その日、BLOSSOM社で働く『おとどけカレシ』たちは一堂に会していた。
「みんな、今日は予定を合わせてくれてありがとう」
集まった面々に向かって仁が口を開いた。眩しいばかりの微笑みは『王子』の呼び名にふさわしく、BLOSSOM社人気ナンバーワンの余裕さえ感じさせる。それでも嫌味に見えないのは、柔らかいオーラのせいかもしれなかった。
そんな仁に向かって、ふにゃりとした笑みを見せたのは葵。物静かでクールな顔立ちにも関わらず、甘えた時のギャップがすさまじいと評判だった。
「あんまりこういう集まりはないから新鮮だよ」
どことなく気品を感じさせながら発言したのは奈義だった。醸し出す一種独特の空気は上品で、少し触れがたい。
「どうしてもって言うから来てやったんだ。感謝しろよ?」
「なーんだ、女の子はいないんだ?」
ほとんど同時に海斗と遥の声が重なる。俺様とも呼べる高圧的な態度で女性を躾ける海斗と、女性の心をあざとくくすぐりに行く遥。ある意味正反対の二人は互いをちらりと見た。
わいわい好き勝手に盛り上がりそうになった所で、ぱちんと手を叩く音が響く。
「僕が仕切るのもなんだけど、せっかくなら乾杯の挨拶くらいしようよ」
この中で一番の年長者でもある壱は、落ち着いた大人の魅力を売りにしているだけあって、年下のメンバーたちを静かにさせるのも上手かった。五人を流し見た眼差しには、一瞬どきりとさせられる危険な色気がある。
「じゃあ、主催の俺が音頭を取らせてもらうよ。全員、好きな飲み物を持って」
仁の一言に、思い思いの缶を手にする。
「今日はみんなと交流を深めるためにこの会を企画したんだ。
遠慮せず、好きなように楽しんで、今まで以上に同じBLOSSOM社の一員として頑張ろう。乾杯!」
乾杯、と全員が持っていた缶を軽く合わせる。
他愛ない話から始まり、最近の仕事の話をし――。
――そして、一時間ほど経った頃。
「仁さーん!これ、一緒にリボン付けっぺよ!」
「てめ、酒入ったからってキャラ変わり過ぎだろ!」
「ナンバーワンは二つー!」
「だからやめろっつの!」
無口クールなはずの葵に、王子様のはずの仁がツッコミを入れる。
「ぎゃはは!あおちゃん方言めっちゃ笑える!ってか仁ちゃん口悪っ!」
「お前もキャラ崩壊しすぎだろ、真中!大人キャラどこ行った!」
「本日は閉店!」
落ち着いた大人はどこへやら、壱はあまり品のない声でげらげら笑う。
つられたようににやりと笑った葵が、ちょいちょいと壱の袖を掴んで、その手にピンクのリボンを握らせた。
「いっちーさん、仁さんにリボン付けんの手伝ってくんね?」
「うは、最高」
「おい!ふざけんな!」
「ほーら、おにーさんに任せなって」
「誰がリボンなんか付けるか!」
普段それぞれが演じている人格は、今、この場のどこにもいなかった。まるで多重人格かと思われるほどの変化は、残念ながらこの三人以外にも表れていた。
「遥!さっきからゲームばっかしてんじゃねぇ!助けろ!」
「ちょっ、仁さん、引っ張んないでください~」
勢いよくフードを引っ張られ、遥がひっくり返りそうになる。おどおど怯えたその目には涙すら浮かんでいた。
引っ張られた弾みに飛んだゲーム機は、海斗が上手くキャッチする。
「仁ちゃんの暴走族モードこわーい!おにーさんびびっちゃうよ~」
「びびってんならリボンどけろ!どっか行け!」
「こうなったらはるっちにも協力してもらうべ」
「えー……」
遥まで巻き込まれて被害が拡大する。
そんな中、わざとらしい溜息と共に散らかった空き缶やお菓子のゴミをせっせと片付ける姿があった。
「はー……いい年して何してんの、あんたたち。あのさ、騒ぐのはいいけど片付けてくれない?さっきから俺しか片付けしてないじゃん。……ああ、ほらもう、また散らかして……。ったく、汚いな」
「ご、ごめんね、奈義くん。俺も手伝うよ……」
「んじゃ、御国はそっち片付けて。中、まだ入ってるヤツあるから絶対こぼすなよ」
「う、うん……」
この二人もまた、普段のキャラクターを捨て去ってしまっている。海斗に至っては、さっきまで強気な態度を取っていたのが嘘のようにしおらしくなっていた。
「なぁなぁ!はるっちがやってるゲーム何なんけ?」
「普通の美少女ゲームです……。葵さんがやるようなのとは違いますよ……」
「美少女!巨乳か!?」
「黙れ真中」
「あたっ」
びしっと仁に叩かれ、壱は額を押さえる。それを見てこっそり笑ってしまったのが海斗の運の尽きだった。
「おやおや?もしかして海斗坊ちゃんもおっぱいに興味が?」
「おっ……!?そ、そういうのは大きな声で言う事じゃない……と思います……」
壱の一切包み隠そうとしない大胆な一言が、海斗の顔を真っ赤に染め上げる。純粋培養で育てられてきた海斗にとって、壱の言葉は刺激的すぎた。
「照れんな照れんな!男のロマンだからなー、仕方ねぇよなー」
「俺、そういうの分かんないですから……!」
「もしかして海ちゃんムッツリってヤツか?大人しそうな顔してエロいね~。何カップが好き?」
「だ、だから俺は……」
「真中さん、御国が困ってるから」
奈義がうんざりした顔で壱を止める。その間もてきぱきと空き缶をゴミ袋に入れてはまとめていた。
「陽向もゲームばっかしてないで手伝って。俺と御国だけじゃ終わんない」
「う……」
いかにも気が進まない、といった様子で遥がゲームを中断させる。
「彼女とデート中だったのに……」
「二次元って触れねぇじゃん?画面の中のパンツ見てもなぁ」
「いい加減にしろ、バカ。ったく、誰だよ、真中呼んだヤツ」
「瀬戸さんだね。文句言ってる暇があるなら瀬戸さんも片付けて」
「……ちっ、めんどくせぇ」
「何だよー。みんな片付けばっかすんなよー。俺に構えよー」
「しゃーない。いっちーさん、俺らも手伝うべ」
「やーだー」
唇を尖らせて言う様は、どう見ても一番の年長者ではない。既に仁と奈義は諦めの体勢に入っているのか、小学生を見るかのような目で壱を見ていた。
奈義の指示でてきぱきと片付けが進む。時々、葵が拾い上げた物でボケては壱が爆笑し、仁がきっちり黙らせた。中断していたゲームの電源をうっかり落としてしまった海斗が遥にジト目で睨まれ、あわあわ謝罪をするも、もう誰も反応しない。
片付けが終わる頃には――結局、壱は手伝わなかった――誰もが疲れた様相を呈していた。しかし、飲みかけのアルコールを壱が処理し始めたせいで、再び面倒な騒ぎが幕を開ける事になる。
こうして交流を深めるためのプチ飲み会は、互いの本性を暴露する妙な会として終わりを告げたのだった。
ぴぴ、とアラームが鳴る。
世間一般では休日にも関わらず、仁の携帯が時間を告げるのには意味があった。
「っあー……そろそろ行くか」
髪を掻き上げて、人様には見せられないような大きなあくびをする。その目は寝起きのせいか細められ、近付き難い印象を更に強めていた。
――仁は『おとどけカレシ』という一風変わった仕事に就いている。七日の間、派遣を希望した女性にとって理想の恋人を演じるという、他に類を見ない面白い仕事だった。そこで仁は優しい微笑みを売りとした王子様を演じている。
(……髪、整えて行かねぇとな)
ち、と舌打ちした所からは、とても王子様だ何だのと持て囃されている姿が想像出来ない。
とはいえ、仁の本来の姿はこちらだった。昔は暴走族の総長だったなどと知る人は仕事仲間くらいしかいない。演じる事に慣れきった今となっては、この本性との切り替えも自然に行えるようになっている。当然、仕事で応対する女性とも気をつけて接しているものの。
(あいつ相手だと、なんか調子狂っちまうんだよな……)
今、相手をしている彼女だけはどうも違っていた。七日だけの恋人である仁に対し、割り切った様子が見られない。今までの恋人たちと大きく異なったその態度に、仁は戸惑いを感じていた。
(……最近寂しそうにすんのは、やっぱあれか。もう少しで関係が終わるから――)
つきん、と仁の胸が痛む。そういうものだと誰よりも理解しているのは仁のはずなのに、彼女との別れを考えるといつもこうして胸が奇妙な痛みを訴えてきた。
なぜそんな風に苦しさを感じるのか。仁はその感情に蓋をし続ける。
仁はさっきアラームを響かせた携帯を手に取り、履歴の一番上にある番号をプッシュした。
その番号の相手が誰なのか、名前は登録しない。この番号も、あともう少しで今までと同じように消えてしまう事をよく知っていたから。
しばらく、コール音が鳴る。
(まだ寝てる……とかじゃねぇよな。こんな時間までだらだらしてんのは俺だけだろうし……、いや、でもあいつならありえねぇ話でも――)
そう思った所でコール音が終わる。彼女の気配を電話の向こうに感じただけで、仁の口元は緩んでいた。
「もしもし?俺だけど。今日予定入ってる?良かったらデートでもどうかと思って」
爽やかな声はまさしく王子の呼び名にふさわしい。
それでも最近、彼女の前でそんな自分を晒すのに抵抗を感じている。時々、気を抜くと本来の口調に戻ってしまうのは、本当の自分を知ってほしいという気持ちが影響しているのかもしれなかった。
彼女から了承が返ってくる。その声は少し弾んでいて、今、どんな顔をしているのか想像するのが容易だった。
(笑ってんだろうな、きっと。あいつの事だし、電話の向こうで頷いてたりして)
――ああ、かわいいな。そう思った。
「じゃあ、迎えに行くよ。三十分後に着くから、時間になったら待ってて」
伝えるだけ伝えて電話を切ると、仁は彼女の気配が途切れた携帯を見つめた。
(……早く会いてぇな)
それが恋人を演じる王子様の感情なのか、本来の仁の感情なのか、いまいち判断がつかない。
ただ、どんなに演技をしていても、会いたいと思うその気持ちだけは本物だった。
(今日もかわいいって言ってやりたい。……すげぇ嬉しそうにするから)
ますます気持ちが募って、ついに抑えられなくなる。
三十分後、と伝えたにも関わらず、仁はいそいそと車の用意をしに外へ出たのだった。
彼女の家まで迎えに行くと、まだ待ち合わせまで時間があるにも関わらずそこで待つ姿があった。
(はえーっての。……テンション上がっちまうだろ)
そんな気持ちは奥底に隠し、彼女を車に迎え入れる。
「お待たせ。早く会いたくて飛ばしてきちゃったよ」
それは事実だった。かつて暴走族として生かした運転テクニックを極限まで利用して、法に触れるぎりぎりまで急いでここまでやって来た。彼女に会うそのためだけに。
恥ずかしそうに微笑んだ彼女を抱き締めたい衝動に駆られる。恋人を演じている以上そうしても構わないのに、仁は自分の気持ちのまま行動に移す事を控えていた。
――そうすれば、最後の線を超えてしまいそうで。
仁は途中で買ってきたコーヒーを手に、口へ運ぼうとする。一瞬考えてから、それを彼女に差し出した。
「きっと早めに待っててくれると思ったから、ご褒美」
(……って言った方が喜ぶもんな)
仁の思った通り彼女が微かに目を瞬かせる。嬉しそうにほころんだその顔が、想像していたよりもずっと仁自身を喜ばせた。
(こいつが飲むかもって砂糖とミルク入れてきて良かった。甘いのじゃねぇと飲めないって言ってたしな。……あー、そういう事ならカフェラテか何かの方が良かったか。失敗したな)
そう考えてからふと気付く。
(これ、後で一口もらえば間接キス出来るんじゃ……。……って、何考えてんだ、俺。そんな事期待してるなんて、ガキみてぇ。……それが『王子様』のやる事かよ)
自分でもそう思うのに、コーヒーを飲む彼女の口元をつい見てしまった。
柔らかそうな唇はほんの僅かに濡れていて、誘うようにそっと開かれる。彼女の嚥下に合わせて、知らず、仁もこくりと喉を鳴らしていた。
不審がられてしまわないよう、ごく自然に目を逸らす。
そして、仁は何も意識していない振りをしながら車を走らせた。
どうしても前を見るしか出来ないものの、隙を見つけては彼女を盗み見る。その度に彼女も自分を見ている事に気付いて、何とも落ち着かない気持ちになってしまった。
(何だよ。あんまりこっちばっか見てんじゃねぇ。言いたい事があるなら言えばいいだろ。そうやって見られてると……変に意識するじゃねぇか)
湧き上がるその感情は『おとどけカレシ』としてのものであり、偽物の恋人としてのものだと必死に言い聞かせる。これが本当の自分の感情であっていいはずがない。彼女とのこんな時間も、もう残り僅かなのだから。
黙ったままの彼女の視線に耐えられず、仁の方から声をかける。
「……さっきから考え事?仕事で何かあった?相談なら乗るよ」
バックミラー越しにその表情を窺う。はっとしたその顔には、最近見るようになった寂しさが浮かんでいた。
(……なぁ、俺と別れんのを寂しいって思ってくれてんだろ?だったらまた俺を派遣しろよ。お前のためならスケジュール空けてやるから。だから……また、俺の恋人になれよ)
そう思うのに、言えない。
何となく仁には分かっていた。彼女は二度目の派遣を希望しない。仁と過ごした時間を思い出にして、恋をしてもいい相手と本当の恋をしに行く。
それが、辛かった。
――順調に進んでいた車が踏切に差し掛かる。抜けられるかと思いきや、ちょうど目の前で遮断機が下りてしまう。
(クソ、めんどくせぇ……)
「ここ、長いんだよね。下手したら五分くらい立ち往生かも」
(……待てよ。って事は、前ばっか見なくていいって事じゃ――)
「でも、五分もつまらない景色じゃなくてキミを見られるのは嬉しいね」
本心からそう告げて彼女に目を向ける。
(ああ、やっぱかわいいわ、こいつ)
はにかんだ顔が胸を震わせて、隠したい気持ちを押し上げる。
顔には出ていなくても視線には出てしまったかもしれない。
それが少しだけ恐ろしくて、誤魔化すように今度は作り物の笑みを浮かべた。
「コーヒー、まだ残ってる?一口もらっていい?」
(ガキみたいだって笑ってもいい。……こんな事でも喜べちまうんだよ、俺は)
快く差し出されたコーヒーを今度こそ口に含む。
深く考えずに買ってきた、チェーン店のコーヒーのはずだった。砂糖もミルクもそこまで大量に入れていないはずだった。それなのに喉が焼けるほど甘くて、とびきり特別な味がする。
「ありがと」
(お前もさ、ちょっとは意識しろよ)
そんな気持ちを込めて、わざとはっきり告げた。
「間接キスしちゃったね」
カップを受け取った彼女の顔が真っ赤に染まる。慌てたように俯くのを見て、また、胸が騒いだ。
(こいつ、何も考えてなかったな)
「もしかして意識してなかった?キミのそういう所、俺は――」
言いかけた所で目の前の遮断機が上がっていった。
(この先は言うなって?……神様ってのは意地悪だな)
「思ってたより早かったね。残念」
誤魔化して笑みを向ける。
何を言いかけたのか尋ねられる前に、彼女から前方へと視線を移して苦笑した。
「このまま目的地なんて決めずにドライブデートもいいかも。今日もいい一日になりそうだよ」
言って、ゆっくり瞬きをする。
(お前と一緒なら、いつだっていい一日になる)
こんな時間もあと僅か。
側にいられる嬉しさと、今しかいられない寂しさを彼女も感じていればいいと心から思う。
(……いつか言えたらいいのにな)
さっきは言えなかった言葉を、口にする代わりに頭に浮かべた。
(――お前の事、好きだよ)
口の中に残ったコーヒーが今更苦味を訴えてきた。
確かに感じたはずの甘さを求めて、七日だけの恋人に小さな思い出を求める――。
とある休日――。
何も予定が入っていないのをいい事に、私服にも着替えずソファに寝転んで雑誌を読む。こんな風にだらだら出来るのは休みの日だけだと油断していたその時だった。
充電器に差しっぱなしの携帯電話が明るい音を立てる。まさか仕事の連絡かと慌てて電話に出ると、予想していなかった声が耳をくすぐった。
「もしもし?俺だけど」
聞こえてきたのは、先日『おとどけカレシ』として派遣されてきた仁の声だった。
向こうから見えているわけもないのに、自分の今のだらしない格好が恥ずかしくなる。せめてと背筋を伸ばし、居住まいを正した。
「今日、予定入ってる?良かったらデートでもどうかと思って」
断る道理はなかった。普段、仕事で電話の応対をする時と同じように、うんうんと頷いて答える。
そうしているのを察したらしく、電話の向こうから優しい笑い声が響いた。
「じゃあ、迎えに行くよ。三十分後に着くから、時間になったら待ってて」
切れた携帯電話を見つめ、急いで立ち上がる。
着替えて、髪を整えて、化粧をして……と考えると、三十分はなかなか際どすぎる時間だった。
ばたばたと騒がしく準備をしながら、王子様然とした仁の笑顔を思い浮かべる。
――今日もかわいいと言われる自分でありたい。
恋愛に興味のなかった自分がそう思えるようになった事を喜びつつ、よれたジャージを脱ぎ捨てる。
だらだらするはずだった休日に急遽遊びの予定が入ったものの、仕事の疲れを忘れられるいい一日になりそうだった。
仁からの連絡は三十分後に待ち合わせという事だった。楽しみすぎて準備を急いだ結果、約束の十分前には家の前で仁の訪れを待てている。
あと十分。たった十分がこんなにも長い。
携帯でも見ながらゆっくり待とうと思っていたのに、外に出てから三分も経たないうちに一台の車が近付いてきた。
運転しているその人の姿を見て、思わず頬が緩む。
車はちょうど目の前に止まった。記憶に残っているのと寸分違わない眩しい笑顔が自分だけに向けられる。
「お待たせ。早く会いたくて飛ばしてきちゃったよ」
相変わらず人を喜ばせる言葉のチョイスが上手い。
もっとも、あっさりそれで喜んだり恥ずかしがる方が単純なのかもしれなかった。とはいえ、仁はそんな子供のような反応さえその笑みで包み込んでくれる。
導かれるまま車に乗り込むと、すっと何か差し出された。どうやら、途中で買ってきた飲み物らしい。
「きっと早めに待っててくれると思ったから、ご褒美」
そんな気遣いにどきりとさせられる。ありがたく受け取ったそれは温かいコーヒーだった。
お礼を言って口に含む。一度は飲んだ事のあるチェーン店の味が、今だけはやけに特別に感じられた。
「どこ行きたい?せっかく車なんだから、ちょっと遠出しようよ。首都高に乗れば移動も早いし。あそこなら――昔、よく通ったから得意だよ。慣れてないとちょっと戸惑う場所だけどね」
言いながら、仁は慣れた様子で運転する。ちびちびコーヒーで唇を濡らしながら、その横顔をこっそり盗み見た。
空いていた窓から入ってくる風が仁の髪をふんわり揺らす。ほのかに色気を漂わせた眼差しと、口元に少しだけ浮かんだ笑みが独特の空気を醸し出していた。
こうして横から見ると睫毛の長さがはっきり分かる。それだけでも羨ましいのに、モデルかと見紛うくらい滑らかな肌にも嫉妬を覚えた。
整った顔立ちの次に目に入ったのは、左耳を飾るピアスだった。
男でピアスと言えば浮ついた印象を与えかねないのに、仁の纏う空気と相まって不思議なほど落ち着いた印象を与える。自分で選んで購入したものなのか、それとも誰かのプレゼントなのか、そんな事をぼんやり考えた。
再び、コーヒーを口に運ぶ。さっきよりも冷めて飲みやすくなっていた。最初から砂糖とミルクが入っているのは、以前、そうじゃないと苦すぎて飲めないと言った事を覚えていてくれたからだろう。そんな小さすぎる気遣いにすら、仁の優しさを思わせて胸が温かくなる。
想像していた以上に『理想の恋人』でいてくれる仁は、これが彼にとって仕事でしかないのだという事を一切感じさせない。そのおかげで、ふとした瞬間に自分で思い出すのが寂しくてたまらなかった。
この関係はたった七日だけ。それが過ぎれば仁は別の女性の理想を叶えに行ってしまう。
二度目の派遣をお願い出来るほど、割り切れる自信もなかった。こうして七日の日々を消化していくだけでも気持ちが募ってしまうというのに。
「……さっきから考え事?仕事で何かあった?相談なら乗るよ」
見つめていた事に気付かれて声をかけられる。首を振って、胸に浮かんだその気持ちを封じ込めた。
順調に動いていた車は、やがて踏切に差し掛かる。ちょうど目の前で遮断機が下りて、必然的に止まる羽目になった。
「ここ、長いんだよね。下手したら五分くらい立ち往生かも。……でも、五分もつまらない景色じゃなくてキミを見られるのは嬉しいね」
ずっと前を見ていた仁がこちらに視線を移す。とろけるような眼差しは誰がどう見ても恋人に向けるそれだった。
また、胸の奥で余計な高鳴りが生まれる。うるさく騒ごうとする胸に手を当てて押さえようとした時、仁がふっと微笑んだ。
「コーヒー、まだ余ってる?一口もらっていい?」
微笑みに目を奪われながら、深く考えずにコーヒーを渡す。男性的な喉が嚥下に合わせて上下するのを見つめていると、再びカップを返された。
「ありがと。……間接キスしちゃったね」
言われてから気付いて、体温が一気に跳ね上がったのを感じた。もうどんな顔をしていいのか分からず、カップを手にひたすら俯く。
「もしかして意識してなかった?キミのそういう所、俺は――」
仁が何か言いかける。全て言い終える前に目の前の遮断機が上がっていった。
「思ってたより早かったね。残念」
結局、何を言おうとしていたのかは聞けずじまいに終わる。
改めて前を見つめながら、仁は頬を緩ませた。
「このまま目的地なんて決めずにドライブデートもいいかも。今日もいい一日になりそうだよ」
同じ事をほんの少し前に思った、とは言わなかった。
言わないからこそ――心が通じ合っているような気がして、特別な想いに満たされる。
こんな時間もあと僅か。
側にいられる嬉しさと、今しかいられない寂しさのどちらの気持ちも抱えながら、こうして今日も、七日だけの恋人と小さな思い出を重ねていく――。
今日も彼女との時間を終えて、ひとり、部屋で息を吐く。
昨日よりまた少しだけ彼女との距離が縮まった一日だった。いつもどこか控えめに笑う彼女が、珍しく声を上げて涙が出るまで笑ったからだろう。
理由は仁にあった。とはいえ、仁が笑わせようと思ってそうなったわけではない。
二人で食事をした際、当然仁は財布を取り出した。いつもするように取り出したカードは――よく、小学生が集めて対戦しているトレーディングカードだった。しかもそこに描かれているキャラクターはよりによって『王子様』のキャラクターで。仁が途中まで気付かず真面目な顔をしていた事もあり、彼女はそれを見て、らしくないほど楽しそうに笑ったのだった。
会計自体は無事に済ませられたものの、仁は今もその事を根に持っている。
(真中の野郎……。それとも葵か?)
そんないたずらを仕込むのはその二人くらいしか思いつかない。おそらく、先日会った際に「ユーモアが足りない」と言っていたのが関係しているのだろう。席を外した一瞬の隙を狙ってやらかしたのは容易に想像できた。
(次、会ったら覚えとけよ)
心の中で誓って拳を握る。その力を緩めたのは、初めて見た彼女の笑みだった。
(まぁ、あいつがあんだけ楽しそうにしてたから許してやってもいいけどな)
王子様として『おとどけカレシ』をしているから王子様のカードを持っているのか、とひとしきり笑った彼女に、どう反応していいのか分からなかったのは内緒にしておくとして。
こういうとき、素を出せてしまえれば楽なのにと思ったのは否めない。
仁が身じろぎすると、座っていたソファがぎしりと音を立てた。何気なく時計を見れば、そろそろ日付けが変わる。
(風呂入らねぇと……)
のろのろと重い身体を動かし、浴室へ向かう。途中、ソファの角に足をぶつけて舌打ちをした。
シャワーを浴び終えて外に出ると、既に日付けは変わった後だった。人前では晒せない格好のまま真っ直ぐ冷蔵庫へ行き、買っておいた缶ビールを取る。かしゅっと小気味いい音と共にプルタブを開けると、一息に半分ほど飲み干した。
「っはー……」
冷え切ったアルコールが喉を通り抜ける感覚に、思わず声が漏れる。缶を片手に髪をタオルで拭いながら、彼女の前では吸わないタバコに火を付けた。
肺まで空気を入れて、一度息を止める。ふぅ、と吐き出すと煙が宙をたゆたって消えて行った。
(明日はどこに連れてってやろうかな)
願わくは、また彼女の笑顔が見たい。
思い出してつい口元を緩ませたその時だった。
こんな時間だというのに携帯がうるさく騒ぎ始める。
「ったく、誰だよ」
舌打ちをひとつ。画面を見れば面倒な相手の名前があった。
「……もしもし」
『もっしもーし!仁ちゃんお元気ぃー?』
「元気じゃねーよ、クソ野郎」
時間とテンションが噛み合わない真中に吐き捨てる。他にも向こうから声が聞こえるあたり、一人でいるわけではないらしい。
「今、何時だと思ってんだ。何か用でもあんのか?」
『ないでーす!』
(うっぜぇ)
これが年上だとは何度考えても信じられなかった。
仁がげんなりしているとも知らず――あるいは意図的に無視して――壱はさらに続ける。
「今あおちゃんと飲んでんだけどさー!仁ちゃんは何してんの!?」
「あぁ?風呂上がりだよ」
「えっ!……って事は何!?仁ちゃん今裸!?わー!えっちー!」
「あ゛?」
「あおちゃーん!仁ちゃん裸だってー!」
「うっそ、ほんとけ!?」
電話の向こうからきゃっきゃはしゃぐ声が聞こえてくる。飲んでいると言っていた通り、どうやら二人のテンションは最高潮のようだった。
(俺まで巻き込むなっての)
「用がねぇなら切るからな。こっちは明日も仕事で――」
「さーっすがなんばーわーん!忙しいですねぇ!」
「うるせぇよ」
若干指に力を込めて電話を切る。一気に静寂が降りて、再び仁は息を吐いた。
いつの間にかタバコの灰が落ちそうになっている事に気付き、すぐに灰皿を探す。
(お前らに時間使うくらいなら、あいつの事考えてた方が万倍マシ)
連鎖的に子供じみたいたずらの事を思い出し、今、それについて追及すればよかったと少しだけ考える。
(……まぁ、また会った時に締め上げればいいか)
残っていたビールは既に温くなっている。微妙な気持ちで口に含もうとした時、再び携帯が鳴った。ぷつんと仁の中で音がして、画面を確認もせずに通話ボタンを押す。
「用事ねぇなら電話してくんな!こっちはまだ服も着てねぇんだよ!」
『……えっ』
小さく聞こえた声は彼女のものだった。
一拍置いてそれに気付いた仁の全身から、さぁっと血の気が引く。
(や……っべぇ……!)
慌てて『おとどけカレシ』としてふさわしい王子様モードに切り替える。繰り返す言い訳の数々を、彼女は不思議そうに、少しだけ楽しそうに聞き入れてくれた。ついでに明日のデートの約束を取り付けて、待ち合わせ場所や時間を手際よく決めていく。最後におやすみと一言伝えて、仁はようやく肩の力を抜いた。
気持ちを落ち着かせるように温いビールを流し込んで、天井を見上げる。今ので一気に残っていた体力を持っていかれ、気が付けばその格好のまま瞼を閉じてしまう。
(……あー。疲れた)
心地良いまどろみが仁を包んでいった。最後にひとつ息を吐き出して、眠りの底へと沈んでいく。
その瞳は朝日が差すまで閉ざされたままだった。
――ちなみに後日、壱と葵は仁によって元暴走族総長の恐ろしさを骨の髄まで叩き込まれる事になる。
――怒号が響いていた。
それを部屋の外から聞いていたのは奈義と海斗、そして一応遥だった。
「えっと……すごいね、仁さん」
「まぁ、もういつもの事でしょ」
おどおどする海斗とは対照的に、奈義は冷めた反応を見せる。そのすぐ目の前にいる遥は、耳にイヤホンを付け、夢中になって携帯ゲームをしていた。
部屋の中で説教されているのは葵と壱の二人。どうやら、今回は仁にしかけたいたずらがバレてしまったらしい。
断片的に聞こえた話を繋ぐと、どうやら『おとどけ』の途中に何かあったようだった。『王子様のカード』『財布の中』『笑われた』という言葉が仁の怒声の合間に聞こえる。
「てめぇらのせいで、かきたくもねぇ恥かいちまっただろうがよ!あぁ?」
誰がどう聞いても『王子様』と呼ばれている男の口調ではない。ときどき、テーブルを殴りつける音まで聞こえて、ますます海斗は震え上がった。
「ねぇ……止めなくて平気かな」
「自業自得。悪いのは東城と真中さん。……だいたい、いい加減学べって話。なんでこうなるって分かってるのに、瀬戸さんにいたずらなんてするかな……」
「……それはちょっと同感」
口を挟んだのはゲームに夢中だと思われていた遥だった。イヤホンをはずし、二人と同じように閉ざされた部屋に目を向ける。
「だから三次元は嫌なんだ……人間関係はめんどくさいし、怖いヤンキーだっているし……。まぁ仁さんは黙ってれば優しいからまだマシかもしれないけど、やっぱり怒ると怖いし……うううてめぇなんて言われたら僕ほんと無理……」
「瀬戸さんはヤンキーじゃなくて暴走族でしょ」
「それ、あんまり変わらないんじゃないかなぁ」
ぽつりと呟いた海斗の一言は黙殺される。
その直後にまた荒っぽい音が響いて、三人の肩がほとんど同時にびくっと跳ねた。
「おい、なんか言う事あんじゃねぇのか?」
「ごごごごごめんなさいもうしませんもうしません」
「葵!てめぇ俺から目ぇそらしてんじゃねぇぞ!」
「あわわ仁さん怖すぎるべ……」
「あぁ?」
「ひいいごめんなさいごめんなさい」
今にも消え入りそうな葵と壱の声が合間に聞こえる。
苦笑した奈義が肩をすくめ、途中までだった片付けを再開し始めた。
「なんだかんだ言って、反省するのは今だけだと思うけどね……」
――その一時間後。
こってり絞られた葵と壱は、仁に命じられて正座で反省していた。
足音荒く部屋を出て行った仁を見送り、葵と壱はこそこそ互いの様子を窺う。
「……うう。やっべぇな……仁さんまじおっかねぇ……」
「どこが王子様だよちくしょう……あんなの詐欺だろ……。王子があんな顔していいのかよ……」
葵に比べて、壱にはあまり反省が見られない。バレさえしなければこんな事にはならなかったという思いが顔にはっきり出ていた。
「ほんと、何だよ……。あの顔と威圧感やべーわ……。ちびるかと思った……」
「元暴走族総長おっかねぇよぉ……」
「まじこっわ、こっわ……」
正直な事を言えば、この二人が仁の説教を味わうのは初めてではない。むしろ、奈義たちが達観していたように何度も何度も繰り返されている、もはや恒例行事ですらあった。
手を変え品を変え、二人はいつも仁の逆鱗に触れている。
それでもやめないのは、単純に仁が構ってくれるのが楽しいという子供じみた理由で。
「なぁ……あおちゃん……」
「なんだべ、いっちーさん……」
「……次はどーする?」
「ほんっと懲りねぇ人だな、あんたも……」
あくまで外には聞こえないように、二人はほんの数分前の恐怖も忘れてこそこそ作戦会議を始める。
次はもっと笑えるネタを、そして仁が怒りを通り越して呆れるようなネタを。説教する時間さえ無駄だと諦めさせる事が二人の目標だった。成人男性が考えるとは思えないあまりにもくだらない作戦をいくつも挙げ、だんだん二人の顔に笑顔が戻っていく。
「なぁなぁ、ブーブークッションとかどうよ。仁ちゃんの座る椅子に仕込んどくの」
「それだったら俺たちしか聞かねぇべ。やっぱ王子様のうっかりポイントっつって用意すんだから、『おとどけ』中にハプニングが起きた方がいいっしょ」
「んじゃ……パンツに仕込むか……!」
「それ、どーやって仁さんに気付かれないようにやんだっての」
「こう、かんちょーの要領でやるとか?」
「できるできねぇはともかく、後ろに立っただけで怒られるんでねぇか……?」
「最近の仁ちゃんガード固いもんなぁ。ケツ触ろうとしたらめっちゃ睨んでくんの。まじこえー」
「なんで仁さんにセクハラしたがんのか、俺はそっちのがわかんねぇ」
ぶつぶつごそごそ、二人のくだらない作戦会議は続く。
やがて、すっかり油断しきった二人は仁からの命令も忘れ、足を伸ばして雑談に興じた。ああでもないこうでもないと楽しく仁への嫌がらせを考え――。
――あまりにも盛り上がりすぎたせいで、背後に立つ気配に気付けなかったのだった。
――それはまだ、仁が同業の『おとどけカレシ』にも本性を明かしていなかった頃のお話。
仁が呼び出されたのは、同じ『おとどけカレシ』の東城葵にだった。
どういう人物かは以前何となく聞いている。無口な甘えん坊キャラと聞いた時、果たして自分のように本当の性格を隠して作っているのか、それとも素でそれなのか気になったものだ。
今、目の前にいる葵は大人しかった。何か言いたげではあるものの、仁の様子を窺っているらしくなかなか口を開かない。
「え、と……あの……」
「別に緊張しなくて大丈夫だよ。ゆっくり話して」
(言いたい事あるならさっさと言えよな。用があるから呼び出したんだろうが)
若干の苛立ちを覚えつつ、表面上はにこやかに葵の言葉を待つ。
「……仁さん、は……」
「うん、何?」
「仁さん……は……」
(俺が何だよ!)
