところも、この人の可愛らしい一面ではあるけれど。
「それじゃ、切り分けますね」
「待て」
「はい?」
「どうして皿が一つしかない?」
自分の取り皿とフォークしか用意されていないことに気づいたのか、藤さんは少し不満そうだ。
「お前の分の皿はどうした?」
「いや、これは藤さんの為のケーキで――」
「お前も一緒に食え。これは命令だ」
いいんですか、と問いかける。
藤さんは照れくさそうに目線をずらした。
「特別に祝わせてやる。お前、恋人なんだろ、俺の」
尻すぼみのように声が小さくなっていったけれど、
最後までしっかりと聞こえていました。
こんなにかわいい人、きっと世界中を探しても居ない。
「な……なに笑ってんだよ!」
「いえ別に。ありがとうございます……ふふっ」
「笑うな!!」
顔を赤らめて怒る藤さんを見て、更に笑い声をあげた。
我儘な王様。
自信満々のナルシスト。
素直じゃなくて意地っ張り。
――彼の悪いところをあげればキリがないというのに。
どうしてこの人を、こんなにも愛おしいと思ってしまうのだろう。
「お皿、持ってきますね」
「……さっさとしろ。ついでに、シャンパンも」
「あれ、お酒飲むんですか?」
「誕生日くらい休憩してもいいんだろ……。いいから、持って来い」
照れているとき、少し口調が幼くなる。
そんな彼を微笑ましく思いながら、こくりと頷いた。
***
「お誕生日、おめでとうございます」
優しく合わさったグラス同士が音を立てた。
藤さんは上品にシャンパンを流し込む。
そしていよいよ、問題のケーキが彼の口へと運ばれた。
「う、美味い……嘘だろ?」
感想が失礼すぎると突っ込みたくなるが、
褒めてもらえたことには変わりない。
「本当ですか!?よかった!」
「これ、本当にお前が作ったのか?」
「当たり前じゃないですか」
藤さんは信じられないという顔をして、
お皿のケーキを凝視する。
「甘さも、スポンジの焼き加減も丁度いい」
「前に藤さんが、甘すぎる食べ物は苦手だっておっしゃっていたので。
控えめにしてみたんですけど……」
その言葉に、藤さんはまた頬を赤らめた。
「んな昔の発言まで覚えてんのかよ。
ハッ。お前、どんだけ俺が好きなんだっつーの」
「藤さん、顔赤いですよ」
「赤くねえよ!」
照れ隠しなのだろう。
そこまで酒が強くないくせに、ごくごくとシャンパンを飲み干していく。
「飲み過ぎじゃ……」
「うるせえ、黙ってろ」
「でも、藤さんお酒弱いのに」
「いいんだよ。今日くらい、酔っ払ったっていいだろ」
――誕生日なんだから。
そう言いながら、藤さんは私の腕を引く。
膝の上に、対面するような形で抱きかかえられてしまった。
さすがにこの体勢はこちらも恥ずかしい。
「おろしてください!」
「嫌だ」
すでにアルコールがまわってきているのだろうか。
鋭い瞳は柔ぎ、ほんのりと潤んでいる。
こちらを見上げながら、はっきりしない口調で藤さんは囁く。
「なあ。シャンパン飲ませろよ。口移しな」
「は……!?」
「懐かしいだろ? こういうの」
確かに口移しを強要された過去もあったが、
今それをすることは色々な意味で適切ではない。
「藤さん、酔っ払ってます?」
「酔っ払ってねえよ。ばか」
へへっと笑う藤さんに、頭を抱えたくなる。
どこからどう見ても、酔っぱらいの顔をしているではないか。
「お、お水飲みましょうか」
「待て。逃げんな」
膝の上から退こうとすれば腰をしっかりと掴まれる。
恐る恐る顔を見れば、不敵な笑み。
嫌な予感しかしない。
「お前がやらねえなら、俺がやる」
「ま、藤さ――」
グラスを傾け一気にシャンパンを口に含んだ藤さんは、
そのまま私へ口づけた。
「ん………」
唇を無理矢理こじあけられ口内にシャンパンが流し込まれる。
喉を通りぬけるアルコールが熱い。
口内で絡みつく藤さんの舌も熱い。
だんだんと抵抗する力もなくなった私は、
そのまま彼の深いキスに応える。
「お前その顔、ずるいな」
藤さんは激しい息を荒げる私を、熱を含んだ視線で見つめる。
「可愛過ぎる」
そして、胸元に顔を埋めてくる藤さんはまるで子供のようで。
思わずその頭を優しく撫でていると、
おかえしとでもいうかのように抱きしめられた。
「お誕生日おめでとうございます、藤さん」
「…………」
「藤さん?」
不安に思った矢先、気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。
眠りについてしまったようだ。
だからあれほど飲み過ぎるなと言ったのに。
「……お誕生日ですもんね」
愛しい恋人の髪を撫でながら、
私は心の中で、もう一度「おめでとう」と呟いた。
――三日後にクリスマスを控えた今日。
自室のベッドの上、私と藍さんは向き合う形で正座をしている。
「あーもうごめん!ほんっとにごめん!」
勢い良く土下座をされる。
私は笑いながら、首を振った。
「謝らないでください。お仕事なんだから仕方ないですよ」
「うう、でも……」
「困ってるんだから、助けてあげないと」
ことの発端は、藍さんの元にかかってきた一本の電話だった。
相手は、彼がモデルの仕事をしていた頃から親交のある、事務所の担当者。
来月号で雑誌の表紙を飾るはずだったモデルが、急病で入院してしまったらしい。
代わりを頼めるのは、藍さんしか居ないので代役をお願いしたいという話だった。
藍さんの元には時折こんな風に、連絡がくることが度々あった。
それほど被写体としての価値が高いのだろう。
お世話になった手前、そういう事情ならば――とOKを出したのも束の間。
そこには思いもよらぬ落とし穴があった。
なぜ、彼がここまで落胆しているのかというと――。
「よりによってクリスマス当日に撮影なんて! 連絡来たの今日だよ!?
最初にわかってたら、絶対に受けなかったっつーの!
しかも深夜までとか、ありえなくない!?
クリスマスは家政婦ちゃんと旅行するって決めてたのに! 信じられない!」
普段は滅多に取り乱すことのない彼が、ヒステリック気味に叫ぶ。
――クリスマスに旅行へ行く予定だったのは本当だ。
無邪気な笑顔を浮かべてデートプランを練っていた藍さん。
けれど現実問題、こうなってしまったのなら仕方がない。
一度引き受けた仕事を土壇場でキャンセルしてまでデートを優先されても、後味が悪いだけだ。
「藍さん、私なら大丈夫ですから。ね?」
ジトッとした視線の彼に、睨まれる。
「なんでそんな聞き分けいいの。君は悲しくないの?」
「別の日に二人でお祝いすればいいじゃないですか」
「クリスマスは1日しか来ないもん」
これまで見たことないくらい、藍さんが小さな子供のようで。
その姿に少し笑ってしまった。
「笑わないでよ」
「ごめんなさい、なんだか小学生の男の子みたいで」
「っ……!仕方ないでしょ!クリスマス楽しみにしてたんだから」
「私も楽しみにしてましたよ」
恋人同士になって初めてのクリスマス。
楽しみにしていないわけがなかった。
――でも。
「当日じゃなくても、私は藍さんと二人でお祝いできれば、それでいいかなって思ったんです」
「…………っ」
拗ねて口を尖らせていた藍さんもようやく理解してくれたようだ。
小さく「わかった」と呟くと驚く程おとなしくなる。
「がんばってくださいね、撮影」
「……うん」
藍さんはどこか腑に落ちない様子で、こくりと頷いた。
***
――12月25日。時刻は22時50分。
一通り家事を終えた私は、西園寺家の広いリビングの真ん中に置かれたソファの上に腰をおろした。
テレビでは、クリスマス特番の楽しそうなバラエティ番組が放映されている。
楽しそうに笑うお笑い芸人をぼんやりと見つめながら、小さくため息を吐いた。
日中、彼を快く送りだしたものの。
この広い邸宅の中に一人だけで過ごしていると、寂しさを感じてしまう。
(藍さん、いつ撮影終わるのかなぁ。何時に帰ってくるんだろう……)
――するとその時、丁度私のスマートフォンが音を鳴らす。
画面に映し出された『西園寺 藍』の文字を見て、心臓が高鳴った。
急いで電話を取るものの、浮かれてるのが悟られないように、落ち着いて声を出す。
「もしもし?」
『あ、もしもし、俺! 今、家だよね?』
「はい、そうですけど……」
『良かったー! ね、今からちょっと外出てこれる?』
「え?」
『場所はメールするから! 指定するところまで来て! よろしくね!』
一方的に電話を切られてしまい、何がなんだかわからない。
直後、言葉通り送られてきた藍さんのメールを開封すると――
(……これ……家の近くの)
メールに記載されていた場所は、西園寺家のすぐ近くにある高台の上の公園。
一体、藍さんはここで何をするつもりなんだろう。
全く予想がつかないが、私は彼の言うとおり、指定された場所へ向かうことにした。
***
――時刻は23時20分。
公園に辿り着くと、遊具近くのベンチにぽつりと座る藍さんの姿があった。
「あ、きたきた!」
藍さんは私の姿を見つけるなり笑顔になって、大きく手を振ってくれる。
「ごめんね、突然呼び出して」
「藍さん!一体どうしたんですか……?っていうかお仕事は……」
「頑張って、巻きで終わらしてきた!やっぱり、クリスマス当日は君と過ごしたくて。ってゆっても、もうすぐクリスマス終わっちゃうけど」
――でも、と藍さんは続ける。
「やっぱり一緒に見たかったんだ。豪華なイルミネーションじゃないけど、許してね」
「……え?」
藍さんは「こっちに来て」と私の手を引き、歩きはじめた。
「藍さん、そっちは立入禁止じゃ――」
「大丈夫大丈夫」
立入禁止と書かれた看板が引っかかるフェンスを乗り越え、小さな雑木林を進んでいく。
この先に一体なにがあるのか、私のこころには少しの不安と期待のようなものが入り交じっていた。
――やがて、少し歩いていくうちに、遠くから小さな光が視界に入り込んでくるのがわかった。近づいていくたびに増えていく光の珠。
「小さい頃さ、見つけたんだよね!ここは誰にも教えてない、俺のとっておきの場所!」
振り返りながら笑顔を向けてくる彼が、やけにきらきらと輝いて映った。
そして――雑木林を抜けたその先、私の視界には光につつまれた街全体が映り込んだ。
「どう!?綺麗じゃない?」
藍さんの言葉に、私はこくこくと頷くと。
高層ビルの灯りや、一軒一軒の家の灯りが、宝石の粒のように遠くまで一面に広がっていた。
まるで街全体が、宝石箱の中身のように、きらきらと輝いているようだった。
私はあまりの美しさに声をだすことも忘れて、固まってしまう。
「ちゃんとしたイルミネーションを見せてあげられなかったのが残念だけどね。今日はこれで勘弁してくれる?」
「…………」
「って、あれ……?お、おーい……?やっぱり、ダメだった……?」
藍さんが私の顔を覗き込んできた瞬間、ハッと我に返る。
「あ……ごめんなさい、違うんです!あまりにも綺麗だったからビックリして……こんな綺麗な景色……見るの、初めてだから」
「ほんと!?うわーそう言ってくれてよかったー……!」
がっかりされたらどうしようかと思っちゃった、と安堵の表情で笑う藍さんを見て、胸がきゅっと締め付けられる感覚がした。
「嬉しい、です。すごく」
「……君が笑ってくれると、俺も嬉しい」
はにかんだように微笑まれる。
私は今にも抱きついてしまいたい衝動に駆られてしまう。
そんな下心を隠すかのように――私は「寒いですね」と何気ない言葉を口にして誤魔化した。
すると藍さんは、その言葉に「あ」と声を出す。
そして肩にかけていたカバンの中から何かを取り出すと、それを私の首にふんわりと巻き付けた。
「はい、どうぞ」
「へ……」
「今日のプレゼント。あ、『今日の』だからね!?後日、ちゃんとお祝いするとき、また渡すから!……君、寒がりのくせにいつも薄着だからどうせ今日も寒い格好でくるんだろうなと思って……それで」
へへ、と今度は可愛らしく笑う藍さん。
(……藍さんって、こういうところがずるい……)
赤いマフラーから伝わってくるのはあたたかさだけじゃない。
彼の優しさや愛までもが、熱と一緒に伝わってくるようだった。
「……藍さん、ずるいです」
「え?」
「こんなに喜ばせるなんて、ずるい……」
耐えきれなくなった私は、勢い良く藍さんの身体に抱きつく。
藍さんは嬉しそうに「喜んでくれた?」と言いながら、優しく抱きしめ返してくれる。
そして藍さんは、ポケットから携帯を取り出すと、画面を確認し笑った。
「あ、23時50分。伝える前に日付変わらなくてよかった」
「え?」
顔をあげた瞬間、藍さんは優しく私の唇に口づける。
「……メリークリスマス」
彼の唇の温度が、優しい心が、私の心の中までもを、あたためていく。
――メリークリスマス。
来年も、その先のクリスマスも、ずっと藍さんと二人でお祝いできますように。
――年頃のせいだろうか。
それとも、彼の性格のせいだろうか。
「俺、クリスマスとか興味ないから。サンタとか昔から信じてないし」
今年のクリスマスはどうするのか、と問いかけた返答が、これだった。
年の割に現実主義者で、冷めている男の子だっていうことはわかっていたけれど――。
「クリスマス……一緒にお祝いしませんか?」
「なんで」
「玄さんとふたりで過ごしたいから、です」
ストレートな申し出に、彼は無表情を崩さなかった。
やがて小さくため息をつくと、そっぽを向いてしまう。
「あんたがどうしてもっていうなら、聞いてやらないこともないけど」
彼がどんな表情をしていたのかはわからない。
けれど、耳が赤く染まってるように見えたのは気の所為だろうか――。
***
クリスマス当日。
藤さんも藍さんは各々に用事があるらしく、家には玄さんと私の二人だけだった。
玄さんと家の中で二人きりになるということは珍しい。
恋人と”二人きり”という状況に、どこか緊張している自分が居た。
高鳴る胸を抑えつつ、私はお祝いの準備を進めた。
数時間後。リビングへと降りてきた玄さんは、テーブルに並べられた料理の数々を見て、目を丸くした。
「これ、全部一人で用意したの?」
「はい。なんか気合入っちゃって」
「どんだけ楽しみにしてたんだよ。クリスマスごときでおめでたい女」
「どうせなら、玄さんの好きなものを食べてほしいなって思って……」
「ふうん。俺を喜ばせたかったんだ?」
「……あ、当たり前です!」
「へえ、あっそ」
口ではぶっきらぼうな言葉を吐いても、玄さんが本当は誰よりも優しい人だっていうことは分かっている。
「ま、あんたにしては良く出来てる方なんじゃないの」
料理を口にしながら、玄さんがそう呟いた。
正直に「美味しい」と言わないところも彼らしい。
それでも、良く出来てると言ってくれたことが嬉しかった。
正面の席に座りながらもぐもぐと口を動かす可愛らしい彼を見つめる。
無意識のうちに頬が緩んでいたらしく、その姿に気づいた彼が、訝しげな表情でこちらを睨んだ。
「なにニヤニヤしてんだよ」
「食べている玄さんが、可愛らしくて……」
「可愛い? 何言ってんだっつの。つか、あんたも食べろ。俺一人じゃこんな量、無理だから」
「はい、ありがとうございます」
――西園寺家にやってきた当初は、玄さんに恋をするなんて思っていなかった。
兄弟の中で、私に対して一番拒絶反応を示してきたのは彼だったから。
今こうして恋人になり、二人でクリスマスをお祝いしているんだと思うと不思議な気持ちになる。
「なに?」
「へ?」
「真顔でじっと見てるから」
「あ……えっと、西園寺家に来た頃のことを思い出して」
「は? なんで」
「あの頃、玄さんにすごく嫌われてたなって」
その言葉に、玄さんが懐かしむように笑う。
「ああ……そうだね。超嫌いだった。またカネ目当てのバカ女がきたって思ってたよ」
「バカ女って」
「事実だろ。ま、バカなのは変わんないか。あんた、騙されやすいもんね」
「そんなことないです!」
「あるわ。ちょっとは人のこと疑えよ。そんなんだから藤くんや藍くんにもからかわれるんだろ」
小馬鹿にしたように笑われ、少し心が痛む。
そんな言い方しなくてもいいのに。
恋人だからこそ、歯に衣着せぬ物言いが、時折心に刺さることもあるのだ。
「そうですね……。
もう少し、成長しないといけないかもしれませんね」
「………?」
あまり気まずい空気にはしたくなく、悲しみを心の奥底へ押し込む。
うまく笑えているような気がしたのだが――玄さんは私が思っているよりもずっと敏かった。
「いや無理して笑ってんのバレバレなんだけど」
「えっ!?」
「何、今俺が言ったことでなんか傷ついたわけ? あんなんいつも言ってるだろ」
「いや、私は、全然大丈夫で――」
「嘘つくな」
そのまま席を立ち上がった玄さんは、私の隣の椅子に座り込んだ。
いつもとは違う態度が怖くて、彼の顔が見れずに下向いてしまう。
「ほら、何が気に食わなかったのか言ってみなよ」
「別に気に食わなかったなんて……」
「もっと俺に優しくしてほしかった?」
「へっ」
思わず顔をあげたのが間違いだった。
玄さんはニヤリと口角を吊り上げながら、机に肘をついている。
「あたりだ」
「あ……えっと、それは!」
私が言い訳を考えている間に、あっさりと腕を捕まれ、玄さんの方へ引っ張られる。
