「椿の堕ちる日 第六幕 ― 絶 ― 元親編」
発売記念ショートストーリー
広い、広い、天幕の空間。
吊るされた白熱灯がぼんやりと闇を照らす。
散らばるのは宣伝ビラと色とりどりの紙吹雪。
数刻前まで、其処では踊り子が舞っていた。
猛獣が跳び、妖術が披露され、観客が歓声をあげていた。
けれど、すでに何処にも喧噪はない。
あるのは忘れ去られたような一枚のカードと、ひとりの男の影。
夢の幕が下りた後に、男の足音だけが響く。
「――――……」
こつり、こつり。
男が歩く。
よく手入れされた革靴が舞台の床を鳴らす。
男は外套をひるがえし、落ちたカードを手に取った。
絵柄は、ジョーカー。
切り札の道化。
「ふ――」
ちいさく笑う。
その瞬間。
「――ひとン家に来て何やってやがる?……元親さん」
鋭い声とともに青年が現れる。
青年は穏やかな容貌に似合わぬ剣呑な表情を浮かべて男――元親をにらみつけた。
其の顔を見て、元親が笑う。
ひどく、楽しげに。
「これはこれは。ずいぶんと怖い顔だな。私はただ挨拶とお礼に来ただけだよ。
――――夕蛾」
◆◆◆
「挨拶と礼だと?」
歩み寄りながら、夕蛾は注意深く元親を観察した。
(しばらく見ないと思ってたら突然現れて礼とは、どういうつもりだ)
そもそも夕蛾としては元親がこの場にいるだけで不愉快だ。
なにせ、ここは夕蛾の率いる奇術団、明星座の天幕。
いっぽう元親は夕蛾の商売敵、ハクライサーカスの団長だ。
しかもただの商売敵ではなく、ことあるごとに夕蛾の邪魔をしてきた因縁深き相手だった。
怪しい。そう思うのは必然だ。
しかし元親は夕蛾の視線など意に介さず、鷹揚にうなずく。
「そう、挨拶と礼だよ。ずいぶんと間が空いてしまったが、こう見えて私は本当に感謝しているのだよ」
なにせ、と元親はジョーカーを指先でもてあそび。
夕蛾に視線を流す。
「貴様が椿病の娘を拾ってくれたおかげで、私はアレを手に入れたのだからね――――」
「な――、どうして手前が椿病の娘のことを知ってる⁉」
元親の口から出てきた言葉に夕蛾は目を見張る。
椿病の娘。
それは、夕蛾たち明星座の人間しか知らないことだ。
たしかに夕蛾は去年の冬、椿病の少女を拾った。
暴漢に襲われそうになったところを彼女が身を挺して助けてくれたから。
そして少女が、不治の病・椿病に罹っていると知ったから。
椿病に罹ったものは春が来る前に死んでしまう。
まさに椿が散るように逝ってしまうのだ。
だから夕蛾は、行くあてもなく、残り三か月ほどの命を消費するしかない少女を明星座に連れてきた。せめて甘い夢でも見せて逝かせてやろうと思って。
(だが、あの娘は二、三日で姿を消した)
きっと明星座で世話になることが嫌だったのだろう。
そう解釈して、あえて追うこともしなかった。
さいごの三か月。
少女の好きなようにすればいいと思ったから。
けれど。
(――――まさか)
ふと、嫌な想像が夕蛾の頭をよぎる。
思うよりも先に、言葉が口から洩れた。
「あの娘がいなくなったのは、元親さん、あんたの仕業か――?」
「さよう」
「!」
夕蛾の問いに、元親はあっさりとうなずく。
それが余計に夕蛾を驚かせた。
夕蛾の反応を楽しむように元親は告白する。
「予想外に海外での仕事が早く終わって帰国したら、貴様が面白いものを拾ったと耳に入れてね。試しに攫ってみたのだよ」
「っ、誘拐、だったのか……!」
(てっきりあの娘が自分で出て行ったと思ってたのに、まさか元親さんに攫われていたとは……!)
苦々しい思いで夕蛾は唇を噛む。
当時、まったく気付くことができなかった自分が情けない。
(せめて気付けていれば元親さんのところから助け出すこともしてやれただろうに)
かわいそうなことをしてしまった。
夕蛾は少女を思い、目を伏せる。
「元親さん、あんたも罪なことをする」
「ほう、なぜだね」
意外そうな顔をした元親に、夕蛾は軽く舌打ちをした。
「どうせあんたのことだ、あの娘が死ぬ寸前まで弄んで苛めぬいたんだろ。やがて死ぬと分かっている病気の娘にひどい男だ」
なにせ元親は人を人とも思わない、外道の代表みたいな男なのだから。
たやすく想像がつく。
そう思い、夕蛾が言うと。
「……ふむ」
元親が、なぜか楽しそうに含み笑いをした。
(なんだ?)