どうやら無口な甘えん坊というのは素の性格らしい。そう考えながら、辛抱強く葵を見つめる。
「その……どうやったら女性に好かれる事ができる……?」
「……は?」
思わず、本心が口に出ていた。慌ててわざとらしい咳払いをして誤魔化す。
「どうやったらも何も、葵だってこの仕事をしてるんだからそういうのは得意なはずだよ。わざわざ俺に聞いてくるような事じゃないと思うな」
「でも……」
「まぁ、言えるのは気を抜ける時を自分で作る事かな。家でも友だちの前でも、どこかで息抜きできるようにならないと大変だよ。俺なんか、いつでも『王子様』でいないといけないしね」
「息抜き……」
(こいつ、無口とか甘えん坊って言うよりトロいだけなんじゃねぇの)
ぼんやりした様子の葵を何とも言えない気持ちで見ていると、不意にその顔がぱぁっと輝いた。
「息抜き……同じおとどけカレシの前、とか……?」
「そうそう。俺の前でもいいし」
「……だけど引かれるかも」
「引いたりしないよ。むしろ、気を許してもらえるなんて光栄だな」
王子様モードでいるせいか、ついつい言う事がそれらしくなってしまう。
再び顔を輝かせた葵は――突然、半分閉じていた目をぱちりと開いた。
「やー。そんな事言ってもらえると思わなかったー!てかてか、今のすごくね?仁さんって男相手にもそんなかっけー事さらっと言えるんですね!いやー、ほんと憧れる!こういうのがマジリスペクトってやつなんけ!」
(お……おお……?)
仁の思考回路がついていかない。さっきまでとは違い、葵の喋る速度が三倍増しくらいになっている。どこかまったりしていた雰囲気もすっかり消えてしまっていた。
「葵って……もしかしてほんとはそういうキャラ?」
「あっ、驚きますよね!俺、すげー喋っちゃうんですよ!なんか話したい事いっぱいすぎて止まらねっつか、周りの事考えられなくなるっつか……。にしてもあれだべな、やっぱ仁さんと話そうって思ってよかったー!」
「あー……うん」
(すげぇ喋るし方言だし。よくこんなんで無口な甘えん坊キャラなんかやろうと……って俺も似たようなもんか。何が王子様だって感じだもんな)
「これからうまくやれるように頑張ります!仁さん目指して!!実はこの後、いっちーさんも呼んでるんですよ!あっ、いっちーさんってのは俺が勝手に付けた真中さんのあだ名なんですけどね。勝手に呼んだら怒られっかなー?でも壱って名前だったらいっちーさんって呼ぶのがかわいいと思って!あの人めちゃくちゃ落ち着いてて大人びてるのかっこいいですよねー。だから俺も無口キャラやるなら、ああいう落ち着きを教えてもらおうと思ったんです!」
(分かったから落ち着けよ)
さすがに苦笑するものの、仁はあまり葵の変貌っぷりに不快感を覚えなかった。むしろ、本来の自分の性格とは相容れるはずもない無口キャラの方が気に入らず、今は分かりやすい葵に若干の好感すら抱いている。
(いつか俺もこいつの前で晒す日が来んのかもな)
そう思いつつ、それは今日ではないと飲み込む。
「真中が来るなら俺は席を外すよ。ゆっくり話したいだろうし」
(それに、お前のそのキャラの変わりっぷりを受け止める時間をくれ。いくら俺でもびびるっての。何だよ、最初のあのうじうじぐちぐちしてたヤツ。最初っからこれでいいだろ)
そんな事を考えながら席を立とうとする。その服の裾を、葵ががっと掴んだ。
(おい、裾伸びるだろ……っ)
「いやいやいやいやいや!帰らないでくださいよ!むしろ仁さんがいないと話が始まりませんって!」
「いや……俺はまた今度……」
「仁さん!帰っちゃだめです!」
「ぐっ……」
きらきらした眼差しが何とも眩しい。葵はばんばんテーブルを叩きながら、自分の隣の席を示した。
「ってか、ここ座ってください!俺の隣!!」
「な、何で……」
「そりゃもちろん決まってるべ!主役はここって決まってっからですよ!」
(知らねーよ……)
はは、と曖昧に苦笑するしかできず、仁はここで自分も素で対応するべきか本気で悩んだ。何とかぐっと堪えて自分の気持ちを落ち着かせるように、こっそり深呼吸する。
ただ、それはあまり意味がなかった。
「俺といっちーさんにナンバーワンテクニックのご教授を!!何卒ーっ!!」
「わーった!分かったから!」
「っしゃあ!」
(クソ、調子狂うなコイツ……!)
結局、完全に冷静にはなれず、葵に流されてしまう。本当に王子様らしい性格をしていれば、こんな状況も優しく受け入れてうまくやり過ごせていただろうにと悔やまずにはいられなかった。
(とりあえず、王子様モードだけは死守しきってやる……!)
その砦さえ崩されたら、もう負けてしまうような気がしていた。
仁は葵の知らない所で固く誓い、そのマシンガントークをさばいていく。
この後、さらなる問題児の登場でその誓いがあっさり破られる事になるとは知るよしもなかった。
今日は二人で家で過ごす日だと決めていた。
仕事では『おとどけカレシ』として数多のデートスポットに出向き、女性を楽しませてきた葵は、こう見えてそれなりに――いや、かなりゲームをたしなむ。
本来は外に出かけてどうこうするよりも家で過ごす方がずっと好きで、今日も彼女には無理を言った形になった。
そう、葵は無理を言ったと思っていた。けれど。
(……まさか俺と同じでインドア派なんて思わんかった)
てっきり外に出たいと言うかと思いきや、彼女も家での時間を望んでいることが発覚した。どうも遠慮していたらしく、葵が提案したときにはほっとした表情を見せたものだった。
今、彼女は食事を終えてまったりした時間を過ごしている。
部屋を気にしている振りをして――葵はずっと、その様子を観察していた。
(さっきのチャーハン、んまかったな。普段からいろいろ料理してんだろうな。なんかシャキシャキしたもん入ってたけど、あれなんだったんだべ)
聞きたいけれど、やめておく。
彼女と過ごしてから、こうしてささやかな時間を過ごすにつれ、葵は気になったことがあっても口にしないようになっていた。
(あんま、踏み込んでもな)
この関係がたった一週間のものだというのはよくわかっている。そこまで悲観的に感じないのは、今を精一杯楽しもうという葵本来の性格も関係しているのかもしれない。
しばらくの沈黙を気にして、葵は会話の糸口を探そうと部屋を見回した。その隅にどっさり積み上げられているものを見て、つい目の色が変わる。
(はー!この子、ゲームやんのけ!こっからじゃパッケージ全然見えね……。んー、聞いてもいいけど、俺のキャラじゃ聞くのおかしいかもわがんね……。いやいや、でも気になったら聞いときたいよな、うん。……最近、質問しねぇようにしよってしてたし、こんぐらいは……)
「……ゲーム、好き?」
溢れそうになる言葉の数々をぐっと飲み込み、懸命にキャラを演じる。
「どういうの……やるの?」
(RPG?アクション?シューティング?あー、でも女の子ってパーティーゲームとか?なんかみんなでわいわいやるイメージ強いなー。……んん、意外とホラーとかやっちゃったり?ありそー!あれだな、ゾンビとかバンバン打ちまくりってか!俺、あれうまく照準当てらんねーんだよなー)
葵の頭の中が非常に騒がしくなっている中、ぽつぽつとそこに置いてあるゲームの種類を語られる。どうもカバー範囲が広いらしく、葵が思いついた種類のものは大体揃っていた。それも有名ゲームだけでなくマイナーゲームも置いてあるらしい。その中には葵がやりたいと思っていながらも、早々にプレミア価格が付いてしまった貴重なものまである。
ゲーマーにとっては垂涎の的でしかないゲームの数々を前に、葵は畏怖にも似た気持ちを抱いた。
(こ……この子、何者……!?)
そう思って突っ込みそうになる自分を必死に押さえ込む。気を抜けば普段の性格が出てしまう。それは仕事中の今において、避けなければならないことだった。
とはいえ、葵のその気持ちは若干彼女に伝わってしまったらしく、一緒にやるかと誘われてしまう。
二人用のものもある、と差し出されたそれは、葵が彼女とやりたいゲームナンバーワンに選んだものだった。
(めっちゃ趣味合うー!やべー!!)
思わず飛びつきそうになったものの、本当にぎりぎりの所で堪える。一緒にやりたい。でもそういうわけにはいかない。ひどい葛藤に苦しみながら、葵は頭を掻きむしりたい衝動に襲われた。
(耐えろ……!こーたらゲームなんか二人でやったら、ぜーったいキャラ崩壊するって!『あれ?甘えん坊のあおちゃんはどこ行ったんですか?』なんて言われてみ?クレーム入れられるわ、次の仕事なくなるわ、下手したら解雇よ、俺?そっだらことになったら困っぺ!んんあー!このまま話してたら、うっかり方言まで解禁しちまいそうじゃねーか!ゲームおしまい!家帰ってやる!誘惑に耐えろー!)
葵がそんなことを考えているとも知らず、彼女はきょとんとしていた。
こっそり深呼吸して、きりっと『甘えん坊の葵』に戻る。
「こういうの……難しいでしょ?次までに勉強しておくから……」
自分で言って、ぎくりとした。
彼女との次がないことは葵自身よくわかっている。それなのになぜ、次などという言葉が口をついて出てきたのか。この場だけの断り文句ではなく、本気で思っての言葉だったからこそ、葵は困惑した。
(……俺、この子と好きなこと好きなだけやりてぇな)
そんな自分の気持ちに気付いてしまい、柄にもなく悲しくなる。
もし、この場ですべてをさらけ出してしまえたら。仕事は失う代わりに、もっといいものを得られるような気がしてならない。
ただ、本当の葵を見たら彼女はどう感じるだろうか。
そう思い至って背筋に冷たいものが走る。おかげで頭が冷えて冷静になれた。
「やるときは絶対負けないよ」
それだけ言って、口をつぐむ。
練習なんてしなくても、葵はきっと彼女と互角にやりあえるだろう。ゲーマー以外には意味のわからない会話だっていくらでもやれる。彼女以上に語れる自信すらあった。
――それでも、それだけが葵には許されていない。
その後、映画を見ていたら彼女は眠ってしまった。一度は起きたものの、再び夢の世界に舞い戻ってしまう。
「……あんた、かわいい顔で寝んのな」
誰にも聞かれる心配がないと油断して、つい声に出してしまう。
さらりとしたその髪をつまんで指先で弄びながら、安らかに寝息を立てるその顔を見つめた。
「俺もあんたと同じでゲーム好きなんだ。あと、あんたが興味持ってたらどうしよって、今、知らねぇ映画必死に知ったかぶりして見てた。……そしたらあんた、呑気に寝てんだもんな。知らねぇなら最初にそう言ってくれりゃいいのに……もしかして、俺が楽しんでるように見えてたんけ?俺、この映画こないだ出たゲームと展開似てんなーって思ってやり過ごしてただけだって。……きっとあんたも知ってると思う。そこに積んでるゲームん中にあるだろ、絶対」
キャラを作っているときとは違うくすくす笑いを漏らして、葵はその髪をいじる。
「……な、他にどういうのが好きなんけ。俺はゲームとお喋りがめっちゃ好き。あんたの作る料理もんまかったから好き。……たぶん、あんたのことが好き」
葵がどれだけ言葉を紡いでも、閉ざされたその目は開かない。
彼女のこんな姿を見られるのも、あと少し。もっと知りたいと思うのも、もっと話したいと思うのも、その気持ちに苦しむのも――もう少しだけ耐えれば全部終わる。
「あんたに言いてぇことも聞きてぇこともあんのにな。……全部、俺の胸にしまっとくから」
もぞ、と彼女が身じろぎする。
それを見て、葵はふっと微笑んだ。
「……寝てんのにうるさくしてごめんな。俺、お喋りすんの好きなんだ」
さっきも伝えたそれを、もう一度彼女に語る。自分が話好きだということは絶対に言えない。キャラが崩れてしまえばきっと幻滅されてしまう。彼女に軽蔑される所は想像したくなかった。
だから、何も言わずに飲み込むことにする。彼女に聞きたいいくつもの質問を飲み込んできたように、その想いは胸の奥底へ沈み込んでいった。
「……おやすみ」
静かな声が穏やかな寝顔に落ちる。つられて眠ってしまいたいけれど、彼女から目が離せない。
いつかこの時間が終わってしまっても、彼女との出会いを忘れないように。
いつかお別れを言う日が来ても、今までと同じように笑って乗り越えられるように。
葵は髪に触れながら彼女を見つめる。見つめ返してくれればいいのに、と願いながら――。
今日は一日、先日『おとどけカレシ』として派遣されてきた葵とゆっくり家で過ごしていた。
特に予定を立てるでもなく、何をするわけでもなく、まったりのんびりした時間を贅沢に使う。不思議なことに、葵との会話は尽きなかった。
どこか甘えたようなくすくす笑いと、楽しそうな話し声。そして、一挙一動すべてを見逃さないようにと見つめてくる瞳。そんなすべてを意識しながら立ち上がり、キッチンへ向かおうとする。
「どこ行くの?」
夕食を作る旨を告げると、葵は少しだけ目を見張って時計に視線を向けた。
時間は午後の六時。確かに夕食にちょうどいい時間だった。
夕食という言葉を聞いて空腹に気付いたのか、葵は恥ずかしそうに笑いながら自分の腹部を押さえる。
「おなか、すいちゃったもんね」
甘えた口調にしては深みのある声に、胸の奥でとくりと音が響いた。
見つめてくるその視線を避けるようにして、今度こそキッチンへ向かう。
今日は何にしようか。
考えて、葵に聞けばいいのだろうかと思い至る。
振り返る直前、その思いつきを振り払った。どうせなら何が出てくるかわからない方が、きっと楽しい。葵もそういうサプライズは喜んでくれるような気がした。
しばらくして、二人きりのささやかな夕食を始める。
「……ふあ、いい匂い。すごくおいしそうだね」
なんの含みも感じられない、本心からの言葉が聞こえた。冷蔵庫にある物で作ったあり合わせにも関わらず、葵は驚き、喜んでくれる。これよりもっとすてきな料理も、もっとおいしい料理もご馳走してくれたことがあるのに、今、目の前にあるこのなんてことのないチャーハンをおいしそうに食べてくれる。それが本当に嬉しくて、つられるように頬が緩んだ。
「ん……おいしい。料理上手なんだね。恋人っていうより、奥さんに欲しいかも。……なんて」
口にスプーンを運びながら、葵はくすくす笑う。
そんな姿に、いつの間にか目を奪われていた。必然的に手も止まり、食事が疎かになってしまう。
ふと葵が顔を上げた。
見つめられていることに気付き――一気に、その頬が赤くなる。
うろたえながらもごもごと何か言ったようではあったけれど、顔を隠すように引き寄せられたクッションのせいでよく聞こえなかった。
結局、食事が終わってからも葵は視線を気にしてクッションを手放さなくなってしまう。こういう一面が、彼の甘えん坊な部分なのかもしれなかった。
しばらくして、また穏やかな時間がやってくる。
葵は部屋の隅に積み上げられているいくつかのゲームが気になったようだった。
「……ゲーム、好き?どういうの……やるの?」
仕事の忙しさにかまけて、ほとんどは手を付けられていない。それを説明しながら、普段やるゲームの種類をぽつぽつと告げる。
「いいね。あんまり女の子にゲームの話はされないから新鮮」
言いながら、葵は積まれたゲームに手を伸ばす。
「やっぱり、あれ……なんだっけ。かっこいい人と恋愛するようなゲームなんかもする?」
さっき説明した中にそういった類のゲームはなかった。普段からもあまりやらないため、聞かれても詳しいことは話せない。
黙り込んだのをどう感じたのか、葵はすっと目を細めた。
「もう、俺と恋愛してるからそういうのはいっか」
ほんの少し、その瞳が潤んでいる。濡れた瞳に熱っぽく見つめられると、他に何を見ていいのかわからなくなるほど、目を惹きつけられた。
だけど、それに気付いた葵はさっとクッションで顔を隠してしまう。隠れたままちらりと様子を窺ってくる所は、まるで子供のようだった。
葵はどうやらゲームに興味があるようで、別の話に移行した後もちらちらとソフトの方に目を向けている。そんなに気になるならと二人用の物を出そうとしたけれど、その手を葵本人に止められた。
「こういうの……難しいでしょ?次までに勉強しておくから……」
頷きかけて、どきりとする。
――葵と過ごせる期間は長くない。
彼はたった一週間だけの恋人で、それが過ぎれば思い出も何もかもなくなってしまう。
きっと葵は本心から次という言葉を提案してくれたのだろう。ただ、それだけの時間はもう、残されていない。
「やるときは絶対負けないよ」
その言葉には今度こそきちんと頷く。いつか本当に一緒に遊べる日が来れば、と心から思った。
その後はなんとなく付けた映画を一緒に見た。
よく名前を聞く人気作品ではあったものの、シリーズの三作目にあたるため、前作も前々作も見ていないせいでさっぱりストーリーについていけない。設定はもちろん、意味ありげに登場したキャラクターが一体誰なのかすらわからなかった。
葵はそうではないらしく、熱心に映画を見ている。その横顔にまた見とれている自分に気が付いた。
――かくん、と頭が揺れる。
はっと目を開けると、葵が微笑んでいた。
いつの間にか葵の足元に横たわりかけていたらしく、慌てて目を擦る。起き上がろうとしたその瞬間、葵の手がそっと髪に伸びてきた。
「大丈夫だよ、寝てても。……ごめんね、俺だけ映画を楽しんじゃって」
髪の毛先から何かを感じることなんてあるはずがないのに、触れられている場所がくすぐったい。それに、なぜか葵の指先の熱さまで感じられる。
「君が寝てる所を見たら、俺まで眠くなってきちゃった。……この部屋、眠くなるよね?」
葵がクッションに顔を埋めてはにかむ。
頷いたつもりだったけれど、それで葵の指の間から髪がこぼれてしまうのは嫌で反応できなかった。
「ここ、君の優しい匂いがする。安心するというか……幸せな気持ちになれる。だから眠くなるのかな……?」
ふあ、と葵があくびをしたのにつられてしまう。
顔を見合わせて、ほとんど同時に笑いあった。
「君と一緒にいられるだけで幸せになれるね」
うん。
ほんの数秒前に考えたことは忘れて頷いてしまう。案の定、はらりと指の隙間から毛先が落ちていった。
葵と繋がっている部分がなくなった、とぼんやり考える。
一緒にいられるだけで幸せになれても、その時間には限りがある。残りの時間もきっと、葵は自分を幸せにしてくれるだろうとわかっていた。そして、葵も幸せでいてくれるだろうと。
その後は何が待っているのか、今は考えずに眠ることにする――。
「おー、来た来た!いらっしゃーい!」
葵の明るい声に導かれて部屋の中に足を踏み入れたのは、遥と壱の二人だった。
今日、葵の家で一緒にゲームをやることになり、ノリのいい壱とゲーム好きな遥が誘われた形になる。
「で……ゲームって何やるんですか」
「お!はるっち、いい質問!こんな時間に男三人でやるゲームと言えば――」
「エロゲー!!」
「壱さんうるさいです……」
遥にたしなめられ、壱がぶーぶー文句を言う。
どうやら最近エロゲーという単語――あくまで物そのものではなく、言葉だけ――にはまってしまったらしく、ことあるごとにネタにしては遥に突っ込まれるというのがパターン化しつつあった。
そんな二人を見て葵はくくくと喉を鳴らして笑う。
いつもは客の誰にもこんな姿を見せられない。互いの本当の姿を知る仲間だからこその空気感が楽しくてたまらなかった。
「ちなみに、俺がやりてーのはこれ!」
「えー……めっちゃアクションじゃないですか……」
「だってよ、せっかく三人でパーティー組めるって思ったら……」
「なになにー?それ、俺にもできるー?」
「いっちーさん、飲み込み早いから大丈夫じゃないですかね」
「僕は無理なんですけど……」
「やってみないとわかんねーべ!」
「えー」
遥が唇を尖らせる。
葵がせっせとゲームの準備をしていると、うきうきしながら見ていた壱が急に立ち上がった。
「あおちゃーん、飲み物欲しい」
「あ、適当に冷蔵庫から持ってっていいですよ。氷も使うなら持ってっちゃってください」
「僕もなんか欲しいです」
「ふふーん、じゃあお二人さんはここでお留守番よろしくぅ!」
壱が席を外している間、葵には構わず遥は自分の好きなゲームを始める。どうやら途中までやっていたのをスリープモードにしていただけらしく、ぱっと電源がついた。
イヤホンのついていないゲーム機から、『よぉーし、頑張っちゃおうね!』とかわいらしい女の声が響く。
「はるっち、それ……」
「全エンド回収しなくちゃならないんですよ。そうしないとミミちゃんのボイスが開放されないんです」
「俺、そういうのはやったことねぇからなー。ボイスが開放されると何が起きんの?」
「満足します」
「……満足?」
「はい。満足です」
「……わっがんねぇ……」
遥が真面目くさって言うあたり、冗談というわけでもなさそうだった。世の中にはいろんなゲームがあって、プレイヤーもいろいろいるんだなと葵は学ぶ。
「そのー……ミミちゃんは何と戦うんけ?」
「え……戦わないですよ。むしろ僕が戦う側です。そう、製作者からの挑戦に応えるのが真のプレイヤー……」
「難易度高いゲーム……ってわけでもねーのか。俺、いっつも何か倒してっかんなー。そうそう、これからやろーっつってたやつはモンスター倒すの。めっちゃ燃えるから!」
「モンスターなんて怖いじゃないですか……」
「かわいいのもいるって!ほら!」
葵はゲームの画面を遥に見せる。画面に映ったモンスターとやらは、どう贔屓目に見てもかわいくない。真紅の龍、と画面の下にあるのは、おそらくこのモンスターの名前か呼び名かそういったものなのだろう。巨大な体躯に空を覆うような赤い翼。ぎらつく眼光でプレイヤーのキャラを睨みつける姿は、やはりかわいらしさの欠片もない。
「ちょっと僕には趣味がわからないですね……」
「えー、この角のとこめっちゃかわいいべ」
「いや……。やっぱ僕、このゲームできる気がしないです……」
刺激が強すぎたのか、遥はすすすと葵にゲームを返す。
「だいじょーぶだいじょーぶ!誰でも最初は初心者!」
「僕、こーゆーの専門外なんですって……」
「はるっちぃ……そう言わずによー。きっちりサポートすっから……」
癒しを求めたのか、遥は手元のゲーム機に再び視線を戻す。その画面には遥がミミちゃんと呼ぶ、ツインテールの女の子がかわいらしくピースしていた。
「せめて、美少女出てこないんです?」
「び、びしょー……じょ……」
「それでだいぶやる気変わるんだけど……」
「うぐぐ……。モンスター倒すのも美少女落とすのも変わらねーと思うけどなぁ」
「……変わらない?ミミちゃんがそんなトカゲを倒すのと同じ難易度だって言いたいんですか?」
遥の声が変わる。きらりと光ったその目は、先ほどの竜よりも鋭く葵を見つめていた。
しまった、と葵は口の中でもごもご言う。うっかり遥の逆鱗に触れてしまったらしい。
しかしこうなってはもう遅かった。
「そこまで言うなら教えますよ。美少女を落とすということの意味を……!」
「いやいや、そんな張り切らんでも――っ!?」
言いかけた葵は、いつの間にか忍び寄っていた壱を見てぎょっとする。その手には氷がたっぷり入ったビニール袋があった。
葵が指摘する前に、壱は人差し指を自分の口に当てていたずらっぽく笑う。なにをするつもりか、ご丁寧にスマホまで構えていた。
これは、と葵は察する。狙われているであろう遥はまったく壱に気付いていなかった。
遥がそのまま気付かないよう、さりげなく、さりげなく視線を移す。引きつる口元を隠したい気持ちは抑えて、ぎこちなく手元のゲーム機に目を向けた。
そろり、と壱が動く。
そして――。
「うっひゃあああああ!?」
たっぷりの氷が首筋に触れた瞬間、遥が今まで聞いたことのない悲鳴を発した。次いで聞こえたのは壱の割れんばかりの爆笑。
どうなるかを察していただけに葵は今一歩乗り切れなかった。それでも、壱の心から楽しげな笑い声につられてにやりとしてしまう。
「あ、あとで覚えといてくださいね……!?」
「はっはーん、仕返しできるもんならしてみなー!やーい、おしりぺんぺーん」
「まーたあんた、そうやって小学生みたいなこと……」
言いかけて葵ははっとする。ゆらりと遥の瞳に復讐の炎が宿ったのを見てしまった。
――いっちーさん、ご愁傷様。
心の中で呟いて、そっと合掌する。
いい加減、壱は学習するべきだった。
いたずらをすれば、必ずその倍以上の仕返しがくるということを――。
葵の家にて行われた、壱による子供じみたどっきり。
不意打ちで氷を当てられ、悲鳴をあげた遥による復讐が今、始まろうとしていた。
「あっはははは!いいどっきりになったろ!」
「やられたこっちはそれどころじゃないですよ!」
遥が弾かれたように立ち上がる。床に落ちた袋を拾い上げ、ベッドの上でごろごろしながら笑っていた壱に押し付けた。何の容赦もなく、一切の慈悲もなく、思い切りその頬にくっつける。
「あばばば冷たい冷たい冷たい!」
「いい気味です!」
「やめっ、やめーっ!はるちゃんすとーっぷ!」
「ストップしません!」
「俺のベッドぐしゃぐしゃじゃんかー」
被害を受けずにいた葵がにやにやしながら二人を見守る。その間も壱と遥の攻防は続いていた。身長が低めな遥が、うまく隙間を抜け出しては壱の無防備な肌に冷たい氷を押し付ける。おかげで近所迷惑になるのではと不安になるほど賑やかになった。
やがて遥の溜飲が下がったらしく、やっと壱は解放される。
ぜえぜえ息を切らせる壱を笑う葵に、壱は恨めしげな視線を向けた。
「あおちゃ……笑いすぎ……」
「いっちーさんって、やられるまでがテンプレだよなー」
「僕が仁さんじゃなくてよかったですね。明日の朝日が拝めなくなってましたよ」
「ああ見えて仁ちゃんは優しいから許してくれるんですぅー」
「……あのヤンキーっぷりを存分に出した説教より怖いもんなんてあるんけ……」
以前、葵も壱も仁にたっぷりこってりがっつり叱られた。それを思い出して身体をぶるっと震わせる。
まったく懲りていない壱は最後に大きく深呼吸して起き上がると、さっき構えていたスマホを操作し始めた。そして、一本の動画を再生する。
そこに映っていたのは、いろいろお察し顔の葵と、まだ何も知らない遥。シークバーが進むと、氷を押し付けられた遥の絶叫が――。
「これ、さっきのですか……」
「そうそう!仁ちゃんもそうだけど、奈義ちゃんと海ちゃんにも見せてあげよっかなーって!」
「そんなの送らないでくださいよ……」
「やだよーん」
「それ、見せても呆れられんのがオチじゃないですかね。どうせ見せんなら、次のゲーム会に来たがるようなもんにしてくださいよー。ほら、俺らで楽しくゲームしてるとことか?はるっちが美少女ゲーム以外のをやってるとこ……みたいな?」
「だったら壱さんがホラーゲームやってるとこ撮りましょうよ。こういうオーバーアクションな人にやらせると面白いじゃないですか」
それはなにげない提案だった。よくありそうといえばありそうな。子供の頃ならそういう遊びもできただろう。ただ、もう彼らは大人で、いちいち作り物のホラーに怖がるはずも――。