彼は耳元にそっと口を寄せると、色っぽい声で呟いた。
「ちょっと言っただけでへこむくらい、俺のこと好きなんだ?」
「いや、え!? あ、あ、あの……!?」
真っ赤になって口をぱくぱくとさせていると、更に追い打ちをかけてくる。
「そんなに好きなら、今ここで俺にキスしてみてよ」
「なな、な、何言ってるんですか!?」
「俺のこと好きなんでしょ? なら、出来るよね」
「それとこれとは話が別で……っ!」
「うるさいな。俺がやれっつってんだから、やるんだよ」
――ほら、と顔を近づけられる。
玄さんの綺麗な顔が、目の前に惜しげもなく出され、私の心臓は今にも口から飛び出てしまいそうになる。
身体を硬直させ、ぴくりとも動かなくなった私を見て、玄さんはぷっと吹き出す。
今度は年相応らしくげらげらと笑い始めた。
「ははは! あんたってさ、ほんとからかうと面白いよな!」
「え!?」
「顔近づけただけで、そこまで固まるとかウブかよ。恋愛経験無い女の典型って感じ」
「失礼な……!」
「本当のこと言って何が悪いんだよ」
「私だってちょっとは恋愛経験くらいあります……!」
「へえ。あ、そう。あるんだ?」
「あ、ありますとも!」
強く肯定する私に対し、玄さんは、あっそと冷たく言い放つ。
そして置かれたケーキの、デコレーション用のチョコで作られたプレートを指でつまみ上げた。
「なら、これ。俺の口から取ってみなよ」
「へ!?」
「あんたが自分の口でこれ取れたら、今の話、信じてやるよ。もし恥ずかしがってやらなかったら、俺があんたに無理矢理キスする」
「はああ!? な、なんでこんな意地悪な事するんですか?」
「なんでってわかんない? 好きな女いじめたいから」
あっさりと愛の言葉を吐く玄さんに、驚く暇も喜ぶ暇もなかった――。
チョコプレートを口にした彼が、逃げないようしっかりと私の腕をつかむ。
「ほら、早く」
「む、むむむ無理です! っていうか玄さん、今、好きって!」
「言ったけど? 何? ダメだった? 恋人に好きって言って何が悪いの?」
若さというのは恐ろしい。今、身を持って痛感した。
「さっさとやりなよ。どっちにしろあんたと俺がキスしなきゃいけないってことには変わりないんだから」
ね、と可愛らしく笑う玄さんを見て、勝てないと思ってしまう自分が情けない。
震える唇でチョコプレートを咥えながら、見栄を張るためだけにとんでもない嘘をついてしまった自分に、盛大に後悔をするのだった――。
1月1日、謹賀新年。
一年の幕開けとも言えるこの日――西園寺兄弟は珍しく三人肩を並べ、日本有数の人手を集める神社へ訪れていた。
性格さえのぞけば、芸能人にも引けを取らないほどの美貌を兼ね備えている彼ら。
黒の袴姿に身を包み颯爽と歩く三人は、神社へ足を踏み入れた途端、参拝へ訪れている者達の視線をあっという間に攫っていく。
が――当の本人達にしてみれば、注目を浴びていようが、そんなもの知ったことではない。
「ねえ! よくよく考えたらさ、俺たち初詣って来たことないよね?」
「あーそうかも。正月はいつも海外に居たしね」
「初体験……! うわあ、なんかドキドキしてきたなぁ」
「正月に神社来たくらいではしゃがないでよ、恥ずかしいじゃん」
浮足立った様子で、きょろきょろと周囲を見回す次男の藍に続き――冷静に、否、面倒くさそうに答えたのは末っ子の玄だった。
――そう、今日は三兄弟にとって初めての初詣なのだ。
これまでの年末年始といえば、彼らはロサンゼルスの別邸で過ごしていた。
それは西園寺家の恒例行事ともいえるものであったが、なぜ今年向こうへ行かなかったのかというと――日本を離れたくない理由が出来てしまったのだ。言わずもがな、三人共同じ理由だろう。
「チッ……クソ、庶民がうじゃうじゃ居やがる」
西園寺家の長男・藤は、溢れかえる人々を目にし、眉間に皺を寄せる。
藤は人混みが大嫌いだった。
自分の思い通りに歩くことができない窮屈な状態はもちろんのこと、藤が『庶民』と呼ぶ人種が溢れかえるような場所に居たくないからだった。
生まれて二十数年、『西園寺藤こそが世界の頂点であり最も特別な人間』だと誤信している彼らしい考えである。
「チッ、ゴミみてえな人間の数だな」
藤は大きく舌打ちをしながら、自分に注目するギャラリーを睨みつけた。
すると、目が合ったと勘違いをした女性たちが次々に悲鳴をあげ、頬を赤らめていく。
藤はその光景を鼻で笑った。
「低俗な庶民の女共が。ま、俺のあまりの美しさに圧倒されて、見惚れちまうのはわかるけどな」
「うんうん、そうだよねえ。藤くんすーっごく格好いいもん。みーんな藤くん見ちゃうよねえ」
藤の右隣を歩く次男・藍は、長男の振り切ったナルシスト発言を慣れたように笑い流す。
雑誌モデルの仕事もしている藍は、高身長で小顔な上、ハーフのようにくっきりとした端正な顔立ちだ。
はっきり言ってしまえば、三人の中で一際目を引くルックスをしているだろう。
藍自身、その事実をわかっているが――彼は決して自ら主張せず、あくまでも常に藤を立て、上手くころがす。
この方法が最も平和かつ、己が不利にならないルートだと知っているから。
尚、腹の底では藤に対しどんな薄汚れた感情を抱いているかはわからない。
藍が表面上で使う無敵の笑みは、心の奥底に眠る悪魔の顔を微塵も感じさせない。
「ちょっと。新年早々やめてくれない?」
「あ?」
「藤くん……いい加減にしなよ。その歳にもなっていつまでそんな事言ってんの? みっともないよ」
藤の左隣を歩く玄が、アイドルのような可愛らしい顔を歪めながら、訝しげな視線を向けると、すかさずに藍が陽気な笑い声をあげる。
「ははは! 玄ってば相変わらず辛辣だなあ」
「藍くんだってそう思ってるくせに」
「うん。まあ、そこは否定しないけど」
「こんなのと血繋がってるとかマジで最悪。縁切りたい」
冷めた口調で冷静な態度を見せるおませな玄であったが――それも呆気なく終焉を迎えることになる。
「それを言うなら、お前みたいな生意気のガキんちょと血繋がってるって方が最悪だろ」
”ガキ”という言葉を耳にした途端、玄の瞳が大きく見開く。
「っ……! だから、ガキって言うのやめろって言ってるだろ!!」
「ガキに向かってガキって言って何が悪い」
「うるさい! ガキじゃない!」
「そうやってムキになるとこがガキっつってんだ。馬鹿かお前」
「っ……む、かつく……! 俺、藤くん嫌い! マジで嫌い!」
「はいはいそりゃ大変なこったなー」
「流してんじゃねえよ変態!」
「どうした玄。顔が真っ赤になってるぞ?」
「なってない!!」
琴線に触れられた途端、先ほどと同一人物かと疑うほどに幼い態度を見せる玄。
一方の藤は、なんだかんだ弟が可愛くて仕方がないのであろう。
ニヤニヤとした表情で、わざと玄を怒らせ、からかい続ける。
「はーいはい。こんなとこで喧嘩しないの」
長男と末っ子がくだらない言い争いを開始した矢先、呆れた表情の次男が二人を止める。
「だって藤くんが!!」
「もー玄も、わかったから。外では静かにしなさい」
「ハッ、やっぱり何も変わっちゃいねえな。何年たってもガキはガキのまんま――」
「ふーじーくーん。やめて。ここ、外だから」
「いや、こいつが」
「お正月から喧嘩しないで。ここは家じゃないんだよ、外ではおとなしくしてないと。でしょ?」
由緒正しき西園寺家の人間ともあろう者たちが、新年早々神社で騒ぎを起こしているだなんて――父親の耳に入ろうものなら、ただ事では済まされないだろう。
藍の見事な仲裁によって、藤と玄は瞬時に口を閉じた。
「大体、なんでお前らとこんなしょーもねえ場所に来なきゃいけねえんだよ」
「なんでって……家政婦ちゃんが初詣に行きたいって言い出したんだからしょうがないじゃん」
「ああその通りだ。元を辿れば、あの女が企画した……なのに……っ、なのに何故この場に張本人が居ない!!」
「仕方ないじゃん。あいつ風邪引いて寝込んじゃったんだから」
「あんの馬鹿女が……正月早々熱出しやがって! 馬鹿は風邪ひかねえんじゃねえのかよ!」
「さあね」
「まあまあ、藤くん。家政婦ちゃんと一緒に来たかったのはわかるよー? でも、熱出してる女の子を連れ出すのはさすがにナシだと思うなあ」
「……チッ」
そう。この初詣を企画した張本人の彼女は、昨夜から高熱を出してしまい寝込んでいる。
赤く上気した頬と共に、瞳にうっすらと涙を携えた彼女が、初詣に共にいけないことを謝罪してきたのは今朝の話だった。
一緒に行けないショックよりも、彼女の色っぽい姿を目の当たりにした三人が、いろいろな事情で一斉に黙り込んだのは言うまでもない。男というのは、つくづく馬鹿な生き物である。
「だったら俺らも家に居りゃよかっただろうが」
「まあ、たしかにね。でも藍くんが――」
「ああそうだ……藍、お前が『だったら三人で行こうよ』とかなんとか言い出したんだからな」
「だってその方が、家政婦ちゃんも落ち着くかなーって」
「……どういう意味?」
「あの子のことだもん。俺らが家に居たら、気を遣ってゆっくり休めないんじゃないかと思ってさ。だったら、うるさい男三人は居なくなった方が良いでしょ」
彼女は気遣い屋で、己よりも他人を優先させるような優しい心の持ち主だ。
藍の言葉に妙に納得してしまった藤と玄は、それ以上言い返せずに口を噤んでしまった。
それと同時――普段はヘラヘラしていても、いざという時には細部まで配慮が行き届く次男のそつない性格に、二人は疎ましさを感じる。
「……面白くねえ。この俺が行くっつってんだから、熱なんか出してんじゃねえよ。馬鹿家政婦」
「ふふ。藤くんって本当自分のことしか考えられない人だよね。……だから俺みたいなのにすぐ出し抜かれるんだよ」
「おい、今なんて言った」
小声で呟いた藍の本音は、しっかりと藤の地獄耳に届いていた。
「誰が出し抜かれるって? あ!?」
「あっははー! どうしたの? 俺そんなこと言ってないよ~?」
「嘘つくな、言っただろうが!」
「言ってないってばあ」
人の良さそうな笑みを浮かべた藍が可愛らしくトボけた振りを見せると、藤はこれ以上問い詰めてもラチがあかないと感じたらしく、こみ上げる怒りを舌打ちに押し込めた。
「クソ、腹黒クズが……」
「クズっていう観点から見ると藤くんの方がレベルは上だと思うなあ」
「いや、どっちもどっちだって」
三兄弟はいつものように互いを罵り合いながらも、参拝の列へと並ぶのであった――
* * *
参拝の列は順調に進んでいき、やがて三兄弟たちの順番になる。
すると直前になって、突然藤が眉間に皺を寄せ、弟二人へ視線を向けた。
「……おい。庶民共は何故あの木箱に金を投げている?」
「「は?」」
ぽかんとした表情を浮かべる藍と玄をよそに、藤はそのまま続ける。
「どいつもこいつもあの謎の木箱に金を投げている……不可解だ」
「ふ、藤くーん? 何を言ってるのかなー?」
「まさか藤くん……お賽銭知らないの?」
「おさいせん?」
弟二人は、まさか長男がここまで世間知らずだとは予想していなかった。
さすがに賽銭の知識くらいは持っていると思っていたのだが――。
賽銭箱に小銭を投げ入れる参拝客達の行為を見て、不気味だといわんばかりの表情を浮かべる藤。
まるで異国の文化に触れたような動揺っぷりだ。
「……玄」
「わかってる」
弟たちにしてみると、あの藤が動揺しているという事実が何よりも面白い。
目を合わせた二人は、胡散臭い笑顔を浮かべながら藤の方を向いた。
「賽銭はね、お祈りする時にこの賽銭箱って呼ばれる木の箱に金を入れんの。ま、神様へのお供え物みたいなもんだよ」
「ほう、供え物……なるほどな。いくら出せばいいんだ」
「自分の好きな額」
そう聞いて、何かを考え込むように黙り込んだ藤は――
「おい、そこの女! ここは、クレジットカードは使えないのか?」
「「ぶっ」」
何を思ったのか、近くに立っていた神社の巫女へと悪びれた様子もなく声をかけた藤に、藍と玄は同時に吹き出す。
話しかけられた巫女は唖然とした後、「何を言っているんだこの男は」とでもいうかのような表情で、藤を凝視している。
「ふっ、ふふ……!」
「っ……! くっ、はは、ふ……っ」
「あ? 何笑ってんだ、お前ら」
「わ、笑ってない笑ってない! 藤くん……ふふっ、くっ、……カード、試しに入れてみたら?」
長男のあまりの天然ぷりに腹を抱えて呼吸困難になっている玄と、悪ノリをはじめた藍。
藤は疑問符を浮かべながら、胸元から見るからに効果なブランド物のカードケースを取り出した。
そこの中から一枚、限られた層の人間しか持つことの許されない真っ黒なカードを取りだすと、躊躇いもなく賽銭箱へと投げ入れる。
後ろに並んでいたカップルが、藤の奇行に思わず「ひっ」と声をあげた。
「おい、入れたぞ。つーかこれ、どうやって支払い処理しているんだ? まさかこの木箱の中にカード通信機が入って――」
「くっ、あははははは!」
「マジでやったよ! 馬鹿じゃないの! あっはははは!」
「なっ!?」
げらげらと一通り笑い通した藍と玄は、ようやく藤に種明かしをする。
「藤くん。そのカード、もう戻ってこないよ。残念でしたー」
「なんだと!?」
「神社でカードなんて使えるわけないでしょ。これ、現金しか入れられないから」
「っ、くそ!! てめえら騙したな!?」
「騙してないよお。俺はただ入れてみたら?って言っただけだもん」
藤くんが悪いんだよ、と笑う藍。
藤は、弟二人の裏切りに怒りの炎を燃やし、わなわなと身体を震わせる。
そして――
「おい、そこの女!! この神社を今すぐ買い取らせろ!!」
先ほどの巫女に向かって大声をあげたのであった。
* * *
「ぎゃはははは! 玄、最高! 似合ってるよ!」
珍しく大声をあげて笑う藍の声が、神社近くの道路へと響き渡る。
その横にはぶすっとした表情を浮かべた、玄の姿があった。
スマホのカメラを自分たちへと向けながら、自分と玄の写真を撮りつづける藍。
玄は噛みつくような怒声をあげる。その両頬には墨汁で書かれた落書きがあった。
「……最悪……なんで俺、こんな顔して家帰らなきゃいけないの」
「自分で招いた結果だろうが。馬鹿か」
不服そうに呟く玄に、二人の先を歩く藤は呆れながら毒を吐く。
「そうだよ。羽子板やったことないからやってみたいって言ったの玄じゃん」
初詣からの帰り道、羽子板で遊ぶ小さな子どもたちを見かけた三兄弟。
目を輝かせ、「なにあれやってみたい」と食いついたのは、玄だった。
幼少期、いわゆる世間一般の子どもたちとはかけ離れた遊びしかしてこなかったせいだろうか。
三兄弟は、俗物的な玩具に心を惹かれることが多々あるのであった。
「負けたら顔に落書きされるとか聞いてないし!」
「だってググッたらそういう遊びだって書いてあったんだもん」
「いいじゃねえか、玄。お前らしいぞ」
「どういう意味だよ!」
「ガキっぽくて可愛いって意味だ」
「くっ………!」
「にしても藤くん、羽子板すごい上手だったねえ。やったことあったの?」
「フン。初めてに決まってんだろ。この俺様に出来ないことなんて、ねえんだよ」
ニヤリと藤が厭らしい微笑みを見せると、玄は歯を食いしばりながら睨みつける。
藍はそんな二人のやり取りを微笑ましく見つめていた。
「楽しかったねえ、初詣」
「ハッ、どこがだよ。あやうくカードを紛失するところだったんだぞ!」
「いいじゃん。結局神社の人に、取ってもらえたんだから」
初体験の初詣。
それは三兄弟各々の心に、しっかりと思い出として残る日になったのには間違いない。
――しかし。
「やっぱりさ、あの子も一緒がいいねえ」
帰路をゆっくりと歩きつつ、突如藍が、ぼんやりと遠くを見つめながら呟いた。
その表情は、ある一人の少女を思い浮かべているようにも見える。
藍だけではなく、きっと藤と玄の頭の中にも、今頃自宅で寝込んでいるであろう彼女の顔が思い浮かんでいた。
ほんの半年前、西園寺家にやってきた一人の少女。
それは今や、三人にとってかけがえのない存在となっていた。
「……まあな。あの馬鹿女が居ねえと、静かで不気味だ」
「早く風邪治させて、また近いうち初詣来りゃいいじゃん」
「あ、それ賛成! 今度は、ちゃんと四人でお参りしたいしね」
「フン。しかたねーな。さっさと帰ってやるか」
「いや、藤くんがあいつに逢いたいだけでしょ」
「な、何言ってんだ。んなわけねえだろ!」
「あはは! 藤くんって、ほんっとわかりやすいよねえ!」
三兄弟は賑やかな声をあげながら、彼女の待つ自宅へと歩みを進める。
――今年も、ワガママで俺様な三兄弟と苦労ばかりの家政婦の少女の奇想天外な日々が、幕をあける。
「あんたって、俺を苛つかせる天才だよね」
静まりかえった彼女の部屋の中――
部屋の端まで追い詰め、彼女の背後にある壁に勢い良く手をつく。
衝撃で鈍い音が響いたが、そんなことはどうだってよい。
「俺以外の男に手出されるって、どんな気持ちだった?」
怯えた表情のまま瞳を泳がせたあと、彼女は小さく「ごめんなさい」と呟いた。
「何に対しての謝罪? 俺を苛つかせてること?」
「…………」
「それとも、あの二人にあっさりちょっかい出されたこと?」
わざとらしく耳元で囁いてやると、肩を震わせ、彼女は首を横に振る。