見たことのない元親の様子に、夕蛾は眉をひそめる。
なにかがおかしい。
けれど、それがなにかは分からない。
(一体、どうして)
原因を探ろうとしたとき。
元親が軽やかに告げた。
「ひとつ、まちがいを訂正しよう」
「まちがいだと?」
「ああ」
元親が笑う。
「あの娘はまだ死んでいない」
(……え?)
告げられた言葉に夕蛾が息をのむ。
「生きているよ」と元親が更に言葉をつむいだ。
だけど。
(そんなはず、ない)
夕蛾は思う。
少女は三か月ほどで死に至る椿病に罹っていた。
そして夕蛾が彼女を拾ったのは半年前。
(あの娘は、とっくに死んでいるはずだ――……!)
三か月前に死んでいなければおかしい。
なのに、なぜ元親は少女が生きているなどというのか。
もしかして、と、脳裏に浮かんだ想像に、夕蛾は冷や汗をにじませた。
元親が喉で笑いながら続ける。
「まぁ私がアレを苛めているのは否定しないがね。今でもよくアレに抗議される」
玩具のくせに我儘な娘だ、と言いつつ、元親の表情は柔らかい。
それもまた、夕蛾にとっては見たことがないもので。
(どういうことだ? それに抗議なんて許しているのも元親さんらしくない)
夕蛾の知っている元親という男は、極悪非道そのものだった。
先述したように人を人とも思わないし、目的のためならば簡単に切り捨てる。
気まぐれに人をもてあそんで、いたぶって、見殺しにする。
支配し蹂躙するだけの男だ。
(だが……今、俺の目の前にいる男は、誰だ? 俺はこんな男、知らない)
こんな、柔らかいまなざしで椿病の少女のことを思い出す男を、夕蛾は知らない。
(どうして――……
まさか本当にあの娘は生きているのか?
……元親さんが、生かしたのか?)
わけが分からなくて、夕蛾は喉を上下させる。
元親が「それでは、たしかに礼は伝えたよ」と夕蛾に背を向けた。
そのまま、歩きだす。
「! 元親さんッ」
思わず、元親を呼び留めた。
「どうしたのだね?」と元親が振り返る。
その横顔に夕蛾は問いかける。
聞かずに、いられなくて。
「元親さん、あんた……あの娘の病を治したっていうのか?
“あいつら”をわざわざ敵にまわすなんてあんたらしくない。
あんたに何があった?
いや、あんたとあの娘とのあいだに、何があった⁉」
夕蛾の問いに、元親はうっすらと微笑んだ。
「それは、秘密だ」
「――!」
元親がささやく。
甘く、とろけそうな声で。
愛しく、狂おしく。
「私と彼女とのあいだに何があったのか。
私が彼女の命をなぜ救ったのか。
どうやって彼女の病を治したのか。
――――それらは誰にも教えない。私とあの娘だけの大事な秘密だ」
そう言って、元親は手にしたジョーカーに口づける。
ひどく気障なしぐさは、嫌味なほど元親に似合っていて。
「ちょ、おい、元親さん!」
「では、またいずれ会おう、夕蛾」
言いたいことだけ言って質問には答えず、元親は舞台を去っていく。
硬質な足音はすこしずつ小さくなっていって、やがて消える。
夢の跡に、夕蛾はひとり取り残され。
呆然と、呟いた。
「冗談だろ――……」と。
(元親さんがあの娘を救っただと? しかも理由は秘密?)
少女の命を助け、少女とのことを秘密にして。
少女と出会うきっかけになった夕蛾に感謝する。
そんなことをする動機、夕蛾にはひとつしか思い当たらない。
(それじゃまるで、恋だ)
いつも元親が他人に行うような支配ではなく、かといって子供じみた独占だけとも思えない。
支配でなく、独占でもなく。
(――――ただの、恋だ)
予想していなかった現実に、夕蛾は立ち尽くす。
(まさか元親さんが恋をするなんて――)
なぜ。どうして。
夕蛾の頭に疑問ばかりが浮かぶ。
かれらに何があったのか、夕蛾が知ることは永遠にない。
元親と少女にしか分からない。
かれら二人の、永遠の秘密。
~FIN~