「こここここわいゲームなんてやらねーし」
――明らかに壱が表情を引きつらせる。それを葵も遥も見逃さなかった。
「あれ?もしかして、怖いの?」
「はるっち小悪魔モード来たぁ!」
「いやぁぁぁぁぁ!」
逃げようとした壱を、二人はほぼ同じタイミングでがしっと掴んだ。逃げようとしていた壱はそのままずりずり引っ張られ、強制的にテレビの前に座らされる。
よりによってこの家はゲーマーの葵の家だった。おかげでテレビは普通の家よりもずっと大きい。臨場感たっぷりのホラーを楽しめるのは明らかだった。
葵はごそごそゲームソフトを漁り、有名どころのホラーゲームを壱の目の前に並べる。アクション要素の強いものから、雰囲気をじっとり楽しむようなものまで、その種類は様々だった。
パッケージからして怖いそれを前に、壱は子供のようにぶんぶん首を振る。
「やだやだやだー!怖いのやーだー!」
「いっちーさん、今日はもう諦めましょ。ね?」
「あおちゃんめっちゃにやにやしてるぅぅぅ!」
「僕も楽しみにしてますからね、壱さん」
「はるちゃんそんな禍々しい顔で笑うのかよ!?小悪魔どころか大魔王じゃんかー!」
ぎゃああ、と情けない叫び声がゲームを開始する前から響き渡った。
やがてこの叫びとオーバーすぎる壱のリアクションは、葵と遥の手によってしっかり他のおとどけメンバーに共有されることになる――。
テーブルに広げられた無数のパンフレット。
それから、開きっぱなしのインターネット。ぼんやり光るディスプレイに照らされていたのは難しい顔をした仁だった。
時刻はもう夜の十一時を半分も越えている。
すでに風呂も夕食も済ませた仁は、かたかたとキーボードを打って様々な単語を検索にかけては、横のメモに調べた内容を記した。
このパンフレットもメモも、すべて明日のためにある。
女性が喜ぶデートコースは常に最新のものをチェック。もちろん、雰囲気のあるレストランや、評判のいい店もすべて調べ尽くす。
いつどこで情報が更新されるかわからないという理由から、仁は最後の確認をいつも『その七日間』が来る直前に調べていた。新しい情報を仕入れてはもともと用意していたデートコースに組み込んだり、ここにしようと決めていた場所と入れ替えたり、ぎりぎりまで最高のデートを追求し続ける。
だからこそ、仁はBLOSSOM社において人気ナンバーワンの位置を不動のものにしていたのだった。
どんな相手でも手は抜かない。客が喜ぶ最高の、そして最善のデートを。
また、仁は検索にあがったレストランをメモに残す。
――もし今回の『恋人』が豪華で派手なデートよりも、落ち着いた場所でのささやかなデートを好むようだったらここに行こう。
数多の『恋人』を相手にしてきても、仁はひとりとして同じデートをしなかった。そこまでの努力を、他の仲間たちは純粋に尊敬してくれたものだけれど。
「……これが本当の恋人相手だったら、俺はどんな気持ちで準備してたんだろうな」
ぽつ、と仁が呟いた。マウスに乗せていた手を止め、ぼんやり『夜景デートならここ!』と書かれたホームページを見つめる。
「期間限定の相手じゃねーから、もっと真剣に、楽しく準備すんのかな。それとも、あいつなら大丈夫だろって逆に油断しちまうのかな。……はは、なに考えてんだ」
――そんな日がくるはずないのに。
そう、心の中で続けて、すっかりぬるくなったビールを口に運ぶ。
これは仕事で、相手は期間限定の恋人。本物の恋人として扱う日は来ないし、仁も本物の恋人を作る気はない。きっとこのまま多くの女性に夢を見せて、そして――。
そのとき、場違いとも思えるほど明るい音が重くなりかけた空気を割いた。
仁はソファに投げ出してあった携帯電話を手に取り、すぐに耳に当てる。
「もしもし、こんな時間になんだよ」
「おー、仁さんまだ起きてたんけ!お疲れーっす!」
電話の相手は同じ『おとどけカレシ』の葵だった。メンバーの中では賑やか担当として場を盛り上げることが多いものの、仕事のときには無口な甘えん坊という性格を演じている。
あまりにも真逆すぎる、と考えて仁は苦笑した。
それは、自分も同じだった。
「起きてなかったかもしれねーのに、なんで電話してきたんだよ。時間考えろ、時間。もう日付変わるだろ?」
「いやー、明日から仕事って聞いたもんで!こりゃ、俺がいっちょ景気付けに電話でもと思ったんですよ!なんか仕事の前ってどきどきしません?俺だけ?ちょっとでも仁さんの緊張をほぐせたらなーと思いまして!」
「あのな、俺が今までどんだけこの仕事してきたと思ってんだ。今更、お前に励まされなくても心の準備は充分できてるっての」
「ははー、さすが仁さん!よっ、ナンバーワン!」
「お前、こんな時間なのにテンション高すぎ」
いつもはたしなめる側の仁も、今は葵につられて笑ってしまっていた。
なんだかんだ言いつつ、葵の言う通り仕事の前は少しだけ気分が変わる。思うのはいつも、今回の『恋人』はどんな相手だろうということで。
「こんなことなら、仁さん家で飲み会でもよかったなー」
「よくねぇ。仕事の前に遅くまで飲んでられるかよ」
そう言いながら、仁はビールを一缶空ける。すでに三本目になろうとしていた。
「ははは、いつも通り仁さんの王子様っぷり、楽しみにしてまーっす!」
「お前だって無口クール君頑張れよ。ってか、今もそのキャラでいいぞ」
「やだなー、仁さん!俺とおしゃべりできて楽しいくせにぃ」
「うるせーって思ってるからな、いつもいつも」
「またまたぁー!」
葵の底のないからっとした元気さに、仁は確かに勇気付けられた。
二人の笑い声が電話越しに重なって、さっきまでは静かで寂しかった部屋にこだまする。
「どんな相手かって話聞いてるんです?」
「いや、聞いてねーな。まぁ……こういうサービスが初めての客だったらいいとは思ってる」
「へぇ、そりゃなんで?」
「俺の相手って手馴れた客が多すぎるんだよ。そろそろ、俺のやること言うこと全部にいちいち照れるようなうぶで純情な女の相手をしてみてぇっつーか」
「なーるほど!なんか贅沢な悩みですねー?」
「そうか?」
作ったプランを『おとどけカレシなんだから当たり前だ』と受け入れて喜ぶ相手より、『こんなことをしてくれるなんて』と喜んでくれる相手の方がいい。それこそ、本物の恋人のように。
そう考えても仁は葵に言わなかった。どうせまた茶化されるのは目に見えている。
「ま、お前と違ってナンバーワンは忙しいんだ。そろそろ切るぞ」
「っす!明日から頑張ってくださーい!あ、終わったら飲みましょ!またみんなに声かけるんで!」
「はいはい、わかったわかった。……んじゃ、またな」
葵からの電話を切ると、また部屋に静寂が満ちた。
仁はビールの缶に手を伸ばし、持ち上げてからそれが空だったと思い出す。
しばらく放置していたからか、パソコンのディスプレイは暗くなっていた。すでに調べたい情報はメモにも頭にも残っている。ふつりとそのまま電源を落とし、ふぅ、と息を吐いた。
「……どんな女が相手だろうな」
呟いた声は静かな夜に溶けて消える。
かち、と時計の針が動いて日付の変更を告げた。
「よし、今日も頑張ってくか」
仁は立ち上がり、ベッドルームへと向かう。その足取りは仁自身意識していない軽さをしていた。
ドアを開け、閉める。がちゃりと軽快な音を残して、パンフレットが散らばったままの部屋にしんとひそかやな時間が訪れた。
――そして、今日からキミとの七日間が始まる。
――七日間だけの契約は、永遠の契約に変わった。
仁は期間限定の恋人と本物の関係になり――。
「今日もお疲れさん」
仕事から帰ってきた『恋人』に作った夕食を差し出す。今日のメニューは時短パスタ。冷蔵庫にあったものでささっと作り上げた仁オリジナルのパスタになる。
仕事の関係か、仁の方が早く帰宅することが多かった。だから必然的に家事のいくつかを仁が担当することになっている。もともとこういったことを苦としていなかったのと、本物の恋人になってからも毎日毎日新鮮な反応を見せてくれる相手のおかげで、多少忙しくても楽しい日々を送っていた。
「そんじゃ、いただきます」
二人で手を合わせ、遅めの夕食をとる。期間限定の恋人だった頃は豪華なレストランに連れて行ったりもしたものだった。あのときとは比べ物にならないくらい質素な食事だというのに、彼女は心からの笑顔を見せながらおいしいと言ってくれる。
仁はその顔を見るのが好きだった。それを口にする日もあれば、黙っておく日もある。大げさなほど赤くなってくれる反応が面白くて、基本的には告げることの方が多い。今日も、そうなった。
「相変わらずうまそうに食うよな。お前のそういうとこ、かわいいよ」
予想通りに彼女は顔を赤らめて、ぱっと仁から目をそらした。いっそあざとくすら見えるその仕草が仁の心をくすぐる。
(こいつ、ほんと……。……はぁ)
「お前さ、いつになったら俺に慣れるんだ?もうとっくに『恋人』……だろ?」
囁くように言うと、耳まで赤くなる。それを知っていてやっているのだから、仁もなかなか意地悪な性格をしているのかもしれなかった。
仁がそんな風に本来の自分を出せるようになったのは彼女のおかげだった。偽りの王子様から、ただの瀬戸仁へ。受け入れた彼女は今も昔も仁の前で笑ってくれている。
「今日、仕事どうだった?」
わかりやすく仁を意識しないように食事する彼女にいつもの質問をする。なんとなく聞いてしまうのは、彼女が少々頑張り屋をこじらせているからだ。
夢があるのも、今の仕事に一生懸命なのもいい。むしろそんな彼女を好もしく思うし、惹かれた理由もそれだ。ただ――ただ、あまり周りを見えなくなるのはいただけない。夢中になりすぎて部屋の掃除を怠るのも、食事をたまに抜くのも、仁には許せなかった。
頑張るのはいいけれど、自分のことに気を使って欲しい。そんな思いを込めて、忙しいかどうかの確認をする。忙しければ仁がその分日常生活をサポートし、そうでないなら余計な手を出しすぎずに見守る。二人の関係はそうして保たれていた。
彼女が今日あったことについて話し始める。最初は仕事での成功を。そして次に、厄介な上司へのちょっとした愚痴を。迷惑を被っているようなのにそこまで悪く言わないで留めるのは、彼女の性格の問題なのかもしれない。
(この調子ならしばらく大丈夫そうだな)
話を聞きながらほっと肩の力を抜く。そんな仁の表情は、彼女の次の一言で凍りついた。
――今度食事に行かないかと口説かれた。
彼女は少し困ったように、それでいて大したことではなさそうに告げる。
口説かれた。その一言が仁の頭を巡って、やや物騒な考えを生み出してしまう。
(……どこのどいつだ、俺の女に手ぇ出すのは)
目の前の彼女がぎくりとして、息を呑んだことに仁は気付かない。
今、仁はもう一つの顔を全面に出しすぎていた。正確に言えば、荒っぽい元暴走族総長の顔を。
「そいつ、なんて名前だ?普段何してる?いつもどこにいる?家はわかるか?二度と余計なこと言えねぇように締めて――」
あわあわと彼女が首を横に振る。そんな必要はないという明確な意思表示に他ならなかったけれど、仁はそれでも落ち着かなかった。
「見る目あるじゃねーかって言ってやりたいとこだけどな。本気でお前とどうにかなろうとしてるってんなら、会社まで出向いてやる。俺の女に手ぇ出すなってカチコミかけ――」
そこまで言って、仁はふと気付く。
そもそも、彼女の無防備さが問題なのかもしれない。自分という存在がいながらも、あまり恋人がいなかったときと言動を変えないため、知らない男が見ればフリーに見えかねない彼女自身に問題があるのだとしたら。
(……って、こんなの自分勝手な考え方だって知ってるけどな)
わたわたしながらも食事を済ませた彼女に、ゆっくりと迫る。
「お前も簡単に他の男を近寄らせてんじゃねぇよ。……俺の女だって自覚あんのか?」
ぎょっと逃げ出そうとした彼女の手首を掴んで引き寄せる。あっさり腕の中に閉じ込めて、その勢いのまま覆いかぶさった。どさり、と鈍い音がしたときにはもう、仁は彼女を見下ろしている。
必死になってあれこれと理由を付けながら抵抗する彼女に、触れるだけのキスを落とした。たったそれだけで今の今まで大騒ぎしていた唇が引き結ばれてしまう。
「まだシャワー浴びてませんって……。お前、俺に何されると思ったんだよ」
仁がゆっくり笑みを作る。自分がうっかり何を口走ったか気付いた彼女は、また、その顔を火照らせた。
「ま、お前が期待してんなら応えてやってもいいけどな」
ひそやかなキスは頬へ、そして唇へ。邪魔な襟を強引に引っ張れば、白い首筋が露わになる。仁はそこにもキスをして――軽く、肌を吸った。
びく、と彼女が反応する。その目が驚きに丸くなり、まるで誘うように潤んだ。
(ばーか、そんな顔されたらもう冗談じゃ済ませられねーだろ)
心の中で告げて、更に衣擦れの音を響かせる。合間に、二人の熱い吐息と小さな甘い声が混ざった。
仁はいつもより多めに彼女の肌へ痕を残していく。赤い花びらのような色がいくつも咲いて、ますます仁の熱を煽った。
「他の男に口説かれたら、俺の痕を見せてやれよ」
その囁きに、とうとう彼女も陥落する。仁の広い背中に腕を回し、自分からも子供っぽい触れるだけの口付けを贈った。それがまた仁の理性を奪うことになってしまい、今夜は昨日よりも遅い就寝時間を迎えることになる――。
騒がしいゲームの音がパソコン画面から聞こえてくる。
それをプレイしているのは葵――ではなく、奈義だった。
「あああ!奈義っち、今ヒーラーなんだから回復したげて!」
「はぁ?ヒーラーって何?回復ってどれ?」
「それ!そのコマンド!早くしねぇと死ぬ!死ぬー!」
わあわあ隣で葵に指示されながら、奈義は慣れないネットゲームをプレイする。普段やっていないだけあってそのプレイは覚束ない。いつも葵が使っているキャラクターはそれなりにレベルが上がっているため、そんな奈義でも簡単に死ぬことはなかった。
「あー!これじゃ俺、地雷プレイヤーっつって怒られるー!」
「地雷って何?さっきからわけ分かんないことばっか言うなよ」
「地雷っつーのはだなー」
奈義の拙いプレイングをそわそわ見つつ、葵は奈義によっておかしな動きをする自分のキャラクターを指で示す。
「今、まず俺はヒーラーのキャラでやってます。ここは分かるけ?」
「だから、ヒーラーって何?」
「んーあー、そっから……。んっと、ヒーラーってのは回復役な。チームがこうやっているべ?そん中で、仲間が弱ったら後ろからサポートして体力を回復してやんの」
「ふーん」
「んで、地雷ってのは今の奈義っちのプレイな。回復役なのに、敵に向かって突っ込んでっただろ?こういうことされっと、周りは困っちまうんだ。ほんとはこっちの鎧来た人が攻撃役だから、その人に任せるとこ」
「ゲームってこんなめんどくさいのかよ。陽向が言ってたのと全然違うじゃねーか」
「あー……はるっちのやってんのとちげーからなぁ……」
葵は基本的にアクションゲームやRPGゲームを好む。それに対して遥はテキストを読むことをメインとした美少女ゲームをメインにプレイしていた。
奈義はおそらく、ゲームというものを遥に聞いたのだろう。先にそちらを聞いてからでは、葵の勧めるゲームに困惑するもの仕方がない。
「まぁ、とりあえずここのダンジョンはクリアできたし……って蹴られちまったなー。仕方ねぇ」
「蹴られる?」
「んー、チームから追い出されることな。多分、ヒーラーなのに突っ込んでったから『こいついると進まねぇ!追い出しちまえ!』って思われたんだと思う」
「そんなドロドロしたゲームしてんのかよ……。もっと仲良くやりゃいいじゃん……」
「まぁ、足引っ張られると時間も取られるし大変だかんな。大丈夫大丈夫!奈義っち、センスあるし!」
「それ、喜んでいいのか分かんねーんだけど……」
再び、葵は奈義に指示を出して別のダンジョンを攻略するよう勧める。今度はさっきよりもクリア推奨レベルの低い初心者向けダンジョンだった。
「ここで慣れてから、また難しいとこ行くべ」
「最初っからここにすればいいじゃん」
「だってよー、奈義っちそこまでゲーム下手だと思わ……あー、なんでもねぇ」
「聞こえてるからな?」
「あはは、ついつい本音出ちまったなー。悪い悪い」
白けた目で葵を見つめるものの、奈義は言われた通りそのダンジョンに潜る。
葵が勧めた通り、弱い敵ばかりで奈義にとっても難しくない。そのおかげか、奈義も葵もゲームに熱中した。
「あ、奈義っち。そのキャラの攻撃なら食らわねーから、奈義っちがヘイト集めてやった方がいいな」
「えーっと……ヘイトを集める……ってのはあれか、敵の狙いを引き付けることで合ってる?さっき言ってたやつだよな?」
「そうそう!んで、そっちの剣士キャラの準備が整ったらデバフ撒いてやって。……あ!デバフはマイナスのサポート効果のことな!今回は……んー、敵の防御力を下げてやるといいかもしんねぇ」
「分かった。……ってか、葵ってほんと詳しいな……」
「そりゃー、もう何年もみっちりやってますから!」
「よく飽きないよな……。俺だったら絶対すぐ飽きる」
「でも、もう奈義っち三時間くらいやってね?」
「え、嘘」
はっとしたように奈義が時計を見上げる。確かに奈義が葵の家に遊びに来てから、もう三時間以上経過していた。下手をすればもうそろそろ終電の時間になる。
「ここクリアしたら帰る。東城も明日仕事だろ?」
「あ、忘れてた」
「忘れてたって……あのな……」
「ははは、そういうこともあるべ!奈義っちのおかげで思い出せて良かったー!」
葵はひたすら楽観的に笑う。そして再びゲーム画面に目を向け、ボスらしい敵を指さした。
「こいつ、属性通るからそれで攻めると良し!」
「……属性が通る、ね」
「あ!属性攻撃が通用します!」
「はいはい。……いちいち説明しなきゃなんないの、めんどくさくね?よく俺に付き合ってられるよな」
「俺、自分でゲームやんのも好きだけど、人がやってるとこ見んのも好きだからなー。あわよくば奈義っちもハマって買ってくんねーかなって思ってるし。だってさだってさ、そしたら仕事ない日は一緒にできるべ?BLOSSOM社ネトゲ部作ろ!」
「やだよ、そんなインドアこじらせた部活……」
「ゲーム部ならはるっちが付き合ってくれるよなぁ。あとはいっちーさんと……」
葵がうきうきしていると、画面の中で奈義がボスキャラを倒した。軽快な勝利のファンファーレが聞こえ、クリア報酬のアイテムが配布される。
ダンジョンを抜けたキャラクターが街に戻った所で、奈義は大きく伸びをした。無意識とはいえ、ここまで三時間もゲームをやりっぱなしだったのだから、身体の節々が強張ってしまうのも無理はない。
「まぁ、結構楽しかった。俺もほんとにやってあげてもいいかもな」
「ほんとけ!よっしゃー、いつでも待ってるからな!」
「あんまり期待すんなよ。……じゃ、帰るから」
「おー!また遊ぼうなー!次はネット世界で会いましょう!……なんちて!」
底抜けに明るい笑い声を漏らし、葵は奈義を見送った。
奈義が言っていた通り、明日は仕事。そろそろ寝た方がいいだろうと葵が思ったとき、ぽん、とゲーム画面に通知が入った。
それは、とあるプレイヤーがオフラインからオンラインになったという通知で、葵も何年か前からよく一緒にプレイしているプレイヤーだった。
「明日仕事……んー、もうちっとだけ」
本当はずっと、奈義がやっている間うずうずしていた。自分もやりたい、もっと難しい場所に行きたい。そんな思いを奈義に対して隠しきれていたかどうかは怪しい。
「はー……仕事の前日にゲームなんて、こんなの俺だけだべな……。どうせ仁さんなんかはきちっと準備するんだろうし……。でもなぁ、ゲーム楽しいしな……」
こんな時間にも関わらず入ってきたプレイヤーの名前は『はなぽん』と言った。男か女かもわからず、年齢もいくつなのかわからない。それでも、葵にとってそのプレイヤーは頼れる戦友だった。
「はなぽんさん来たなら、俺はヒーラーじゃなくていいもんな」
葵はいくつかキャラクターを所有している。その中で最もレベルが高く、長い時間やりこんで育てた『アルテア』というキャラにチェンジした。
そして、長年の戦友にチャットを送る。
「はなぽんさん、一緒にどっか行きませんか……っと」
すぐに了承の返事が来る。まるで葵からそう声をかけられるのを待っていたかのように。
葵は心が踊るのを感じながら装備や、ダンジョンで使用する技の構成を整えていく。
『はなぽん』がいるとき、葵はいつも攻撃側に回る。戦友はいつもヒーラーで、ここぞというときに葵のサポートをしてくれるプロだった。
「……あーあ。明日の仕事の相手も、こんな感じの人だったらなー。何も言わなくてもびしっとサポート!以心伝心、ぴったり息の合った完璧なプレイング……って、まぁ、無理か」
ははは、と笑った声はさっきよりも小さい。
それも仕方のないことだった。葵の仕事はゲームなんて一切関係ない、『おとどけカレシ』という理想の彼氏を派遣するサービスで、そもそも葵はこの快活でお喋り好きな性格を封印している。
どんなに相手のことを知りたいと思っても、どんなに自分のことを話したいと思っても、無口で甘えん坊な性格を演じている葵は聞き役に回るしかない。
(どっかにいねーかな。こーた騒がしい俺でも笑って受け入れてくれるような人。できれば、一緒にゲームやって遊べる人)
ゲーム画面の中にはいろんなキャラクターたちが並んでいる。それを操るプレイヤーもまた、画面の向こうにたくさん存在しているのは分かっていた。だからこそ、葵は願う。
いつか、このままの姿の自分を見せられるような、そんな人に出会ってみたい、と。
もしかしたらどこかにいるのかもしれない。案外、すぐ近くにいるのかもしれない。本当に出会えたとして、自分がそのときどうするのか……葵は考えていなかった。
他にも声をかけたプレイヤーたちが準備を終えて、これから挑戦するダンジョンの入口に集まった。
ダンジョンの扉が開く。その奥に足を踏み込んだとき、パソコンの画面の隅にポップアップが出た。
時刻は深夜の十二時。日付が変わったことを伝えるものだった。
「これやったら寝る!ぜってークリアするぞー!」
張り切った葵の声がゲームの賑やかな音に紛れる。
いつの間にか、仕事のことはすっかり頭から吹き飛んでしまっていた。
――そして、今日から君との七日間が始まる。
――七日間だけの契約は、永遠の契約に変わった。
葵は期間限定の恋人と本物の関係になり――。
「だー!まぁた負けた!」
賑やかな声が部屋中に響き渡る。もちろん、葵のものだった。
その隣には得意げにコントローラーを握り締める『恋人』の姿がある。
否、今の葵にとって彼女は恋人などというかわいらしい存在ではない。今までに出会ってきた誰よりも強いゲーマーだった。
「今のコンボどうやって繋げたのかぜんっぜんわかんなかった!俺、このゲーム長いことやってんだけどなー。あんたとやるまで負けなしよ?なのに、あんたと付き合ってから負けてばっか!勝てたの多分五回くらい!」
悔しそうに言う割に葵は笑顔だった。
――ずっと、こんな風に素の自分と好きなことを存分に楽しんでくれる相手が欲しかった。
その願いを彼女が叶えてくれたから。
「な、もっかい!もっかいリベンジさせて!今度は負けねー!」
葵の『もう一回』はこれで十回目になる。それを知っているから、彼女はくすくす楽しそうに笑った。
――ただやるだけなのもつまらない、といたずらっぽく言って。
「んー、まぁ確かにそうかもな。でもそれなら何するけ?罰ゲームとか?」
自分で言ったその発言に葵はぎょっとする。今までのことを考えれば恐ろしい罰ゲームは自分に来る可能性の方が高い。もちろん、それは彼女もよくわかっていた。
いいですよ、と言ったその顔には既に勝利の笑みが浮かんでいる。
(ま、負けらんねえ……!これ以上かっこ悪いとこ見せらんねえからな……!)
そもそも、二人でゲームを楽しむと言ってもこの状況は葵の予定していたものではなかった。
まず、ゲーマーなのはよく知っている。
とはいえ彼女にもできないことはあるだろう。
苦手そうなゲームをあえて選び、彼女と二人で対戦する。当然葵が勝つだろうから、彼女は葵に向かって「すごい」と尊敬の眼差しを向けるのだ。うまくいけば「強くてかっこいい」という言葉までもらえるかもしれない。
それが葵の完璧――とは名ばかりで穴だらけの――な計画のはずだった。
それなのに、その予定が大幅に狂っている。
むしろ葵の方があまりにも強すぎる彼女に対して惚れ直していた。
(俺より強い彼女……最高すぎるべな……)
葵がうっかり操作をミスして負けてしまうのは、神がかったコマンドを叩き込む彼女の真剣な横顔についつい目が行くせいもある。
何かに熱中している人間は素敵だ、とどこかで聞いた言葉が本当だと今、思い知っていた。
「罰ゲームっつっても……あんた、俺にどんな罰ゲームする気なんけ?」
一応、恐る恐る聞いてみる。
(痛いのは嫌だし、怖いのも嫌だな。せっかくならちゅーしてくれねーかな。あんま自分からはしてくれねーし……)
考え込んでいた彼女がぽんと手を打つ。どうやら葵の罰ゲームを思いついたらしい。
にっこり笑ったその形のいい唇から紡ぎ出されたのは『五分間くすぐりに耐える』という拷問のような罰ゲームだった。
「む、無理無理無理無理!俺、ほんっとくすぐられんの弱いから!あんた知らねえべ!?五秒でも無理だってのに五分もやったらほんと息できなくなるかんな?俺ここで窒息するよ?あんたの目の前でゾンビになっちまうよ?そしたら……あんた真顔で俺の息の根止めてきそうだなー……。さっきシューティングやったときそうだったもんなー……」
だんだん葵の声が小さくなっていく。葵の隣で静かに何十体ものゾンビを屠っていく彼女は正直に言って恐ろしかった。この先喧嘩することになっても、逆らえないのではないかと思ってしまうほどに。
「あのー……やっぱ……罰ゲームはやめね……?普通にゲームしてるだけで楽しいべ……?」
え?と有無を言わせない笑みが葵に向けられる。
その笑顔を見るともう葵にはどうすることもできない。このまま彼女の言う罰ゲームを受けるか、万に一つの可能性を信じて勝利をもぎ取るか。
ぐぐぐ、と呻く葵の顔を覗き込み、彼女はまた笑った。そうやって葵の言葉は封じ込められてしまう。
(あー……くそー……その顔されると弱いんだよなー……。もうほんとあんたの笑ったとこ好き。威圧感あっても好き。てか、あんたが好き)
「罰ゲームなんかしてられっかー!」
我慢の限界を超えた葵は思い切り恋人に向かって飛びついた。
そのままごろんとソファにひっくり返って、彼女の手からコントローラーをもぎ取る。
柔らかい髪がふんわり香り、ソファの上に散った。
少し驚いたようにこちらを見るその瞳を見て、葵は無意識に喉を鳴らす。
(わー!わー!押し倒すつもりなかったのに!)
内心焦りつつ、彼女の表情にも焦りを感じ取って冷静になる。
そう、葵は忘れていた。
コントローラーさえ奪ってしまえば、自分の恋人は無力化されてしまうことに。
(……もしかして、リベンジのチャンス?)