「ちが、抵抗しなかったわけじゃ――」
「うるさいな。今俺が喋ってんの」
「…………」
「なんだよ、その顔。自分が被害者みたいな顔しちゃってさ。最高に苛々する」
嘲笑うように言葉を吐き捨てると、彼女は悲しそうに俺の服をぎゅっと掴んだ。
「触るなよ」
「っ………」
拒否されたことがよほどショックだったのだろうか。
瞳にうっすらと涙を浮かべて、彼女は掴んでいた服からそっと手を離す。
「……玄さん、ちがうんです。藍さんと藤さんとは何もなくて」
「何もなくて当たり前だろ。それとも何? あんたはあの二人と何か起きた方がよかったってわけ?」
「そんなこと……!」
「なあ、あんたは誰の女だよ。俺のじゃないの?」
発端から語ると――事件は、今日開かれた西園寺グループ主催の新年パーティーで起きた。
名目の通り、俺たち三兄弟はパーティーへ招いたゲスト達の接待をしなければならない。
当然、付き合いとして多少の酒を嗜む場面もあるわけで。
未成年の俺は、兄二人にその役目を任せていたのだが――酒に弱い藤くんと、珍しく多量の酒を飲んで悪酔いした藍くんは、家に帰ってきた頃にはべろべろの状態だった。
スーツを着崩しソファへとだらしなく座る二人を心配した彼女が、必死に水を飲ませ、世話をしてやっていた矢先――
兄二人は、酔っているのを良いことに彼女を口説き、べたべたと身体に触り始めたのだ。
抵抗する彼女を、二人がソファへと組み敷いたところで俺が止めに入ったからよかったのものの。あのままだったら、彼女がどうなっていたかわからない。
(こいつが俺と付き合ってるって知ってんのに、あの二人……絶対わざとだろ)
藤くんと藍くんが彼女を気に入っていることは知っていた。
けれど、彼女が恋人に選んだのは、あの二人ではなく俺だ。
何一つあの二人に勝てる物がなかった俺が。
何の取り柄もなく、あの二人の生まれ持った才能を羨ましがることしかできなかった俺が。
――ようやく、自分の手で、自分の力で、手に入れられた大切な物。
だから今、彼女は正真正銘俺だけの物。
あの二人が入り込む隙間なんて与えないくらいに夢中にさせているつもりだし、実際に彼女の目には俺しか映ってないこともわかってる。
この怒りは、彼女ではなく藤くんと藍くんに向ければいいものだということも。
それでも、だ。
あの二人が酔いを理由に、彼女に手をだした事実が許せない。
彼女が真っ先に俺に助けを求めなかったことも腹立たしかった。
(こんなの……ただの嫉妬だよ。でも、仕方ないだろ。あんたが俺以外に触れられるのが、許せないんだから)
俺に詰め寄られ、言葉でも攻められ、すっかりと元気を失くした彼女。
その表情は、後悔の念に苛まれているようにも見える。
「こっち向けよ」
彼女の顎を強引に自分の方へと向かせると、その唇に荒っぽく口づける。
いつもだったらもっと優しくて、蕩けるような甘いキスをしてやるけれど、心に渦巻いている嫉妬の炎がそれを許さなかった。
乱暴に舌を絡ませながら、何度も角度を変えて彼女の口内を貪る。
苦しくなったのだろうか、彼女が俺の肩に手をあて押し離そうとしてきたが、その手すらも掴んで壁へと縫い付けた。
「ん……、んんーっ……!」
口づけの合間、苦しそうに声を漏らす彼女にどこか満足した俺は、ようやく唇を離してやった。
乱れた呼吸を必死に整える彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
(……泣いてる……可愛い)
こんな状況でも、彼女に心を掻き乱されている自分が悔しくて仕方ない。
いくら強引に彼女の身体を奪ったとしても、いくら言葉で彼女を翻弄したとしても――
(結局……いつも俺のほうがあんたに振り回されてんだ)
彼女の頬を伝う涙を指でぬぐってやる。
乱暴なキスとはちがった優しい手つきに気付いた彼女は、濡れた瞳でそっと俺を見上げた。
玄さん、と小さな声で彼女が俺の名を呟く。
たった一言、名前を呼ばれただけだ。それでも、俺の身体は火を灯したようにじんわりと熱を帯びていった。
俺の中を支配していた黒い嫉妬心が、徐々に消えていくのを感じる。
俺は彼女の前髪を指でそっとずらすと、晒し出されたその額に小さくキスを落とした。
「……反省してんの?」
彼女はこくりと頷いた後、ふたたび「ごめんなさい」と口にした。
(わかってるんだよ。あんたは悪くない。あの二人が勝手に手を出しただけ。これは、俺のエゴだ。……ガキでどうしようもない俺の我儘だ)
彼女の右頬を指でつまんで引っ張ると、泣きべそをかいている彼女の顔がさらに滑稽なものになった。
可愛らしさに笑みを零してしまえば、俺の怒りがおさまったと察したのか、彼女もやんわりと微笑んだ。
「はっ、なに笑ってんの。ほんとブサイクだね、あんた」
(嘘だよ。笑ってても、泣いてても可愛いよ。あんたは、何していても、どんな時も、可愛い)
藤くんみたいに頭がよかったら、もっと利口な方法で愛を表現出来るのだろうか。
藍くんみたいに優しかったら、彼女を傷つけない言葉で愛を伝えられるのだろうか。
(俺はあの二人じゃないから、こんな風にしかあんたを囲っておけない。口から出てくるのは、いつも本心とは裏腹な言葉だ)
「おいブサイク。俺が止めなかったら、本当に危ないことになってたってわかってんの。あの二人に襲われてたかもしれないんだからな」
「そ、それは絶対にありえないです……!」
「はっ、なんで言い切れんだよ」
「……だって、私は」
――玄さんだけのものだから。
俺の一番好きな笑顔で、俺が欲しかった言葉をあっさりと口にする彼女。
(こいつ……ずるいんだよ)
本当は最初からすべてを見透かした上で、俺を操っているのではないかと疑うほどに。
「……なんかむかつく。やっぱり、お仕置き」
「え? どうしてですか……!?」
「うるさい。あんたが……あんたが、ずるい女だからだよ。バーカ」
彼女が反論する前に、俺はその唇に吸い付くように、深く口づけた。
嫉妬の炎はすっかりと鎮火していたが――俺の心に存在する欲情にも似た焦熱は、まだまだ収まることを知らないようだ。
電気がつけられていない室内。ノートPC画面が発する電子光だけがひっそりと暗闇に浮かび上がっていた。
30畳以上のスペースを無駄にしているといっていいほど、室内には最小限の物しか置かれていない。
扉から見て左の壁を背に置かれているのは豪勢なキングサイズのベット。その隣には最新型液晶テレビが乗ったディスプレイラック。反対側の壁にはブラウンの作業用デスクが置かれ、その右にはこの部屋で一番目立つ大きな本棚が設置されている。この部屋に存在する家具は、これらのみだ。
本棚にびっしりと敷き詰められた専門書の背表紙に記されているタイトルは、英語またはどこかの国の言語だろうか、一般的には目にする事のない文字のものが多かった。専門的な知識を持った人間じゃなければすぐに解読することが出来ないものばかりだろう。
静寂に包まれた室内には、ノートPCのキーボードを打ち込む音だけが不規則に紡がれていた。
PCの傍らには山のように積み上がった資料があり、そこには化学記号がびっしりと羅列されている。
この部屋の主――西園寺藤は、それらの資料を横目に、キーボードを慣れた手つきで打ち込んでいた。来週末に行われる学会の発表資料の作成に追われ、ここ数日食事はおろか、睡眠すらまともに取っていない。しかし表情一つ変えず尋常ではない速度でキーボードを打ち込む藤の姿は、まるで機械のようだった。
画面の中には次々と、微塵の誤記もなく英文が綴られていく。幼少期から、教育の一貫として様々な国の言語を習得させられた藤にとってこの程度の作業は容易かった。
――ようやく資料の完成が見えてきた頃、部屋の扉がノックされた。
藤は、扉の方へ目もくれず、作業を続ける。相手もそれは想定内の反応だったらしく、やがて、ゆっくりと部屋の扉が開かれる。
「失礼しまーす……」
扉の隙間から顔を覗かせたのは、数ヶ月前、西園寺家にやってきた家政婦の少女だった。
作業を続ける藤を目に入れながら、少女は邪魔にならないよう、なるべく音を立てないよう部屋の中へ入る。途端、少女は伝わってきた冷気に身体を震わせた。
今日は今年一の寒波が訪れるといわれており、気温も一桁を切っていた。
しかし室内は暖房がつけられていない。
扉の外との温度の差に内心で驚きつつも、少女は両手に持ったお盆に目を落とした。
食器の上に並べられた料理はさきほど作ったものだ。藤の体調を考慮したバランスの良い和食。藤の好みが洋食であるということは分かっていたが、ここ数日ろくに食事を取っていないことを考え、敢えてこの献立にしたのである。
彼女は、そっと藤に歩み寄る。
「藤さん、お食事を持ってきました」
「いらねえ」
間髪入れず、抑揚の無い声でそう答えた藤。少女は困ったように口を噤む。
意識がPC画面内の文字にしかないことを理解しているのか、少女はベッド脇へと向かい、ディスプレイラックの上にそっとお盆を置いた。
「ここに置いておくので、お腹が空いたら食べてくださいね」
「いらねえって言ってるだろ」
「いくら藤さんでも、このままだと倒れちゃいます」
「倒れねえよ。俺を誰だと思ってる」
「……だめです。少しでもいいから、食べてください」
一向に引く気配の無い少女に、藤は初めて作業する手を止め、溜息をついた。
振り向き、彼女に対し圧のこもった鋭い睨みをきかせる。慣れているのか、それとも全く恐怖を感じないのか、少女は何食わぬ表情で藤を見つめ返してきた。
「俺は西園寺藤だ。特別だから大丈夫だと言ってるだろ」
「頭のつくりは特別でも、身体は私と同じ人間です」
これ以上話を続けても、少女の態度は変わらないと察した藤は小さく舌打ちをした。
「あー! わかったわかったあとで食ってやるよ。ま、この俺の気が向いたらだけどな」
最後に余計な一言を付け加えるあたりが藤らしい。
そんな彼の減らず口を聞き流しながら、少女はベッドの上に置かれた黒いブランケットを手にすると、藤の背後へ近寄る。肩にブランケットを掛けてやると、藤はふたたび手の動きを止めた。
「あ……? んだよ、急に」
「こんな寒い中で作業してたら、風邪引いちゃいますよ」
「どうだっていいだろ」
「よくないです。もっと自分を大事してください」
「は? ……自分を大事にする? どういうことだ?」
「身体を壊したら、元も子もないじゃないですか」
「俺なんかの体調がどうなろうと、誰も困らねえよ」
平然とそう言う藤に、少女は首を傾げる。
藤は世界に名を馳せる西園寺家の長男だ。そう遠くない未来、世界有数の巨大企業・西園寺グループのトップの座につく人間に違いなかった。
もしもその際、彼が倒れて席をあけようものなら、グループの存続に関係してくるだろう。
本社は勿論のこと、傘下の子会社にまで影響が出てしまうかもしれない。
それほど、西園寺グループの頂点に立つ者の責任は大きい。
「そんなことないです。だって、藤さんはいずれお父様の後を継ぐんですよね?」
「だからだろ」
「え?」
「西園寺のトップに立つ人間が、自分の体調なんか気にすると思うか?」
藤は、相変わらず手を動かしつづけ、言う。
「”倒れたら這いつくばってでも立ち上がれ。決して休むな、止まるんじゃない”」
「………?」
「俺はそう教えられて育った」
少女は大事なことを忘れていた自分に後悔する。西園寺藤に、『常識』は通用しないのだと。
一方、藤は苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちをした。
「クソ、最悪だ。今、思い出したくもねえこと思い出しちまった」
無理もなかった。彼の脳裏には、最も憎んでいる存在が浮かび上がっているのだから。
「思い出したくもないこと?」
「……ガキの頃のことだ」
忌まわしい過去の記憶。
けれど――今の自分を形成したことには間違いない”過去”。
不思議そうに首を傾げる少女から視線を外し、藤はゆっくりとその瞼を伏せた。
* * *
『いずれ西園寺家を継ぐ者なら、常に頂点にいろ』
それは、父親の口癖だった。
何度言われた言葉か、数えはじめようものなら、恐ろしく気が遠くなる作業に違いない。
俺の幼少期を一言で表わすとするならば、『不自由』だ。この言葉以外、無い。
世界中にその名を馳せる西園寺家の子息――そして長男ともなれば、誰もが俺に羨望の眼を向けてきた。それは、『財力と地位によってこの世のすべてを思うがままに操れるのだろう』という眼差しだった。
現実は操るどころではなく、生活のすべては父親の手の中にあった。
自由な時間なんて無く、学校に通っている間以外は、早朝から深夜まで分刻みのスケジュールで家庭教師をつけられた。マナー、語学、政治学、経営学、物理学――あらゆる分野の、それらに精通する人間達によって与えられる知識は、酷く退屈なものばかりだった。
なぜならば教えられる前に、全て知っていたからだ。
5つにも満たないガキの頃から様々な専門書を読んでいた。毎日何冊と本を読みあかしては、新しい知識を得ていくことに喜びを覚えていた気がする。今になって思い返すと、その頃から同年代の子供と比べ、物事や学問に対する理解力が酷く長けていた。
どんな分野であっても、いともたやすく答えを導きだしてしまう俺を目の当たりにし、教師達は驚き、唸った。『天才』だと呼ばれ始めたのはその頃からだろうか。
周囲の大人たちは今までより、一層俺を特別扱いするようになった。
元々家柄のせいで学校では孤立していたが、『西園寺藤は類稀な天才』などという噂が広まれば、もう誰一人と俺に近寄ってこなくなった。周囲が騒ぎたてたせいもあり、俺の毎日はそれまで以上に窮屈になっていった。父親は褒めるどころか、さらに厳しいスケジュールを与えた。
その反面、弟達は驚くほどに甘やかされており、無理な教育を押し付けられることもない。自由を与えられ、子供らしく自分の好きなことをして生活をする。喉から手が出そうなほどに欲しいものを、なんの苦労もせずに手にしているあいつらを見て、純粋に羨ましいと感じた。
同じ家の中でそんな差別的な扱いをされれば、当たり前だが、精神的にも限界はやってくる。
――初等部にあがったばかりのある日、高熱を出したことがあった。当然の如く、その日のスケジュールも父親によってびっしりと埋められていた。
肉体的にも精神的にも、限界が来ていた。
意識が朦朧とする中、父親に体調不良を訴えたのを覚えている。
『休みたい』と。『こんな毎日は嫌だ、自分も藍や玄のように自由になりたい』と。
初めて、父親の前で涙を零した。
しかし父親は、『西園寺家のトップになる人間が簡単に涙など見せるな』と、恫喝した。
『いいか、藤。いずれ西園寺家を継ぐ者なら、常に頂点にいろ。
倒れたら這いつくばってでも立ち上がれ。決して休むな、止まるんじゃない』
心に残っていた僅かな”期待”が、一瞬で溶け消えたがした。
弱音を吐くことも許されない。
泣くことも許されない。
頂点を目指し進むだけ。それが自分の人生なのだ。
気づけば、周囲には本当の俺を見ようとする人間は誰一人居なくなった。
――恐ろしいほどに、孤独だった。
そしてその時、悟った。俺は西園寺家が繁栄する為だけに存在する駒であり、一人の人間としては扱ってもらえないのだと。
そもそも、西園寺家の長男として生まれたからこそ、俺に価値がついたのだとすれば。俺が天才ではなくなってしまったらその価値は、どこに行ってしまうのだろう。そもそもただの西園寺藤に、価値はあるのか。
――ありえない。そんな自分に価値などあるわけがない。
だから、止まってはいけないとわかっていた。
最初から当たり前のように用意された『西園寺家の長男』という道を、進まなければならないのだ。それがどんなに狂っていようとも、逃げられない。生き抜かなければならない。
そうでもしなければ、俺の価値は瞬く間になくなってしまう。
ともすれば、残された道は唯一つしかないのだ。
それは、西園寺家のトップに相応しい人間でいること。誰にも何にも敗北することなく、崇高で特別で、唯一無二の人間でいること。
望まれる”西園寺藤”でありつづけることだ。
理解した途端、心の底から興醒している自分が居た。
それと同時、込み上げてくるのは出処もわからない奇妙な可笑しさだった。
その時の感情は今でもうまく言い表せない。
諦め、やるせなさ、悔しさ、怒り、悲しみ。
すべて当てはまっているようですべて違う。そんな感覚がした。
『……這いつくばってでも立ち上がれ。決して休むな、止まるんじゃない』
己に言い聞かせるかのように、俺はその言葉を吐いた。
* * *
「……藤さん? 藤さーん?」
伏せていた瞼をゆっくりと開く。
こちらを心配そうに覗き込む少女と目が合うと、藤は遠くまで飛ばしていた意識が一気に戻ってくるのを感じた。
「大丈夫ですか」
「ああ」
「急に黙り込むからびっくりしちゃいました。体調、悪いんですか? ……もしかして熱でもあるんじゃ」
「ねえよ」
否定をしたが、少女はそのまま、藤の額へそっと掌をあてようとする。
その行動の意図が読めず、藤は反射的にその手を掴んでしまった。
「……何をしている?」
「え? 熱がないか確かめようと思って」
「額に、手をあてて?」
「そうですよ。普通こうしませんか?」
「……さあな。やった事ねえから、わかんねえ」
その瞳がどこか物寂しく揺れるのを見て、少女はそれ以上何も言わなかった。
その代わり、彼女の掌がゆっくりと、ふたたび藤の額へとあてがわれる。
藤も今度は拒否をせず、彼女の行動を受け入れた。
額に触れた掌から伝わるのは、ひどく柔らかくて、あたたかいぬくもりだった。
あまりの優しい温度に、藤はどこか気恥ずかしさと居心地の悪さを感じ、目を反らした。
自分が悪いことをしているような感覚にさえ、陥る。
「……お、お前の掌の方が熱いじゃねえか」
「本当だ。藤さん、おでこ冷たいですね! 熱は無いみたいです」
「だから言ってんだろ、ねえって。俺は最強の西園寺藤様だ。見くびるんじゃねえ」
「はいはい。熱がないのはわかりましたけど、別に藤さんは最強ではないですからね」
「ハッ、お前馬鹿か? 眉目秀麗、才学非凡……ここまで何もかも兼ね備えた完璧な男なんて、この世のどこを探しても俺以外居ねえだろ」
藤は得意気に、自信たっぷりの表情で笑ってみせる。
すると少女は、吹き出すように笑いを零した。
「完璧? 藤さんが? ……ふふっ、欠陥だらけじゃないですか」
「はあ!? おい、今なんつった!」
「欠陥だらけっていいました!」
「テメ、家政婦のくせに生意気――」
思いもよらぬ返答に珍しく動揺した藤が椅子から勢い良く立ち上がろうとすると、
「それがいいんです」
少女はそれを牽制するかのごとく笑い、そう言った。
「完璧じゃない藤さんの方がいいですよ!」
「は……?」
「天才じゃなくても、西園寺という名字がなくても、藤さんの良いところはたくさんありますもん」
「な、なに言って……」
「寝起きは絶対に機嫌が悪いところもなんか面白いし、変なところで天然を発揮するし……あと、なんだかんだ藍さんや玄さんのことをかわいがってるところは、やっぱりお兄さんぽくて優しいなと思うし……」
指を折って数えていく少女の言葉を聞き入れながら、それに比例するように、藤の顔がどんどんと赤に染まっていく。
「あとは――」
「も、もうやめろ!」
「っ……!」
顔を赤らめ息を荒げながら、藤は決死の思いで少女の口を掌で塞いだ。
なにをするんだ、という睨みと共に少女はじたばたと手足を動かす。
藤はこれ以上自分が保てなくなるのを避けたかった。
『なんで顔を赤くしてるんですか?』と、彼女は言いたいのだろう。その視線から嫌というほど伝わってきたが、藤は無視した。
「こっ恥ずかしいこと言いやがって……馬鹿じゃねえの」
赤くなった顔を隠したいのか、こちらを一向に見ようとしない藤に少女は思わず笑みを零した。
藤の過去に何があったのかも、時折見せる寂しそうな表情の理由も、彼女にはわからない。
しかし――ほんの少し褒められただけで、子供のように恥ずかしがり動揺する藤を見ていると、もっと彼のことを深く知ってみたいと思ってしまうのだ。
「……お前って本当に、変な女だよな」
呟いたそれは、どこかぎこちなく、なにか戸惑いを含んでいるような口調だった。
藤自身、それが少女に対する特別な感情のせいだとは気づいてはいない。
――それを恋と呼ぶのだと知るには、もう少し時間がかかりそうだ。
「おはよう」
ベッドの中、隣で眠る彼女の額にそっと口づけを落とした。眠りから目を覚ました彼女は、ぼんやりとした眼で俺を見つめる。
寝起きの表情は、なんとなく色気を漂わせていて、好きだ。
今度は頬に優しく口づける。
すると、ようやく意識がハッキリとしてきたのだろうか。大きく目を見開いた彼女が、途端に顔を真っ赤にして俺の身体をぐっと押し返した。
「いてて! 起きた早々、恋人を押し返すってどうなの?」
彼女はぶんぶんと首を横に振ると、寝起き早々にキスするほうが悪いのだと言った。
「どうして? 可愛い恋人が隣で寝てたら、キスくらいしたくなるでしょう?」
「…………」
「違う?」
「そ、それは」
「まあでも、君が嫌って言うなら、もうしないけど?」
答えなんてわかりきっている癖に、試すためにわざと問いかける。
困ったように目線を泳がせたあと、彼女は小さな声を出して、嫌じゃないと呟いた。よほど恥ずかしかったのだろう。身体を反転させると、背を向け、縮こまってしまった。
その小さな身体を、後ろから優しく抱きしめる。伝わってくるのは柔らかなぬくもりと、あたたかな体温。首元に顔を埋めると、俺と同じシャンプーの香りがした。
「幸せ」
彼女が俺の方を振り返った。いったいなにが、と疑問を持ったようだ。目を丸くさせたまま俺を見つめる表情が可愛らしい。
「俺、今幸せ」
彼女の首元に顔を埋めながらそうつぶやくと、くすぐったそうにしながら、彼女は笑い声をあげた。こんなの、他人から見ればなんてことのない一時に映るに違いない。けれど俺にとっては、このなんてことのない一瞬が、幸せに感じる。
そういう俗物的な考えは嫌いだったはずだ。前の自分だったら鼻で笑い飛ばしていただろう。けれど今、そんな自分も悪くないとまで思えてしまうのは、彼女が俺を変えたからだ。そんな相手と過ごす時間だから、よけいに特別に感じるのかもしれない。
「まさかこんな風になっちゃうなんてねえ」
「へ? 何の話ですか?」
「俺、昔はこんな事する男じゃなかったんだ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。付き合った相手に興味なかったし」
体裁だけ『恋人』であった過去の女性達は、今となれば名前すらも思い出せない。
自分でも酷いとは思うが、事実なのだから仕方ない。
「そういえば、藍さんの学生時代の話って聞いたことなかったですね」
「話すようなネタもないもん。なんか今思うと、あの頃って投げやりだったし」
「投げやり?」
「うん、投げやり」
脳裏を過る過去の記憶は、決して健全とはいえるものではなかった。
* * *
幼少期から俺の周囲には沢山の――本当に沢山の人間が居た。
当たり前だ。ポジションは『輪の中心』しか有り得ないと思っていたし、実際もそうなるように立ち回って生きていたのだから。
世界に名を馳せる西園寺家の子息にも関わらず、人懐っこく、いつも笑顔で明るい。話しやすくて、誰に対しても平等な態度で接する。困っている者がいたら快く手を差し伸べ、見返りなど一切求めない。
その上、浮世離れした目を引く外見となれば、周囲の人間たちは何を言わなくとも勝手に俺をもてはやした。
もちろん学校では、『クラスの人気者』という座に居座っていたし、それが揺らがされることなど一度たりともなかった。男女関係なく、どんな人間からも慕われ、愛され、敬われる。
それが俺の作り上げた、西園寺藍という人間だった。
中等部にあがると、女の子からの視線が、熱のこもったものに変わった。
「私、ずっと西園寺くんのことが好きでした……よ、よかったら、私と付き合ってください!」
目の前でお辞儀をする見知らぬ少女。今日初めて会う彼女の学年とクラスと名前は、先ほどこの校舎裏に呼び出された際に伝えられたような気がしたが、すでに俺の頭の中からは消え去っていた。
どうせ名前など呼ぶ機会もないだろう。覚える必要なんてない。
「うん、いいよ」
一瞬の間もなく即答をすると、少女は驚いたように俺を見つめる。
自分から告白してきたにも関わらず俺に受け入れられると思っていなかった、という表情だ。
「い、いいんですか? 本当に!?」
「うん、本当。よろしくね」
にっこりと微笑んで手を差し出すと、驚愕の表情は歓喜へと変化する。
「嬉しい……! まさかあの西園寺くんの彼女になれるなんて夢にも思ってませんでした……! 嬉しいです……!」
(またこの手のおバカちゃんかあ。中等部あがって、これで何人目だ? 9、10、11……20人、くらい……かなあ)
心の中で数えながら、ぼんやりと少女の顔を見つめる。
今、こいつの心を喜びで満たしているのは、好きな人と結ばれた幸福感なんかじゃないだろう。
自分が『あの西園寺藍の彼女になることができた』というステータスを手に入れたこと。他の女とは違う地位に立ったという優越感。ただそれだけだ。
「とりあえず、電話番号とメアド教えてくれるー?」
「はい……!」
教えられた番号とアドレスを自分の携帯へ登録し終えた俺がその場を立ち去ろうとすると、彼女は後ろから「あの」と戸惑い気味に声をかけてきた。
「どうしたの?」
「あ、あの……どうして、私と付き合ってくれたのか、聞いてもいいですか?」
「どうして、かあ。……気になる?」
「は、はい……」
(理由なんて、ひとつしかないよ)
きっと今、彼女の頭の中には様々な憶測が飛び交っていることだろう。もしかしたら俺が彼女を前から目で追っていたのかもしれない。または、外見を気に入ってもらえたのかもしれない。
他の子と自分が違う理由。俺に選ばれたという証拠が欲しい。
彼女がそう訴えかけてきているように見え、俺は耐えきれずに笑いを零した。
――残念でした。そのどれも、正解じゃないよ。
「だって君、俺のこと好きなんでしょ?」
「は、はい」
「だよね。ならそれだけで十分だよ」
きょとんとする見ず知らずの少女に、俺は微笑んだ。
「俺、好かれるのが好きなんだ」
***
「ただいまー」
学校から帰宅した俺は、無駄に広い自宅の玄関を通り抜け、家の中へと足を踏み入れる。
「藤くん、謝って!!」
リビングへと近づいていくに連れ、騒がしい声が耳に入り込んできた。
「最初に藤くんが俺のこと馬鹿って言ったんだ!」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い」
「うるさい! 馬鹿って言う方が馬鹿なんだ馬鹿!」
「お前は語彙力を身につけたほうがいいぞ、玄」
「ご、ごいりょく?」
「ハッ! だから馬鹿って言われんだ、わかんねえのかクソガキ」
「ガ、ガキって言うなああっ!!」
(……またやってる)
溜息をついてリビングの扉を開くと、これまた想定した通りの光景が視界に映り込んでくる。
ソファへ足を組みながら座り小難しい本を読む藤くん。そして、そんな藤くんに向かって半べそをかきながら激情している玄。
藤くんは小難しそうな専門書に目を通しながら、ぎゃんぎゃん騒ぐ玄を言葉巧みにあしらい続けている。大泣き寸前の末っ子は、まだ十歳の子供だ。あの藤くんに口で勝とうとする自体、無謀だというのに。負けじと立ち向かっていくところが玄らしい。そして、藤くんも藤くんで質が悪い。六つも歳の離れた弟など、まともに相手にしなければいいものを。玄を怒らせて遊んでいる節があるから厄介だ。
「はやく謝って!!」
「なぜ俺が謝らなきゃいけない。先に喧嘩売ってきたのはお前だろうが」
「だって、藤くんが俺のこと、悪く言ったから!」
「はーいはい。その辺にしときなー、玄」
カバンをテーブルの上に置きながら、俺はようやく喧嘩の仲裁へ入る。
その声によって、二人はやっと俺がこの場に居たことに気付いたようだった。
「なんだ、藍。帰ってたのか。気がつかなかった」
「ただいまって、さっき一応言っ――」
「聞いてよ藍くん!! 藤くんが俺のこと馬鹿って言うんだ!!」
こちらのことなどお構いなしに、目に涙をいっぱい溜めてこちらへ走りよってくる玄。年齢のわりには背が低く身体も小さい弟は、まるで助けを求めるかのように身体にしがみついてきた。
俺はそんな玄の頭を撫でてやりながら、澄まし顔で本を読み続ける藤くんに冷ややかな視線を向ける。
「ふーじーくーん。喧嘩しないでって言ってるでしょー?」
「俺が始めたんじゃねえっつの」
「嘘だ! 藤くんが俺に向かって馬鹿って言った! 悪口言ったんだ!」
「それは悪口じゃなくて事実だろ」
「あーもう、わかったから! そろそろやめにして藤くん。さすがに大人げないよ」
「…………チッ」
藤くんは、少しお灸をすえるだけですんなりと収まってくれるから扱いやすい。長男が黙り込んだのを確認すると、俺の身体にぎゅっとしがみつく末っ子に目を落とした。
まだ瞳を潤ませながら藤くんを睨みつける玄に対し、先ほどよりも少しやさしく、諭すような口調で話しかける。
「玄も。怒るのもう終わりね」
「でも、藤くんが……」
「玄は馬鹿じゃないもんねえ。俺はちゃんと知ってるよー?」
「……ほんと?」
「ほんとだよ。俺が認めてる。それじゃだめ?」
「ううん………だめ、じゃない」
「なら、もう喧嘩はおしまい。いい?」
「うん……」
納得がいったのか、ようやく頷いた玄に、内心でほっと息をつく。
「おー、偉い。 玄はお利口さんだなー」
髪の毛をわしゃわしゃと撫でて褒めてやると、単純なところは長男に似てしまったのか。ついさっきまで泣きべそをかいていたはずなのに、一瞬で表情を明るくさせた玄は、きらきらとした瞳で俺を見上げる。
「本当!? 俺、えらい!?」
「うん、偉い偉い」
「へへへ」
微笑んで肯定してやると、玄は嬉しそうに俺に向かってはにかんだ。
その笑顔はあまりにも純粋無垢で、おおよそ誰が見ても可愛らしいと感じるだろう。
これが正真正銘、天然の産物なのだから玄は恐ろしい。
(この笑顔は、やれって言われても出来ないわ)
「それじゃ玄、そろそろお風呂に入――」
言いかけたその時、玄関の扉が開く音が聞こえた。
それは藤くんと玄の耳にも届いていたようで、二人共瞬時に、家に入ってきた人物が誰だかを察したようだった。
藤くんは一瞬だけリビングの扉の方へ視線を向け、それをまた手元の本へと戻す。眉間に皺が寄っているところを見ると、この数秒で不機嫌になったようだ。
玄は玄で、俺の身体にしがみついていた手をパッと離し、扉の方へ釘付けになっている。
廊下から聞こえる足音が大きくなると同時、リビングの扉がゆっくりと開かれた。
「なんだ、三人共揃って。珍しいな」
低音の、藤くんとよく似た声が静まり返ったリビングへ響く。
登場したのは、やはり三人が想像していた人物だった。
「おかえり! 父さん!」
「玄、久しぶりだな。元気にしてたか?」
「うん!」
玄は父の元へと駆け寄っていく。母親が出ていってから数年、相当寂しい思いをしていたのだろう。出張から数週間ぶりに家に帰ってきた父の登場に心から嬉しそうにしている。コートを脱ぎながら、笑顔で玄へと話しかける父の周りをぴょんぴょんと飛び跳ねながら、両手を伸ばしている。早く抱っこをしろ、といっているようだ。
父さんはコートをソファの背に適当にかけると、玄の身体を当たり前のように抱き上げた。最近身の回りで起きた出来事を拙い言葉で話し出した玄に対して、父さんは笑顔で頷くだけだ。
(末っ子には本当にデレデレだよなあ、この人。ま、いいけどさ)
玄の話が終わると、父さんは別人かと疑いたくなるほど真面目な顔つきをして、背後のソファに座る藤くんへ身体を向けた。
「藤。新しい家庭教師はどうだ」
「…………」
藤くんは父さんの問いかけに、目線も向けず、黙々と本を読み続ける。
「藤! 聞いているのか?」
「……別に。普通ですよ。つまらないです」
「つまらない?」
「ええ。全て知っているものを教えられること程、苦痛な時間はないですから」
藤くんがそんじょそこらの秀才とは比べ物にならないくらい頭がいいのは、知っている。
昔から神童だ天才だの騒がれているし、父さんは昔から、いずれこの西園寺家を継ぐ藤くんに、世間で言う『スパルタ教育』を叩き込んでいた。藤くんも楽しそうではないけれど、父さんから与えられる数々の試練を難なくこなしてしまっているあたり、やはり只者ではないと思う。
だからこそ、父さんも藤くんに期待をしているんだと思うんだけれど――。
「俺の感想を聞く前に、まともな人間を雇ってくださいよ」
冷めた視線を向ける藤くんに対し、父さんは「わかった」とつぶやくと、新しい人材を雇うことを告げた。父さんが年々、凄まじい成長を遂げる長男に対し、態度を変えているのを知っている。気づいているのはきっと俺だけ。
「藤、お前はいずれ西園寺家を継ぐ人間なんだ。その自覚はあるんだろうな」
「またその話ですか」
「その話とはなんだ! お前は私の後を――」
「大丈夫ですよ。仮に俺がこの家を継いだとしたら、あなたみたいな無駄と損の多い経営はしないですから」
「…………」
藤くんの言葉に、父さんは黙り込む。
この場の空気は凍りついたように、冷たかった。
全身全霊で期待されているというのに、藤くんは父さんのことをよく思っていない。
(……期待されるだけいいじゃんね)
藤くんの態度に、今は取り付く島がないと悟ったのか――ようやく、父さんの瞳は俺へと向けられる。
「藍」
久々に呼ばれた名前だった。瞬時に、俺は完璧な笑顔を浮かべる。
「父さんおかえり。出張長かったね」
「ああ。元気にしてたか?」
「うん、元気だよ!」
「学校はどうだ」
「すごく楽しいよ、友達も沢山居るし。この間の試験も、学年で上位だった」
藤くんは一位を取らなければいけないけれど、俺は一位じゃなくても怒られない。
父さんは穏やかな笑みを浮かべるし、俺も何も気にしていないかのように、笑顔を浮かべる。
「お前は本当に手がかからないな。何も心配することがないよ」
「はは、そんなことないって」
(そもそも、心配する必要がないんでしょ?)