彼女は葵の様子を窺うように微動だにしない。ただじっと見つめて「何もしないよね?」と小動物にも見た視線を向けてくる。
どうしようか考えた結果、葵はそろりと手を動かした。
向けた先は――脇腹。
「っしゃ!俺に勝ったから罰ゲームな!」
え、と彼女が声を上げることはできなかった。
そのときにはもう、葵が思い切りその脇腹をくすぐっていたせいで。
葵にとっては聴き慣れた快い笑い声が部屋いっぱいに響き渡る。
もし今日が休日の昼下がりでなかったら、隣の家から文句を言われるのではと思われるほどの大声だった。
「ははーん?もしかしてあんたもくすぐり弱いんけ?こりゃいいこと知ったなー」
必死に葵の手から逃れようとする彼女は既に息も絶え絶えだった。
潤んだ瞳で葵を見つめ、勢いよく首を横に振る。
その何とも言えない怯えた様子が葵の心に火をつけてしまった。
「そんじゃ、ここは?」
脇腹からへその辺りへ。その次は足へ、そして自分を守ろうとうつ伏せになった彼女の背中へ。
葵は容赦なくくすぐりを続けていく。
(弱点なんかねーと思ってたけど、これならいつでもやり返せるなー)
今度は葵が得意げになる番だった。
次はどこをくすぐってやろうかと思ったところで、彼女がぷるぷる震えていることに気付く。
見れば、髪は乱れ服も若干はだけているという何とも危ない姿に変わっていた。
頬は赤くなり、くすぐり続けたせいで息も荒くなっている。
ばか、と小さく声が聞こえた。
彼女にとっては精一杯の抗議だったのだろう。
しかし、葵にとっては最後の一歩を踏み出させる一声だった。
「次は普通の恋人らしいことすっか」
ぴくりと彼女が反応する。
普通の恋人らしくないことは、二人でゲーム漬けになってはしゃぐこと。
普通の恋人らしいことは――。
「……もう、ゲームどころじゃねーもんな」
囁いた葵の唇が白い肌をかすめる。頬をなぞった唇はそのまま彼女の唇を奪っていった。
まだ荒く呼吸をしているにも関わらず、二度三度と口付ける。
息ができなくなったのか、小さな手が葵の肩を押しのけようとした。
それを、葵は手で掴んで封じてしまう。
(だめだよ。まだ全然足りねーもん)
じたばたする身体を押さえ込んだまま、両足の間に膝を割り入れる。そうするとさすがに彼女もいろいろ察したのか、身を強張らせて大人しくなった。
(……いい子いい子)
いつだって葵は彼女に敵わない。ゲームも、こういうときも。
簡単に心を奪われて夢中にさせられてしまうのだ。
「いいこと思い付いた」
彼女にはずっと負けていたい。でも、たまには勝ちたい。
だから、葵は大事な恋人に向かってにっこり笑った。
「――声出したらだめってゲーム、しよ?」
キスはもう唇にしない。そこにすれば彼女の声を葵自身が塞いでしまうことになる。
強すぎる彼女に今度こそ勝利を叩きつけるため、葵は有利すぎる条件で意地悪な戦いに挑んだのだった。
感じのいいバーで、奈義は同じ『おとどけカレシ』の海斗と待ち合わせていた。
「お待たせ、このぐらいで平気?」
「ん、いつもどーも」
どさっと海斗が奈義の前に出したのは、各地にある高級レストランや一流のホテル、女性がいかにも好みそうなスイーツのあるカフェやバーなどのパンフレットだった。
「このぐらいならネットで検索すれば出てくると思うよ?」
「ついでに御国と話したかっただけ」
「……何かあった?」
奈義がこうして海斗にパンフレットを頼むのは初めてのことではない。
海斗は生まれも育ちも奈義とは正反対のお坊ちゃんで、こういった場所にも家族と行った経験があると言っていた。
パンフレットを何となく手でもてあそびながら、奈義は薄く微笑する。
「……ネットで検索するのもいいけど、パンフレットの作り方でその場所のランクってわかるじゃん?貧乏人だから、きっちりしてるかそうでないか見分けるの得意なんだよな」
「……奈義くん」
海斗が控えめに名前を呼んだのは自虐的な言い方が気にかかってのことだろう。
それに気付いていながら、奈義はあえて答えなかった。
一方的に話して、海斗の言葉を封じる。
「それに、瀬戸さんもこういうの前日にやってるって聞いたからさ。ナンバーワンの真似すれば、いつか俺もナンバーワンになれるかもしれないだろ」
「奈義くんは奈義くんのよさがあると思う」
「はぁ、相変わらずだよな、御国って」
だから仕事を明日に控えた今夜、話してみたくなったのかもしれないと奈義は思う。
奈義は自分がひねくれていることを理解していた。だからこそ、びびりとはいえまっすぐな海斗と話しているといろんな考えが生まれるのだろう。
「俺は本気で奈義くんをすごい人だと思ってるよ。ナンバーワンの真似をするなんて簡単に言えることじゃない。あいつ人の真似かよって言われるのが怖くないってことだし、それに……」
「そんなこと言われても何とも思わねーよ。真似でもなんでも、それで稼げればいい」
「そういう割り切り方に俺はいつも憧れてるんだ」
奈義は一瞬口をつぐむ。
海斗の言葉にはいつも嫌味がなくて嘘もない。心からの言葉は奈義にとって嬉しいものではあったけれど、ときどき、そのまっすぐさが痛むこともある。
「俺は真似しようと思ってもできないしね。前日は『御国海斗』を作るのに必死だから」
「……ああ、そっか」
それだけ言って、奈義は持っていたパンフレットをテーブルに置く。
奈義も海斗も今こうして互いに見せているのとは違う、もう一人の姿がある。海斗は気弱ながらも俺様キャラを演じており、奈義は潔癖症で現実主義な自分をミステリアスな天然キャラで隠している。
海斗はいつも自分に言い聞かせてキャラに入り込むらしかった。一方、奈義はあっさりもう一人の自分に入り込むことができる。
「俺は御国と違ってはっきり仕事とオフと区別してるからな。前日に自分を作らなきゃって思ったこともねーし」
「じゃあ、奈義くんがうっかり素の自分を見せちゃうってありえないかもね」
「そんなの当たり前。……御国はうっかりしそうだよな」
「うん……。いつも気をつけなきゃって思ってはいるんだけど」
「あれが自然体の状態になるまで慣れるしかねーな。俺ももう慣れたし。あんな自分、バカバカしいと思ってるけどさ。天然演じるのって結構大変なんだよ」
思わず奈義が愚痴を言うと、海斗が驚いたように目を瞬かせた。
そして、くすっと笑う。
「奈義くんの愚痴、初めて聞いたかも。嫌味とか皮肉ならいっぱい聞くのに」
「なんだそれ」
あはは、と海斗が声を上げた。奈義も若干つられて口角を上げる。
更に話そうとしたそのときだった。
ぴりり、と海斗の携帯電話が音を立てる。
画面を確認した海斗は「あちゃー」という顔をして肩をすくめた。
「桜川さんからだ。次の予約の話かも。来月、なんかすごいお客さんが入るかもって言ってたから、その話かな……」
「すごいってどういう意味だろうな。……まぁ、御国も頑張れよ」
「奈義くんも明日から頑張って」
「パンフレットありがとな。御国もなんか必要だったら協力するから」
「ありがと。それじゃ……またね」
奈義に手を振って、海斗は鳴り続けていた電話を取る。
桜川さん、という声とともにバーを出て行くと、そのテーブルには奈義一人が残された。
海斗の後を追って帰ってしまってもいい。それでも身体が動かなかったのは、少し一人の時間が欲しかったから。
奈義は海斗が持ってきてくれたパンフレットを丁寧に丁寧にまとめて鞄の中に詰める。
(バカみてーに高い部屋。頭おかしい値段の料理。よくわかんねーぐらいキラキラしたよくわかんねーもの。……こういうとこに行きたがる女は、頭の中まで花畑のハッピーちゃん)
それは奈義が今まで『おとどけカレシ』として学んだことだった。
(みんな知らねーんだろうな。世の中には足の踏み場がないくらい散らかってる上に、弟たちの寝相が悪すぎて寝場所を奪い合うような部屋があるってこと)
奈義の知っている現実はいつも冷たかった。
関わってきた女性が語るような夢もなく、ただただ面白みのない無情な世界。
だからこそ、奈義は現実主義だった。夢なんて思うことすら時間の無駄。今となっては夢という言葉だけで顔をしかめるぐらいになってしまっている。
そのせいで今夜、誰よりも『憧れ』に対して強い思いを持つ海斗と話したいと思ったのかもしれないとなんとなく考える。
何にもこれといった思いを抱けない奈義と、いろんなものを純粋に受け入れて感情を示せる海斗と。生まれ育ちどころか、この二人は性格まで異なっている。
「……初めて俺の愚痴を聞いた、だっけ」
ついさっき海斗が言っていた言葉を思い出し苦笑する。
(結構、他のキャストには愚痴ってるつもりだったけどな。みんな同じようにもう一人の自分を持ってるから、俺の気持ちもわかってくれるだろうと思って。……こんなこと、あいつらには絶対言えないけど。東城と真中さんあたりがうざったいくらい調子に乗るだろうし)
「……ていうか」
声に出してから、奈義は天井を見上げた。雰囲気を出すためか、大きなファンがぐるぐる回っている。
「……愚痴が言えるような奴らだから、普段つるんでるんだろ」
本音をさらせる相手は奈義にとって少なすぎた。家族にだって本心を明かさず、ある意味常に自分を演じ、作って生きてきているせいで。
(明日からの仕事だって、『なんだこの女』って思いながら本音を隠さなきゃならねー)
仕事の前夜に、そうして次の日のことを考えるのはあまりないことだった。
奈義がするのは仁の真似をしてデートプランを考える程度の、あくまでビジネス寄りなことばかり。そもそも奈義自身、自分の感情や思いに振り回される性格をしていない。
だから今まで気にもせずに次の日を迎えていた。
今夜だけは、違う。
(キスしろって言ってこねー女だといいな。気持ち悪いんだっつの)
テーブルに置いてあるカクテルを勢いよく飲み干す。すっかり氷が溶けて味が薄くなってしまっていた。
ふあ、と奈義は軽くあくびを噛み殺す。もうだいぶいい時間になってしまっていた。
(御国のこと、もっと早く呼び出せばよかった)
無性に誰かとなにか話したい。同時に、早く明日からの一週間を終えてしまいたい。
珍しく不可解な感情を覚えながら、奈義は中身のなくなったグラスをテーブルに置く。
そして、時計を確認しようと携帯を取り出した。
――時刻は日付が変わる五分前。
帰るにはちょうどいい時間だろう。
少し名残惜しさも感じながら奈義は立ち上がる。
立つ鳥跡を濁さず、という言葉を体現するかのように席を整え、それ以上明日のことは考えずに勘定を済ませた。
からん、とかすれたベルの音を鳴らして店を出て行く。
明日も今までと同じ『仕事』をこなすだけ。奈義にとっては繰り返された日常の一コマに過ぎない。
それが明日からだけは違ってしまうのだと、まだ気付かなかった。
――そして、今日から君との七日間が始まる。
今日、『おとどけカレシ』のメンバーは遥の家に集まっていた。
全員揃っている……と見せかけて、一人だけ姿がない。
「なぁ、奈義って何が好きなんだ?」
せっせとキッチンで料理をこなしながら聞いたのは仁。
「んー……綺麗な部屋と静かな時間とかじゃないですかね」
若干訛りをにじませて答えたのは葵。その隣ではせっせと遥が野菜の皮むきをしている。
「むしろ奈義くんなら『サプライズなんていらない』って言いそう……」
おどおどと呟いた海斗もまた、テーブルの片付けに精を出していた。
「いーや!誕生日をお祝いされて喜ばない男なんかいなーい!奈義ちゃんだって同じ!」
壱は相変わらず何の仕事もせずにソファでふんぞり返っている。
彼らの話からわかるように、今日こうして集まったのは奈義の誕生日祝いのためだった。せっかくならサプライズをしたい、と壱が言ったことから、こっそりお祝いの用意をすることになり。
それぞれ、料理をしたり小物を調達したり、騒いでいたらいつの間にか当日になってしまっていたり、いろんな形で今日を迎えている。
「遥、そろそろ奈義に電話した方がいいんじゃねーか。いつ着くのか把握しとかねーと、『サプライズ』できねーだろ」
「あ、はい。じゃあかけます」
一応、奈義は彼らがいることを知らない。今日は遥と二人でなんとなく遊ぶ予定を立てた、らしい。よくそれで奈義の予定を取れたものだと仁はこっそり感心していた。
奈義は他のメンバー同様、仕事とオフでの性格が大きく違う。仕事では少し天然が入ったミステリアスなセレブキャラだが、普段は厳しい上に気難しく、口を開けば辛辣、動けば掃除ばかりするという癖のあるキャラクターだった。
今日のサプライズが成功すると、果たして何人が信じているのか。
よりによってなぜ奈義に仕掛けようと思ってしまったのか。葵や壱なら大はしゃぎからの大成功が容易に想像できる。仁もまぁ、喜ぶだろう。海斗や遥だって嬉しそうにはにかむところを頭に浮かべるのは難しくない。ただ、今回は最もこういうことに縁のなさそうな奈義である。下手をすれば、誰も一時間後の状況を想像できていないだろう。
「……あ、もしもし、奈義くん?今どこ?」
ようやく電話が繋がったのか、遥が全員にしーっと合図する。一斉に口を閉ざした中、こういう空気に耐えられない壱だけが口を押さえて笑いを堪えていた。
「……うん、うん。コンビニのとこ?あ、じゃあもう少しだね。……え、別にいいよ。お菓子なんて持ってこなくても……そういうの気にしなくていいから……」
どうやら奈義は遥の家から五分もないコンビニにまで来ているらしい。
笑いを堪えすぎて呼吸困難になりかけている壱を横目に、仁たちは急いで残りの支度をした。
「海斗、遥がむいてた人参、こっち寄越せ」
「はい。俺がむきましょうか?」
「いや、お前は壱黙らせといて」
「あー……はい。わかりました」
律儀に海斗は壱の側に行って、目の前で自分の唇に指を当てる。静かにして、という合図なのは火を見るより明らかだった。が、壱にとってはそれもツボだったらしい。顔を真っ赤にしてじたばたしながら笑っている。
溜息を吐きつつ、仁は棒状に切った野菜を綺麗に皿に並べていった。男だらけにも関わらず、きっちり栄養バランスの良さそうなものが揃っているのは、仁が普段仕事で料理を作ることもあるせいだろう。いわゆる職業病、というやつだ。
「……ん、じゃあまた。待ってる」
遥が電話の向こうに告げる。そして、約一名を除いて静かにしていた全員を見回した。
「奈義くんは飲み物を買ってくるそうです。十分くらい経ったら着くって言ってました」
「よし。壱、笑ってねーで皿とコップの用意しろ」
「待って……仁ちゃん……息できない……死ぬ……」
「いっちーさんの笑いのツボ、わっかんねぇなあ」
ぐったりする壱を見て葵が笑う。
そして再び、十分後に備えての静かな戦いが始まった。
――きっかり十分後にチャイムが鳴ったのは、さすが奈義だというべきだろう。
遥は気にせずドアを開けて入ってくるように告げて……。
「お邪魔しまー……」
奈義が言い切る前に、パン!と乾いた破裂音が響いた。
クラッカーを鳴らしたのは葵と遥。にこにこ笑う二人を見て、奈義は目を瞬かせる。
びっくりして硬直した奈義の前に、すっと仁が慣れた仕草で手を差し伸べた。
「いらっしゃいませ、芦屋さん。今日は『おとどけカレシ』パーティーへようこそ。君にとって素敵な時間になるように、精一杯頑張らせてね」
その後ろから照れたように笑いながら葵が顔を見せる。
「君のために……誕生日の用意、頑張ったから」
ぽかんとした奈義が答える前に、次々と他のメンバーがやって来る。
いつもはおどおどしながら眉を下げている海斗も、今はきりっと凛々しい表情に変わっていた。
「遅かったじゃねぇか。この俺がわざわざお前のためだけに来てやったんだから喜べよ。そこのポテトサラダ作ったのも俺だ」
「あー……」
「ほーらっ、早く一緒にケーキ食べよ?ね、奈義くんさえよかったらあーんしてくれてもいいよ?それとも……俺にしてほしい?」
ぐいぐい遥が奈義を引っ張る。足にまとわりついたクラッカーがひらりと散った。
突然のことに足をもつれさせかけた奈義を、そっと壱が抱きとめる。
「今夜はどの『おとどけカレシ』と過ごす?もちろん、僕を選んでくれたら最高の時間をプレゼントしてあげるよ。君にとっても、僕にとっても……ね」
ふ、と大人の魅力たっぷりに微笑した壱を見て、奈義はびくっと思い切り仰け反った。
完全に仕事モードに入っている一同を見回し、そして……。
「き、気持ち悪いことすんなよ……!」
ほぼ、悲鳴のような声で絶叫した。
静寂は一瞬。それを割いたのは、まだ仕事モードの大人の色気を振りまいていた壱だった。
「ぶっ……あっははははは!き、気持ち悪いって!ひでー!」
「奈義っち辛辣ー!でもめーっちゃ驚いてたな!あの顔、写真撮りゃよかったぁー!」
葵もつられて笑いだし、だんだん笑い声が伝染していく。
「あはは、だから奈義くんは呆れるって言ったのに」
「はるくんの言った通りだったね」
小悪魔めいた遥も、にやりと強気な笑みを浮かべていた海斗ももういない。
まだ衝撃が収まらない奈義の頭をぽんと仁が撫でる。
「奈義、お前今日誕生日なんだろ?だからさ、みんなでサプライズしてやろーって言ってたんだ」
「え……」
「あ、あのね、奈義くんをお祝いしたくて……迷惑だった?」
すっかりいつものしょんぼり顔に戻った海斗がおどおどしながら尋ねる。
全員が奈義の反応を待った。
やがてたっぷり十秒置いた後、突然奈義は笑い出す。
「っ……あはは、あはははは!こんなの迷惑すぎ。普通に考えておかしいだろ!俺、もうサプライズで喜ぶような歳じゃねーし、そもそも誕生祝いだって……。……っくく、ははっ……!」
奈義がそんな風に笑い出すのは初めてだった。さすがにその反応を予想していなかった一同が今度は固まってしまう。
「しかもさ、最初のキャラ作りラッシュなに?みんな普段違うキャラで仕事してんの知ってたけど……もしかして、いっつもそうやってんの?っふ……はは、あはは、初めて見た!特に真中さん、なんなの?ちゃんとやればできるじゃん!いっつも下ネタしか言わないから、どうやって仕事してんのかと思ってたのに……!」
「奈義ちゃんって……そうやって笑うんだな……」
いつもの壱だったら『なんだそりゃ!』くらい返していただろう。それができなかったのは、あまりにも奈義の姿が珍しかったからで。
「あーあ……こんな笑ったの久しぶり。そうだ、そっちに合わせて俺も仕事モードで感想言ってやろっか。……これが誕生日?シャンパンもないし、レストランの貸切もないのに……?ケーキはどこのパティシエに頼んだの?それと……。……あはは、続けんの無理!こんなん、笑ってできねー……!」
ひたすら笑い続ける奈義に、まだ一同は衝撃を受けていた。
それには構わずさっさと自分を落ち着かせると、奈義は足元に散らばっていたクラッカーの残骸を拾い始める。掃除を始めたその姿を見て、ようやく全員は自分を取り戻した。
「そっち、まだ落ちてるから綺麗にして。海斗、ズボンにくっついてる。ったく、あんたたち散らかしすぎだろ」
いつもの奈義だ……と全員がほっと息を吐く。
奈義はついでとばかりに掃除を始め、このパーティーの準備で出たゴミもきっちりまとめていった。その最中、不意に手を止める。
「……あのさ!」
急に声を上げた奈義に、また全員が止まった。
このメンバーにしては珍しく、しんとした沈黙が降りる。
奈義は屈んでゴミを拾いながら、更に声を張り上げた。
「……俺、こうやって祝われんの初めてだからよくわかんねーけど……」
だんだん声が小さくなる。
そして。
「……嬉しかった。ありがとな」
消え入りそうな声で言った奈義の顔は、らしくなく真っ赤に染まっている。
散々文句を言うのも、嬉しい気持ちの裏返しで。誰よりも冷静だからこそ、素直になれない奈義の精一杯の言葉で……。
「……っしゃ!今夜は徹夜で飲むべ!」
耳まで赤くした奈義に向かって葵が思い切り飛びつく。
「うわっ、やめ……っ」
いい音を立てて二人は床に倒れ込んだ。そこに大はしゃぎで壱がのしかかる。
「奈義ちゃん奈義ちゃん、飲みたいお酒ある?おにーさん特別に買ってきてあげちゃーう!」
「なんかホストクラブとかにあるめっちゃ高いやつ。全然興味ないけど真中さんの財布に大打撃与えられそうなのがいいです」
「容赦ねぇ!……はっ!そういうことならいっそ俺とお姉さんたちのいっぱいいるお店に……」
「真中、海斗が照れてるからやめろ」
「さ、さすがにまだ照れてません!」
「かわいい女の子ならいつでも画面の中にいるのに……」
「はるちゃんも一緒に行っちゃう!?大人の階段昇っちゃう!?」
「真中さんはむしろ下ってますよね。それも勢いよく」
相変わらずの冷静なツッコミも、今日はいつもと違って鋭さがない。
奈義だけが気付いていなかった。まだその顔が赤いことも、口元が緩んでしまっていることも。みんなを見る目だって、普段に比べれば千倍くらい優しい。
年に一度の特別な誕生日。それはお仕事モードでも、オフモードでも見られない『おとどけカレシ』の姿が見られる日なのかもしれなかった――。
その日もいつものように彼女と一日を過ごそうと会いに向かう。
家に迎え入れられた奈義は、どうも彼女がそわそわと落ち着きないことに気が付いた。
もともと落ち着きがあるか、と言われれば首を傾げざるをえない。それでも、明らかになにかを隠している素振りを見せている。
聞こうかどうか悩んだ結果、奈義は黙っておくことにした。言う必要のあることなら言うだろうし、奈義に関係のないことなら言わないだろう。特に気になることでもない。
そう思いはしても、ソファに座った彼女がまだそわそわしていてどうも意識がそっちに向いてしまう。
どうでもいいはずなのに、どうでもよくない。
そんなどうにも気持ちの悪いもどかしさに苛立って、とうとう奈義は彼女に問いかけた。
「ねぇ、さっきからどうかした……?」
演じるのはもう一人の自分。まだ彼女は奈義がなにを思ってそんなことを言ったのか、本当の理由を知らない。
「君がそわそわしてるみたいだから気になって……。俺に隠し事?」
そっと顔を寄せて耳元で囁く。案の定、その顔は真っ赤に染まった。
(相変わらずちょろい女……)
は、と鼻で笑いそうになるのを堪える。彼女のこんなところは今に始まったことではない。わかっているから、奈義はこうしたのだ。
「俺に言えないことって……もしかして、悪口?だったら悲しいな……」
『天然』。そんな曖昧なものを演じるために、察しの悪い振りをする。
思った通り、彼女は慌てたように首を振った。どう誤解を解けばいいかと必死に思案している姿が、奈義には――滑稽に映る。
(俺とあんたってただの契約関係だろ?別に俺にどう思われようが関係ないじゃん。ああ、まぁ俺に対して愚痴でも抱えてるかなんて聞かれたら否定ぐらいするか)
そう思うのに、申し訳なさそうな困り顔がかわいそうに見えてくる。
(……変な女)
そして、そんな彼女の反応をなんとなく気にしてしまう自分もおかしい。
やがて奈義がじっと待っているのを見て口をつぐんでいられなくなったのか、彼女はためらいがちに話しだした。
――今日が誕生日だと聞いたからプレゼントを用意した、と。
奈義はたっぷり十秒考える。なにかあったときにそんな無駄な時間を使えるのもミステリアスを演じる奈義の特権だった。
(……は?俺のプレゼント?馬鹿じゃないの?あんたは俺にプレゼントされる側であって、する側じゃねーの。大体、今まで俺がプレゼントしたものに比べたらあんたの用意したものなんてちっちゃなもんだろ?で?なにくれんの?男のプレゼントって考えるの難しいと思うけど?)
こんなことを考えているなんて絶対に言えない。だから奈義は黙って彼女を見つめた。
俯いていたかと思うと、いそいそ冷蔵庫へ向かってしまう。
それを見送って再び待つ奈義のもとに、再び彼女が戻ってきた。
その手にあるのは、かわいらしいカップに入ったプチケーキ。見るからに手作りなのだろうとわかるそれを、彼女は奈義に差し出してくる。
「これ……俺に?」
(はぁ……俺、潔癖症なんだけど。人の手作りってほんと無理)
「ありがとう、嬉しい……」
思っていることとは正反対の言葉を囁いて、正直反応に困りつつそれを受け取る。
よくできたケーキだった。黒い粒はチョコレートチップだろう。こういうものを作るのが得意なのか、見た目は売っているものと少しも変わらない。
口に合えばいい、と彼女ははにかんだ。
――奈義の口にそれが入らない可能性を、万に一つも考えていないかわいそうな言葉だった。
(おにぎりとかさ、ああいうのもよく食えるよなーって思う。心底思う。だって誰かの手がべたべたにこねくりまわしたものなんて……気持ち悪い)
そう思っているはずなのに、奈義はプチケーキを懐にしまえなかった。
……もし、ここで感想を言って聞かせたら。
単純にそれが気になって。
(……これも仕事、だから)
本当に?と奈義の中で誰かが囁いた。その言葉は無視して、自分のためだけに作られたそのプチケーキを口に入れる。
(……悪くないじゃん)
それはとてもおいしかった。甘くて、ほっと安心させてくれるような味をしていて……。彼女がなにを思って、どんな思いを込めてこれを作ってくれたのか、そのたった一口で知ってしまう。
(こんなの……気持ち悪いはず、なのに)
特別なプチケーキを飲み込む。
人の手作りなんてありえない。誰かが触ったものなんて気持ち悪い。今もその気持ちは変わらないのに、なぜかそうしたかった。
捨てるのは論外。かと言って他の誰かに渡すのも、思わず顔をしかめるほど嫌だった。
「……おいしい」
反応を待つ彼女に、あながち嘘でもない感想を告げる。
その瞬間、今まで硬い顔つきで見守っていた彼女が嬉しそうに微笑んだ。つい、その笑みに見とれてしまう。
彼女はよかったと言った。奈義が喜んでくれて本当に嬉しい、と。そして、『誕生日おめでとう』ととても大切そうに言ってくれた。
(……馬鹿だろ、こいつ)
奈義は戸惑う。これは仕事。目の前で潔癖症の自分が他人の手作りを食べたのだってそう。感想を言って喜ばせてやるのも仕事の一環。ここに奈義の本心はない。はずだった。
「……そんな顔して笑うほど嬉しかったんだ」
初めて彼女に触れたいと思ってしまう。今まで仕事で触れていたのとは違う、もっと深い触れ方をしてみたい。そのとき彼女がどんな顔をして笑ってくれるのか見てみたい。心の奥底で他人を否定し続ける自分とは違い、きっと綺麗な優しい笑顔だろう。
(俺……なに、考えてるんだろ。変なもん食っておかしくなった?)
まだ、憎まれ口をやめられない。だってこの気持ちは認められない。
(こんなもの全然嬉しくない。全然美味くない。全然……)
否定を続けているのに、まだ残っていたプチケーキを口に入れてしまう。
ほろ、と甘い味が広がっていった。奈義の胸にも染みて、知らない感情が心を満たしていく。
(わざわざ誕生日祝いなんてするめんどくさい女、嫌いだ)
心の声が小さくなっていくのは、それが奈義の本心とは違う言葉だったから。同時に、奈義の動揺も示していて……。
「……ありがとう、嬉しい」
堪えきれずにこぼれた言葉は、さっきと同じものだった。しかし、そこに秘められた気持ちは真逆に変わっている。
さっきは本心ではなかった。今は、心からそう思ってしまっている。
(……っ、なんだよ、この気持ち……)
奈義はまだその気持ちの名前を知らない。知っていても認めない。
いつかこの誕生日プレゼントよりも甘い気持ちを抱くことだって、今の奈義は知らなかった――。
かれこれ一時間ほど、葵の笑い声が響き続けていた。
ひっくり返って腹部を押さえ、ひたすら笑い続ける葵の前に、いつもの『おとどけカレシ』のメンバーがそれぞれ変顔を晒している。
「ちょっ、まっ、仁さんっ……!それ、卑怯だべ……!」
「ナンバーワンの本気ってやつだ。今日だけだからな。たっぷり笑えよ」
「む、無理、無理ーっ!」
「葵さーん、こっちこっちー」
「ぶはっ!はるっちそれはナイ!イケメンがやっちゃだめな顔!」
ぎゃはは、と葵は笑い続ける。
いつもはこんなときに冷めた様子を見せる奈義まで、一緒になってぎこちなく変顔を見せていた。
もちろん葵はそれを見てまた爆笑する。
「な、奈義っち、頑張りすぎ……っ」
「そーだよ。頑張ってんだから、死ぬまで笑えよ」
「ほ、ほほほんとに死ぬ……!」
「あおちゃーん、お兄さんの顔も見ろよぉ」
「あんた!いくらなんでもそれはやりすぎじゃねーの……!」
「葵さん、これは?じゃじゃーん」
「ふ……ひっ、ひひっ……も、無理……ほんと死ぬ……ぷっ……ははは、あはははは!」
壱はともかく、普段おどおどしている海斗まで参戦すると、葵は笑いすぎてむせ始めた。
なぜこうしてメンバーが葵を笑わせようとしているか。
それは、今日が葵の誕生日だということと関係があった。
もともと、今日の予定はただの飲み会のはずだった。葵の誕生日を祝うために、それぞれ葵の好きそうなものを考えてくる……予定だったはずが、全員の考えてきたネタが『賑やか担当の葵を笑わせてやろう』とかぶってしまった。
もともと葵は人を笑わせるのが好きで、周りをそんな雰囲気に巻き込むのもうまい。『おとどけカレシ』としてのキャラもそれでよさそうなのに、と他のメンバーがこっそり思っていることは本人だけが知らないだろう。
だからこそ、いつも笑顔にさせてもらっている分、葵を笑わせてやろうという意見が一致してしまった。
その結果がこの変顔大会である。
「ひ……ふー……ふー……息、できねぇ……」
さすがに落ち着き始めた葵がぐったりしながらソファにもたれかかる。
笑いすぎて顔が疲れてしまったのか、自分で頬をむにむにいじっていた。それを横から壱もつついて遊び始める。すぐに奈義がそれを止めはしたけれど。
「俺……誕生日なのに笑い殺される所だった……」
「俺はいつもお前に笑い殺されそうになってるけどな」
苦笑しながら言うと、仁は葵の額をこつんと拳で小突く。
「誕生日おめでとな、葵」
「仁さんんんん!超好きっす!リスペクトっす!」
「あー、そういう暑苦しいのいいわ」
「さすが、ナンバーワンは男を落とすのもはえー!」
壱が感心したように言うと、他の全員もうんうんと頷いた。
ぜえぜえ息を切らせた葵が起き上がり、メンバーの顔を見回す。
さっきまでここにいた全員が人には見せられないひどい顔を晒していたなどと、誰が信じるだろうか。ましてや、彼らは道を行けば振り返られるほどの『イケメン』だというのに。
「俺……すっげー愛されてたんだなー……」
葵はしみじみ言って、ほんの少し滲んだ目元の涙を拭った。
笑いのせいもあるだろうし、仲間たちの思いに感動したせいもある。
「んでんで、次はケーキ?俺、あおちゃんのために奮発した!」
「いっちーさんもありがとな……。いっつも『この人こんな頭悪くて大丈夫け?』っつーこと思ってて申し訳ねえ……」
「あおちゃんひでえ!」
今度は壱が笑う番だった。こんな辛辣な、それでいてどこか温かいやり取りもいつものこと。
すぐに壱は冷蔵庫に入れてあったケーキを持ってくる。
それをテーブルに置いて、葵を前に座らせた。
その周りを全員が囲む。
「ロウソク差してあげるよ、東城。耳と鼻どっちに差して欲しい?」
「お尻!奈義ちゃん!お尻に!お尻に!」
「真中、黙ってろ」
「やめてー仁ちゃん引っ張らないでー」
ずるずる引っ張られていく壱の姿は、全員が見なかった振りをした。
哀れんだ目を向けてから、海斗が気を取り直したようにケーキへと向き直る。
「火、付けるのない?はるくん持ってる?」
「ううん、持ってない。仁さんが持ってるかも」
「おー、ちょっと待ってな。真中のこと締めてからだ」
「いいいい痛い、仁ちゃんほっぺ痛い……つねるなよー!」
「あん?なんか言ったか?」
「うぐっ……」
背後で仁が壱を締める不穏な音がする。
壱の妙な声もそこに混ざった。それでも振り返らない辺り、いかにメンバーが二人のやり取りに慣れているかわかるというものだろう。
「俺、幸せだなー。誕生日ってやっぱさいこー!」
一本一本ロウソクが飾られていくケーキを、葵はそわそわしながら見つめる。
歳の数だけ増えていくロウソクは、去年より一本多い。
「あっ、さっきの変顔、全部写真撮っとけばよかった!あー、やっちまったなー。あれで向こう十年はぜってー笑えたのに……。はぁ……俺としたことが笑うばっかりでそれどころじゃなかったもんな……。自分笑わされたらなんにもできねぇって、まーだ修行が足りねぇってことだべな。こーたこと何回もねぇし、もったいねぇことしたー!」
葵が早口で言いながらがっくりと肩を落とす。
その頃にはもう、壱と仁も戻ってケーキを囲んでいた。
「……葵さん」
遥がそっと声をかける。
再び葵が顔を上げると、そこにはとびっきりおかしな顔を作った遥がいた。
「ぷっ……」
「もう一回やるってか。しょうがねぇな」
仁もそれに続き、意図を察した海斗も、奈義も、そして壱も同じように変顔を始める。
さっきも見たはずなのに、また葵は大爆笑してしまった。
「うはっ、はははっ!その顔ほんとやっべぇ……!」
今度こそ写真を撮ると決めていたのに、すっかり頭から抜け落ちてしまう。
その後もメンバーはたっぷり一年分葵を笑わせ続け、特別な一日を心から祝ったのだった。
今日も彼女とのデートだった。
意外なことに、葵が聞くよりも早くどこへ行きたいか自分から提案してくる。
(どこに行きたいのかって思ったけど、ここってどう見ても男もんの小物売り場だよな。財布とか、ネクタイピンとか、どう見ても女の子が欲しがるようなもんじゃねぇし……)
少し考えて、すぐに葵は気付く。
彼女自身がこれらを使うことはないだろう。でも、彼女の身近な人は?
それが自分の知らない誰かかもしれないことにも気付いてしまい、ちくりと胸が痛む。もしかしたら偽物の恋人でしかない葵とは違う、大切な人なのかもしれない。
いやいや、と自分で自分の考えを否定する。あまりその可能性を考えたくなかったという方が正しかった。
「これ……誰かにプレゼント?君は使わないもんね……?」
恐る恐る聞くと、声にも実感がこもった。
彼女は笑って、そっと指を葵の胸に押し当てる。
――誕生日だって聞いたから。
そう言われて葵は目を瞬かせた。
確かに彼女の言う通り、今日は葵の誕生日だった。
まさかこんな形で話題に上がるとは思わず、しばらくぽかんとしてしまう。
(え……俺にくれるんけ?誕生日?祝うって?……はー、この子、ほんといい子。そーたこと無視してくれてもいいのになー)
「俺の誕生日……ほんとに祝ってくれるの?」
うん、と彼女は頷く。
あながち演技でもなく葵は照れてしまった。
(あー、恥ずかしいなー……。それに……なに言ったらいいのかぜんっぜんわかんね。ありがとって言うだけじゃ普通すぎるし、嬉しいって言うのも当たり前すぎてつまんねぇし……。いや、面白さなんて別に求めなくてもいいんだろうけど……んー……)
この気持ちをどう伝えればいいのかわからなくて悩む。
黙り込んだ葵を、彼女まで恥ずかしそうに見ていた。
そして、少し申し訳なさそうに口を開く。
どうやらこういった男性へのプレゼントというのは初めての経験らしい。普段から誰かにプレゼントすることもないせいで、葵になにをあげればいいのかわからない、と。
ここが気に入らなかったら別の場所に行こうとまで言われ、葵はますますくすぐったい気持ちになった。そうまでして想ってくれる彼女に、仕事として感じる以上のいろんな気持ちを抱いてしまう。
彼女は葵に、葵が好きだと感じるもの、欲しいと思うものをプレゼントしたいらしかった。
それを聞いて、葵はまた黙ってしまう。
(……俺の好きなものっつったらゲームだべな。でも……そーたこと言うわけにいかねぇし……。……ゲーム好きってキャラじゃねぇもんな、今の俺)
今いる店にあるのは、あまり葵の興味を惹かないものばかり。
どれにしようと考えても、財布にこだわりはないし、おしゃれなネクタイも普段は使わない。強いて言うなら革製のキーケースが使えなくもなさそうだったが、妥協してそれが欲しいと言うのはなんとなく気が引けた。
せっかく彼女がプレゼントすると言ってくれているのに、適当なものは選びたくないと思ってしまう。
今までプレゼントなんて数多の客からもらってきたはずだった。それなのに、彼女のときだけ特別に感じるのはなぜなのだろう。
(……あ、そっか。この子がくれるから、だ)
葵にとって彼女も客の一人にすぎない。それでも、その気持ちは確かなものだった。
彼女がくれるものだから、いつも使えるものがいい。
彼女がくれるものだから、いつも目に入るものがいい。
自分の望みに気付いて、葵は苦笑する。
(もしかして俺、本気になってんのかな)
一週間限定の関係とはいえ、その間に過ごす時間は本物の恋人とほとんど変わらない。
そう錯覚してしまうことだってない話ではないだろう。
それでも、葵はそっと首を横に振る。
(んなわけねぇべ。もうちょっとで終わっちまう関係だってのに、今から本気になんのは寂しいもんな。多分……波長が合うせいでそうやって思うんじゃねぇか。あんまりぺらぺら喋られねぇけど、すげぇ話合う気ぃするし……。だから、今までの客と違ってなんか特別かもなって思っちまうんだ。それ以外にねぇ)
特別に感じてしまうから、その気持ちに応えたいし、自分も適当な答えは出したくない。
葵は唇を引き結んで店内を歩きながら、少しでも欲しいと思えるものを探した。
だけど、見つからない。
「……あはは。あんまりこういうのよくわかんないから……欲しいの、思いつかないや」
そう言うと、彼女の表情が陰った。
こういうものを選ぶのは初めてで、どうすればいいかわからないと言っていたせいだろう。
葵の気に入る店を見つけられなかったと自分を責めているのかもしれない。
(あんたはなんにも悪くねぇよ。……こんなキャラやってる俺が悪い)
「……ね。プレゼントじゃなくて……おねだりでもいい?」
少しでも彼女の気持ちが軽くなるように、控えめに提案する。
「今日の夜ご飯は君の作った料理が食べたいな。……お願い」
葵が言うと、彼女は一瞬悩んだ後に頷いた。
さっきよりもその表情が明るい気がして、ほっと息を吐く。
そして、彼女の家へとやってきた。
テーブルについて待つ葵の前に、なかなかボリュームのある炒飯とスープが出される。
こういう簡単なものしか、と彼女はまた申し訳なさそうに言った。
葵はすぐに首を横に振って手を合わせる。
「いきなり手料理が食べたいって言ったのは俺だし……それに、すごくおいしそう。……ふふ。いい匂いがするね。いただきます」
(むしろよくわかんねぇおしゃれな料理が出てくるより、俺はこっちのが好きだな!がーっと食ってうめぇ!って言ってさ。そりゃ、女の子って感じはあんまりしねぇけど、変に気ぃ使わなきゃなんねぇ料理だと俺も肩に力入っちまうし!それに、こういう料理のが家庭の味って出やすいだろー。……ってか、この炒飯ぱらっぱら!すげー、どうやって作るんだべ……。なんか作んの難しいんでねぇの?簡単なものって言ってたけど、ぜんっぜんそんなこと……。あー、なんかこういうのいいな。恋人って感じで……)
あくまで心の声は漏らさない。
キャラを崩さないよう、葵はゆっくり炒飯を口に運ぶ。
出来立てのそれは温かくて、野菜や肉のいろんな旨みを感じた。とても急ごしらえで作ったとは思えない出来に、思い切り感想を言いたくなるのを我慢する。
そんな気持ちすら今の葵にはうまく言えない。
「おいしい……。こんなにおいしいの、初めて」
なるべく無口に、と意識しながら、一言二言伝えるのが精一杯だった。
それでもなかなか無口にならないのは、普段の喋る量があまりにも多すぎるせいだろう。
しばらく葵は無言で手料理を味わった。スープだって即席なのになにかのだしが出ていてとてもおいしい。細かく刻んだネギがいい味を出している。
やがて食べ終わると、彼女はほっと嬉しそうな表情を浮かべた。
葵がきれいに完食したからだろう。
「……ね、デザートは?」
(もっとあんたの作ったもん、食いてぇな)
そんな気持ちを込めて尋ねる。
うーん、と彼女は悩んだ様子を見せた。
そして、なぜかラックに整理してある雑誌を一冊持ってくる。
それをぱらぱらめくると、とあるページを開いて見せてきた。そこには『今、話題のスイーツランキング』と書いてある。
(……なんだべ)
覗き込んだ葵の視線を誘導するように、彼女の指がするりと紙の表面を撫でた。
その指先が示したのは『番外編!面白スイーツ!』というコーナーで。
確かにいろいろ面白そうなスイーツが並んではいた。その中で一際目を惹いたのが――。
(こ、こめくれーぷ!)
平凡そうでいてなかなかパンチのあるワードだった。
葵は思い切り笑いだしそうになるのを必死に堪え、ぎりぎり甘えた笑みに変換する。
「これ……どうしたの……?」
いつの間にか彼女の指はその挑戦的なスイーツを示している。
まさかという思いを抱きながらその顔を見上げると、彼女は肩をすくめてはにかんだ。
――作ってみたいと思ってるの。
(これを!?)
そう言わずにいられたのは、『おとどけカレシ』としての活動が長かったおかげだろう。
表情に出ていなければいい、と葵は内心どきどきしながら改めてそのスイーツを見る。
(ええ……なんでこーた冒険しようとすんだべ……。この子、結構変わってんなー……。まぁ、ゲーム好きっつってたし、普通の女の子とは違うのかもしんねぇけど……)
彼女が作るとなると少し興味は湧く。
ただし、それに挑戦するのは今ではない気がした。今はどれだけ恐ろしいものが来てしまっても、反応することができない。むしろ感じたすべてを押し殺さなくてはならなくなる。
それは葵にとってかなり厳しいことだったし、彼女だって見たくはないだろう。
「俺……ゼリーがいい、な……」
(食べたくないわけじゃねぇから!心の準備ができてねぇだけだから!)
伝えられないその思いを、彼女を見つめることで伝えようとする。
葵が必死に見つめたのが功を奏したのか、彼女はその妙なスイーツを作らないことにしたらしかった。そもそも材料も手元にはないらしい。そのことに葵は安堵の息を吐く。
結局、その後彼女は葵がねだった通りにイチゴのゼリーを作ってくれた。
これも炒飯と同じく葵の口によく合う。ほのかな甘さと酸味は秋にも関わらず春めいたものを感じさせて、つるんと喉を滑り落ちていった。
一口一口大切に飲み込んで、再び葵は手を合わせる。
目の前の皿は今度もきっちり空になっていた。
「ありがとうって気持ち、伝えたいな……」
そっと彼女を引き寄せる。
キャストとしてもう一人の自分を演じている今、彼女に言葉では感謝を伝えられない。
だったら、行動で伝えるしかない。それも、恋人として。
「……ありがとう」
抱き寄せてキスをする。
その唇に触れてしまってから、葵は軽く後悔した。
(……口にキスするつもりなかったのにな)
頬でもどこでもいいはずだった。それで充分恋人らしいお礼の伝え方はできるはずだった。
唇にキスを贈ってしまったのは、完全に葵の願望が出てしまったせい。それがわかってしまったからこそ、葵はもう彼女に触れるのをやめる。
(いきなり離れんのも変だから)
この後は本心を隠していつものように甘えた自分を演じればいい。
そう思って、葵は無邪気な笑みを作る。
「誕生日プレゼントは君が欲しいな。……だめ?」
きっと彼女は照れて俯くだろうと思ったのに――。
(……おわっ!?)
ぎゅっと抱き締められ、葵の心臓が一気に跳ねた。
(な、ななななな)
葵を抱き締めた彼女が耳元で優しく、そして甘く囁く。
――お誕生日おめでとう。
葵は硬直したままその言葉を聞いた。
彼女の背中でさまよった手を、諦めたように下ろして――葵も抱き締め返す。
(……ずるくねぇか。そんなん……好きになるに決まってる)
その本心も葵には言えない。
言葉以外のもので伝えることも許されていない。
だけど、葵は彼女を抱き締め続けた。
ありがとう、以上の気持ちを込めて――。
また一日、彼女との時間が終わりを迎えようとしている。
奈義は目の前で眠そうに横たわる姿を見つめ、呟いた。
「今日、楽しかったね」
今日は二人でレストランに行ってフルコースを楽しんだ後、プロジェクションマッピングを見た。
フルコースはともかく、プロジェクションマッピングのなにが楽しいのか、奈義にはわからない。
(ビルに映像映してすげーってだけじゃねーか。そんなの見てなんか意味ある?ねーよな?)
むしろ奈義には電気代の方が気になってしまう。あれだけのものを映し出し、一時間弱も続けるとなるとあまり馬鹿にならないのではないだろうか。
そう考えて、彼女の視線に気付く。
どこか不安そうな眼差しだとぼんやり思ったとき、その手が恐る恐る差し出された。
深く考えず、その手を取る。
そうでもしないと、どこかへ行ってしまいそうだと無意識に感じた。
(……なにやってんだ、俺)
じわり、と彼女の温もりが手を伝わってくる。
それは奈義にとって気持ち悪いもので、極力避けたいものだった。
『おとどけカレシ』として仕事をこなしていても、なるべく相手に触れることはない。相手を喜ばせるために髪や頬にキスをするときだって、内心かなりの覚悟を決めて行っている。
(気持ち悪く……ねーんだよな、なぜか)
手を握ると、彼女の不安げな表情が微かに和らいだ。
迷子のような顔が安心した穏やかなものに変わって、奈義はらしくなくほっとする。
「君が眠るまで、手を繋いでおいてあげる」
ありがとう、と言いかけた彼女は途中であくびをしてしまった。
耳に心地よい声が、ふあ、と情けなく変わる。
(はは、変な声)
そんなことに、そんな些細でどうでもいいことに、奈義は笑ってしまった。
彼女と出会ってから偽物の表情を作るのが難しくなってしまっている。今まではこういうとき、もっと違う反応ができたはずだった。
キャストとしての設定に沿って、天然な反応を。あるいはミステリアス――というより普通の人からはズレた不思議な反応を。
それなのに、今、奈義は素で笑った。
……彼女のそんな無防備な姿を愛おしいと感じてしまったせいで。
それが恥ずかしかったのだろう。彼女は頬を色付かせて俯こうとした。
また、無意識に首を横に振ってしまう。
もっと見ていたかった。見つめていて欲しかった。
――そうしていられるのは、あと少ししかない。
奈義がそんなことを考えている間に、彼女がなにか言いたげな様子を見せる。
本心も素の自分もなにもかも隠して、奈義は仕事としての笑みをなんとか上手に作った。
「……ん、どうしたの?」
――眠るまでじゃなくて、寝てからも手を繋いでほしい。
そう言われ、奈義はまた――素の笑みを見せてしまう。
(んなガキみてぇなおねだり、いい歳してするなよ。恋人ってより親戚の子でも預かってんじゃねーかって思うだろ)
さっきよりも強く彼女のぬくもりを手に感じたような気がした。
触れられるぎりぎりまで彼女が奈義に手を沿わせる。
無性に抱き締めたくなった自分を、奈義は押さえ込んだ。
(……なんでさっきから、そんな不安そうな顔するんだよ)
言葉には出さなかったのに、答えが返ってくる。
――朝起きたときに、あなたがいてくれるってわかったら嬉しいから。
(……バカじゃねーの)
その言葉に一瞬驚いてしまった自分を恥じて、自分と彼女との両方にそう吐き捨てる。
(ほんと……バカな女)
そう思いながら、奈義は口を開いた。
「そんな心配いらないのに。……俺は君の側にいるよ」
(もうすぐお別れだけどな)
自分で言った言葉が本心からのものなのか、仕事として喜ばれる言葉を選んで吐いただけの空っぽなものなのか、それは考えないようにする。
考えてしまえば、戻れなくなりそうなのが怖かった。
ただでさえ踏み込んでくる彼女に、これ以上自分の心を奪われてしまうのが嫌だった。
だから、奈義は彼女の手に力を入れる。
(もう、俺に踏み込んでくんなよ。こっちは仕事で相手してやってんの。本気になるわけねーし、今だって好きなんて思ってやってねぇ。……ビジネスなんだよ、これは。それが『おとどけカレシ』ってやつなんだ。最初に説明しただろ)
奈義がそれを言い聞かせているのは彼女のはずだった。
それなのに奈義自身の心に刺さって、痛い。
彼女が眠たげな顔をしたのをいいことに、突き放そうと再び口を開く。
「……夢の中で会おうね。……おやすみ」
会いたくないなんて言えるはずがない。
夢の中でまで彼女に囚われる自分を恐れているなんて、伝えられるはずがない。
(早く、一週間が終わればいいのに)
心から、本当に心から奈義は願った。
そうすれば日々強くなるこの痛みも苦しみもなくなって、また今までの自分に戻れる。
仕事は仕事だと割り切って鼻で笑っていられる自分を取り戻せる。
簡単だったはずのことができなくなるなんて、今までは想像もしていなかった。
それがすべて彼女のせいで狂ってしまう。
しばらくして、ようやく落ち着いたのか寝息が聞こえてきた。
確かに寝ているのを確認し、散々甘い言葉を囁いた自分の喉を浄化するように、本当の自分の言葉を吐き出す。
「……あんた、めちゃくちゃ間抜けな顔で寝るんだな」
そう言ってからようやく奈義は肩の力を抜いた。
まだ、ここには本当の奈義が残っている。彼女を見る度に言葉にできない想いを感じるおかしくなってしまった自分はいない。
それに安心して握ったままの手を離そうとした。
解きかけたその手が止まる。
――眠るまでじゃなくて、寝てからも手を繋いでほしい。朝起きたときに、あなたがいてくれるってわかったら嬉しいから。
「……クソ」
口汚く吐き捨て、奈義は手を握り直した。
一度は離れそうになったぬくもりが再び奈義の手に広がる。
それを嬉しいと感じてしまい、奈義は唇を噛んだ。
(なんなんだよ、こいつ。ほんとに……いい加減にしろよ)
手なんて振りほどけばいい。眠っている間に解けたとでも言えば、彼女だって納得せざるをえないだろう。
でも、奈義は手を離せなかった。
代わりに本当の自分の言葉を、まったく意図せず口からこぼしてしまう。
「……ほんとに俺の夢を見てくれたらいいのにな」
(……こんなこと、思ってねぇ)
「そうしたら一週間じゃできないことも、あんたと夢の中でできるのに」
(思ってねぇ……!)
心の声が出てこない。
口にできなかったその言葉こそ、嘘で満ちた偽りの言葉だと思い知らせるように。
(人の手ぇ繋いで眠るなんて気持ち悪い。同じベッドで寝るのも気持ち悪い。女の髪の毛って長いし、シーツに散ってんの見ただけでぞわってする。なのに、なのに……)
「……なんで、あんたの手を離したくねーんだろ」
ぽろっとまた想いが溢れて静かな部屋に響いた。
指先で彼女の手を少し撫でてみる。くすぐったいのはそうされている彼女だろうに、なぜか奈義の胸の方がくすぐったくなってしまった。
もう少しでこの関係が終わる。そうすれば奈義は自由になれる。
おかしな考えに取り付かれることもなく、彼女を想う夜だって迎えなくなる。
そういう契約だとわかっていて、早く最後を迎えたいと思い続けていたのに――。
再び奈義は彼女の手に力を込めた。
解けないよう、強く。
「朝までなんて言うなよ。あんたがそうして欲しいなら俺は、いつまででも……」
言いかけて奈義は笑った。
それが仕事で演じたときに浮かべた偽物の笑みか、心からの笑みか、奈義本人からは見えない。
「んなこと言ってられる関係じゃねーか」
(……バカだな、俺)
やっぱり彼女に出会ってからおかしくなってしまっている。
仕事としての自分とそうではない自分が奈義を混乱させ、狂わせていた。
苛立ちばかり募るのに、その先を知ればなにか掴めるような気もしてしまう。
(やめやめ。これ以上考えてもなんにもねーだろ。俺は『おとどけカレシ』でこいつはその客。一週間だけの関係でそれから先はなし。……さっさと終わっちまえ、こんなクソみたいな関係)
奈義は目を閉じて彼女のぬくもりに意識を向ける。
きっと彼女は奈義の夢を見るのだろう。別れたそのあとも。
――奈義がそうしてしまうのと、同じように。
楽しくデートを過ごした日の終わりは、スイートルームで迎えた。
フルコースの料理を楽しみ、最近流行りのプロジェクションマッピングを見て、今は遊び疲れた身体をベッドに横たえている。
その隣には一週間だけの恋人、『おとどけカレシ』の奈義がいた。
「今日、楽しかったね」
優しい声が大人びた雰囲気の明かりに溶け込む。
見つめられているだけで少しずつ鼓動が速くなっていくのを理解しながら、奈義の言葉に頷いた。
奈義は毎日、夢のような時間を与えてくれる。
今まで縁のなかった高級なレストランも、宝石のような夜景だって見せてくれた。
どんな夢も叶えてくれるその姿は王子様と呼ぶ他ない。そして、それは幼い頃の憧れを呼び起こしてくれた。
だから奈義といる時間は幸せで、楽しい。
どこか現実離れした日々を、もしかしたら夢なのではと思うことも多かった。日常のどこかに奈義の存在を感じてはほっとする。
例えば通話履歴に。例えばプレゼントに。
それでもいずれ自分の世界から奈義がいなくなってしまうことを理解している。
この声も、眼差しも、いずれ失われてしまう。
それを恐れて、今だけでも奈義を感じていたい気持ちを抑えられず手を伸ばす。
なにを言ったわけでもないのに、奈義は理解したようにその手を取ってくれた。
「君が眠るまで、手を繋いでおいてあげる」
ありがとう、という言葉は途中であくびに邪魔されて消えてしまった。
それを見た奈義がくすくす笑い声をあげる。恥ずかしくて目を伏せようとすると、微かに奈義が首を横に振った。
どういう意味かと聞こうとして、さっきまでよりも穏やかな眼差しに気付く。
視線が絡み合った。そこから逸らせなくなってしまう。
正直に言うとその眼差しは落ち着かなかった。あまりにも優しすぎて、これが一週間限りの関係だと忘れてしまいそうになるから。
――そう。目の前にいるのは一週間だけの恋人。
最初は意識していなかったそれを、今は苦い思いで飲み込む。
同じ時間を過ごせば過ごすほど、奈義との残された時間を思わずにはいられなかった。
終わってほしくない、と心から思い、恐れる。
「……ん、どうしたの?」
――眠るまでじゃなくて、寝てからも手を繋いでほしい。
そう告げると、奈義の笑みが和らいだ。
ずっと離さないでほしいとまでは言えない。いつかこの手は解けてしまう。二人の関係が終わってしまうそのときに。
急に不安がこみ上げる。まだその寂しい瞬間まで時間があるのはわかっていたのに、朝になったら奈義がいなくなってしまうように感じてしまった。
だから、もう一言付け加える。
どうして手を繋ぎたいのか。どうして奈義の温もりを感じていたいのか……。
――朝起きたときに、あなたがいてくれるってわかったら嬉しいから。
奈義は一瞬驚いた顔をして、何事もなかったかのようにすぐ目を細めた。
「そんな心配いらないのに。……俺は君の側にいるよ」
奈義からも手に力を込めてくれる。
触れていたぬくもりが少しだけ強くなった。
それをもっと感じていたいのに、忘れないよう自分に刻みつけておきたいのに、眠気が襲ってくる。
まだ奈義を見つめていたい。もっと話していたい。
いつかの瞬間が少しでも遠くになるように。
それなのに容赦なく眠気はやってくる。今日、奈義の心遣いが嬉しくてはしゃいでしまったのが仇になったらしい。
眠さを感じる自分に気付いた奈義が微笑んだ。
「……夢の中で会おうね。……おやすみ」
おやすみと言ったつもりになる。
多分言えただろう。眠くて口の中に消えていったような気はしていたけれど。
目が覚めたら、奈義との時間はまた今よりも少なくなっている。
やがて残った時間はゼロになり、一緒に過ごしていた七日を終えて、会えない日々が始まってしまう。
もともと奈義がいない毎日を過ごしてきたのに、今はその毎日に戻るのが恐ろしい。
本当に夢の中で会えたらいいのに、と心から願う。
おとぎ話だったら王子様とは夢で会える。例え現実では会えなくなってしまったとしても。
もし本当にそうなれば、きっと寂しくないだろう。
そんな日が来ることはないと知りながら、空想にすがらずにはいられなかった。
空想はいつも甘い時間を与えてくれる。幸せな気持ちを思い出させてくれる。
――別れの現実から目を逸らして、いつものようにおとぎ話を夢見る。
その物語ではきっと、ミステリアスな王子様が七日を超えた先でも手を繋いでくれるのだろう――。
わぁ、と拍手と一緒に感嘆の声が漏れる。
喜ぶ彼女とは対照的に仁は王子様の顔を捨てて眉を寄せていた。
(……んだよ、この格好)
世間はいわゆるハロウィンというもので。
彼女もそれに乗っかろうとしたのだろう。いつの間に用意したのか、吸血鬼の仮装セットを渡してきた。
ねだられて断りきれずに着てはみたものの、あまり似合っているとは思えない。
はぁ、と息を吐いて仁は彼女の頬をつまむ。
「お前、俺のこと吸血鬼みたいだと思ってたのかよ」
なんでこれなんだという思いを込めて詰め寄ると、彼女は意図を理解しないまま笑った。
すごくかっこいい、と当たり前のように言われ、言葉を失ってしまう。
(かっこいい、じゃねぇだろ)
こんな格好、かつての舎弟には見せられないとまで思っていたのに、彼女のそんな何気ない一言が「まぁこういうのも悪くないか」という気持ちにさせてくる。
よっぽど仁のこの格好が気に入ったのか、彼女は背伸びをして頭に付けた悪魔の角を触ろうとしていた。
触れさせまいと仁も背伸びすると、むっとした顔をして胸元を叩いてくる。
「調子乗んな。……ったく」
そう言われても懲りない彼女をいじらしいと思ってしまった。
謎の敗北を感じながら、屈んで角に触らせてやる。
そもそもこれを購入してきたのは彼女なのだから、敢えてこうして触る必要などないはずなのだが。
「……これで満足か?」
うん!といい返事と笑顔が仁の毒気を抜く。
(あー、クソ)
そんなに喜ぶならもう少しだけ付き合ってやってもいいと思ってしまった自分が悔しい。
手のひらの上で転がされている気がして、このままでは男の沽券に関わると攻めに転じてみる。
「大体、なんで俺だけなんだよ。お前の分はどうした」
彼女は少し考え込んだ様子を見せて、手元の袋からカチューシャを取り出した。
と言ってもただのカチューシャではない。ご丁寧に黒い猫耳が付いている。
「は?それだけか?俺は服まで着てやったのに?」
どうやら彼女は仁にだけ仮装をさせて、自分はカチューシャで済ませるつもりだったらしい。
(ってか、俺が言わなかったら猫耳すら付けるつもりなかったんじゃ……)
そう思った瞬間、仁は彼女の持つカチューシャを取り上げていた。
「猫の格好すんのと、俺に血ぃ吸われんのとどっちがいい?」
きょとん、と彼女が驚いたように目を丸くする。
「ハロウィンって言ったらトリックオアトリートだろ」
(俺に『甘いもん』用意するのと、イタズラされんの、どっちがいいんだよ)
まさか自分がお菓子扱いされているとも知らず、彼女は難しい顔で悩み始めた。
そして――。
●猫耳を付ける
猫耳を付ける、と彼女は言った。
続けて、お菓子はいいのかと不思議そうに尋ねてくる。
「お前が俺の『お菓子』だろ」
そう言ったものの、意味を理解していないのは明白だった。
反応を待たず、仁はさっさとその頭に猫耳を付けてやる。
そして、まじまじと見た。
「……へー、普通だな」
言ってから、あくまでさりげなく後ろを向く。
ゆっくりゆっくり深呼吸を二回。
吸って吐いてを繰り返し、ぶわっと耳まで熱くなったのを隠すように顔を隠した。
(はあああああ!?こいつ、こんなに猫耳似合うのかよ!?)
猫耳なんてあざとすぎて胸焼けがしそうなものに反応するのは、単純バカの壱ぐらいだと油断しきっていたのに、今や仁の頭の中には猫耳姿の恋人しか浮かんでいない。
かわいいだとか、愛でたいだとか、そんな次元を超越して絶句する。
(たかが猫耳じゃねーか!たかがカチューシャじゃねーか……!)