聞き分けがよくて、手のかからない次男。
それが家での俺の役目だもんね。
なら俺は、『西園寺家の次男である藍』を演じるよ。
父さんの大好きな『藍』をね。
玄のように真っ先に抱き上げられ愛情の詰まった視線を向けられなくても。
藤くんのように期待と信頼を向けられることがなくてもいい。
――俺は、”皆の大好きな西園寺藍”だもん。
* * *
「ってな感じでさー。前にもちょろっと話したかもしれないけど、家でも外でもそんな感じだったのよ。だから思春期は荒れてたーってわけ。ね、面白くもなんともないでしょ。この話」
過去の忌まわしい記憶なんて封印してしまいたいくらいだ。
隣の彼女は、一連の俺の話を聞き終わり、どこか複雑そうな表情を浮かべて黙り込んでしまっている。
「ん、どうしたの? ……なんか言いたげだけど」
彼女は数秒目線を泳がせたあと、もっと俺に早く出会いたかった、と言った。
「……なるほどね。君とあの頃出会ってたら……たしかになにか変わってたのかなあ」
「……………」
「なーに。なんでそんな顔するの」
彼女の方が辛そうな表情をするものだから、思わず笑ってしまう。
きっと優しい彼女のことだから、俺の身になって色々と考え込んでくれているに違いない。
(こんな顔させたかったわけじゃないのになー。もう終わったことだし、俺自身はもう気にしていないのに。だってさ。君に出会って、もう俺は今、こんなに幸せなんだから)
あの頃とは違う。
俺はちゃんと、俺のことを一番に考えてくれて、一番に愛してくれる大事な人を見つけたから。
「大丈夫だよ」
俺はそっと彼女を抱き寄せると、その華奢な体を優しく包み込んだ。
そして、耳元に小さくキスを落とす。
「俺はもう、君さえいれば幸せなんだから」
自分でも、驚くほど自然に、口から飛び出てしまった。
彼女が何も言わないので、不思議に思いその表情を覗き込む。
「えっ、え!? なんで泣きそうになってんの!? 俺なんか言った!?」
慌てふためく俺を見て、今度は吹き出す彼女。
――嬉し泣きです、と笑いながら弁解され、胸を撫で下ろす。
「びっくりさせないでよね、もう……」
「すみません」
「たったあれだけのことで泣くって、やっぱり変だね家政婦ちゃんは」
本当はたったそれだけのことで嬉し泣きをしてくれる彼女が、たまらなく愛おしかったけど。
少し恥ずかしさも残っていたせいか、俺は耐えきれず笑い声で誤魔化した。
彼女は、笑わないでと俺の頬をつまむ。
(――ああ、幸せだなあ)
俺は彼女の頬を同じようにつまみながら、だらしない表情になるとわかっていつつも、へらりと笑ってしまう。
「昔はあんな笑顔出来ないと思っていたけど、案外笑えるのかもねえ、俺」
「…………?」
不思議そうに、何の話かと首を傾げる彼女。
俺は「内緒だよ」と言って、その唇に優しくキスを落とした。
「馬鹿じゃないの?」
自宅へ帰宅して早々、玄は開口一番そう言った。
無理もない。玄関の扉を開けた途端、目に飛び込んできた光景は目を疑いたくなるものだったから。
玄関の真正面から続く長い螺旋階段を、見ているこちらが不安になるくらいの不確かな足取りで降りてこようとするのは、恋人である彼女だった。
おかえりなさい、と荷物越しに聞こえてくる。
彼女はその両手にダンボールを抱えている。それも、上半身が隠れてしまうほどの大きな。
玄は、呆れ混じりのため息をつく。
「なにやってんだよ、貸せよ。あんた、そのままだと足元狂って転び落ちてきそう」
彼女のもとまで近寄っていき、それを奪い取る。
いざ自分が持ってみると、想像していたよりも重量は無かった。
軽々と階段を降りていく玄を見て、ありがとうございます、と彼女は嬉しそうに声をあげた。
「別に。こんくらい、どうってことないし。っていうか何これ、どうしたの」
「藍さんにアルバムをの整理を頼まれて……」
その言葉に、玄は考えることなく納得した。
藍の趣味がカメラで、彼が昔から様々な写真を撮りつづけていることを知っていたからだ。
抱えたダンボールをリビングまで運んでいき、床へと降ろす。
玄に礼を告げた彼女が、中のアルバムを取り出しパラパラと捲りはじめる。
途端、驚いたように彼女は歓声をあげた。
玄はその瞳が一瞬できらきらと輝いた理由がわからずに、首を傾げる。
「これ、真ん中にいるの玄さんですよね?」
目の前に広げられたアルバムの1ページ。
そこには、幼少期の自分の姿があった。
珍しく、両隣には兄二人が映っており、三人共初等部の制服を着ている。場所は、三人が通っていた学園の門前だった。
自分が初等部に入学した時に、藍が当時の西園寺家の運転手に撮らせたものだと思い出す。
腕を組んで澄ました表情を浮かべる藤、満面の笑みでピースサインをしている藍、二人に挟まれている玄はどこか浮かない表情をしている。
「あー……あの時か」
幼き頃の記憶を辿りながら、玄はどこかそれを懐かしむような笑みを零す。
「これ、俺が初等部に入学したときの写真だよ」
「そうなんですね! でも、どうして玄さんはこんな顔を……?」
「嫌だったからじゃない?」
「嫌……学校が、ですか?」
「違う。……藤くんと藍くんと一緒に写るのが、嫌だったんだ」
一体どういうことだ、という表情の彼女が無言で玄を見つめた。
「え、聞きたいの? 今となっちゃ、しょーもない話だよ」
ぶんぶんと首を縦に振る彼女に、わかったよと笑って、玄は話し始めた。
劣等感に苛まれていた、幼き頃の自分を思い出しながら――。
***
「玄坊ちゃん? どうしたんですか、浮かない顔をして」
入学式へ向かう車の中、ミラー越しに運転手が話しかけてくる。
五十代半ばになるその運転手は、三兄弟が生まれるずっと昔から、西園寺家専属の運転手として仕えている男だった。玄は憂鬱そうな表情を浮かべたまま、ミラーを通して運転手と目を合わせる。
「……行きたくないんだもん」
「どうしてですか? 今日は玄坊ちゃんの入学式ですよ」
「でも……父さん、来ないもん……一人ぼっちだ」
「大丈夫ですよ。学園には、藤坊ちゃんと藍坊ちゃんもいらっしゃいますし」
「だから、いやなの」
玄は後部座席で体育座りをして、組んだ腕の中へ顔を埋めた。
「……藤くんと藍くんが居たら、俺はぜったいに悲しい気持ちになるもん」
運転手は不思議そうに疑問の声をあげた。
「悲しい気持ちになる、とは?」
「だって……俺、藤くんと藍くんみたいに、かっこよくないもん……」
消え入りそうな声色に、運転手はそれ以上何も言えなくなってしまった。
そうこうしている間に、玄を乗せた車は学園の前へと到着する。
先に降りた運転手によって、後部座席の扉が開かれた。
(いきたくない……)
全身が車から降りることを拒絶していた。
心配そうに玄の様子を伺ってくる運転手を横目に、玄はゆっくりと車を降りた。
――すると。途端に、待ち構えていたかのように馴染み深い陽気な声が聞こえてくる。
「あっ、玄来たー!! おーい!」
「フン。ようやく来たか」
顔をあげると、校舎の方から歩いてくる藤と藍の姿が見えた。
藍はこれでもかというくらいの満面の笑みで大きく手を振っており、藤は家に居るときと変わらない表情の無さだった。
「藤坊ちゃん、藍坊ちゃん。私は式が終わるまで此処でお待ちしておりますので。あとはよろしくお願いします」
「ああ。ご苦労だったな」
「ありがとね、鈴木さん」
深々とお辞儀をする運転手の鈴木を背後に、玄は藍に手をひかれながら校舎の中へ向かって歩いていく。
「げーん? どうしたの、そんな暗い顔して」
「……入学式、やだ、でたくない」
「えー!? なんで!?」
「でたくないから」
陽気な藍とは対称的に、下を向いたままの玄はぼそぼそと喋る。
――これから始まるのだ、きっと地獄のような日々が。
そう考えるだけで、今すぐにでも車に戻って自宅に帰りたかった。
「んー? なんか嫌なことでもあるの?」
言ってごらん、と優しく話しかけてくる藍をちらりと見る。
そこには子供の目線から見ても、美しいと感じざるをえない顔があった。
同じ血が流れているにも関わらず、藍の顔は桁違いに綺麗な造形をしている。
その綺麗な顔に微笑まれてしまえば、それは今の玄にとって太陽よりも眩しく映った。
次に、玄は左側に居る藤へと目線をやる。
藤は二人の会話を聞いてはいるが、入ってこようとはしない。
ただ目の前を真っ直ぐに見つめ、背筋をぴしっと伸ばし歩く藤は横顔しか見えないものの。
藍に負けず劣らずの、美しく凛々しい顔立ちをしている。
玄は二人を見つめながら、気づかれないように小さくため息をついた。
藤が類稀な秀才で、父親から絶大な期待を持たれていることを知っていた。
藍が非常に社交的で、どこに行ってもすぐに人気者になることを知っていた。
けれど、自分はこんなにきらきらと輝いている二人とは違う。
どちらかといえば勉強は苦手だし、友達を作るのも怖いという意識がある。他人に自分から話しかけるなんて、もってのほかだった。
(きっと藤くんや藍くんは、この中でもきらきらしているんだろうな)
玄の予想は的中した。
校舎の中へ足を踏み入れた途端、どこからともなく歓声があがり、またたく間に大勢の生徒が三人を取り囲むようにして寄ってきたのだ。
羨望の眼差しの男子生徒、媚びを売るような瞳をした女子生徒――あっという間に囲まれてしまい、三兄弟は身動きが取れなくなる。笑顔で女の子たちと会話を繰り広げる藍と、無表情のまま冷酷な視線を周囲に向ける藤。
(ほらね。やっぱり学校でも、二人はすごいんだ……俺とはちがうんだ……)
二人に挟まれ、縮こまりながら、玄は思う。ああ、どうしてこの兄二人の弟に生まれてきてしまったのだろうと。
しかし玄は、まったくもって知らなかった。
世界に名を馳せる名家『西園寺家』の、そしてあの藤と藍の弟である玄が入学するということを、事前に知った学園中の生徒が、その姿を見るのをどれだけ待ち望んでいたかを。
今、注目されているのは兄二人ではなく、自分自身だということを。
陰気な考えに苛まれ固まっている傍らで、兄二人が、ギャラリーに何を言っていたのかを――玄は知らなかったのだ。
「ちょ、よく見えないんだけど!」
大勢の生徒たちが、藤と藍の後ろにいる玄の姿を一目見ようと身を乗り出してくる。
「おい。それ以上近づいてきたら、どうなるかわかってるだろうな」
藤はそんな生徒たちを、氷のような眼差しで睨みつけた。
「うちの弟は見世物じゃねえ。ついでにお前らの遊び道具でもねえ。もしもこいつに何かした馬鹿が居たら、この西園寺藤様が社会的に抹殺してやる。いいな」
藤が冷静に吐き捨てた言葉を耳にした生徒たちは、その迫力に思わず後退る。
「あはは! もう、藤くんってば物騒なこと言っちゃって」
「フン。事実だろ、何がいけねえんだよ」
「まあね、たしかに……」
藍は貼り付けていた天使のような笑顔を一瞬で消すと、
「玄に手ぇ出したら、誰だろうと絶対に許さないから」
温度のない声色でそう吐き捨てた。
それまで目をハートマークにさせていた女子生徒たちは、突如豹変した藍の姿に、唖然とした表情で固まる。鋭い目つきで睨みつける長男と、目だけが笑っていないが楽しそうな笑顔を浮かべる次男。
この光景を目の当たりにした生徒たちの中に、これ以上、いや――金輪際、玄に近づこうと思う者は一人たりとも居なかった。
そう。
玄はまったくもって、知らなかったのだ。
初等部へ入学した初日から既に、兄二人によってその身を守られていたことを――。
入学式を無事に終えた玄は、藤と藍と共に、門前に停車する車へと向かっていた。
「ねー、玄」
「……ん?」
「一緒の学園内に居るから、まあ大丈夫だとは思うんだけど」
「なあに」
「何か身の回りで変なことが起きたら、真っ先に言うこと。いいね?」
玄の隣を歩く藍は、いつにもまして真剣な表情で弟を見つめた。
「変なことって?」
玄の疑問に、今度は藤が口を開く。
「なんでもだ。何か少しでも嫌だとか変だとか感じたら、言え。いいな」
「……なにそれ、変なの」
「変でもいいの! 約束。わかったー?」
「…………うん」
頷いたは良いものの、兄二人の思いなど知る由もない玄の頭の中は、藤と藍への嫉妬心でいっぱいになっていた。
(嫌なのは、藤くんと藍くんがいることだもん)
車の前で笑顔で三人の帰りを待っていた運転手は、三人の姿を見て、再び深々とお辞儀をする。
「おかえりなさいませ」
「鈴木さんただいまー! ……あ、そうだ! ねえ、せっかくだし写真撮ろうよ!」
「はあ?」
「いいじゃんいいじゃん、玄の入学祝いにさ! ねえ、鈴木さん、カメラ持ってたりしない?」
「運転手がそんなもん持ってるわけ――」
藤の言葉の途中で、ありますよ、と運転手がにんまりと微笑む。
「ナイス! 鈴木さんナイス!」
「なんで持ってきてんだよ……」
「玄坊ちゃんの晴れの舞台ですから! 念のために、と思いまして!」
「えええ……いやだ……」
あからさまに嫌そうな末っ子を差し置いて、話を進める三人。
藍の暴走によって結局は写真を撮る羽目になった三兄弟。玄を真ん中に取り囲ぶようにして並び、三人は運転手の持つカメラへとそれぞれ目線を向ける。
藤は面倒くさそうにしつつも、お得意の腕組みをしながらまっすぐに前を向いて。
藍はこれでもかといわんばかりの笑顔を携え、ピースサインをして。
そして――当の玄は、やるせない思いを抱えたまま、どこか浮かない表情を浮かべて。
「それじゃ、撮りますよー! 3、2、1――」
***
「ってわけで、あの二人は初等部のときからすごかったって話。まあ、俺はこんなんだから近寄ってくるやつなんて一人も居なかったね。友達もできなかったし……孤立しててつまんない初等部生活だったわ。そのくせ藤くんと藍くんが何故か、いつもかまってきてさ――」
玄の幼少期のエピソードを聞き終えた彼女は、ふふっと楽しそうに微笑みを零す。
この西園寺家で働きはじめてから三兄弟を一番近くで見てきた彼女にしてみれば、玄の話を少し聞いただけで、藤と藍が幼少期から、いかに玄を大事にしていたのかがわかる。
――当の本人は、未だにそれすら気づいていないが。
「……なんで笑ってんの?」
「玄さんは、本当に藤さんと藍さんに愛されてるんだなと思いまして」
「はあ? なにそれ?」
そんなわけないじゃん、と鼻で笑い飛ばす玄。
玄が兄二人の優しさに気づくのは、もう少し先のことになるのかもしれない。
そう考え、彼女はそれ以上何も言わない代わりに、ただ嬉しそうに笑うのであった。
「おい家政婦。お前、この俺に食わせるってわかった上で作ったんだろうな」
藤はそう言って、皿の上に乗ったガトーショコラにフォークを刺した。
今日はバレンタインデー。
彼と恋人になって、初めて訪れた2月14日だった。
料理の味にはひどく厳しい藤が、これを気に入ってくれるかどうか。
しかし彼のことを想って一生懸命に作った一品だった。
藤好みの味になるように、何度も何度も練習をして、作り上げた。
きっと――きっと、褒めてくれると信じながら。
美味いじゃねえか、と頭を撫でてくれる姿を想像しながら。
緊張しながらも、こくりと頷くと、フォークを口に運んでいく藤。
内心はらはらしながら感想を待っていると、静かにそれを味わっていた彼はやがて鼻を鳴らした。
「フン、庶民くせえ味」
発せられたその言葉に、心臓が凍りついたような感覚がした。
――やっぱり、駄目だったんだ。
藤のことを満足させられなかったという事実が、脳内を埋め尽くしていく。
どうしたらいいのかわからず目線を泳がせていると、彼は追い打ちをかけるように再び口を開いた。
「いつまでたっても、お前の料理は庶民臭さが抜けねえな。安っぽいんだよ、味が。ま、でもこれが家政婦らしくて――……って、な!? なに泣いてんだお前!?」
紡がれる言葉の途中で、耐えきれずに瞳から涙が零れ落ちてしまった。
ひどい言葉を投げつけられたからではない。
恋人の求める料理のひとつも作れない自分の不甲斐なさにだった。
ごめんなさい、と呟くと「は?」と気の抜けた声が聴こえた。
「な、なぜお前が謝る……!?」
なぜだか、かつて見たことのないほどに慌てている藤。
だって美味しいものを作れなかったから、と涙を零しながら理由を述べる。
するとようやく事態を把握したのだろうか、藤は大きく溜息をついた。
「はあ……馬鹿、ちげーよ」
そう言って、藤はガトーショコラにふたたびフォークを刺し、口に運ぶ。
美味しくないならこれ以上無理しないで、と制止すると、「だからちげーっつってんだろ」と、強く言葉を返される。
「……だ、誰も美味くないなんて、言ってねえだろうが」
え、と動きを止めたこちらを気まずそうに見つめ、藤は次々にガトーショコラを平らげていく。
あっという間に完食してしまった彼を唖然としながら見つめていると、顔を隠すように反対側を向き声を荒げられる。
「庶民くせえ味っつーのは、褒め言葉だ! なんだ、その、お前が作ったってわかるっつーか……とにかく、俺にとっては庶民くせえ味は、お前の味って意味で……!!」
普段あんなにも理路整然と言葉を発する彼が、しどろもどろになっている。
藤の言葉を必死で脳内で繰り返す。
やがてひとつの答えを導き出し、確かめるように彼に問いかけてみる。
――ちゃんと美味しかったってことですか?