よくわかっているはずなのに、らしくもないどきどきが抑えきれない。
気が付けばにやけてしまう顔を引き締めようと、深く息を吐きながら天を見上げる。
今までに数多の暴走族を震え上がらせてきたきつい眼差しで天井を睨みつけたのは、そうでもしていないと耐えられそうになかったからだ。
(ハロウィンなんかくだらねーと思ってたのに……クソ……)
このままではハロウィンに対して万歳三唱してしまいかねない。
さすがに興奮しすぎた、と反省しながら自分を落ち着かせる。
再びゆっくり深呼吸をして視線を天井から前に戻した。
いつの間にか、彼女が前に移動し、仁を見上げている。
(くっ……そ……かわいい……)
ぎりぎり口元が緩んでしまうのを堪え、仁はやや目つきを鋭くする。
しかし。
そんな仁に向かって、彼女はにへら、と力なく笑った。
――照れながら、にゃん、と猫の真似をして。
(……あー)
仁が額を押さえた理由を彼女は知らない。
反応の鈍さに、やはり猫の真似まではやりすぎただろうかと慌てている。
そんなふざけたことをするような歳じゃなかった、学生でもあるまいし、と彼女がぶつぶつ言っているのが聞こえてきた。
仁がなにも言えないでいるこの状況を、呆れからの沈黙だと受け取ったらしい。
今のは忘れて、と言うのを聞いてようやく仁は現実世界に戻ってくる。
(忘れろ?ふざけんな、お前のおかげで向こう十日は猫耳の夢見ちまうわ)
既に愛らしい猫耳姿の恋人は目にも頭にも焼きついてしまっている。
いっそ、思う存分愛でてやれば落ち着くかもしれないと仁の耳元で悪魔が囁いた。
(……確かにな)
その言葉にあっさり納得して、ずい、と彼女に迫る。
「さっき言ったよな。俺の『お菓子』になれって」
猫耳を外そうとしていた彼女の手が止まる。
その腕を掴み、仁はぶっきらぼうに引っ張った。
「来いよ、にゃんにゃん言わせてやる」
え、と彼女が小さく声を上げたのも気にせず、そのまま部屋まで連れ込む。
そして仁はイタズラの代わりに『お菓子』を堪能したのだった。
●吸血される
血を吸われる?と彼女は若干疑問符を浮かべながら答えた。
それを聞いて、仁はゆっくり口角を引き上げる。
「吸血鬼って言ったら、血ぃ吸わねぇとな。……付き合えよ」
どさりと優しく、それでいて強引にソファへ押し倒されてから、彼女はようやく仁の意図を察したようだった。
戸惑いとためらいといろんなものを顔に浮かべ、仁の様子をうかがってくる。
こういうときいつも彼女が「冗談だよね?」という顔をしているのをわかっているからこそ、仁は笑ってしまった。
(今まで俺がこういうときに冗談だって言ってやったことあるかよ)
直接伝えることはせず、本気だということを思い知らせるように小さな手を取る。
「どっから吸われたい?ここか?」
手首に唇を寄せて吸い上げると、微かに濡れた音が響いた。
ぴくりと反応した彼女には構わず、軽く舌を這わせてみる。
その後に甘噛みをして、彼女の反応を見ながら唇を離した。
「それとも王道のこっちのがいいか?」
そう言いながら、答えを待たずにその首筋へと顔を埋める。
柔らかくて心地よいぬくもりと、白い肌からうっすら漂う甘い香りを吸い込みながら、そこにもキスをした。
手首にしたのと同じように吸い上げ、噛み付く。
そんなに力を入れたつもりはなかったのに、気が付けば赤い痕が残ってしまっていた。
彼女が小さな声で仁の名前を呼ぶ。
「いいんだろ、吸っても」
きっと彼女が望んでいたのはそんな言葉ではない。
冗談だよ、と笑ってくれるとでも思っていたのだろう。
王子様の仁ならそうしていたかもしれないが、今、彼女の目の前にいるのはなにも隠さないただの瀬戸仁だった。
当然王子様らしくやめるわけもなく、恋人としての答えを返してやる。
「俺に吸血鬼の格好なんてさせたお前が悪い」
そんな、と言ったように聞こえたけれど、それを声ごと唇で塞いでしまう。
唇も、そして舌にも歯を立てると、またびくっとその肩が跳ねた。
「お菓子が用意できねぇなら、『イタズラ』されてもしょうがねぇよなぁ」
そう言った仁の目の前で、彼女はぶんぶん首を横に振る。
(今更遅いに決まってんだろ。バカなヤツ)
けれど、そんな風にうっかり誘惑してくる彼女が愛おしくてかわいらしい。
動揺されればされるほど、仁はその顔を赤く染めたくなった。
それは恋人になる前から変わらない。
「……顔、真っ赤だぜ?」
笑い声を含みながら言って、そっと彼女にキスをする。
その後どんな『イタズラ』が彼女を襲ったのか、それを知るのは二人だけしかいない――。
年に一度のハロウィン。
それは『おとどけカレシ』のキャストたちにも例外なく訪れる。
もちろん、そんな面白そうな企画を見逃すメンバーではなく、当然のように彼らは集まっていた。
「あおちゃん、ミイラ超似合う!やっべー!」
「いっちーさんも死神めっちゃ似合いますよ!なんかかっけー!」
「はいはい、いいからそこどいて」
はしゃぐ葵と壱を押しのけ、ここに引っ張られてきた奈義がソファに座る。
興味がなかったのに来てしまったのは、周りの強引さを拒みきれなかったからだった。
「奈義くん、魔法使いの格好ぴったりだね。ほんとに魔法かけてくれそう」
「そういう、頭ん中お花畑なこと言わないでくれる?」
「だってすごく似合うもん」
「海斗くんの悪魔も似合ってるよ」
「ありがと、はるくん」
シーツの裾をまくりながらやってきた遥が座れるよう席を詰め、海斗は頬を緩めた。
騒がしい壱と葵の二人を放置し、比較的おとなしい三人が並んでソファに座る。
奈義は魔法使いを、海斗は悪魔を、遥はシーツお化けのコスプレをしていた。
それぞれが自分で選んできたわけではない。
これをチョイスしたのは壱だった。
「一番似合ってる奴はー、壱おにーさんから記念品の贈呈でーす!ぎゃはは!」
「何、真中さん、もう酔ってんの」
「さっき飲んじまってっかんなぁ」
ずるずる包帯を引きずりながら、葵もちょこんとソファの肘置きの部分に座る。
メンバーをぐるりと見回し、口を開きかけた。
それより先に遥が気付いて尋ねる。
「あの……一人足りなくないですか?」
そう、ここには『おとどけカレシ』のキャストが揃っているはずなのだ。
それなのに六人いるはずのメンバーのうち、五人しかいない。
「ナンバーワンはどこだー!」
「壱さんが変な誘い方するから来なかったとか……」
「なんだとぉ!?はるちゃん、変ってなんだ!変って!おにーさんに説明してみなさい!」
「ええ……」
もともとハロウィンをやろうと――やりたい、やるべきだ、やらない以外の選択肢があるのか、と――騒いだのは壱だった。
まず最初に葵に連絡を付けて仲間を増やし、そこからこつこつ外堀を埋めて奈義まで引き入れることに成功。当然六人揃うものだと確信していた。
それなのに、だ。
最も難しいと思われていた奈義の勧誘には成功したのに、案外こういうときは参加してくれる仁の姿がない。
遅れてくるという連絡もなく、参加するという連絡もなかった。
「せっかく仁ちゃんのために吸血鬼の服買ったのに……。なけなしのお金だったのに……」
「どうしたんでしょうね、仁さん。連絡がつかないなんて珍しいです」
海斗が心配するのも無理はない。
小学生レベルの言動を繰り返す壱ならともかく、仁はしっかりしたまともな人間である。
元暴走族総長とは言っていたものの、ナンバーワンにふさわしく報告、連絡、相談のそれぞれもしっかりしていたというのに。
「なあなあ、もしかして彼女がいるんでね?」
心なしかわくわくしながら、そしてなぜか声を潜めながら、葵が言う。
その言葉に全員がぴしっと凍りついた。
「瀬戸さんに……」
「カノジョ……」
奈義の言葉を引き継いだ壱が呆然と口を半開きにする。
「そそそそれって二次元ですか二次元ですよね二次元に決まってます」
「はるっち、落ち着け!認めろ!」
あわあわしだした遥を葵が落ち着かせる。
ここにいる誰もがいろいろなことを想像していた。
葵は仁のカノジョになるような女性は、きっと頼もしい姉御なんだろうと憧れ。
奈義はあの仁がカノジョに対してデレたりするのだろうかと首を傾げ。
海斗はちょっといろいろすぎることを想像してしまい、顔を赤らめ。
遥は先日プレイしたヤンキー女子を攻略するゲームのエンドがどうだったか思い返し。
壱はとりあえず仁のカノジョが巨乳かどうかを真剣に考えた。
「あーーーー!俺も巨乳でないすぼでぃーでぼんきゅっぼーんなカノジョにトリックオアトリートしたかったー!」
泣き真似をしながら崩れ落ちる壱を、誰も慰めにはいかなかった。
壱がこうなるのはいつものことだし、そもそも欲望が全面に溢れすぎていてツッコミ所に困ってしまう。
「カノジョがいたって、別にハロウィンなんかやらないだろ。こんな子供騙し、バカバカしい」
冷たく言い放つ奈義に、壱が恨みがましい視線を向ける。
「じゃあさー、奈義ちゃんはカノジョができたとしたらハロウィンはどう過ごすんだよー」
「……別にどうもしませんけど」
「今、ちょっと間があったな!俺当てるわ!どうでもいいって言うくせに、カノジョのおねだりに負けてしょうがないなーってコスプレしてあげるやつだろ!そんでそんで、てっきりイタズラできると思ってたのにカノジョがお菓子持ってたせいでなんにもできなくて、なんかもやもやするとみた!」
「なんでやたら具体的なんですか」
苦い奈義の表情を見ている限り、とても壱の言うようなことになるとは思えなかった。
そもそも潔癖症の奈義にカノジョができること自体ありえない。
それは、ここにいる全員が思っている。
「あおちゃんはどんな感じだろうなー?」
「俺、多分そーたこと付き合ってくれるカノジョじゃないと無理っす。だってイベントは一緒に盛り上がらないとつまんねぇべ。二人でトリックオアトリートっつって、お菓子交換して、イタズラもいっぱいする!でねでね、あとは……」
「はい、あおちゃん長い!妄想そこまで!」
「えー」
乗ってきたら乗ってきたでカットされ、葵はむっと唇を尖らせた。
「次!海ちゃん!」
「えっ、あっ、は、はい。俺はカノジョにトリックオアトリートされたいです……!」
いつの間にか性癖暴露大会のようになってしまっているのは、きっと気のせいなのだろう。
頼みの綱の奈義が持ってきたお菓子を食べ始めてしまったせいで、ツッコミが不在になってしまった。
「どうせならお菓子ちょうだいって言われたいじゃないですか。用意してたよーってあげてもいいし、ないからイタズラしていいよーって言うのもいいかなって。お菓子あげたら、きっと喜んでくれるんだろうなぁ……」
「きっと喜んでくれる……って、海ちゃん妄想しすぎて脳内カノジョできてんじゃねーか!その子巨乳?」
「そ、そんなところまでは想像してないですっ」
突然突っ込まれた下ネタに耐えかね、海斗は奈義のもとまで逃げていった。
渡されたお菓子を口に無理やり入れてむせてしまっている。
「そんじゃ、お待ちかねのはるちゃん!」
「ハロウィンって実際ただのコスプレイベントじゃないですか。毎年そういうイベントがあってですね。古今東西から集まってきたコスプレイヤーたちが、それぞれ渾身の衣装を披露するんです。ああ去年のコスほんとすごかったな。ミミちゃんのあんなハイクオリティなの初めて見たよ。あっ、そうだ画像ありますよ、見ます?ってか見てください、見ろ」
「あ、あおちゃんパス!パーーース!」
「えー、なんで俺……」
「葵さん見てください、これがコスプレイヤーです。正直二次元以外には興味ないですけど、これならちょっと許してもいいかなって思っちゃったんですよね。すごくないですか?これがハロウィンですよ、ふざけたカップルどもがきゃっきゃうふふして騒ぐイベントじゃねーんだ帰って寝てろ」
「は……はるっち……」
どうやら遥にとってハロウィンとはキャラのコスプレをして盛り上がるイベントらしい。
ここ数年に渡って参加したイベントの写真を喜々として葵に見せる様子は、いかにもオタクと言わざるをえなかった。
「なんかアレだよな。はるちゃんもカノジョのノリよさそう。一緒にコスプレしてハロウィン楽しみそう……」
「そういう真中さんはどうなんですか?」
海斗にお菓子をせっせと渡していた奈義が尋ねる。
それを聞いた瞬間、壱は待ってましたとばかりに顔を輝かせた。
「めっちゃエロいコスプレしてもらう!なんか、なんか、アレ!小悪魔ナースさん!」
「悪魔なのかナースなのかどっちかにした方がいいんじゃ……」
「海ちゃんなんにもわかってねぇな!?ナースさんなのに悪魔なのがいいんだろうが!」
「御国に変な知識を植え付けるのはやめてくれません?」
「だってー」
へへへ、と壱がなんともゲスい笑みを浮かべる。
「まず、エロいコスプレしてもらうじゃん?でー、俺がトリックオアトリートすんの。お菓子持ってねぇって知ってるから、そのままイタズラして……うへへへへ」
「どういうイタズラをするんですか?」
「御国、そこ聞かなくていいから」
はぁ、と奈義は軽蔑の眼差しを壱に向ける。その程度でへこたれるような壱ではないが。
放っておいている間に、壱は妄想の世界に飛び立ってしまったようだった。
時折、にやにや笑いながら「超やらしい!」と叫んでクッションを叩いている。
その横では遥が葵にハロウィンイベントの写真を見せ、なかなか盛り上がっていた。
ジャンルが違うとはいえ、葵もゲーマーである。そのせいか、ゲームキャラの衣装を見せられるとついつい乗ってしまうらしい。
「奈義くん、ハロウィンのために集まったのにハロウィンらしいことできてないよ」
「じゃ、トリックオアトリートする?」
「いいよ。今ここにたくさんお菓子あるし」
「それじゃ、あんま意味ないか」
やっと笑った奈義が、海斗の手の上にメイプル味の飴を一つ置く。
お返し、と言いながら海斗も奈義にマシュマロを渡した。
「来年は仁さんも一緒だったらいいね」
「その頃には全員カノジョがいたりして」
「えー、俺にできるかなぁ」
「俺の方が無理だろ」
「そうかな?」
あはは、と海斗はふにゃふにゃした顔で微笑んだ。
奈義もつられたように口元を緩めて、来年のハロウィンを想像してみる。
もしかしたら仁がいるかもしれないし、誰も集まらなくなってしまうのかもしれない。
ただ、どんな未来だとしてもきっと全員が楽しく過ごしているのだろうと確信した――。
――七日間だけの契約は、永遠の契約に変わった。
奈義は期間限定の恋人と本物の関係になり――。
家に入るなり、奈義は顔をしかめた。
「汚い」
びくっと先導していた彼女が振り返る。
そんなに汚い部屋ではないはずだった。あくまでも一般的な基準であれば。
ただ、残念なことに奈義は潔癖症だった。
「なんで床に物、散らばってんの」
さっさと中に入った奈義は、すぐに部屋の片付けを始める。
ゴミが落ちていないことにほっとしながら、自分が満足するまで辺りを整えた。
これでも奈義が嫌な思いをしないように頑張って掃除をした方だ、と彼女は小さい声で訴える。
「何?」
また、彼女がびくっと身を震わせた。
そして、納得いかないとでも言いたげに奈義を上目遣いで見上げる。
(やめなよ、その顔)
言おうとしてやめたのは、彼女がその顔をしなくなるのを自分が一番恐れていたからだ。
きつい物言いをする奈義にもめげず、彼女は自分の考えをきちんと伝えてくる。
その時、いつも彼女は奈義を見つめてきた。
結ばれる前は夢見がちでおとぎ話に憧れるような、奈義から言わせてみればちょっとお花畑な思考をした、ある意味放っておけない女性だった。
それなのに、こうして付き合ってから改めて思い知ることになる。
空想を抱き続けるということは、それだけ自分の思いに強い意志があるということ。
自分の中の世界をきちんと持った彼女は、奈義が夢を見させている間にきらきらさせている瞳と同じ眼差しで、奈義の心ごと見つめてくる。
奈義はその目が好きだった。
その目になら心を晒してもいいと思っていた。
(まさか俺がここまで……ね)
「何そこでぼーっとしてんの。こっち来なよ」
立ち尽くしていた彼女が慌てたように奈義のもとへやって来る。
ほんの少し距離を開けたのが気に入らず、奈義はその肩を引き寄せた。
「彼氏と距離取るのやめたら?」
だって、とまた彼女が何か言おうとした。
それよりも先に、奈義はその唇を奪ってしまう。
「言いたいことあるなら言えばいいじゃん」
(言えるなら、だけど)
もちろん、そうすれば彼女は何も言ってこない。言えるはずがない。
今日もしてやられた、とその顔に書いてあるのを、奈義はいい気分で眺めた。
(あーあ、俺がこんなことするなんて)
唇へのキスがこんなに簡単にできるものだとは知らなかった。
彼女の前になると、奈義の潔癖症はどこかへ行ってしまう。
嫌味ったらしく部屋を片付けたのは、ちょっとむっとする彼女を見たいからだ。
そんなに意地悪ばかりしてはいずれ嫌われてしまうかもしれない、という不安はないわけではなかったけれど、たった一回のキスで彼女は機嫌を直してしまう。
それどころか、次はもっと奈義に気に入られるよう部屋を片付けておく、と張り切る始末だった。
「膝、乗る?」
今もまた機嫌を直した彼女にそう尋ねてみる。
誰かの体温も気持ちが悪いものだったのに、彼女が相手だとむしろ心地よい。
それどころか、もっと触れたくて、もっと味わいたくなってしまう。
奈義がせっかく誘ったのに、彼女はためらいを見せた。
曰く、恥ずかしい、とのこと。
(なーに思い出してんだか)
笑いたくなるのを堪えて、奈義は強引に彼女を引き寄せる。
そして、自分の膝の上に乗せた。
「俺に見上げられんの好きだろ。この間、言ってたもんな」
彼女は明らかに顔を赤く染めながら、ぶんぶん首を振る。
この体勢は奈義に顔をじっくり見られてしまうから嫌だ、と本音とは思えない言葉をこぼしながら。
「じゃ、あの時甘えてきたのは嘘だったんだ?へー」
違う!と彼女はすかさず否定してくる。
奈義がそっぽを向いたのを見て、すぐにぎゅうっと抱き締めて機嫌を取ろうと始めた。
(あんた、嘘吐けるほど器用じゃないじゃん。いい加減、俺に遊ばれてるんだって気付けば?)
それは言わないで、彼女がすりすり顔を寄せてくるのを受け入れる。
ぽんぽん頭を撫でると、顔を擦りつけていた彼女が落ち着いた。
こういうとき、まるで犬猫のようだと思ってしまう。
(まだ俺のこと、王子様だと思ってる?馬鹿な女だな)
奈義は彼女を見上げた。不安げな顔を見つめて、ふっと笑う。
「馬鹿すぎてかわいい」
彼女の後頭部に手を添えて、奈義の方から近付く。
重なった唇はやっぱり奈義にとって甘くて、心地よい感触とぬくもりをはらんでいた。
もっと、と奈義は彼女を両腕で抱き締める。
すがりついてきた彼女を甘やかしながら唇以外の場所にもキスを落とした。
びく、と部屋に来たときとは違う震えが彼女の身体に走る。
逃げようと身を引いてはいたものの、奈義の膝の上で抱き締められているこの体勢で、どうやって逃げようというのか。
「お姫様って王子様から逃げていい生き物だっけ?」
彼女の憧れを知っていてそう告げる。
今はもう彼女も夢見がちなことを言わなくなった。だから奈義は意地悪くそんなことを言う。
そうやって現実を叩きつけて、夢の中の王子様に心を奪われてしまわないように。
いじわる。
そう、小さく彼女が呟いた。
「そんな俺が好きなくせに」
奈義も言い返す。
ややあって、彼女はこくりと頷いた。
そして、奈義を抱き締めながら告げる。
好きだから今日は誘ったんだよ、と。
さすがにそれを聞いて奈義の思考が止まった。
あまりにも、あまりにも、すぎる。
(大胆なこと言ってくれるじゃん。だったら……)
だから頑張って料理を勉強した――と更に彼女が続けて、服の裾に伸びかけていた手を止める。
「……は?勉強?料理を?」
続けて彼女の話を聞いた奈義は、正直呆気にとられた。
まさか『奈義のことが好きだから、手作り料理を食べて欲しいと思った。だから料理教室に通ってみた』なんて言うとは思わなかったからだ。
(忘れてた。こいつ、頭ん中花畑なんだった)
最近はそうじゃなかっただろ、と毒づきながら、仕方なく奈義は彼女を解放する。
彼女はほくほく顔――多分、奈義が何度もキスしたせいだろう――でキッチンへと向かった。
それを恨めしげに見送り、奈義は額を押さえる。
そして一時間も経たないうちに、奈義の目の前にはそれなりの料理が用意されていた。
(料理教室に通ったなんて言うからどんなものかと思ったけど、割と普通なんだな)
彼女が勉強してきたのは、一般家庭でいつ作るのかと突っ込みたくなるような豪勢な料理ではなく、かつおぶしから出汁を取る方法や、ちょっと特殊な飾り切りの方法だった。
今も冷ややっこに、いびつな花の形をしたきゅうりが添えられている。
(手料理って好きじゃねーんだけど)
それを言わなくても彼女は知っているはずだった。
だからきっと、立派な料理を学ぼうとは思わなかったのだろうと考える。
普通のものを、普通に。
奈義自身にすら線引きが分からない潔癖症が、楽しい食事の邪魔をしないように。
今、彼女が緊張した顔で奈義を見つめているのは、料理の味を心配しているからではない。
奈義がこれを食べてくれるかどうか。ただそれだけを気にしている。
(……馬鹿だな)
いただきます、と手を合わせて、奈義は料理に手を付けた。
どこにでもあるような素朴な和食。それでも、これは奈義のためだけに作られたもの。
「……うまいじゃん」
あながち社交辞令でもなく、奈義はそう感想を述べた。
その瞬間、彼女の顔が泣きそうに歪んだのを見て、内心慌てる。
「まぁ、まだ勉強不足なんじゃないの。俺、味噌汁はもっと薄い方が好き。赤より合わせのがいい。それから……」
また食べてくれるの、と彼女が聞いた。
震えるその声を聴いて、奈義は笑う。
「俺以外に誰があんたの下手な料理を食うんだよ」
彼女は奈義の言葉に俯いてしまう。奈義は気にした素振りを見せずに、大切に作られた料理を味わっていった。
主食もおかずも食べ終え、最後に残ったのはちょっとしたデザートだった。
とはいえ、ただりんごを花の形に切っただけのものだ。
(さっきも花型だったよな。大丈夫かよ、そこの料理教室)
それもやっぱりいびつだったけれど、奈義にとっては世界中のどんな花よりも可憐に見える。
食べてしまうのがもったいない、と思いながら口に運ぼうとしたとき、彼女が小さく声を上げた。
そして、ためらいがちにおねだりをしてくる。
「……は?あーんなんかしねーよ」
やや早口で言ってしまったのは、不意打ちを喰らって奈義も照れてしまったから。
分かりやすくがっくり肩を落とした彼女を見て、奈義は舌打ちする。
「……仕方ねーな。一回だけだから」
(こいつ、俺の扱いがうまくなってやがる)
彼女が落ち込むかも、と思うと奈義はどうも強く出られなかった。
そのせいで少々恥ずかしいおねだりを聞く羽目になってしまう。
さっき甘く触れてきた唇が、あーん、と囁きながら形を作った。
それに見惚れてしまいながら、奈義は渋々口を開ける。
さっさと咀嚼してしまえば、なんてことはないりんごだった。
「あーんしたいなんて馬鹿じゃねーの。脳内お花畑ちゃん」
小馬鹿にしつつ、さりげなく彼女から目を逸らす。
顔を見られないよう、徐々に徐々に顔を背けて、口を覆った。
(あーん、じゃねーだろ……!)
奈義が食べるまでのその短い時間。そして奈義が食べたその瞬間。
じっとこちらの様子を窺いながら、分かりやすく嬉しそうにしたその顔が――堪らない。
(クソ……っ)
今の奈義の気持ちを言葉にするなら、大敗北、だろう。
奈義が応えてくれたことでまたほくほく顔になった彼女を見るのすら辛い。
直視してしまえば、何をしてしまうか分からなくて。
それなのに、誘うように奈義の名を呼ぶ声が聞こえた。
私にもして、と聞こえたような気もした。
「そんなにして欲しいならしてやるよ。こっち向け」
彼女が言ったのはあーんのことだった。
奈義の脳内はそれを都合よく、キスしてほしい、と変換する。
だから、突然のキスに彼女はとても驚いてしまった。そのせいで逃げ損ねて、硬直してしまった。
それをいいことに、奈義は抑えの利かなくなった理性を解放してしまう。
「キス以外には何して欲しいんだ?言ったら叶えてやるよ。なんでも、な」
さっきは彼女の間の抜けた発言に毒気を抜かれて手を出せなかったが、今はもう違う。
今度こそ触れたかった場所に触れ、したいだけ肌へとキスを落とした。
――お姫様にガラスの靴をプレゼントした奈義は知っている。
お姫様のドレスを脱がせるのもまた、王子様の役目だということを――。
一日も終わる頃、海斗と奈義は缶ビールを飲み交わしていた。
なにか用があって集まったわけではない。ただお互い暇だったからなんとなくこうなった。
こんなときでもちょこんと丁寧に正座する海斗の後ろで、奈義がソファに座る。長い足を組みながら片手にビールを持ち、携帯に目をやった。
「あ、次の予約入ったわ」
「奈義くん人気だもんね」
「御国もだろ。さすが俺様ドSだな」
「それ、嫌味にしか聞こえないよ」
言いながら、海斗はちびちびビールを口に含む。
一気に飲めないのはそこまでアルコールに強くないせいだった。
「御国は最近どう?仕事、順調?」
「一応……」
「なんだよ、はっきりしねーな」
「俺は頑張ってるって自分で思ってるけど、お客さんがどう思ってるかわからないし……」
「もっと自分に自信持てばいいじゃん。ほら、俺様頑張れ」
「だからそれ嫌味だよ、奈義くん……」
海斗が苦笑しながら奈義を振り返ろうとしたとき、携帯が鳴った。
奈義のものではない。海斗のものが鳴っている。
「あ……桜川さんだ」
電話の主は二人が所属しているBLOSSOM社のオーナーだった。
かつては伝説のキャストと呼ばれていたらしい。その話を聞いたとき、今のキャストメンバーで「嘘だ」と口を揃えたものだ。
桜川は非常に厳しい仕事人間で、とても女性に喜ばれるようなキャラはしていない。彼らも――特に壱は――死ぬほど恐ろしい思いをさせられてきている。強いて言うなら、現ナンバーワンの仁が一番その恐ろしさから遠いだろう。もっとも、仁は桜川に恐れを感じるような性格ではないが。
「えー、俺なんかしちゃったかな……」
「びびってないで出れば?きっと御国が電話の向こう側でびくびくしてること、気付いてると思うし」
「うう……だよね……。ごめん、奈義くん。ちょっと電話出てくる……」
「行ってらっしゃーい」
奈義が席を外した海斗の背中を見送る。
残っていたビールを奈義もまたちびちび飲みながら、携帯をいじって次の予約について確認を始めた。
しばらく海斗は戻ってこなかった。
それを大して気にすることなく奈義はだらだら過ごす。
やがて、聞かずともなにかあったとはっきりわかる様子の海斗が帰ってきた。
落ち込んでいるのを隠さず、とぼとぼソファの前に座り、先ほどとは違って体育座りをする。
「なに、怒られた?」
「うう……」
「まぁ、よくあることじゃん。元気出しなよ」
奈義の言葉に、海斗はこくんと頷いた。
しかし、その後も海斗は落ち込み続ける。
三十分ほどそれが続いたことで、さすがに奈義も溜息を吐いた。
後ろから海斗の背中を軽く蹴る。
「ねぇ、御国。いつまでそうしてるつもりなわけ?」
「うっ……うっ……」
「話ぐらいは聞くからさぁ……」
きっと半泣きになっているであろう海斗の背中を足蹴にしながら、奈義は「ほらほら」と話を促す。
肩を落としてしょんぼりしていた海斗は、奈義を振り返ることなくぶつぶつ電話でのことを語り始めた。
「前回の俺のお客さんから、感想が届いたんだって……。すごい喜ばれたのはいいんだけど、『まさか俺様ドSな海斗様のあんな瞬間が見られるなんて』っていうのがあったらしくてね……」
「あんな瞬間って、なにやらかしたの。……あー、言わなくてもわかるよ。どうせ演じるのミスったんだろ」
「うう……。信号渡るときにクラクションにびっくりしちゃったんだよ……多分それ……」
「びっくりすんなよ、それぐらいで」
「だって……大きい音がしたから……」
「んで?そういう感想来て、桜川さんから釘刺されたってとこ?」
「そう……。今回は大丈夫だったかもしれないけど、次は気をつけろよって言われた……」
「まぁ、そういう状況だったら言うよな」
「怖いよ……次のお客さんにも指摘されたらどうしよ……バレるの怖い……」
はぁ、と奈義はわざとらしく溜息を吐いた。
そして、海斗の背骨の辺りをぐりぐり蹴る。
「前回のことはもうしょうがねーし、次頑張ろうでいいだろ。またバレるかもーなんて思いながら仕事したら、またボロ出るんじゃねぇの」
「そうなんだよね……女の人って鋭いじゃん……?怖い……女の人が怖い……」
「陽向みたいに二次元に逃げんなよ」
「うう……逃げたい……」
「逃げんな。追いかけて三次元に引きずり出すからな。瀬戸さんと一緒に」
「それはそれで怖いね……」
「もしくは、御国の部屋の前に東城と真中さんを置いとく。二人でずーっと喋り続けてるだろうな、あの人たち。酒でも置いといたら一晩中やらかすぞ」
「近所迷惑だよ……」
「嫌なら元気出せ。うじうじすんな」
そう言うと、奈義は海斗に飲みかけのビールを差し出した。
ぬるくなったそれを受け取り、海斗は奈義を見上げる。
「ほら、飲め。酒で忘れちまえ」
「反省しなきゃ今後に生かせないよ……」
「いいから」
「……うん」
急かされて海斗は一気にビールを煽る。
あまり強くないこともあってすぐに顔が赤くなったものの、まだ許容範囲らしく、意識を失うようなことにはならない。
「あー、うん。そうだよね。奈義くんの言う通り、もうちょっと強気に頑張る」
「おー、そうしろそうしろ」
空になった缶を置き、海斗は振り返った。
顔を蹴ってしまわないよう、さっと奈義が足を引っ込める。
「この仕事、一人じゃなくてよかった。奈義くんもそうだけど、他のみんなもいてくれて本当によかった。そうじゃなかったら俺、きっとだめだったよ」
「だめじゃねーよ、バカ。もっと自分に自信持てば?俺から見たら御国ってすげー頑張ってると思うよ。俺はおとなしくにこにこして『俺、天然なの』って言ってりゃいいけど、御国はおとなしい方が素じゃん?無理してオラオラな自分演じるのって、ほんと大変だろ」
「……うう、奈義くーん!」
「おわっ!?」
勢いよく海斗が奈義飛びつく。まるで大型犬が大好きな飼い主に遊んでもらおうとしているかのようだった。
奈義は引き剥がそうとしたものの、海斗が半泣きになっているのを見てやめる。
代わりに落ち着かせようと背中をぽんぽん撫でた。
「落ち着け落ち着け。話聞くだけなら俺にもできるし、酒も付き合うから」
「うう、俺……次も頑張れるかなぁ」
「かなあ、じゃなくて頑張るんだろ。んでさ、終わったらまた宅飲みしよーぜ。次は他のみんなにも声かければいい。そしたら、なんかあってもみんなが励ましてくれるし」
「奈義くーーーん!」
「あー、はいはい」
どうやら、一気飲みのせいでアルコールが回っているらしい。
呂律が回らなくなり始めている海斗を、奈義はその後もよしよしなだめ続けた。
「ったく、ほんとはこんなキャラなんて誰にも言えねーよなぁ……」
ぐすぐす鼻を鳴らす海斗の髪をかき回しながら、奈義は呆れたように呟く。
自分も他には言えない本性だということは、とりあえず置いておくことにした。
海斗はいつものようにびくびくしていた。
一緒に歩く相手は、海斗に向かってはっきり嫌いだと言い切ったとんでもない客だったからだ。
(今日は嫌な思いをさせないといいんだけど……)
彼女は案外、言いたいことを口に出してくれない。
それを促すように「おねだりしろ」等と言ってみるものの、反応を見ている限りは逆効果にしかなっていないだろう。
ただ、今の海斗にはそれ以外にどう言えばいいのかわからない。
(女性はこういう方が嬉しいんじゃないの?)
彼女と過ごす中で飽きるほど疑問に思ってきた。
ことごとく海斗の予想を裏切る彼女が、どういったときに喜び、どういったときに嬉しいと感じるのか、まだ掴めていない。
(……聞いてみようかな)
「お前、俺にされて嬉しいことって……あるのか」
語尾が小さくなったのは海斗がぎりぎりのところで怯えてしまったせい。
きっぱり「ない」と言われたときに、どんな顔をするかまだ考えていないからだった。
しばらく返事を待ってみる。
一緒に歩いているはずの彼女は、心ここにあらずといった顔でぼんやりしていた。
(あれ、聞こえなかったかな。それとも答えづらくて黙ってるとか……?う……わ、わからない……)
どう対応するか悩んだ結果、海斗はいつも通り俺様として声をかける。
「おい、返事はどうした?」
どこか遠くを見ていた彼女が、ゆっくりと海斗を見る。
え、と小さく声をあげたのが聞こえた。
(やっぱり聞こえてなかった?)
「お前、いい度胸だな。この俺の話より集中することなんてあるか?ねぇだろ?」
(お仕事で疲れてるのかもしれない……)
言っていることと考えていることが噛み合っていないのは百も承知で、彼女を心配する。
昨日会ったときも薄々気付いてはいた。
彼女はちょうど仕事で忙しい時期らしい。
その疲れを隠そうとしているのはわかる。
が、人の顔色をうかがいたがる海斗は見抜いてしまっていた。
(大丈夫……?)
この後のプランはあちこちを歩き回るものだった。
変更した方がいいだろうかと考え、うつむいてしまった彼女を見つめる。
「おい」
顔色だけは確認しておこうと顎を持ち上げてみた。
「ごめんなさい、ご主人様……だろ?」
俺様らしく演じながら彼女を見つめ――。
その瞬間、吸い寄せられるように瞳から目をそらせなくなる。
(この子、こんなにきれいな目をしてたんだ)
他人事のように思ってしまったのには理由がある。
海斗はビビリなせいで人の目を見るのがあまり得意ではない。
そのため、彼女との身長差を理由にあまり視線を合わせようとはしなかった。
嫌いとはっきり言い切った相手の目を見ながら話すなんて、三秒持てば海斗にとってはものすごい快挙だろう。
(あ……だめだ。このまま見つめてちゃ)
今、彼女の瞳には海斗自身が映っていた。
――本来の自分とは違う、偽りの姿を演じた情けない海斗の姿が。
(こんな俺を見ないで……)
彼女の瞳に心まで見透かされている気持ちになる。
できるだけ俺様らしく見つめ返しても、「強がりなんじゃないの」と言われているような気がしてしまった。
(ああ……でも)
怖いのに、どうしても視線を外せない。
このまま見つめていてもらいたいんだろう、と心のどこかで声がした。
(……そうかもしれないね。これだけ強い瞳に見つめられたら、俺まで強くなれる気がするから)
無意識に海斗は顔を近付けていた。
純粋に彼女に近付きたいと思ったし、それに――。
ぎゅ、と彼女が目を閉じる。
それを見て、自分がなにをしようとしていたのか知った。
(俺、今……キスしようとした)
「……お前」
それだけ言うのが今の海斗には精一杯だった。
なにか俺様らしく言わなくてはいけないのに、気付いてしまった自分の気持ちに動揺し、怯えてしまう。
(この子にキスしたいんだ。でも、なんで?)
海斗にはその気持ちがわからない。
彼女は海斗のことを嫌いだと言い、海斗の行動にも難色を示すことの方が多い。
そんな相手にキスをしたいと思うのは、ただの嫌がらせにすぎないだろう。
だから海斗は自分を恥じた。
人が嫌がることをしてはいけないと教えられて育ったのに、今、無意識とはいえ、その教えを破ってしまいそうになったからだ。
それなのに、また距離を近付けてしまう。
あとほんの少し動けば、唇が重なるぎりぎりの距離まで。
(う……動かないで、ね)
ここまでの距離ならまだ許してもらえる。まだ言い訳が言える。
自分に言い聞かせながら、勇気がなくて縮められない距離で我慢する。
(俺様らしく……しなくちゃ……)
改めてそれを思い出し、声が裏返りそうになるのを堪えて口を開いた。
「俺の前でそんな顔して、なにもされねぇと思ってんのか」
目を閉じた彼女を、海斗は純粋にきれいだと思った。
大人びているようで、子供っぽさも感じられる。それは海斗にとって掴みどころのない彼女の性格を表しているように感じられた。
彼女は海斗の言葉に反応しない。
また俺様らしい言動に呆れているのかもしれなかった。もしくは反応するだけ時間の無駄だと思っているのかもしれない。
(なにかできるほど、俺には勇気がないから)
海斗は彼女の顎を持ち上げる手とは反対の手で、その滑らかな髪をつまんだ。
ふわ、と甘い香りがしたと感じたのは相手が彼女だからかもしれない。
(……いい匂い)
急に息苦しくなる。
正確には、胸が苦しくなった。
(ちゃんと抱き締めたい。キスも……したい)
それをしていいはずなのにしないのは、彼女との関係が偽物のものだから。
彼女の目の前にいる海斗も、偽物の御国海斗だから。
海斗は彼女に「自分の前でそんな顔をしてなにもされないと思っているのか」と尋ねた。
その『なに』を実行してしまう。
「こういうことされるんだよ」
髪を指先にくるりと巻きつけ、そこにキスをする。
刹那、信じられないほど強い痛みが胸を走り抜けた。
目に涙が滲む。
(君のことが好きなのかもしれない。……ううん、好きになっちゃったんだ)
ごめんなさい、と海斗が心の声で付け加えたのは、彼女がそれを望まないと知っているせい。
偽物の関係には終わりがなくてはならないし、海斗を好きにならない彼女はその瞬間を待ち続けている。
七日という短い期間を楽しんでいるように見えても、彼女は終わりがあるからそれを受け入れているのだ。
その先など、あってはならない。
ゆっくり、海斗の目の前で彼女が瞼を開く。
結局、唇へのキスはできなかった。
(俺にはできないよ)
彼女の目の下には隈がある。そこまで仕事が忙しくても、彼女は海斗と過ごしてくれる。
いつかの終わりのために。
「キスしてほしいなら、今夜は早く寝ろ。隈ができた女と遊ぶ趣味はねぇからな」
(……ごめんね)
もしかしたら海斗自身のことで悩ませているのかもしれない。
それを聞くことは恐ろしすぎて永遠にできないだろうけれど。
(毎日楽しいのは俺だけ。仕事なのに仕事だと思えなくなってるのも、俺だけ……)
はっきりものを言ってくれる彼女が好きだった。
海斗にはない強さを持ったところにどうしようもないくらい惹かれる。
ただし、それを言うことは許されていない。
(……こら、泣かないの)
海斗は自分自身にそう言った。
そうでもしないと、彼女の前で泣いてしまう。
(お仕事中です。……あと少しで終わりだから、頑張って)
終わりなんて意識したくないのに、敢えて自分の中で強調する。
そして、顔を見られないよう、いつもは並んで歩くのに少し先を行こうとした。
そんな海斗を、彼女が後ろから引っ張る。
(どうしたの)
海斗はすぐに振り返った。
思った気持ちをそのまま伝えるのは、俺様らしくない。
だから、うまく演じてみせる。
「手を繋いで欲しいなら、上手におねだりしてみせろ」
(俺、なにかしちゃった?もしそうだったらごめんね)
自分でねだれと言ったくせに、彼女の手を握ってしまう。
望まれたわけでもないのにそうしてしまったのは、海斗がそうしたかったからだった。
(手だけでも繋がせて)
振り払われるのは怖かったけれど、勇気を振り絞って指を絡めてみる。
幸い、彼女はおとなしく握り返してくれた。
「今度はぼーっとしてんなよ。ちゃんとついて来い」
海斗がそう言えるのもあと少し。
いつか、振り返っても誰もいなくなる。
(もう少しだけ……君の隣を歩きたい)
彼女に合わせて歩く速度を遅くするのは、少しでも二人で歩く時間を長くするため。
そうしたいと思えば思うほど、不自然なほどに歩みが遅くなっていることには気付きもしない。
いずれ失われてしまう手の温もりを大切に握りながら、海斗は永遠に彼女との時間が続くことを祈り続けていた。
俺様ドSのテンプレを極めたような相手と、奇妙な時間を過ごしていた。
たった七日だけならと思っていたのに、最近気持ちに変化が生まれている。
それは、案外俺様タイプが嫌いではないかもしれないということだった。
「おい、返事はどうした?」
え、と返す。
ぼうっとしていたせいで、海斗の話を聞き漏らしていたらしい。
やってしまったとは思ったものの、既に海斗は話を聞いていなかったことに気付いてしまっている。
「お前、いい度胸だな。この俺の話より集中するようなことなんてあるか?ねぇだろ?」
そういうところがテンプレっぽい、とは言わない。
正直、そういう話し方をされてしまうと返答に困ってしまうというのがあった。
謝ったら謝ったでなにか言われてしまうし、反論すればしたでやはり生意気だと言われてしまう。
その結果、選んだのは黙ってうつむくことだった。
「おい」
うつむいたはずなのに、顔が上を向いている。
いつの間にか添えられた指が、半ば無理矢理顎を持ち上げていた。
「ごめんなさい、ご主人様……だろ?」
ご主人様じゃない、とも、なにを言ってるんだ、とも言えなかった。
いつもは身長差でなかなか噛み合わない視線が、今はぴったり重なっていたからだ。
挑戦的な眼差しが自分を捉えている。
その瞳に映った自分はひたすら戸惑いを顔に浮かべていた。
海斗はこちらの反応を待っているのか、なにも言わずにじっと見つめてきている。
ただ、その距離がほんの少しだけ近付いた。
今までは頬や額、手や指くらいにしかされなかったキスが初めて別の場所に落とされるのかもしれない。
そう感じて――つい、目を閉じてしまう。
「……お前」
囁いた吐息は唇に触れたような気がした。目を開けていないせいで本当のところはどうなのかわからないけれど。
「俺の前でそんな顔して、なにもされねぇと思ってんのか」
どんな顔をしているのか自分ではわからなかった。
だから、首を横に振る。
「こういうことされるんだよ」
さっきより声と吐息が近い。
今度こそキスされてしまうのかも、と思ったのに、いつまで経ってもなにも起こらなかった。
さすがに我慢の限界を迎え、恐る恐る目を開けてみる。
ものすごく近い位置にいた海斗が、にやりと強気な笑みを作った。
「どうした。キスされたくて目ぇ開けたのか?」
そんなはずないのに、ひどく胸騒ぎがする。
こういう胸の高鳴りを他人に感じたことが今までにあったかどうか思い出せない。
一番嫌いなタイプだと思っていたその人に、どうして。
その理由は案外早く見つかってしまう。
「キスしてほしいなら、今夜は早く寝ろ。隈ができた女と遊ぶ趣味はねぇからな」
ああ、と心の中で嘆息する。
確かに最近仕事のせいで寝不足は続いていたけれど。
それをごまかすように、今日は化粧を濃くしていたけれど。
気付かれた上に、さりげなく案じられてしまうとは。
――この人のこういうところがずるい。
ほんの数日。その短い間に、何度もこういうことがあった。
海斗は俺様なくせに意外なほど細かく人のことを見ている。
デートも強引に連れ回しているようで、少しでも疲れた様子を見せればすぐになんのかんのと理由を付けて休憩を取ってくれた。
見たいものに一瞬気を取られればそれにもすぐ気付く。そして、やっぱり理由を付けてゆっくり見たいものが見られるように配慮をしてくれるのだ。
本当は優しい人なんだろう、というのが最近の見解だった。
本人はそれを認めたがらないだろうということも、なんとなく察している。
――本当のあなたはどんな人なの?
それを尋ねてみたいのに、残された時間は多くなかった。
むしろ、少なすぎる。
このままなにも気付かなかったふりをしていた方が、きっと楽で、変な気持ちを抱かずにすむ。
そう考えて不思議に思った。
変な気持ちとはどういう気持ちのことだろう、と。
その答えが出る前に、海斗は顎から手を離した。
もっと触れていてほしかったような、もっと見つめていてほしかったような、そんな奇妙な気持ちが胸を満たしていく。
海斗に出会ってから毎日が楽しい。
嫌いだと思っていたはずなのに、今は過ごす時間がなによりも幸せを感じさせてくれる。
まるで、本物の恋人と過ごしているのではと錯覚してしまうくらいに。
先を行こうとする海斗の服の裾を、ほんの少しだけ引っ張ってみた。
そうすれば必ずこの人が振り返ってくれることを知っている。
「手を繋いで欲しいなら、上手におねだりしてみせろ」
そう言うくせに、いつもおねだりなんてさせてくれない。
この手よりもずっと大きな手が、勝手に、そして強引に指を絡めてくる。
「今度はぼーっとしてんなよ。ちゃんとついて来い」
ぼーっとしても勝手に先行してしまうことはないだろう。
海斗の歩く速度は男性にしてはやけに遅い。足が長いのに歩幅まで小さい。
不自然だ、とわかる程度に。
それは全部、誰のためを思ってしてくれていることなのか――。
――たった七日で知ろうとするには、時間が短すぎた。
その夜、海斗は友人でもあり、同僚でもある遥を自宅に呼び出していた。
「こんな時間に呼び出しなんて珍しいね、海斗くん」
遅い時間かつ突然の連絡だったにも関わらず、遥は来てくれる。
それが嬉しくて、海斗はほっと息を吐いた。
「明日からお仕事なんだ。だから……誰かと話したくて……」
「それで僕……じゃない、俺のこと、呼んだの?」
遥があえて言い直したのは、海斗と同じく『おとどけカレシ』だからなのだろう。
遥は仕事で年下の小悪魔を演じている。
しかし、本来の性格は二次元大好き。生身の女性に対しては拒否反応を示すという根暗なオタクだった。
そして海斗はドSな俺様という、本来のびびりで小心者な性格からは想像も絶するキャラクターを演じている。
二人の共通点は、本来周りと線を引くタイプなのに、むしろ馴れ馴れしいキャラを演じなければならない、というところだった。
それを違和感なく演じられるようにするため、遥も海斗も自分たちの一人称や口調には随分気を使っている。
「なんかね、お客さんが特殊っぽくて。ちょっと怖くなったというか……その……」
「それすごいわかるよー……。僕……もたまにぐいぐい来る人が来て……それで……あああああ」
「ああっ、ご、ごめん!だだだ大丈夫?」
「ううっ……。仕事だからね……仕事だから……平気……」
いつの間にか二人はびくびく震えながらお互いの手をしっかり握り合っていた。
まるで、これからちょっとしたホラー映画でも見るかのように。
「明日大丈夫かなあ。お客さん、俺のこと見てがっかりしないかなあ……」
「だ……大丈夫だよ。海斗くん、ちゃんと俺様だもん」
「それを言うならはるくんだってちゃんと小悪魔やってるよ。俺よりよっぽどあざといよ……」
「それはギャルゲの女の子を参考にしてるからで……」
説明しようとして、遥はあっと大きく声を上げた。
「そうだ、海斗くんも参考にしてみたら?」
「ええ……」
「あからさまに引かないでよ」
「だって……そういうゲームは……いけないんだよ」
もじもじしながら海斗が顔を真っ赤にする。
お坊ちゃんとして育ってきた海斗にとって、遥の好む『ギャルゲ―』というジャンルは刺激が強すぎた。
例え実在する女性でなくても、かわいらしい声でいろいろなセリフを言われてしまうと、すぐに照れてしまう。
「いけなくないよ。いい?僕らみたいな奴にとってギャルゲーっていうのは心のオアシスなんだよ。人生の潤い。むしろこれが生きる理由みたいな。だってよく考えてもみてよ。三次元の女は選択肢なしに好感度上がったり下がったりして意味分かんなすぎるけど、二次元だといつこっちを好きになってくれたかすぐ分かるんだよ?うっかり嫌われてもセーブしてなきゃやり直しオーケー。好きな子をただひたすらにがむしゃらにそして純粋に!たっぷりじっくり愛でられるのは二次元だけなんだよ!三次元なんてクソだよ!好感度バーくらい出してから話しかけてこいっての!」
「は、はるくん落ち着いて……」
ものすごい勢いで言い切った遥は、息一つ乱していない。
同じく早口な葵よりも熱がこもっていたのでは?と考え、海斗はまたびくびく怯えた。
「とりあえず海斗くんもやって。この子ならきっとドSな俺様を学べるよ」
既に遥は目をきらきらさせながら携帯ゲーム機を懐から出している。
それを海斗に押し付け、ソフトを起動した。
タイトルを読み上げたその声の華々しさに、海斗はまずびびる。
「なんかえっちなこと言ってる!」
「まだ言ってないよ」
冷静に突っ込みながら、遥は海斗の純粋培養っぷりを実感していた。
「海斗くんにとって『女子高生』って単語はえっちなの?そう思う方がえっちだよ」
「えっ……そ、そうなのかな。だって壱さんが……」
「あの人を参考にしちゃだめじゃん」
「確かに……?」
落ち着きを取り戻し始めた海斗が、『世紀末女子高生』と書かれたタイトルを見つめる。
そして、ごくりと息を呑んでからスタートボタンを押した。
「これね、俺は続編に当たる『せかんどしーずんっ』の方が好きなんだけど……」
「なんか女の子いっぱい出て来たよー」
「ああもう。語らせてよ」
やれやれ、と遥は海斗にゲームの操作方法から教える。
つまるところ、好感度を上げて自分を好きになってもらえばいいゲーム、なのだが。
「海斗くんはこの子を頑張って攻略して」
「……この子、ちょっと怖そうだよ」
「当たり前でしょ、女王様なんだから」
「なんで女子高生なのに女王様なの?」
「そういうの気にしたら二次元やってらんない」
「えー……」
「この子、男バージョンだったらいわゆるドSな俺様だと思うから。やって」
「は、はい」
いつもはおどおどしている遥の目の輝きが変わってしまっている。
布教活動に勤しむ遥に逆らってはいけないと海斗の本能が告げていた。
とはいえ、通常なら何日もかけてプレイするゲームがすぐに終わるはずもなく。
「これ、借りていい?ちゃんとやっておくから……」
「アニメDVD見る?」
「えっ、う、うん。あるなら見るよ……」
「明日までじゃ間に合わないし、今度上映会しよ」
「じょう……えい、かい……」
「とりあえず分かりやすく説明しておくと、この女王様キャラの女の子は俺を……じゃない、主人公を踏んでくれる」
「踏む!?」
思わず、海斗の声が大きくなる。
「踏んだら痛いよ!」
「ドSってそういうものだから」
「痛いことするのは嫌だよ!」
「それがご褒美なんだよ!」
遥も負けじと言い返し、また海斗はその勢いにびっくりしてしまう。
「壱さんだって言ってた!引っ叩かれるのも踏まれるのもご褒美だって!俺もそこは同意!いや、別にドMじゃないけど!でもこの子ならいいの!」
「い……壱さんの言うことを参考にしちゃ……だめなんじゃ……」
「何!?」
「な、なんでもない……」
もしかして今日呼び出す相手を間違ってしまっただろうか。
海斗はうっすらそんなことを考え始める。
同じびびりの遥なら、仕事前日の不安を分かち合えると思ったのに、とんだ展開だった。
これがいつまで続くのか……。そう考え始めた海斗の目の前で、遥が時計を確認する。
「あっ!そろそろ寝なきゃ!明日、始発でイベント行かなきゃいけないんだ。ごめんね、海斗くん」
「ううん!いいよ!頑張ってね、行ってらっしゃい!」
海斗にとっては恐ろしい『女王様』の布教がこれで終わるかと思うと、遥のことは嫌いではないけれどほっとしてしまう。
慌ただしく帰った遥を見送り、海斗は手元に残されたゲームを見下ろした。
「……踏むのは痛いよ」
しゅんとしながら呟き、とりあえずゲームの電源を落とす。
代わりにぬいぐるみを抱き寄せ、床に置いてみた。
「……えい」
ぷぎゅー、と踏まれたぬいぐるみが情けない声を上げる。
「こう……?」
何度も何度も、海斗はぬいぐるみを踏んでみた。
恐る恐る、壊れ物を扱うかのように。
やがて、すっかり心が折れてぬいぐるみを抱き締めた。
「踏んでごめんね。痛かったよね……」
抱き締めたぬいぐるみの頭を撫で、顔を押し付ける。
またぷぎゅう、と力ない鳴き声が響いた。
「俺……大丈夫かな……」
ふわふわのぬいぐるみに顔を埋めたまま、不安を口に出す。
ぬいぐるみは海斗に応えてくれなかった。
「はぁ……。仁さんにアドバイスもらった方がよかった……?」
『おとどけカレシ』の中でトップの成績をキープし続ける完璧な王子様。それが同僚の瀬戸仁だ。
本性は非常に粗野なヤンキーだというのに、王子様モードのときはそれを一切見せない。
なぜ彼がナンバーワンなのか、海斗はよく分かっていた。
(……俺と違って、自分に自信があるから)
他のキャストだってみんな、本来の自分ともう一人の自分をうまく演じ分けている。
その切り替えが海斗には難しかった。
(だって、俺が演じてる『御国海斗』は……)
ぷきゅ……とぬいぐるみが悲しそうな声を出し、海斗は溜息を吐いた。
そして、改めてぬいぐるみの顔を見つめる。
「自信なくしてちゃだめでしょ、俺。明日からはお客さんに楽しい一週間をプレゼントしなきゃ。……ね、頑張ろう?」
ぬいぐるみは海斗の言葉に答えてくれない。
それでも、海斗には充分だった。
小さな勇気をもらい、明日への力に変える。
そのとき、ちょうど時計の針が夜中の十二時を差した。
――そして、今日から君との七日間が始まる。
――七日間だけの契約は、永遠の契約に変わった。
海斗は期間限定の恋人と本物の関係になり――。
「ねぇ、これなに」
珍しく張り詰めた表情をして、海斗は彼女に詰め寄っていた。
その手には海斗自身の携帯電話があり、そこに彼女からのメールが表示されている。
「間違って送ったんだよね、俺に」
いつも怯えてビビるのは海斗の方だった。
だが、今は違う。
目を泳がせながら、彼女は「違う」と言い続けていた。
「誰でもこういうときは違うとしか言えなくなるだろうけど。でも、君が誰かにこのメールを送ろうとしたのは確かでしょ」
ごめんなさい、と小さく声がした。
海斗はくっと唇を噛んで――。
「いつ撮ったの、俺の寝顔なんて!っていうかなんで人に送ろうと思ったの!?俺の携帯に届いたからいいけど……ううん、ぜんっぜんよくないけど!」
そう、携帯に表示されているのは、気持ちよさそうにふにゃふにゃの寝顔を見せる海斗の写真だった。
海斗はそんな写真を撮っていいと許した覚えはないし、そもそもいつ撮られたものなのかすら知らない。これを盗撮と言う。
母親に送ろうと思った、ともごもご言った彼女を前に、海斗は天を仰いだ。
(自分のお母さんに彼氏の寝顔送る……!?)
彼女らしくもない行動にパニックは極まる。ただ、一応理由があった。
最近、彼女の母親が彼氏――つまり海斗のことを気にしているらしいのは知っていた。
どうやらいつの間にかそれがエスカレートしていたらしく、なかなかどんな男か教えてくれない娘に対し、母親は「人に紹介できない相手じゃないのか」と心配までしてきたらしい。
それを聞いて彼女は、写真でも送れば満足するかと今回のとんでも行動に至ったとのことだった。
送り主を間違えて海斗本人にしてしまっていたのは、海斗にとって不幸中の幸いだろう。
「彼氏の写真を共有するぐらいならまだいいよ。でも寝顔ってなに!もっとなにかあるでしょ!」
そんな情けない写真を彼女の母親に見られてしまうところだったなんて、考えるだけでも顔から火が出そうになってしまう。
ご両親にはかっこよくて頼もしい自分を見せたいと海斗が思っていることも知らず、彼女はむっと唇を尖らせていた。
自分の一番好きな顔を送ろうと思っただけだ、と小声で呟きながら。
(だからって寝顔はないよ、寝顔は!)
ふー、と海斗は額を押さえて呼吸を繰り返す。
彼女の気持ちもまぁ、わからないではなかった。
「……そんなに俺の紹介がしたいなら食事に誘おうよ。ちゃんと予約も取るから」
え、と彼女が声を上げる。それは予想していなかったらしい。
「変な寝顔を見られるより、ちゃんとご挨拶する方がいい。その……どうせいつかはすることなんだし」
最後の方の言葉は小さくなりすぎて、彼女の耳に届かなかった。
海斗がじわじわ赤くなっていることも知らず、彼女は嬉しそうに笑う。
母親に写真を送るより、実際に会わせてみたかったのだろう。「人に紹介できないような人じゃない」と言いたかったのだろう。それがその顔によく表れていた。
そして――。
とんとん拍子に話が決まり、彼女の母親とランチをすることが決まった。
その前日、海斗はあわあわしながらぬいぐるみを抱き締める。
(あああ、なんで直接ご挨拶したいなんて言っちゃったんだよぉ……)
ここ数日生きた心地がしなかったのは緊張のせいだった。
彼女が浴室にいるのをいいことに、海斗はぬいぐるみに向かって話しかける。
「……明日、俺はかっこいい御国海斗になります。ちょっぴり俺様だけど頼れる俺様で、ドS成分は抜き。いつものビビリなところは絶対出さない……」
むぎゅ、とぬいぐるみを抱き締める手に力を込め、真剣に自己暗示する。
「俺はかっこよくてとっても頼もしい。いい意味で俺様な御国海斗……」
ぶつぶつ言っていた海斗は、既に風呂場から出てきた彼女の姿に気付かなかった。
だから、声をかけられた瞬間、驚きすぎてひっくり返ってしまう。
「ふあああっ!?」
どうしてぬいぐるみに話しかけていたのか、と当然尋ねられる。
海斗だって同じ状況になったら、彼女にそう聞いていただろう。
だが、今はそれを聞かれたくなかった。あまりにも情けなさ過ぎて。
「ち、ちがっ、今のはそういうのじゃなくて!イメージトレーニングというか!」
しばらく海斗を見ていた彼女は、言わずとも気付いたようだった。
もともと海斗の本性もおとどけカレシのときにどんな姿だったかも知っている人なのだから、海斗の考えていることぐらいお見通しなのだろう。
それなら、と彼女は言う。
そして、ぬいぐるみを取り上げた。
――自己暗示なら、自分を相手にしてほしい。
そう言われ、海斗はぽかんと目を丸くする。
(君を?自己暗示の相手にするの?)
わけがわからないでいる海斗に、彼女は畳み掛ける。
ぬいぐるみに言うのは緊張感がなさすぎて、当日気が抜けてしまうかもしれない。その点、実際の人間を前にして自己暗示をかければ、どんな自分を演じればいいか絶対に間違わないだろう、と。
(……もしかして俺、言いくるめられてる?)
なぜ彼女がそんなに必死に言ってくるのか、いまいち海斗にはわからない。
しかし、なにか言えばうまく反論され、なんとなく正しいようなことを言われ続けた結果、彼女を相手に自己暗示をかけてみることになってしまう。
「え、と……じゃあ、やるよ?」
どうぞ、と心なしか嬉しそうに彼女は正座した。
海斗もその前に座り、手を伸ばせば抱き締められる距離で彼女を見つめる。
「お……俺は弱気じゃなくてかっこいいです」
とってもかっこいいです。
そう、彼女が返事をした。
「明日はちょっぴりだけ俺様になって、頼れる俺に……なります」
いつも頼れる優しい彼氏です。
再び彼女が返事をする。
にこにこ嬉しそうなのは変わらない。
代わりに海斗の顔が心配になるほど真っ赤に染まった。
「い、いちいち言わないでよ!恥ずかしいから……!」
こういうのは肯定する相手が必要だと思う、ともっともらしく言われてしまうと、また海斗は「そういうものなのかもしれない」と思わざるをえなくなる。
(おとどけカレシをやってたときからずっと、この子に逆らえてない気がする……)
俺様は嫌いだと言い、海斗の言動はテンプレだと生ゴミを見るような目で告げたのは彼女だった。
あのときの強気な態度を思い出し、海斗はふるりと身体を震わせる。
「ねぇ、これすごく恥ずかしい。君もやったらわかるよ……」
暗にやってくれと頼むと、思ったよりすんなり彼女は聞き入れてくれた。
海斗に向かって、自分はかわいい、と言う。
(知ってる。特に笑ったときが好き)
「すごくかわいいよ」
面と向かって言うのは恥ずかしくてたったそれだけの返事になってしまう。
彼女はその続きを言わなかった。
海斗以上に顔を赤くして、うつむいている。
「ね、思ったより恥ずかしいでしょ?俺の気持ち、わかってくれた?」
無言でうなずいた彼女は、さっきまで海斗に迫っていた相手と同一人物には見えないほど照れて小さくなってしまっている。
(ああ、俺……君のそういうところをすごくかわいいと思ってたんだ)
改めて彼女の好きな場所を一つ見つけてしまう。
だから、海斗は自分の手をそっと伸ばした。
開いた両腕の中に彼女を引き寄せ、ぎゅっと力を入れる。
ぬいぐるみよりもずっと温かくて、確かな感触。それが海斗を安心させてくれた。
「君って大抵強気だけど、たまに俺みたいにヘタレちゃうよね」
(似た者カップルってこういうこと?)
ほのぼのした気持ちになりながら、海斗は彼女の前髪をかきあげる。
そして、額にキスをした。
「そういうとき……ちょっぴり意地悪したくなるんだよ」
彼女がびっくりしたときにはもう遅かった。
海斗はしっかり腕に力を込めていて、もう逃げる術はない。
いくつも落とされるキスは優しくてくすぐったくて、でも、海斗の言う通りちょっとだけ意地悪だった。
「かわいいって言うだけじゃ足りなくなっちゃった。どうしよう?」
海斗はくすくす笑う。
彼女は海斗の望んでいることを知っている。
それに応えてくれないような相手ではない。
「……俺に明日の勇気をくれる?」
海斗を見上げた彼女が曖昧に頷いた。
おずおずと自分から海斗にキスをして、また照れくさそうにする。
(君にもあげるね。明日も、その先も二人で頑張れるように)
ついばむだけのかわいらしい口付けは、次第に触れ合う時間を長引かせていく。
ときどき笑い声が混ざっていたのに、やがてそれも衣擦れと吐息に紛れて消えていった。
彼女の指がそっと海斗の服の裾を掴む。
「脱がせて」
耳元で囁けば、もう彼女は拒めない。
海斗に自覚は一切なかったものの、それは命令だった。
俺様ドSとして活動している時間が長かったせいで、普段もそういう一面が出てくるようになったのかもしれない。海斗はそうこっそり思われていることを知らなかった。
「それとも、脱いで、の方がいい?」
また、海斗はくすくす声を上げる。
その顔にいつものビビリな様子は欠片もない。
ついさっきまで俺様になろうと四苦八苦していた海斗も、もうどこにもいない。
それは、海斗にとって彼女が唯一自信を持って気持ちをさらけ出せる相手だという証拠に他ならなかった。
――海斗と遥は、硬い顔つきで目の前の店を見上げていた。
二人同時に深呼吸をし、互いの顔を見合わせて頷き合う。
「が……頑張ろ、はるくん」
「うん……頑張ろう、海斗くん……!」
そこまで緊張しながら入る店は、少しおしゃれなただのバーだった。
仁や奈義なら、こういう所でも物怖じせず、むしろ連れてきた彼女を上手にエスコートしてみせてくれるのだろう。
だが、今ここにいるのはよりによって『おとどけカレシ』の中でも気弱な二人だった。
意を決して、海斗が店のドアに手をかける。
来客を知らせるようにからんとベルが鳴り、その時点で二人は立ち尽くした。
「おしゃれすぎない……?」
「おしゃれすぎる……」
普段はいくらでも甘い言葉を思いつく彼らがそれしか言えなかったのは、あまりにも普段自分たちのいる場所とこのバーがかけ離れているからだった。
「ね、ねぇ、店員さんは……?」
「そういうの来ないんじゃない?お好きな席に、みたいな……」
「ああ……そういう……?」
おどおどしながら、二人は適当な席につく。
「俺たち、変じゃないかな……」
「海斗くんはなんか慣れてそうな顔してるし、平気じゃない……?」
「そんなこと言ったら、はるくんの方が慣れてそうだよ……」
「えええ……俺が慣れてるわけないじゃん……」
「いやいやそんな……」
びくついているせいで、慣れた間柄なのにどうにもぎこちない。
とりあえず、と海斗はそこにあったメニューに手を伸ばした。
そして、再び固まってしまう。
「はるくーん……」
「こ、今度はなに……」
「俺、お酒あんまり飲まないから、ここに書いてるやつほとんどわかんない……」
「えっ、嘘。でも俺も似たようなもんだよ?」
「どうしよう、飲み物すら頼めないオチ?」
あわわ、と二人は揃ってメニューを覗き込んだ。
呪文のような単語がいくつも並んでおり、どれがどんなものなのか想像さえできない。
「食べ物メニューも全然わかんないんだけど……」
「あ、これなら俺わかるよ。両親と食事するとき、たまに見かける名前もあるし」
「え……しゃる……しゃるきゅとりー?とかいうのもわかる?」
「なんかね、おつまみ盛り合わせ、みたいな」
「海斗くんすごい!」
「へへへ……」
まさかこんな場所でお坊ちゃんだというステータスが役に立つとは海斗も思わなかった。
そのことで少し自信がついたのか、改めてドリンクメニューに目を通す。
「今ならなんか頼める気がする……!」
「なんかってなに?」
「うっ」
遥の至極普通の質問が、再び海斗の心を萎えさせてしまう。
そのせいで、『なんか』を考えようにも頭が回らなくなってしまった。
「こっ……ここっ、こ……っ、こっ、こういう所って……なっ何……頼むの……」
声を裏返しながら尋ねた海斗に、遥もまた、混乱を隠せず返事をする。
「わっわわわかんない……っ」
そろそろものを頼まなくては店員に怪しまれてしまうことだろう。
わかっているからこそ、二人は非常に慌てていた。
そんな中、海斗の目が見覚えのある名前を見つける。
「はっ!」
「ど、どしたの、海斗くん!」
「カルーアミルク!これならわかるよ!?」
「それだーーー!カルーアミルク!そう!そうしよ!」
半泣きになりながら、遥はぱちんと指を鳴らす。
「うう……よかった……俺たちでも飲めるものがある……」
「どっちにしろ強いお酒は飲めないもんね……」
「でも、こういう所のカルーアミルクって普通のカルーアミルクなのかな……」
「ち、違うパターンもあるの!?」
「わかんないよぉ……」
お互いびくつきながらもなんとか注文を済ませ、それだけで大仕事を終えたようにぐったりする。
二人揃って顔を見合わせ、泣き笑いを浮かべた。
「いつか仕事で行くかも!って誘ってみたけど、海斗くんを誘ってよかったよ」
「俺もはるくんに誘われてよかった。これ、仁さんだったら心臓止まってたと思う」
「仁さんだったらきっと、もっとかっこよく注文できるんだろうね」
「ナンバーワンってすごいなぁ……」
「葵さんだったらどんな感じかな?」
「エスコートさせる側だよ、葵さんは。連れてって?って甘えたりするんだ……」
「わー、ありそう!甘いの飲みたいな、で彼女さんに選んでもらったりとか」
「あっ、それ俺いただき!」
「小悪魔キャラずるいよ!俺、ドSキャラだからそれ使えない!」
その後も二人は自分たち以外の仲間が来たらどうなるかを話し続けた。
奈義だったらサプライズの一つでも用意して、金箔の浮いたお酒でも出すかもしれない。
壱だったら大人の余裕を見せて「俺の前で酔ったらどうなるかわかってる?」なんて言うかもしれない。
慣れない場所でも、心を許せる相手とよく知る仲間の話をすれば心が落ち着いた。
そのおかげで、二人は初めてのおしゃれすぎるバーでの時間を楽しく過ごすことに成功する。
いつかここに『彼女』を連れてくるのかもしれない。
二人でそんなことを考えながら――。
仕事を明日に迎えた夜、遥はよりによって壱に捕まっていた。
「おいおいはるちゃーん、おにーさんの酒が飲めないってのー?」
「壱さんのだけじゃなくて、そもそもお酒が……」
「あーあー、キコエナーイ」
「もう……!飲みすぎですよ!」
たまたまばったり出会い拉致された居酒屋で、壱は遠慮なく酒をたしなんでいた。
しかし、遥はそこまで酒が得意ではない。むしろ苦手だと言ってもいい。
甘いものならともかく、ビールは舌が取れるかと思うくらいまずいものだと認識していた。
「壱さん、俺……明日仕事なんですけど……」
「えー、俺は仕事ないのにぃー?」
「いや、俺のせいじゃないですし……」
「やーだーやーだー。帰らないで一緒に付き合ってくれよぉ」
「はぁ……」
年齢を考えると、遥が面倒を見て、壱が駄々をこねているのはどう考えてもおかしい。
普通は逆だろうと心の中で突っ込んでしまう。
(っていうか、仕事よりもっと大事なことあるんですけどー……)
遥がそわそわしているのは、日付が変わると同時に始まる深夜アニメのせいだった。
ここ数ヶ月そのアニメの放映のために頑張ってきたと言っても過言ではない。
そのぐらい楽しみにしていて、今日もリアルタイムで仲間たちと実況しながら見る気満々だった。
それなのに壱が解放してくれそうな気配は一切ない。
「壱さーん、俺、帰らないとー」
「はるちゃん……俺のこと、捨てるの……?」
「そんなチワワみたいな顔してもだめです。かわいくないです」
「そんじゃどーやんの?はるちゃん、そういうの得意じゃん。やってやってー」
(そりゃあ……苦手じゃないけど)
遥が『おとどけカレシ』として演じているのは、年下の小悪魔。
となると、あざとい表情もおねだりも得意中の得意ということになる。
「一回しかやりませんからね……」
「いいよー」
「っていうか、それやったら帰りますから」
「ぶーぶー」
「わかりやすいブーイングしなくていいです!」
いつもはおどおどしがちな遥も、酔った壱が相手ではさすがにツッコミに回らざるをえない。
どうも年上相手だと思えないのもその理由だろう。
(これも全部アニメのため……っ!)