「だから最初からそうだって言ってるだろ!!」
振り返った藤の顔が真っ赤で、思わず吹き出してしまう。
それを見てぎょっとしたように目を見開いた彼に、頬を両側から掴まれ引き寄せられる。
唇と唇が触れ合ってしまう寸前で止められ、
切れ長の綺麗な瞳が、私を見下ろした。
「……悪かった。言い方を、間違えた。ま、まさか泣くなんて思ってなかったんだよ」
あの最初の言葉が「美味しい」を意味していたとしても、それが相手に伝わっていないんじゃ何の意味もないのだが。
しかし――必死で己の犯した罪を反省しようとしている姿を見せつけられてしまえば、心に浮かんだ悲しみなど、どこかへ吹き飛んでしまっていた。
頬に残る涙の痕を、優しく指で拭われる。
「美味かった……本当だ。……お前の作るものなら、俺はどんなものでもそう感じる」
真っ直ぐで、優しい言葉。
彼は強張った表情を緩め、小さな声で呟く。
「……これで、機嫌なおせよ」
切ない声色でそう呟かれ、唇に甘いキスを落とされる。
蕩けてしまうくらい、あたたかな口づけだった。
いつも偉そうで、思考が王様で、やることなすこと全てが強引で我儘――
けれど、本当は繊細で、実は相手のことを考えていて、時折酷く優しくて。
それは、恋人である自分が世界中で一番よくわかっているつもりだ。
身体を抱きしめられながら、与えられる甘い口づけに必死で応える。
――そっと離れていった唇を見つめていると、柄にもなくこちらの顔を伺うように覗き込まれた。
「……機嫌、直ったか」
その表情があまりに可愛らしく見えてしまう。
とっくに許しているにも関わらず、もうちょっとこんな藤を堪能したい気持ちが出てきてしまった。
――まだ、です。
本心とは裏腹に、そんな言葉が口から飛び出てしまう。
しかし自分が嘘をつくのが上手ではないこともわかっていた。
きっと、彼だって今私が本当にそう思ってないと感じ取ってしまっただろう。
「……なら、機嫌が直るまでこうしててやるよ」
嘘だとわかっていても、その嘘を飲み込んでくれる藤は、やはり誰よりも優しいと感じる。
ふたたび与えられる深い口づけに、そっと目を瞑りながら、彼の甘い愛に浸るのだった。
「俺に作ってくれたの?
ありがとう! 嬉しい! ね、早速食べてもいい?」
大きな瞳をふんわりと細めながら、心の底から嬉しそうに微笑んだ藍さん。
ラッピングを外し、中から取り出したトリュフを口に入れた彼は「んー!」と幸せそうな表情を浮かべた。
「美味しい! これ、どうやって作ったの? すっごい美味しいよ!」
甘味が大好物の藍さんから飛び出た言葉に、胸を撫で下ろす。
日頃、ありとあらゆる高級店のスイーツを口にしてる彼に手作りチョコを贈るというのは、なんともハードルが高かった。
もちろん、一流のパティシエの味には到底敵うはずもないので、最初からそれに勝とうだなんて思っていない。
ただ、藍さんがそれを口にしたときに少しでも美味しいと言ってくれるものを作れればよかった。
「今まで食べたチョコの中で一番美味しいかも」
さすがにそれはないだろうと、作った当人ながら否定をする。
しかし藍さんは首を横に振った。
「本当だよ。味が美味しいのはもちろんなんだけど、家政婦ちゃんが俺のために時間をかけて作ってくれたってことが、余計に美味しくさせてるんだと思うな」
愛する恋人から素直に褒められるのはやっぱり嬉しくてたまらなかった。
けれど、今まで食べた中で一番、というのはやはり嘘だと思ってしまう。
こちらのそんな複雑な心境を感じ取ったのだろうか、じとっとした眼差しで見つめてくる。
「信じてないね? 俺は本気で言ってるのに」
でも、と言いかけた瞬間、藍さんの手によって口の中にトリュフが押し込まれた。
舌の上で蕩けていくそれを味わいながら、行動の意味を問いかけるように、見つめ返す。
「ほら、美味しいでしょ?」
何度も味見を重ねて作ったものだ。
不味いはずはないが、特別とびっきり美味しいかと言われたら、少し自信はない。
「……でもね、こうするともっともっと美味しくなるんだ」
間髪入れずに、深い口づけをされた。
驚いた拍子に開いてしまった唇の隙間から、藍さんが舌を入れ込んでくる。
慣れた様子で口内を貪る藍の熱い舌。
まだ口の中で溶けきっていなかったトリュフが、彼の舌によって奪われていく。
――やっぱり、味加減を間違えたかもしれない。
脳内がくらくらとするのは、きっとトリュフを甘くしすぎたせいと思いたかった。
二人の舌で溶かされたトリュフが、やがて形を失くす。
唇を離した藍さんは満足したように微笑んだ。
「ね? 二人で食べたら、もっと美味しくなるの」
悪戯っぽく言う彼に、何も言い返せない。
こういうことをさらっとやってのけてしまうのが、彼だった。
恥ずかしさに目をそらしてしまう。
すると藍さんは、だめ、と私の顎をそっと掴む。
「次は君からして?」
そう言って、優しい手つきで私に箱を持たせた彼は、近くベッドへ腰をかけた。
「もちろん、ここでね」
自分の膝をぽんぽんとたたき、上に乗れと誘ってくる。
戸惑うこちらの様子を熱を含んだ瞳で見つめてくる彼は、先ほどよりも強い口調で言う。
「ちなみに、これはお願いしてるんじゃないよ。できるよね?」
その一言が、すべてを物語っていた。
従うほかなく、ゆっくりと藍に近づいてく。
これからどんなことをされるのかなんてわかりきっているのに――歩みを止めることはできなかった。
「へえ。これあんたが作ったんだ」
手渡した正方形の箱をかかげながら、玄さんはこちらを一瞥した。
驚くでもない、恥ずかしがるでもない。
澄ましたままの表情の彼に、こちらの緊張感が高まる。
食べてくれるかと問いかければ、
その質問が無駄だとでもいうかのように鼻で笑われる。
「ここで俺が食べないって言ったら、どうすんの?」
突き返された言葉に、言い返せず口ごもってしまうと、ふっと笑われた。
「食べてやるよ。だってこれ、俺の為に作ったんでしょ」
こちらが頷いたのを確認した玄さんが、ラッピングの紐を解く。
蓋を開けた先には、小さなハート型のチョコが並べられており、玄はそのひとつを摘むと口の中に放り込んだ。
何回か噛みしだきながら、味を確かめるかのように斜め上を見つめている。
膨らんだ頬を可愛いと思ってしまったのは内緒だ。
「んー……うん、ま、あんたにしちゃ上出来なんじゃないの」
決して素直な褒め言葉ではなかったけれど、感想なんてそれで十分だった。
本当に美味しくなかったのなら、彼は嘘をつかずに不味いと言って眉間に皺をよせたことだろう。
「……しかも、ナッツ入ってる」
こくりと頷いてみせる。
以前に、ナッツのチョコレートが好きと漏らしていたのを忘れていなかった。
食べてもらうならできるだけ美味しいと言ってもらいたくて、こっそりと入れてみたのだが――
こちらの計らいに気づいたのか、玄さんは口元を緩ませる。
「俺が前に好きって言ったの、覚えてたんだ」
もちろん頷けば、あっそ、と返される。
その一言には、どこか優しさが混じっていた。
「なんだよ、にやにやしやがって」
満足してもらえたことが嬉しくて、だらしない顔になっていたのかもしれない。
頬をつままれ、横に引き伸ばされる。
すげーブサイク。そう言いながら、冷ややかな目線を向けられた。
それが本心ではないとわかりきっているからこそ、余計に表情が緩んでしまう。
「まあ。鈍くさいあんたにしては、良い物作ったんじゃない。うん……美味しいよ、これ」
語尾がひどく、甘ったるい音に聞こえた気がした。
途端、引き寄せられた身体が彼の腕の中へとおさまる。
あたたかな温もりが布越しに伝わってくるのが心地よくて、玄さんの背にそっと腕を回した。
「今日はやけに素直じゃん」
玄さんこそ、と返せば、まんざらでもなさそうに頬を赤らめる。
「たまには素直になったっていいだろ。……こんな日くらい」
文句の一つでも返されるかと予想していたから、この態度は想定外だった。
「目、閉じて」
開いた唇の合間から滑り込んでくる彼の舌は、蕩けるように甘かった。
何度か唇を啄まれた後、そっと離される。
至近距離で互いに数秒見つめ合い――そして、どちらからともなくまたキスを繰り返す。
次第に深くなっていく口づけのせいで上昇していく体温に恥を覚えながら、ぎゅっと彼の衣服を掴むと、くすりとキスをしながら笑われた。
「気持ちよくなっちゃったの?」
違う、と否定をする暇もなく、さらに深い口づけが与えられてしまう。
玄さんは一度スイッチが入ると止まらないのだ。
子供らしさなのか、もしくは、計算なのか。
真実はいつも、あざとい微笑みに隠されてしまうのでわからない。
気づけばベッドへと沈んでいる身体。
押し倒されたのだと理解した頃には、彼の舌がこちらの首元を厭らしく舐めあげていた。
待って、と言いながら彼の両肩を掴んで力を込める。
「ん……。なに、この手は」
到底かなうはずのない男の力で両手をひとつにまとめあげられる。
頭上でしっかりと固定されてしまえば、抵抗などできるはずもない。
「……チョコも美味しかったけどさ」
にやりと、その歳に似合わない笑みを浮かべる彼に、嫌な予感がした。
「もっと美味しいもの、ちょうだいよ」
こうなってしまっては、手に負えない。
ふたたび首元に顔をうずめられ、弱々しく「嫌」と呟くが――鼻で笑われた。
「嘘つくなよ。本当は嫌じゃないくせに。こういう時は何て言うか教えたでしょ? ……もっとして、だよ」
耳元で甘く囁かれた言葉は、あまりにも熱を帯びていて。
絶え間なく注がれはじめた甘い感覚に、これ以上嘘をつくことは不可能だと悟るのだった。
――今日も西園寺家には騒がしい声が響き渡っていた。
「だーかーらー! 藤くんは邪魔だから出ていってよ!」
「なっ、邪魔とはなんだ邪魔とは!」
「玄の言う通りだよ。それに藤くん、いつ家政婦ちゃんに手だすかわからないし」
「ふざけんな。てめえだけには言われたくねえよ」
実りのない喧嘩を繰り広げる西園寺三兄弟――その傍らに置かれたベッドに寝ているのは、この西園寺家で働く家政婦の少女だった。
顔を赤く染め、息苦しそうにしながら眠る彼女の額には冷却シートが貼られている。そう、彼女は高熱を出し寝込んでいる真っ最中なのだ。れっきとした病人である。
それにも関わらず、彼女が風邪を引いていると知った途端、三兄弟はお構いなしに『誰が彼女の看病をするか』で協議しはじめ――結果いつもの如く、陳腐な罵り合いを開始し、今に至るというわけだ。
「つーか俺だけじゃねえだろ! お前らこそ、ここにいたって何の役にも立たねえだろうが!」
「はあ? 藤くんよりは100倍役に立つわ!!」
「あはは。それは同感!」
「んだとコラ、もういっぺん言ってみろ!」
高熱で朦朧とする意識の中、少女は思う。この人達は正真正銘の馬鹿なのかもしれないと。こちらの体調を心配するのなら、今すぐにこの部屋から立ち去って欲しい。やかましい連中が居るだけで気が滅入る。頼むから、しばらくそっとしておいて欲しい。
彼女の願いはそれだけだった。が、当たり前のことながら、その願いが彼らに通じることはない。
「へえ。熱を出した時は、お粥っていうのを食べさせるといいんだぁ」
喧騒の中、いつの間にか藍がスマートフォンをいじりながら、のんびりとした口調でそう言った。兄弟喧嘩の相手をしつつも、器用な次男はちゃっかりとネットで『看病の方法』を検索していたらしい。
その発言に、尚も言い合いを続けていた藤と玄がぴたりと動きを止める。
「お、おかゆ……? なんだそのゆるキャラみたいな名前の料理は」
「うわ。藤くん、おかゆも知らないの? 馬鹿じゃない?」
「というより藤くんがゆるキャラって単語を知ってたことが面白すぎるんだけど」
小馬鹿にしたような目線を向ける玄と、長男が予想外の知識を持っていたという事実がツボにはまり、小刻みに肩を震わせている藍。
弟たちから同時に馬鹿にされ、プライドが傷ついたのだろう。藤は鋭い睨みをきかせると、藍の持っていたスマートフォンをひったくる。
「かせ!!」
「あ、ちょっと返してよ藤くん! 俺が見つけたんだから!」
「うるせえ、黙ってろ! ……フン、なんだこれ。米を茹でるだけじゃねえか」
スマートフォンの画面に映し出された、粥の調理方法を見ながら、藤は鼻を鳴らした。
「いいか、家政婦。西園寺藤様が、今からこのおかゆとか言う、ふざけた名前の食いもんを作ってやる。この俺が、わざわざお前のためにだぞ? 感謝しろ」
寝込んでいる少女に向かって仁王立ちした藤は、自信たっぷりにそう言い放つ。
少女はうっすらと目をあけ、力なく首を横にふった。彼女にとっては全身全霊で力を込めたのだが、あいにくの高熱のせいか、思ったように身体が動かない。それは三兄弟からすれば、彼女が首を縦にふったように映っていた。
「はは、そうかそうか。そんなに嬉しいか!」
「あら。なぁんだ、家政婦ちゃんお粥食べたかったの?」
「先に言いなよね、そういうことは」
――全然違う。むしろ食べたくない。
絶対にやめてくださいと声を出したいのに、こういう時に限ってうまく声も出せない。満足気に笑う藤に、納得の表情を浮かべる藍と玄。少女は一抹の不安に駆られる。
「っていうか藤くん料理したことないじゃん。無理無理。かして、俺がやる」
「だっ、馬鹿、玄! かえせ!」
「やだよーだ!」
「っていうかそのスマホ俺のだからね」
藍のスマートフォンを奪い合う三人を眺めながら、少女の心は不安から恐怖に変わっていく。幼少期からこの西園寺家で育てられた三人は、当然のことながら料理器具を触ったことすらない。調味料の種類や、水と米の配分すら理解していない者が、突然お粥など作れるわけがないのだ。
このままだと人間の食べ物ではない何かが出来上がってしまう。そしてそれを自分が口にしなければいけないのだ。まだ死にたくない。少女はその思いだけを胸に、再度身体に力をこめた。どうにかして三人の奇行を制止しようと、彼らに向かって腕を伸ばす。
「ん? どうしたの、家政婦ちゃん。……あ! もしかして、俺らが騒がしくしてるから、寂しくなっちゃった? 可愛いなぁ、もう」
少女の意思表示に気づいた次男が近寄ってくるものの、全く別の意味として捉えた藍はへらへらと笑いながら彼女の指に自分の指を絡ませた。もしも今自由に動けたとしたら、藍の頭をぶん殴ってやりたいと思った。
「あっ、おい藍! てめえ、抜け駆けすんな!」
「そうだよ藍くん! そういう勝手な行動は禁止!」
「いいじゃん別に。早いもん勝ちでしょ、こんなの。ね、家政婦ちゃんもそう思うよね?」
藍からにこりと笑いかけられるものの、今の彼女にとってこれ程どうでもよい質問はなかった。
――頼むから慣れないことをするのはやめろ。そう言いたいのに、やっぱり声は出なかった。
「んじゃ、そろそろ作りに行こっかぁ」
「藤くん。最初に言っておくけどちゃんと俺の言う通りにしてよね」
「俺の台詞だ、バーカ。ガキはおとなしくお兄様の言うことを聞いてろ」
「だからガキって言うなって言ってるだろ!!」
藍の掛け声と共に、三兄弟は部屋からぞろぞろと立ち去っていく。
先ほどまで誰がお粥を作るかという言い合いをしていたはずなのに、三人で仲良く料理をする方向へ変わってしまったのは何故だ。こういう時、謎の結託力を見せる三兄弟は手がつけられない。
本来であれば平和主義の少女なのだが、今日ばかりは彼らの仲の良さを呪いたいと、心の底から感じていた。
「待っててね家政婦ちゃん。美味しいお粥作ってくるからさー!」
「フン。この西園寺藤様がお前のために作ってやるんだからな」
「ま、それまでちゃんとおとなしく寝てなよー?」
部屋の扉が閉まる直前、少女が目にしたのは、謎のやる気に満ちた三人の笑顔。少女にとっては悪魔の微笑みだった。
それから数十分後にキッチンから爆発音が聞こえてくることも知らず――不安な思いを胸に抱えたまま少女は目を閉じるのであった。
――『西園寺藤主催 カラオケ大会』。
タイトルを耳にしただけで、一目散に逃げ出したくなるようなおぞましいイベントだ。しかし、このイベントの餌食になった者がいる。それは――藤の『可愛い可愛い』弟二人であった。
「ねえ、藤くーん。料理とかって、どうやって頼めばいいのー?」
「壁に備え付けてある電話機があるだろ」
「えっ、これ!? この昭和の受話器みたいなやつ!?」
およそ5畳程のカラオケルームの中、壁に備え付けられた受付へと繋がる電話機を手に取った藍は、訝しげに藤の方へ振り返る。
藤は視線のみで返事すると、楽曲検索から曲予約まで行うことが可能なタッチパネル操作の機械を手に取った。
「つーかなんで藤くん、そんな慣れてんの」
『コの字型』のソファの真ん中に座った玄は、慣れた手つきで操作をはじめる長男を見て、眉を寄せる。
「前に一度、家政婦と来たことがあるからな」
「は!? 何抜け駆けしてんの!」
「あいつから誘ってきたんだ。フン、うらやましいか? 玄」
鼻を鳴らし『どうだ』といわんばかりの表情を浮かべられ、玄は歯を食いしばりながら藤を睨みつける。
「あ、もしもーし! すいませーん、注文お願いしたいんですけどー。えーと、とりあえず1ページ目から5ページ目までの料理とドリンク、全部お願いしまーす! ……え、無理? んん? どうして?」
メニューを片手に持った藍が悪びれもなく多量のオーダーをする。しかし、不審に思った店側からあっさりと拒否をされたようだ。
攻防の末、諦めて数種類の料理とドリンクを注文した藍は、口を尖らせながら二人の元へと戻ってくる。
「ねえ。この店、客が注文してるっていうのに『食べ切れる量にしてください』とか言ってきたよ? お金払うのはこっちなのにねえ」
「俺も家政婦と来た際に、同じことをしてあいつにぶん殴られた」
「ぷっ、藤くんマヌケだなー。馬鹿じゃないの?」
「あの女、後頭部思いっきり殴りやがったんだ……! フン……まあ、あいつがわけわかんねえ曲歌ってるの見てんのは面白かったけどな」
以前に彼女とカラオケに来た際の記憶を思い返し、藤は口元を緩ませる。日頃の鬼軍曹のような顔つきとは打って変わった、優しさを携えた微笑み。藤と彼女しか知らない時間が確かにあったのだと見せつけられた弟たちは、悔しさから、密かに嫉妬の炎を燃やす。
「……もういいから、早く歌おうよ。そもそも、今日俺たちをここに連れてきたの藤くんなんだからね。ちゃんと仕切ってよ」
「そうだよ、藤くん。 『西園寺家歌王の座を決める』とか、突然気持ち悪いこと言い出しの自分でしょ?」
嫌がる弟たちを無理やり引っ張り出して車に乗せ、ここまで連れてきたのは紛れもなく藤だった。しかし当然のごとく悪びれた様子など一切見せない長男は、いつものように鼻を鳴らしながら意地悪く笑う。
「どうせお前ら暇だろ。友達もいねえだろうしな」
「ちょ、失礼だな。俺はいますー!」
「お、俺だって……いるし……!」
本人の中にも迷いがあったのだろうか。少し自信なさげに名乗り出た玄に、兄二人は一斉に視線を向け、そしてほぼ同時に噴き出した。
「玄、無理しなくていいんだよ〜? お前は、上辺の友達すらいないもんね」
「いるわ! ふざけんな!」
「へえ。初耳だな。てめえの担任から、クラスで孤立して困ってるって電話かかってきたのはいつだっけなぁ?」
「それほじくり返すなよ! っていうか藤くんだって一緒じゃん! 友達一人も居ないじゃん!」
「俺は居ないんじゃなくて、作らねえだけだ」
「なにその理屈……」
「まあ、藤くんが作ろうとしても多分失敗するとは思うけどねえ」
「あ? なんか言ったか、藍」
「へへ。なーんにも?」
人を一人くらいは殺害できそうな程の鋭い眼光を向けられても、藍は臆することなく首を傾げ、可愛らしい笑顔を向けた。
「さ、俺さっそく曲予約しちゃおー! 貸して!」
あっさりと藤の手から機械を奪い取った藍は、鼻歌を歌いながらタッチパネルを操作する。
「てんめ……っ、今俺が入れようとしてたんだ! 返せ!」
「やだ。藤くんの選曲とか絶対に気持ち悪いもん。先に俺が歌う」
「気持ち悪いとはなんだ気持ち悪いとは!」
「どうせダッサい曲しか歌わないもんね、藤くん」
「そうそう! なんだっけ……よく家で口ずさんでるやつ……」
「あれでしょ、『世界征服の闇』とかいう、あの変な歌」
「それ! あの歌ほんっとひどいよねえ!」
「おまえら……! あんなに素晴らしい曲はこの世にねえぞ!」
「いやどこが?」
「聴いてるだけで気分盛り下がるよねえ。……っと、はい、オッケー。入れた!」
予約し終わった藍が、マイクを片手にもつ。大きな液晶テレビの画面に、藍が予約した曲のタイトルが表示され、部屋の中にはギターの前奏が流れ始めるが――
「あ、俺このバンド嫌い」
玄があまり好きではないバンドの曲だったらしく、末っ子はあっさりと予約取り消しボタンを押す。それによって、部屋に流れていた音楽はプツンと途切れた。
「ああああああ!! ちょ!? 何してんの!!?」
「何してんのって、止めたの」
「なんで!!」
「言ったじゃん。このバンド好きじゃないって。おんなじような曲ばっかでつまんないんだよね」
「だからって止めることないだろ!」
「はいはい、なら俺の好きな曲をかけてね」
「なんでお前の顔色伺わなきゃならないんだよ!」
せっかくのショーを台無しにされ珍しく激怒した藍は、玄の胸元をひったくり掴み上げると、何度も弟の身体を前後に振る。
玄は一切気にすること無く、次は自分の番だといって、機械を操作しはじめた。
「お。この曲この曲」
「玄っ、お前なあ……!」
玄はようやくお気に入りを見つけたようで、曲を予約する。しかし――液晶画面に表示された曲のタイトルは『ピュアピュア★ストロベリーラブレッスン』。
画面上に出現した未知の単語に、兄二人は硬直する。
やがて室内に流れ始める、幼女系アニメのオープニングのような軽快で可愛らしい、いかにもなサウンド。玄はマイクを片手に持つと、リズムに乗りはじめるではないか。
「ピュアでピュアなハート、あなたに、あげちゃ――」
これまた可愛らしい声で歌い始めた玄を、藍と藤はしばらく唖然と見ていたが、ようやくハッと我を取り戻す。
「いやいやいやいやいやいや!!」
「ま、待て玄! ちょっと落ち着け!!」
「痛い痛い! なんだよ、今から始まったとこ――」
「ちょっと一回話し合おう! ね!?」
藍によって曲を止められた玄は「あああ!」と悲しそうな声をあげるものの、兄二人の説得の末、渋々ソファへと座りなおす。
藤と藍は、まるでグレた思春期の娘を説得する両親のような顔つきで、慎重に話しかける。
「ねえ、玄。どうしたの? なにがあったの? 今のなに?」
「なにって。曲でしょ」
藍がどうしてこんな形相で問い詰めてくる理由がわからないのか、ケロッとした様子の玄に、藤は頭を抱えた。
「くそ……! どっから突っ込んだらいいのかわかんねえぞこれ……!」
「……げ、玄? お前ああいうの好きだったけ?」
「ああいうのって?」
「だから、あの……キラキラお花畑サウンド〜みたいな……」
「『ピュアピュア★ストロベリーラブレッスン』のこと?」
本人の口からタイトルを聞いてしまった藤と藍は、耐えきれずに机に突っ伏してしまう。
二人の脳内には、これまでの玄との記憶が走馬灯の様に流れていた。
――玄は確かに生意気だった。年の割に冷めていて、何に対してもあまり意欲的ではなく、たまに大人ぶったことも言う。しかし本当は純粋で素直で――甘えることが得意で、どこか憎みきれない、笑顔の可愛い大事な弟だった。
大事に、玄が辛い思いをしないように気を遣ってやってきたつもりだ。
――それなのに、彼は道を外れてしまったのだ。
想像のつかない未知の領域、『ピュアピュア★ストロベリーラブレッスン』などという謎の世界に足を踏み入れ、リズムまで完璧にマスターするまでに心を奪われてしまったのだ。
「藤くん……俺たち……どこで間違えたんだろうね」
「藍……こればっかりはこの藤様もわからねえ……」
「なんだろうね、ストロベリーラブレッスンって……どんなレッスンするんだろう……」
「イチゴ育てるんじゃねえのか……」
「うん、多分違うと思う……」
兄二人が悲しみに暮れているのを静観していた玄は、「ねえ」とつまらなさそうに声を出した。やつれた藤と藍が顔をあげると、玄は頬杖をついたまま、じーっと二人を見つめている。
「なんか勘違いしてるみたいだけどさ。俺の趣味じゃないからね?」
「「え?」」
同時に声をあげた兄二人に、玄は大きく溜息をつく。
「これ、あいつが一番好きな曲なんだって。んで、これを上手に歌える人がカッコイイってこの間言って――」
玄が最後まで言い終わる前に、勢い良く立ち上がった藤と藍は、ほぼ同時に予約用の機械へと手をつけた。
「え、なに、なになになに」
突如、目の前で俊敏な動きをする二人に慌てる玄。
一方の兄二人は、互いに火花を散らしながら睨み合っている。
「ふーじーくーん? 手を離して?」
「お前こそ、離したらどうなんだ、藍?」
「まさか藤くん、今から『ピュアピュア★ストロベリーラブレッスン』入れるつもりじゃないよね? 駄目だよ、俺が先に覚えるんだから」
「あぁ? こういうのはな、年功序列って決まってんだよ! さっさとお兄様に譲れ!」
「いーやーだってばー!」
機械を奪い合う二人を見て、玄はようやく理解する。
藤と藍が、『ピュアピュア★ストロベリーラブレッスン』をマスターして、彼女の前で披露した挙句、ポイントを稼ごうとしていることを。
「かせ!! 俺が歌う!!」
「俺だってばー!!」
ようやく運ばれてきた料理とドリンクに目もくれず、慌てて仲裁に入る店員をフルシカトし、いい大人の男二人が子供のようにたったひとつの機械を奪い合う光景を見つめながら、玄は小さく溜息をついた。
「あーあ、ほんっと二人共馬鹿だなー……自分たちも俺と変わんないじゃん」
呟いた玄の声は、悲しくも兄二人の耳には届かない。
こうして、西園寺家のカラオケ大会は深夜への延長戦に突入したのであった――
いつもより一段と騒がしい教室内——耳に届くのは黄色い歓声ばかりだった。
玄は頬杖をついたまま、そっと後ろを振り返る。
教室の後ろの壁に、並んで立っているのは、見慣れない保護者達の姿。
その中でも一際異質な雰囲気を漂わせているのは、悲しくも、玄の実の兄二人だった。
真っ黒なスーツに身を包み、腕組みをしながらこちらを睨みつけるのは長男・藤。
その横、整ったスタイルによく似合う小洒落た服装を身に纏い、笑顔で手を振ってくるのは次男の藍。
藍が手を振った途端、あちらこちらから女子生徒の悲鳴があがった。苛立ちを隠しきれず、玄は兄二人から視線を外し、ふたたび黒板へ意識を集中させようと試みた。
しかしどうにも、後ろから謎のプレッシャーが突き刺さってくるような感覚がした。苛立ちがおさまらない。兄二人が、どうして今日この『授業参観』に登場したのか、未だにわからなかったからだ。玄は来てほしいなど一言も伝えていない。
それどころか、本日、参観が行われることすら藤と藍は知らなかったはずなのだ。しかし——彼らは、この一限目が開始する直前に突如、教室に姿を現した。
この学園の卒業生である藤と藍。それは、未だに在校生へ語り継がれるほどの、伝説的存在だった。
西園寺グループの御曹司である上、天才的な頭脳を讃えられ一目置かれていた藤。その美しい外見が学園中の注目の的だった藍。この学園に一度でも通ったことがある者ならば、二人の名を聞いたことのない者など居ない。
藤と藍がこの学園に足を踏み入れるのは、恐らく卒業して初めてのことだろう。
伝説ともいえる存在が、二人揃って現れたとなれば、クラスメイト達は歓声と悲鳴をあげ――教室内はハリウッドスターが来日した際の空港のように、パニック状態となった。
徹夜の受験勉強明けで、意識がぼんやりとしていた玄は、沸き起こる歓声と兄二人の姿を目にした途端、頭からバケツの水を浴びせられたかのような感覚がした。
(くそ……なんで来たんだよ、帰れよ……)
ただでさえ注目されることが嫌いな玄にとっては、最悪の状況であった。
授業そっちのけで、藤と藍のことが気になって仕方がない様子のクラスメイト達を横目に、溜息をつく。
先ほど振り返った際の藤の目線が、どうも引っかかっている。
まるでこちらを見透かすかのような、鋭いものだ――。
あの瞳は、自分に対する軽蔑の念が含まれているに違いない。
出来損ないの弟の姿が、さぞ滑稽なのだろう。
考えた末、恐らく藤は自分の偵察に来たに違いないという結論に至った。
藍まで居るのが理解出来なかったが、恐らく藤に便乗して遊び半分でついてきただけだろうと玄は考える。
(あと45分……あと45分、じっと耐えてるだけだ……)
参観は、一限目のみ実施される。
つまり一限目の数学が終われば、藤と藍は自然と帰宅するのだ。
この授業中に何も問題が起こらなければ、それでよい。
玄は必死に時間が過ぎるのを待ちながら耐えていた。
「それでは、次……西園寺くん。問二をお願いします」
――しまった、と気づいたときにはすでに遅かった。
先ほどまで藤と藍に浴びせられていたクラス中の視線が、自分に向けられている。玄が兄二人に気を取られている間に、授業はだいぶ先まで進んでいたらしい。
いつもならば授業中に意識をそらすことなど滅多に無いというのに。
教師が指定した『問二』の数学式を見ても、頭が働かなかった。
問題がわからないというよりも、自分が注目を浴びている、そして兄二人にこの光景を見られているというプレッシャーが玄を追い詰めていた。
「あ、えっと……」
――どうしよう。早く答えないと。
しかし己を急かせば急かすほど、答えが浮かんでこなかった。
「西園寺くん? どうしました?」
「……えっと……その」
教師が、玄の異変に首を傾げる。クラスメイトも黙り込んでしまった玄の様子が気になってきたのか、だんだんと「どうしたんだろうね」「答えわからないんじゃない?」など、好き勝手に陰口を叩き始める。
(やばい……焦って何も浮かんでこない……!)
羞恥心と焦りでどうにかなってしまう。
――しかし、その時だった。
「答えは”ー1”だ」
耳に届く聞き慣れた声に、玄はぎゅっと閉じていた目をゆっくりと開いた。
今のは確かに藤の声だった――。
「すみません、父兄の方の参加はちょっと……」
勢い良く背後へと振り返る。
教師が困り果てたような声をだすと、腕組みをしていた藤がフンと鼻を鳴らした。
隣の藍は、面白くて仕方ないのかにやにやと笑みを浮かべている。
「弟が答えられないみたいなので、私が代わりに回答します」
そういうと、藤は何も臆することなく黒板まで歩み寄ってきた。
慌てる教師からチョークを奪い取り、玄が答えるはずだった問二の回答の数式を、黒板に書き始める。
難解な数式を、いとも容易く数秒で書き上げた藤に対し、クラス中から歓声があがり――やがてそれは、大きな拍手へと変わっていった。
玄は、ポカンと口を開けたまま唖然とした表情で藤を見つめる。
すると、視線に気づいた藤が近寄ってきて、チョークの粉にまみれた手で、玄の髪をわしゃわしゃと乱した。
「このくらいできるようになれ。バーカ」
*
その日、学校を終えて自宅に帰宅した途端――玄は、笑顔の藍に出迎えられた。
近くに藤の姿は無かった。
「よー、玄。今日はおつかれさまー!」
「おい……なんで来たんだよ。つーか何で授業参観のこと知ってたんだよ!」
プライドを傷つけられた玄は、藍を睨みつける。
藍が悪くないことはわかりきっていたけれど、誰かにこの苛立ちをぶつけなければ気が済まなかったのだ。
「藤くんがね、玄の部屋で、授業参観のお知らせの紙を見つけたんだってさ」
「勝手に人の部屋入んなよ!」
「まあまあ。そう言わないでやってよ。あれも愛なんだから」
「愛?」
眉を寄せる玄に、藍がにこりと笑みを浮かべる。
「親父が行けないことはわかりきってるからさ。藤くんってば来週、大事な学会があるのにその準備時間削ってまで、『俺が見に行く。あいつの保護者は俺だ』って言って聞かなかったんだよ?」
「え…………」
「玄になるべく寂しい思いはさせたくないんだってさ」
わかってやりなよ、と肩に置かれた藍の手が、ひどくあたたかい気がした。
じんわりと伝わってくる熱が心地よい。
――少し、目頭が熱くなってきたのは気のせいだろうか。
「ま、さすがに問題解き始めたときは笑ったね!
そのくらい玄のことが心配だったんだよ。
あとで藤くんに、お礼言っておきなね」
少しでも藤のことを鬱陶しいと思ってしまった自分が、ひどく子供に感じた。
玄は藍の方を向けずに、小さく「さあね」と呟いた。
その声が震えていたことに、恐らく藍は気づいただろう。
「素直じゃないのは、藤くんも玄も一緒だね」
くすくすと笑う藍の声を背に、玄は足を踏み出し歩きだす。
目的地は、言わずもがな決まっている。
それは自分と同じ、素直じゃないらしい長男の元だった――。
「お前みたいな女を、少しでも認めていた俺が馬鹿だったな!」
朝食時、キッシュの焼き加減について藤が小言を言い始めたのがはじまりだ。
謝罪をして新しく作り直すといった彼女に、「もういい」と不機嫌そうに返事をした藤。そこから小さな言い合いがはじまり――やがてそれは、いつもの喧嘩に発展した。
藤の向かいの席に並んで座る藍と玄は、目の前で繰り広げられる見慣れたやり取りなんて気にもとめず、食事を続けていた。
――しかし、今日の二人の喧嘩はいつもより勢いがあった。
「だからもういいっつってんだろ? お前は大人しく俺の言うことを聞いてりゃいいんだよ! 家政婦ごときが思い上がんな!」
「ごときって……! そんな言い方ないんじゃないですか……」
「じゃあなんて言ったら満足なんだよ? あ?」
「なんて言ったら、とかそういう問題じゃなくて……!」
「チッ、面倒くせえ野郎だな……! お前みたいな女を、少しでも認めていた俺が馬鹿だったな!」
頑なに引けを取らない彼女に苛立ちはじめた藤は、こんなことを口にしてしまったのだ。
西園寺家の家政婦である少女の顔は、その一言によって硬直し――それはやがて怒りを含んだ表情へと変化する。
いつも藤と対等に喧嘩をする彼女も、この発言にはショックを受けたらしい。
失言をしてしまった藤が「あっ」と声を漏らすものの、時すでに遅し――瞳にうっすらと涙の膜をはると、何も言わずにリビングを出ていってしまったのだ。
「あーあ。行っちゃった。どうしてあんな言い方しかできないの〜?」
「なっ……! だって、あいつ……普段は言い返してくるだろうが!」
「女心わかってないねー藤くん。あれは言っちゃだめなやつだよ」
「るせえ! ガキは黙ってろ!」
「ガキって言うな!」
弟たちから次々とダメ出しをされ、追い詰められた藤は少しの沈黙の後、言葉を漏らす。
「別に……本気で認めてねえわけじゃ……」
その言葉に、藍と玄はくすくすと笑い声をあげる。
「へえ、認めてはいるんだ?」
「そ、そりゃまあな……じゃなかったらこんなに長期間雇ったりしねえ」
「どうしてそれを本人に言えないわけ?」
「言ったところで、あいつは喜ぶような女じゃねえだろ!」
「そう? あの子なら、素直に喜ぶと思うけど……」
「ま、純粋だからねあいつ」
「俺、好きだなー。ああいう純粋さ」
ふふ、と優しく微笑む藍の頭の中には、少女の姿が浮かんでいた。
「藍くんは最初からあいつの顔がタイプだったじゃん」
「もちろん顔は元から可愛いなって思ってたよ? けど、それ以上にあの子の性格が好みなの」
予想外の回答に、玄は目を見開く。
「へえ、意外。もっとおしとやかで、静かそうなのが好きなのかと思ってた」
きっとこの場に少女が居たとしたら、玄の頭を引っ叩いていたことだろう。
藍はけらけらと笑いながら、首を横に振る。
「静かな子よりかは、どっちかというと気の強い子が好きだよ。自分の意見をはっきり言える子とかね」
「フン。テメエがなんでも腹の中に隠すタイプだからだろ」
「それもあるけどー。静かな子ってなんかつまらないっていうか。気の強い子を落とす方が楽しくない?」
「うわ出た、そのひねくれた性格」
玄が汚物を見るかのような目線を送るものの、藍は一切気にしていないようだ。
「そういう玄はどうなのさ?」
「俺は……俺の言うことを、なんでも聞く奴がいい」
「えー? なんでも言う事聞いたら手応えがなくない?」
「馬鹿だな、ただ聞かせるんじゃないよ。嫌がりながらとか、恥ずかしがりながらとか……相手が本心とは裏腹に言うことを聞かされている過程を見るのが好きなの」
説明しながら厭らしい顔つきをする玄。とてもではないが、十八歳の少年がしていい表情ではなかった。一連の流れを静観していた藤が、眉間に皺を寄せる。
「お前……変態かよ」
「はあ? 藤くんだけには言われたくないね」
「あちゃー……玄にも藤くんの血がしっかり流れちゃってたかー」
「ちょっと! 藍くんも人のこと言えないからね?」
「失礼だなぁ。玄よりはまともでしょー!」
「いや、どっちも大して変わんねえだろ……」
珍しく、藤が苦笑いを浮かべながら弟二人の仲裁に入る。
弟二人は不服そうに言い合いを中止すると、藤に視線を逸らす。
「……? なんだ、二人してジッと見やがって」
「死ぬほど興味ないけど一応、聞いてあげるね。藤くんはどういうのがいいの?」
「おい最初の一言取り消せ」
「いーいーかーら。さっさと答えなよー」
大して興味もなさそうに藍が質問を投げ、同じく心の底からどうでもよさそうな玄が髪の毛をいじりながら、追い打ちをかける。粗雑な扱いを受けた長男は戸惑いつつも、数秒考えたのち――
「俺はやはり、この西園寺藤様を引っ叩く度胸のある女が……」
「「それ一人しか居ないじゃん」」
弟二人の言葉に、一瞬にして顔を赤らめた藤は、口をパクパクとさせる。
「そそ、そそそんなことねえだろ!」
「いや明らかにピンポイントでしょ。もう決まったようなものじゃん」
「藤くんずるーい。それなら俺だって家政婦ちゃんって答えたいなー?」
「べ、別に俺は家政婦だなんて一言も言って……!」
「へえ。無意識に言っちゃうほど、好きなんだー? 可愛いね、藤くん。それなのに本人の前ではあんな事言っちゃうんだもんね」
揚げ足を取りつづける二人の弟に、耐えきれなくなった藤は、先ほど焼き加減について散々文句を言ったキッシュにフォークを突き刺す。
そして、ガツガツと食べ始めるのであった。
「あ、食べてる」
「結局焼き加減なんてどうでもよかったんだよねー。あいつにちょっかいかけたかっただけなんでしょ、藤くん?」
「うるせえ!」
こちらを一切見ずに答える藤は、耳の先まで真っ赤だった。
藍と玄は、この姿を少女に見せつけてやりたいと思いながら、ふたたび笑い声をあげるのであった。
「ねえねえ、こんなのが届いたんだけど」
封筒を掲げた藍が、口元にゆるりと微笑みを携えながらリビングへと入ってくる。
ソファに寝そべりながらスマートフォンをいじる玄、その向かい側で小難しい専門書に目を通していた藤は、同時に藍の方へと視線を向けた。
「藍くん、なにそれ?」
「手紙だよ、てーがーみ」
「手紙? 誰からだ」
「それがね、なんと。藤くんのことがだーいすきなあの人からでーす」
真っ先にとある人物が脳内に思い浮かび上がった藤は、目元をぴくりと引き攣らせる。
封筒の差出人欄には、もう少しで解読不可能になりそうな程の崩れた汚い文字で、乱雑に『有栖川 一悦』と書かれていた。
――有栖川一悦。
それは藤にとって、この世で最も鼻持ちならない相手だった。
苦虫を噛み潰したような表情の藤に対し、一連の流れを見ていた玄は鼻を鳴らして笑う。
「藤くん、顔に出すぎ」
「ね。ほんっと露骨に嫌ってるよねえ」
「今すぐにそれを破り捨てろ!」
反論を許さないとでもいうかのごとく言い切った藤は、再び手元の本へ視線を落とす。
「えー!? いいじゃん面白いじゃん、中身見てみようよ!」
「っていうかこの時代になんで手紙。電話かメールでいいじゃん」
「藤くんってば連絡先聞かれても絶対に教えないから……」
「ぷっ、藤くんマジで嫌いすぎでしょ」
「携帯の番号くらい教えてあげればいいのにねえ」
「俺が何の為にあのゴリラと連絡取り合わなきゃいけねえんだよ」
「でもあっちは藤くんのこと大好きじゃん。むしろ愛してるじゃん」
「気色わりいこと言うな!!!」
勢い良く立ち上がり絶叫した藤に、弟二人はさらに面白がって笑い声をあげる。
ゼエゼエと息を切らしながら、「クソ!」と呟いた藤は、藍の持っていた手紙をひったくった。
荒々しい手つきで封筒を開け、中に入っていた一枚の折りたたまれた紙を開く。
「藤くん、なんだって?」
「…………『おせんにとうつのはおれだ』……?」
「「は?」」
藤の言葉に、藍と玄は同時に素っ頓狂な声をもらす。
藤も藤で一体なんのことか理解ができないようで、そのまま二人に向けて手紙を見せた。
「なんだこの意味不明な文章は」
「なにこれ。おせんにとうつ……?」
「おせん……おせ……あっ!」
書かれた文字を口に出し読み上げていた藍が何かに気づいたようで、突如ひらめいたかのように顔を明るくさせる。
「これ、漢字二箇所、間違えてるよ!」
「は?」
白い紙に書き殴られているのは『お煎に滕つのはオレだ』という支離滅裂な文章――
「これさ、『お前に勝つのはオレだ』って書きたかったんじゃない?」
あっさり答えを導きだす藍。それまで疑問符が浮かんでいた藤と玄は、ようやくこの不可解な文章の正解にたどり着く。
「あー……なるほどね。『前』を『煎』って書き間違えて、『勝』を『滕』にってことか」
「あの野郎……知能指数がガキの時から成長してねえ……!」
「ふふ、さっすが一悦さんだねえ」
「こういうの天然でやっちゃう人っているんだ」
「あれは人間じゃなくて喋るゴリラだ! クソ、あいつのせいでまた無駄な時間を過ごしちまったじゃねえか……! だから嫌なんだ、馬鹿に付き合うのは!!」
嫌悪感を丸出しにしながら、藤は紙をその場に放り捨ててしまう。
「まあまあ。俺は結構一悦さん好きだよ? わかりやすくっていいじゃん、あの頑固頭の次男と違って」
「ハッ、あのゴリラよりは話が通じると思うぜ」
「藍くんは昔からあの人のこと苦手だもんね〜」
「面倒くさいんだよ、あいつ……」
脳裏に浮かんだ仏頂面。藍はげっそりとした面持ちで溜息をつく。
それは藍にとって、人生で唯一といってもいい、馴れ合うことのできない人間だったからだ。
「やめよう、あいつの話すると気分が落ちちゃう」
「はは、藍くんがそんなこと言うなんて珍しい」
「それを言ったら玄だって、みおり――」
「吐きそうだからその名前出さないでくれる?」
玄は鋭い睨みをきかせながら、藍の話を早々に遮った。
どうやら藤も藍も玄も、三人各々、有栖川家に忌み嫌っている相手が存在するらしい。
「でもさあ、一悦さんってばなんでこんなの送りつけてきたんだろうねえ?」
「あのゴリラのことだ。構ってほしかっただけだろ」
「え〜? わざわざこんなことするって、なんか意味深じゃない?」
「まあね。あの人、用がある時は大体うちに直接やって来るし」
「やって来たところで門前払いされるってわかったんだろ。フン、ゴリラなりに学んだみてえだな」
「本当にそうかなあ? なんか面白い事にでもなればいいのに」
「面白いことってなんだよ!」
「えーっとねえ、藤くんに愛の告白をしにきたりとか?」
「問答無用で地中海に沈める」
「でも、あの人なら本気でやって来そう」
「だから気味悪いこと言うなっつってんだろ!!」
藤がここまで他人に感情をむき出しにすることは珍しい。
藍と玄はそんな長男の反応を面白がっては、さらに煽るようにからかい続けるのであった。
しかし――三人は、まだ何も気づいていない。
有栖川一悦から届いたこの一通の手紙が、西園寺家史上最大の危機の幕開けだということを――。
――桜の木が満開に花を咲かせるこの季節。
世間では、人々が桜を眺めながら酒や食を嗜むようになる。そう、日本の伝統文化『花見』である。
『三人でお花見をしよう』という、藍の突発的な提案によって、三兄弟は自宅付近に存在する川沿いの公園へ訪れていた。
昼間だといえど、多くの花見客で賑わうこのスポット。
大半の人々がコンクリートの上にビニールシートを敷き、楽しそうに酒や料理を口にしている。
その光景を目にした瞬間「帰る」と言った藤を、藍と玄が必死に止めたのはつい五分前のことだ。
――家政婦ちゃんに借りたんだ、と可愛らしい花柄のシートを敷き、その上に座り込む藍。それに続いて玄も、当たり前かのようにシートの上へと腰をおろした。ただ一人、藤だけが腕を組んだまま立ち続け、意地でも座ろうとしなかった。
「俺は死んでもそんな所に座らねえからな」
「どうして?」
「この西園寺藤様が、地べたに座るなんてありえねえだろ!」
地面へ座るという行為は、藤のプライドが許さないらしい。
しかし、弟たちからすれば長男のプライドなど知ったことではない。
「そういう面倒くさいのいいから。さっさと座りなよ」
「どわっ!?」
玄に腕を引っ張られた藤はバランスを崩して、シートの上へと転がっていった。
「玄、てめえ!」
「まあまあ〜!」
あまりにも滑稽な兄の姿に苦笑いを浮かべながら、藍は傍にあったワインのボトルを藤へと手渡す。
「はい、藤くんの飲みたがってたヴィンテージワイン」
「な! お前、これどこで手に……!」
「感謝してね? 藤くんの為だけに調達してあげたんだから。ま、とりあえず今日は面倒なこと考えずにパーッと飲もうよ」
普段であれば絶対に有り得ない藍の優しき心遣い。それが刺さったのか、先ほどの態度が嘘だったかのように、口数を少なくさせる藤。
藍からすれば、この入手困難なワインを用意さえすれば、藤がおとなしくなることは計算済であった。
「っていうか。俺、未成年なんだけど」
「おーそうだった。じゃあ玄はオレンジジュースのむ〜? それともアップルジュースにしまちゅか〜?」
「ガキ扱いすんな! お茶でいいっつの!」
藍の傍に置いてあるお茶のペットボトルをひったくる玄は、拗ねたように口を尖らせ藍を睨みつけた。
「なーに、玄。初めてのお花見で嬉しいんじゃないの?」
「別に嬉しくないし」
「普段だったら誘っても絶対こないのに、今日は大人しくついてきたね」
「……ま、まあ。たまにはね」
そう――通常であれば藍の誘いを絶対に拒否する玄が、なぜかこの花見には大人しくついてきた。それは藍自身も不思議に思っていた。
煮え切らない返事をする玄は、それ以上何かを悟られないよう、ペットボトルのお茶をごくごくと飲み干していく。
藤はというと、ずっと手に入れたいと願っていたヴィンテージワインを、ようやく口にできる日がきたことに、感動せざるをえないらしい。目を輝かせながらグラスにそれを注いでいた。到着早々帰るといっていた人間とは到底思えない。非常に扱いやすい、と藍は心で笑った。
「それじゃ準備はオーケー? 綺麗な桜と、西園寺家にー!かんぱーい!」
「「……乾杯」」
声と共に、ふたつのグラスとペットボトルが重なり合う。
――こうして、西園寺家の花見がスタートした。
* * *
「だぁーかぁーらぁー! 家政婦ちゃんが好きなのは俺って言ってんじゃぁーん!」
「バーカ! だぁーれがテメェみたいな腹黒野郎好きになるかぁ!」
「あーひどいー! バカっていうほうがバカなんだよーだ!」
「バカにバカっつって、なにがわひぃんだよ!」
「あ、藤くん噛んだ! あっははー! バカだぁ―!」
「うるへえ! もっぺん言ってみろ!」
「パーカ!」
「はははは! お前だって言えてねえじゃねえかぁー!」
周りの花見客が困惑した表情でこちらを見つめているのにも気づかず、悪酔いした長男と次男は、大声で論争を繰り広げていた。
酒を口にしていない玄だけが、淡々とフォークに刺さった料理を口に運びながら、冷めた目でその光景を静観している。
「あんたら酒弱いのになんでそんな飲むの?」
「あー!? うるへーんだよガキは黙ってろ―!」
「そうだそうだー!! 黙ってろー!」
標的を変え、末っ子に突っかかる長男。
普段は仲裁役にまわる次男も、今日ばかりは己を見失っているらしい。
「周りの迷惑になるから静かにしたら?」
「だーぁれが迷惑になってるってー!?」
「そうだそうだ誰だー!」
「あんたらだっつの……」
「この西園寺藤様が迷惑になるわけねえだろバーカ!」
「そうだそうだー!!」
語彙力が乏しい暴君へと変わり果てた藤。
そうだそうだしか言わなくなった無能の藍。
もはや日頃の二人の面影など一ミリもない。
「よし、そろそろかな」
こうなることを待ち望んでいたかのように、玄が呟く。
そしてスマートフォンを取り出すと、カメラアプリを起動させムービーモードにした。
「はい。二人共こっち向いて」
「んぁ〜? 何撮ってんだよ玄〜!」
「そうだそうだ〜! 何撮ってんだ〜!」
「シラフになったときに見返して、恥ずかしがればいいよ」
酔っぱらいの脳味噌では、この痴態を動画におさめられているなど認識できていないのだろう。二人は幼稚な文句を口にしながら、酒をぐびぐびと飲みほしていく。
「じゃあまずは藤くんから。そうだなー……じゃあ、あいつに何かメッセージは?」
「あいつ〜? あいつって誰だぁ〜?」
「うちの家政婦」
「家政婦、ああ、家政婦かぁー! はははは!」
「うん。何かメッセージ」
「メッセージっつってもなぁ……いつも厳しくしてるかもしれねえけどなぁ、俺は本当はあいつに優しくしてやりてえと思ってんだよ〜。わかってんのかよ〜」
「ぶっ!」
「笑ってんなよクソガキぃ!」
「いや、ごめん。ちょっと全身痒くなりそう」
本当は腹を抱えて笑い転げたい気持ちではあるが、この奇跡の瞬間を動画におさめなければならないという謎の使命感が勝ってか、玄は震える手でスマートフォンを構え続ける。
「はい、じゃあ次は藍くん」
「んぇ〜?」
藤が痴態を晒している間、暇だったのか。
酔いつぶれ船を漕ぎ今にも眠りにつきそうな藍は、半目のままこちらに顔を向ける。
昔からその美貌を讃えられてきた彼らしからぬ、あまりにも不細工な表情。玄はふたたび笑いがこみ上げてくるものの、必死に堪える。
「その顔ファンが見たら泣くよ、藍くん」
「ファンなんていらないも〜ん!」
「へえ、そうなの」
「俺のファンは家政婦ちゃんだけで十分なんだよ〜! っていうか、家政婦ちゃんはもう俺と結婚しろよ!! 金なら持ってる!! メリーミー!!」
頭の悪い言葉を絶叫しながら、勢い良く両手をあげる藍。
しかし相当酔いがまわっているのか、動いた拍子にバランスを崩し、そのまま地面へダイブしていく。その光景を見ていた藤が、藍を指さしながら大笑いしていたものの――笑った拍子にバランスを崩したのか、藤も藤で後ろへとひっくり返っていた。
出来上がったのは無論、馬鹿二人である。
「へへへ、なんか今日楽しいねえ藤く〜ん」
「だな〜」
胡座をかいたまま、顔だけシートへと突っ伏している藍。
あれだけ地べたに座るのが嫌だと言っていたのに、今まさに、シートを飛び出して地べたへと惜しげもなく寝転んでいる藤。
泥酔状態の二人は、今自分たちがどこにいて何をしでかしているのかもわかっていないであろう。
玄は一部始終を動画におさめ終わると、だらしない兄二人の姿を横目に、電話をかけはじめる。
――言わずもがな、相手は家政婦の少女だった。
「あ、もしもし? ねえ、すっごい面白いもの見せてあげるから、今から外出てこれる? いいからいいから。それが何かは来てからのお楽しみってことでさ」
少女が不思議そうに、わかりました、と返事するのを聞き終えた玄は通話を切る。
何も知らずに酔いつぶれた兄二人を見て、玄はほくそ笑んだ。
彼女がここへ来たら、一体どんなリアクションをするだろうか。
恐らく二人を叩き起こし、説教をするに違いない。そのタイミングで彼女に先ほどの動画を見せてやろう。泥酔した兄二人には、明日の朝一、自宅の大型ハイビジョンテレビに映して、晒しあげてやるのがいいのかもしれない。
自分たちの痴態を目にした途端、二人がどんな表情をするのかと考えるだけで笑いが抑えられなかった。
「花見っていいね。藤くん、藍くん」
「へへへ〜」
「だな〜」
――使い物にならない兄二人の寝顔をつまみにしながら、玄はペットボトルのお茶を一気に飲み干すのだった。