自分に言い聞かせ、壱に向かって上目遣いをする。
若干瞳を潤ませながら見つめ、口は少し尖らせた。
眉は下げて、かわいさを全力で見せつけていく。
(何が悲しくて、壱さん相手にこんな顔しなきゃいけないの……)
「壱さん、おねだりしてもいーい?」
「うわー、男だとぜんっぜん嬉しくねー」
(くっ……!)
あっさり返されたあまりにも残酷な感想に、遥は唇を噛み締める。
壱に引き止められるより先に荷物を取り、勢いよく立ち上がった。
「それじゃ、約束通り俺は帰ります……!」
「はっはー、気を付けてなー」
意外と普通に見送ってくれるから、壱を嫌いになれない。
「これで明日の仕事も緊張しないですむだろー。俺に感謝しろよー」
(……どうせそんなことだろうと思った)
出会ったのは本当にたまたまだったのだろう。
でも、奢ってくれたのも話を聞いてくれたのも、壱なりに遥を思ってくれてのこと。
それがわかるだけに、悔しさを感じる。
(あの人、あんなんだけどそういうところが年上っぽいんだよね)
――らしくない速度で家に駆け込んだ遥は、震える手でテレビを付けた。
アニメが始まるまであと数分。
どうやらぎりぎり間に合ったらしい。
「よかっ……たぁ……」
どっと身体の力が抜け、ソファにもたれかかる。
そんな状態で携帯を確認してみると、既に仲間たちから大量の連絡が届いていた。
(仕事の日と初回放送がかぶるって、ある意味運命感じるかも)
遥の信じる運命は、画面の中の二次元に限定される。
(これはきっと、明日もお仕事頑張ってねっていうエールなんだ……!)
恐らく、十人に聞かせれば十人とも「そっちか」という反応を見せるだろう。
遥が運命を感じているのは仕事でこれから付き合う女性ではない。
その女性と付き合うために勇気と元気と活力と、その他生きるために必要な諸々をくれるアニメの方だった。
(やっぱり俺を理解してくれるのはアニメとゲームだけだよ!)
走ってきた疲れが落ち着いたところで、今日のために用意していたものをそそくさと持ち出す。
百均で仕入れてきた、折ると光りだすサイリウムも無数にある。
ぱき、ぱき、と遥はそれを折って光らせていった。
アニメが始まった瞬間、そのオープニングテーマに合わせて振るためである。
(この日のために死ぬほど動画見てダンスを練習したし、歌だって先行で発売されたシングルを十枚積んでる。昨日またプラスで十枚予約してきたし、準備はばっちし……!)
オープニングテーマは歌って踊って応援し、本編は実況しつつやっぱり応援する。
エンディングテーマも一応歌って踊るつもりではあるが、感動のあまり泣いてしまってそれどころではなくなるかもしれない。
今、遥の頭に仕事のことは一切なかった。
(どうせ明日からもいつもと変わらないし。……俺はかわいい遥くんを演じてそれでおしまい。その間はこうやって楽しめないんだから、今ぐらい自分を解放してあげないと――)
ぱっと時刻が変わり、ここ最近夢に出るくらい聞いた音楽が明るく流れ出す。
「うわああああ世界で一番かわいいよおおおお!」
深夜だというのに、オープニングテーマが流れた瞬間、遥は絶叫していた。
ちなみに世界で一番かわいい相手は、そのときどきによって変わる。
遥にとって女性というのは今見ている画面にのみ存在するものであり、そこから出てきて遥の理解できない時間を過ごすような相手ではない。
仕事だって、遥がある程度予想できる範囲でことが進んでいくのだと思っていた。
仕事でのことは普段やっているゲームと同じ。
好感度を上げる選択肢を選んで、その反応を見ながら次の選択をしていく。
決められた予定調和をなぞるだけの簡単なゲームのはずなのに――。
「んんん!二次元さいこー!」
まさか今までにプレイしたことのないゲームが始まろうとしているとは、誰も知るよしもなかった。
――そして、今日から君との七日間が始まる。
真中壱。『おとどけカレシ』としては年上キャラを担当し、誰よりも女性たちを『女の子』にしてきた男。新しく始まった七日間でも、やはりそれは変わらない。
むしろ、今回の恋人は今まで以上に壱の前では『女の子』になってくれていた。
――しかしその本性は誰よりも幼稚で、むしろ小学生男子という方が正しい。
今、壱には静かに響く時計の音も、少しずつ埋まっていくレポート用紙も、その他諸々どんなことも頭に入ってきていなかった。
それもそのはず、ちょうど視線を下げた先には――彼女の谷間がある。
(やややややべえ……)
ときどきごくりと生唾を飲み込んでしまうのを微笑みでごまかしながら、目に焼き付けるようにしてそこを凝視する。
たまにその熱心すぎる視線に気付くのか、彼女は壱の方をちらりと見てきた。それもすべて、『おとどけカレシ』としての完璧な年上スマイルで黙殺させる。
(すごい……谷間すごい……ボールペン挟めそう……何本挟める……?)
壱の頭の中では、何本ボールペンがそこに収まるかのシミュレートが繰り広げられていた。それを知るはずもなく、また彼女の視線が移る。
(そ……そろそろ気付かれるか……!?)
「……ん?どうかしたの?」
取り繕うのは壱の得意技だった。BLOSSOM社にて鬼のような上司に死ぬほど怒られながら仕込まれたせいもある。
「レポート、やらなきゃ明日間に合わないんじゃなかった?」
(もう宿題なんかやめちまえよー。お前が動かなかったら、おっぱい揺れないじゃんよー)
本当に小学生と変わりない最低最悪の思考をしているのに、何も知らない彼女は壱の一言に少し照れた様子を見せた。
うっかり不審な笑みを漏らしそうになるのを堪える。
(へへ、こいつかわいーなー。何に照れたんだかわかんねーけど!)
今までの彼女たちの中で、壱は今の彼女が特に気に入っていた。
その理由が八割方「巨乳だから」に集約されているのは置いておくとして、恋愛経験がないといううぶなところも、生まれたてのヒナのように壱についてくるところも、年下扱いされているのを嫌がってたまに積極的になるところも、何もかもがたまらないと思っている。
(もう俺がぱぱぱーっとやっちまった方が早いんじゃねーの?よし!そうしよ!)
「手伝ってあげようか?」
はっとしたように彼女がレポートと壱を見て、怖々頷いた。
思わず抱きしめたくなる衝動を、膝をつねって堪える。
(頑張れ、俺……!二人っきりの密室でそんながっつりやったらクレームだぞ!桜川さんとこに帰されるどころか、下手すりゃ警察だ!)
彼女の一挙一動が魅力的だから悪い。
壱はそう責任転嫁することにして、逆に自分のペースに持ち込もうと大人びた笑みを作った。
「今の段階でできているところを見てあげる」
(かっこいいぞ、俺!きゃー!いっちーさーん!ここでもう一息行くぜー!)
「……君の全部、見せて」
(俺、やばい!超やばい!これ惚れたな、間違いねぇ!)
囁くように付け加えた一言のおかげで、彼女の頬がみるみるうちに色付いていった。
それを見て壱は確信する。今までは彼女のなんてことない小さな行動でうっかりときめかされてしまっていたけれど、ようやく自分に主導権が移ったのだと。
これでもう大丈夫だと本気で思ったのに――。
(……んひぃ!)
一応レポートを見ようとした壱は、彼女がくっついてきたせいで内心悲鳴をあげた。声に出さずに済んだのは、それこそ桜川による鬼のレッスンの成果に他ならない。
語彙力というものを着実に失いながら、壱はあえて気付かない振りをした。そうでもなければまた主導権を奪われてしまう。
彼女がこんなことをしてくるのは初めてではない。たまに壱の反応を見ようと余計なことをしてくるのは、恐らく『おとどけカレシ』を演じているときの壱があまりにも大人びていて、感情の変化が少なく見えるからなのだろう。
本来の壱は人生で何度「黙れ」「うるさい」「口から先に生まれたのか」と言われたかわからないくらい、喜怒哀楽をダダ漏れにする子供っぽい性格なのだが。
(んあーっ!)
今度は彼女が肩を寄せて体重を預けてくる。もう、壱には奇声を発することしかできない。
(待ってこれちょっとそっち見たら谷間おっぱいどうしよう柔らかそう下着見えてるレースありがとうかわいい白だパンツ何色?)
とても年下の彼女と家でのデートを楽しんでいるとは思えないものが頭の中を駆け巡っていった。これ以上こんなひどいことで頭がいっぱいになってしまえば、そのうち口から溢れ出してしまうだろう。
そう考え、壱はそっと彼女から引いた。
「こら、今は勉強を見てるのに」
(勉強という名のおっぱい!)
壱がきゃっきゃはしゃいでいることなんて、彼女に知られるわけにはいかない。
いくら期間限定の恋人だとはいえ、夢を壊して幻滅させてはならないのだ。
それなのに彼女は壱の手を取って自分のもとに引き寄せる。
まったく意識していないとは思うものの、引き寄せられた手は壱が凝視し続けていた柔らかいふくらみにそっと押し当てられた。
(アーーーーー!)
ついに壱は考えることをやめてしまう。
彼女から離れた方がいい、なんて考えさえどこかに吹き飛んでしまい、結果的に手にキスまでされてしまった。
(それ、ちょーえっちぃぃぃぃぃ!)
壱は彼女が俯いているのをいいことに、すっかり顔をにやけさせていた。もうどうしようもないくらい緩みきっただらしない顔を見れば、さすがに千年の恋も一瞬で覚めるだろう。
すっと彼女が動いた。それに気付いた壱は神がかった速度で表情を引き締める。
見上げてくる視線に見つめられるまで一秒にも満たない。まだにやけの反動が残っていたせいで、彼女には苦笑しているようにでも見えたと思われた。
(あああああっぶねぇ!スイッチ!スイッチ切り替えろ、俺!)
「……悪い子だね。今は勉強中だっていうのに……先生を誘惑しようとするなんて」
壱は再び主導権を握ろうとした。彼女の手を取り、自分がされたように引き寄せる。
(こんなえろえろ巨乳ちゃんの誘惑には絶対負けねー!今は!俺が!おとどけカレシ!)
「悪い君には一つ問題を出してあげようかな」
引き寄せた手にふっと息を吹きかけ、キスを意識させる。
「さっきから君の恋人は何を考えていたでしょう?……難しい問題だよ。解いてみて」
(当てられるわけねーよな!俺が考えてたのはお前の谷間とパンツとなんか他のいろんなことだ!)
絶対に当てられない問題だと思うだけで壱は楽しかった。
彼女が真面目に考え込んで悩んでいるところも微笑ましくて面白い。
「……解けたらご褒美あげるよ?」
更に煽るように指にキスを落として囁く。
(解けなかったら俺にもご褒美くれ!ちょっと揉ませてくれるだけでいいから!な?)
壱の視線は彼女の胸元から一切動かなかった。第三者が引き剥がそうとしても、てこでも動かないだろうという強い意思を感じさせる。
今度こそ壱は彼女から主導権を奪えたらしい。その証拠に、さっきまで大胆だった彼女はすっかりおとなしくなってしまった。
(やべーよ、こういうのが小悪魔って言うんじゃねーの?でもかわいいからいっか。俺、振り回されんの好きかも?いやでも俺が物理的にこいつを振り回したら、乳揺れが見られるんじゃ……。待て待て、物理的に振り回すってなんだ?たかいたかーい?高い高いしたら空から巨乳が落ちてくるじゃんやべぇ!)
よからぬ――よくわからぬ、とも言う――妄想を繰り広げ、壱は気持ちを落ち着かせるためにもう一人の自分を演じる。
「ふふ、今の君が考えていることなら簡単だな。キスして欲しい。……違う?」
こく、と彼女が喉を鳴らしたのがわかって、壱はまた妄想を炸裂させる。
(キスして欲しいって思ってくれてたらいいな!俺もしてぇ!手じゃなくて口!口にちゅー!)
それでも壱はきちんと演じきる。望まれている大人っぽい自分を。
「だーめ。まだあげない。お勉強が終わったら……ね?」
(なーにが「ね?」だ!バーーーカ!勉強なんか大っ嫌いだ!今すぐキスさせやがれ!)
彼女は自分の手を掴んでいない方の壱の手が、机の下でわきわき動いていたことを知らない。……知らなくてよかったとしか言いようがない。
壱の一言が効いたのか、彼女は心なしかしゅんとしてしまった。
それがまた壱を興奮させる。
(え?キスしてくれないから落ち込んでんの?うひーーー!かーわーいーいー!)
抱き締めて押し倒してキスしてそれから、と考えて壱は自分の膝を思い切りつねる。
(キスはしねーって、自分で決めたじゃんかよ)
ふー、と息を整えて彼女との始まりを回想する。
恋愛の経験がなくて、何も知らないうぶな年下の女の子。
恋人とは何か、恋とは何かを勉強するために、壱と七日間を一緒に過ごすことになった。
(こいつにキスすんのは、ほんとに好きになった相手じゃねーとな。俺は先生だから奪っちゃだめ。……大事なキスは大事な人に、だ)
それを思うと、壱は不自然に自分の胸が痛むのを感じていた。
いつか誰かが、彼女の『恋』を奪ってしまう。壱ではない誰かが彼女を愛して、幸せにして、笑顔にしてしまう。
なぜか、ひどく気に入らない。
(……なんか変だよなー、最近)
ずきずき痛む胸を押さえ、壱はほんのり顔をしかめる。
彼女を見つめ続けた壱が本当に考えていたことは、果たして本当に小学生レベルの下ネタだったのか、それとも自分でも気付いていないもっと別のことだったのか――。
その答えは、壱にすらわからない。
かち、かち、と時計の針が音を立てる。
そこまで大きな音でもないのに響いているのは、ずっと黙っていたからだった。
目の前にあるのは大学のレポート。それを隣で見ているのは、『おとどけカレシ』として派遣されてきた真中壱という年上の男性。
ときどきちらりと盗み見てみる。その度に目が合って、どうしようもなく胸が騒いでしまった。
何度目かの盗み見で、やっと向こうが反応を見せてくれる。
「……ん?どうしたの?」
眼差しだけでも甘かったのに、声もとろけるような甘さをしていた。
こんなにも『恋人』というものが感情を揺さぶってくるものだとは知らず、せっかく声をかけてくれたのに何も言えないまま俯いてしまう。
「レポート、やらなきゃ明日間に合わないんじゃなかった?」
そう、そうなのである。
せっかく年上の恋人がいてくれて、いわゆるお家デートというものをしてくれているのに、悲しいかな、明日はレポートの提出日だった。
これさえ終わらせれば、彼とのひと時を存分に楽しんでいい。
そう思うのに、視線が気になってなかなか進まない。
「手伝ってあげようか?」
余裕のある落ち着いた笑みに囚われて、自分でやらなければならないことだとわかっているのに頷いてしまった。
そんな内心の動揺やいろんなものを見抜かれてしまったのだろう。
ふ、と大人びた静かな笑みを向けられた。
「今の段階でできているところを見てあげる。……君の全部、見せて」
わざと付け加えられた一言が一気に体温を引き上げていった。
全部とはどこまでなのだろう。もちろんレポートじゃないことぐらいは予想できている。となると、彼の視線が見透かそうとしているのは……。
善意でレポートを手伝ってくれているというのに、そんなことばかり考えてしまう。
それもこれも、壱が自分を翻弄するからだと責任転嫁して開き直った。
勉強デートなんて滅多にできることではないだろうと身体を摺り寄せて、壱の膝に自分の膝をくっつけてみる。
書いたレポートを確認しているため気付いてくれないのが悔しくて、今度は肩を寄せてみた。
「こら、今は勉強を見てるのに」
精一杯アピールしたつもりでも、壱は年上らしく引いてしまう。
確かに壱からすれば自分は子供に見えるかもしれない。でも、恋人である以上はもう少しだけそういう扱いをしてほしい。
自分ばかりどきどきさせられて、壱のことしか考えられなくなるなんていうのはずるいと思ってしまった。
もっと意識してほしくて、もっと恋人だと思ってほしくて、ずるい恋人の右手を取ってみる。
壱はそれをやりたいようにさせていた。それがまた、子供扱いされているのではという悔しさに拍車をかける。
私を、見て。
そんな気持ちを込めて壱の手にキスをしてみた。
大胆なことをしすぎてしまったかと恐る恐る見上げ、壱が「やれやれ」とでも言いたげに苦笑しているのを見てしまう。
「悪い子だね。今は勉強中だっていうのに……先生を誘惑しようとするなんて」
今度はこちらが手を取られてしまう番だった。
大きな手に包み込まれ、少し強引に引き寄せられる。
「悪い君には一つ問題を出してあげようかな」
囁く声が指先に近付いて、そこにふっと息を吹きかける。
壱の吐息だけで全身が震えるのを感じてしまい、自分から迫ったのに逃げ出したくなってしまった。
当然、壱は手を握ったまま離してくれない。
「さっきから君の恋人は何を考えていたでしょう?……難しい問題だよ。解いてみて」
何を、と言われても困ってしまう。
「デートなのに」と呆れたか、それとも「頑張ってるね」と応援してくれていたのか。もしかしたら「レポートなんて懐かしい」かもしれない。
壱の顔を見ているとどれも正しいようで、どれも間違っているように思えてきてしまう。
困惑していると、絶妙なタイミングで壱がにっこり笑った。
さっきは吐息しか触れなかった指先にその唇が触れてしまう。
「……解けたらご褒美あげるよ?」
びくっと跳ねた手は、今もまだしっかりと壱に握られてしまっている。
じわじわ顔が熱くなってきたというのに、壱の眼差しは他に動いてくれない。
今更になって、この部屋にたった二人きりなんだということを意識してしまった。
「ふふ、今の君が考えていることなら簡単だな」
壱の視線が一瞬動く。
「キスして欲しい。……違う?」
誓って、そんなはしたないことを思ってはいなかった。
でも、言われてしまうともうそのことで頭がいっぱいになる。この人のキスを指先ではなく唇に欲しい、と。
「だーめ。まだあげない。お勉強が終わったら……ね?」
そういえばレポートがあったんだと嫌なことを思い出してしまった。
これさえなければ、すぐにでも壱に触れてもらえたかもしれない。最初から恋人として、あんなことやこんなことをしてもらえたのかもしれない。
そんな風に考えてしまい、またずるいと思ってしまう。
壱との関係はたった一週間しかない。
悲しい気持ちや寂しい気持ち以上に、ずるいずるいとそればかり浮かぶ。
どうせ別れてしまうなら、こんな気持ちを教えてくれなければよかったのに。
恋というものがどんなに素敵なものなのか、恋人というものがどんなに甘いものなのか。
指にまだキスの熱が残っている。それも、ずるい。
壱の考えていることなんて解けるはずがなかった。
望んでいるのは、別れたくないという気持ち。
壱がそう思ってくれていないなんて考えたくもない。
だから、答えなかった。
壱にとっての正解はきっと自分にとっての不正解。
だったら答える意味なんてなかった――。
――七日間だけの契約は、永遠の契約に変わった。
遥は期間限定の恋人と本物の関係になり――。
「っ……無理、やばい……」
呻くように言うと、遥はベッドに身体を投げ出す。
その隣では彼女も力が抜けた様子で転がっていた。
「もうこれ以上……きつい、よね?」
こく、と彼女が頷く。
その額から流れた汗がシーツに滴ってシミを作った。
「あ……あはは……頑張りすぎちゃった……。君のせいだよ? 君が俺を煽ったりするから……」
彼女の手も遥の手も熱を持ってしまっている。
きゅっと握り合うと、二人は同時にくすくす笑った。
「あっつ-……脱ごうかな」
それに対して彼女は返事をしなかった。心なしか顔が赤くなっていることに気付き、遥は自分が言った言葉の意味を遅れて理解する。
「あっ、えっと、そういう意味じゃなくて! 違うから! ……って、この状況だとなんか勘違いしちゃってもおかしくないよね!?」
わたわたしながら、遥はすぐに起き上がって彼女から離れた。
そして――まだ大画面のテレビで流れ続けていたライブ映像を止める。
そう、二人はついさっきまでライブのDVDを見ながら踊り狂っていたのだった。
「でも、なんか感動した。今までこういうのって同じオタ仲間か一人でしか見なかったんだけど、オタ仲間って言っても微妙に解釈違いがあったり、地味にめんどくさいところで気を使わなきゃいけなかったりで心の底から楽しめてなかった。君とだとこんなに疲れるんだね」
腕が持ち上がらないくらい痛んでいるのに、彼女と一緒ならまだまだ楽しめそうな気がしてしまう。
(ほんっとに不思議。っていうか、よくここまでついてくるよね。普通、途中で嫌になるでしょ。お前何時間コールしてるんだーって。なんで一緒になって最初っから最後まで、繰り返しも含めてずっと付き合ってんの? むしろ君の方が怖いよ)
彼女はぱたぱた自分の顔を手で仰いでいた。それを見て、遥は近くに置いてあったゲームの特典うちわを取る。
それで彼女を仰ぐと気持ちよさそうに目を閉じてくれたのが、なんだか嬉しい。
(はー……。疲れたけど、なんだろう。心地良い疲れって言うのかな)
「ねぇ、この後どうする? アニメ一期から見ようって言ってたけど、さすがに疲れたよね」
ためらいがちに頷かれ、嘘を吐かないその優しさにまた惹かれてしまった。
ごろんと彼女が遥の方に転がってくる。しがみつかれて、ほんの少し挙動不審になった。
「ちょ、ちょっと」
(たまに甘えたがるんだよね。歳上なのに)
遥は彼女より年下で、だからいつもは彼女がお姉さんぶる。実際、遥の気付かないことにもよく気付いてくれるし、さりげなく遥を立ててくれるところも歳上らしかった。
ただ、本当にたまに、こうやって甘えてくるときがある。
疲れているときに多いのは、彼女が普段気を張って生きているからかもしれない。
(遠慮してほしくないなって思うけど、相手が俺だし……)
遥はもともと二次元至上主義だった。今も彼女以外の三次元の女は動くフィギュアだと思っている。そうでも思わないと、なんとなく自分のペースを保てなかったからだ。
かつて『おとどけカレシ』だったときはよかった。もう一人の動きやすい自分を演じているだけでどうとでもなったのだから。
ただし今は違う。彼女の前では本当の自分を晒し、弱点も何もかも知られている。
「……あのさ」
自分の腕の中に収まった彼女を見て、囁いてみる。
そんな遥を彼女は「もともと小悪魔なのでは」と疑問に思っていたが、遥自身は知らない。
「甘えたいならそう言っても……いいよ」
恐る恐る提案すると、彼女は目を丸くして口をはくはくさせた。
(なに、その顔? ……俺だって、恋人の前では男でいたいんだけど?)
ときどき、弟のように思われているのではと思ってしまうときがある。
だからこそ、恋人として提案してみたのに彼女の反応はいまいち遥の望んでいるものとは違った。
(俺に夢中にさせたい。歳上の余裕なんか、全部奪ってやりたい。……うわぁ、昔ならこんなこと絶対に考えなかったのにな。……夢中になりすぎ?)
自分で自分を笑ってしまう。彼女は困ったように遥の腕の中で首を傾げていた。
甘えさせてくれるの、とちょっとだけ期待した声がかけられる。
その声が既に甘えて聞こえたせいで、身体の奥がぞくりと震えた。
「うん。甘えさせてあげる。……そういえばまだ恋人になれたのにしてないことがあったよね。これだけ汗かいたんだし、ちょうどいいかも。……一緒にお風呂で身体の洗いっこしようって言ったの、覚えてる?」
また、彼女が目を丸くした。そうじゃない、その反応じゃないと言いたくなってしまう。
(もっと照れるとか! もしかして俺のやってることって、選択肢ミスってる!? プレゼントするアイテム間違ってるとかそういうこと!?)
なんとか攻め込もうとしているのは遥のはずなのに、どうにも彼女のガードが堅い。
それは付き合ってからずっと変わらなくて、だからこそ二人の距離は縮まっているようでまだまだ初々しいままなのだった。
それは壱が運命の巨乳と出会う前日の事――。
「仁ちゃーん!」
「でけぇ声出すな、バカ」
あからさまに嫌な顔をする仁に対し、壱はへらへら笑っていた。
「ちゃんと来てくれるなんて、壱おにーさんうれぴっぴ」
「気持ち悪ぃ。……んで、昼間っからどうしたんだよ。珍しいじゃねぇか」
「んー、ちょっと相談っつーか?」
仁の言う通り、壱が昼間に誰かと約束したがる事はほとんどない。
呼び出した際の内容が、AV鑑賞会だの(誰も参加した事はない)、おしゃれさのかけらもない居酒屋だの(最近、葵も常連扱いされ始めた)、そんなものばかりだという事も理由の一つだった。間違っても昼にやっていい事ではない。
(っはー、なんかこうやって改まると照れるな。ってか、仁ちゃん優しくね? 待ち合わせ場所に行ったら誰もいねぇ! まで覚悟してたのによー)
「いや、実はな。明日からまたちょっと派遣される事になりましてー」
「ああ、仕事か? ……だったら尚更、俺なんか呼び出してていいのかよ。明日の準備でも何でもあるじゃねぇか」
「仁ちゃん呼び出したのが、それ」
「は?」
「まーたあの怒りんぼに叱られんのやだから、先に仁ちゃんに『おとどけカレシ』の心得聞いとこうと思って」
「……怒りんぼって、桜川のことか?」
「いえーす!」
「んな呼び方してるってバレたら殺されるぞ」
「仁ちゃんが言わなきゃバレねーもん」
はぁ、と仁が溜息を吐いた。
壱はそれをにまにましながら見つめる。
「今更、心得なんかいらねーだろ。何回派遣されてんだ」
「いーや、明日は間違いなく特別な日になる。今度こそ運命の巨乳ちゃんに出会えってやるからな!」
「でけぇ声でクソみてーなこと言うな」
「ひひ、仁ちゃんったら恥ずかしがり屋さん」
いつものように笑ってから、ふっと壱は顔を引き締めた。そうしていると、小学生のような本性があるとは思えないほど年相応の表情になる。
壱はしばらく口ごもった。
そして、自分のこめかみを掻きながら肩をすくめて笑う。
「かっこいいこと、してみてーんだ」
仁は一瞬、言葉に詰まった。目の前にいるのは本当にあの真中壱なのか、と書いてある。
そう思うのも当然だった。『おとどけカレシ』を演じていないときの壱にかっこいいという言葉はあまりにも縁が遠すぎる。
「……どういう風の吹き回しだ?」
「たまにはそういうのもいいじゃん?」
「お前らしくねーんだよ」
「俺だっていろいろ考えるときぐらいあるんですぅー」
「で、理由は?」
「んー。……キャストやってるときくらい、完璧な方がいいだろ? ほんとはこんなヤツだって絶対わからせてやんねーの。明日はいつもよりその辺、気合い入れてみよっかなーと思いまして!」
(まぁ、理由はそれだけじゃねーっつーか――)
「わかった。どうせ桜川になんか言われたな?」
「うぐっ! な、なななななんのことかなー? 壱おにーさん、ぜーんぜんわっかんねー!」
「ナンバーワンの助言でも聞いてこい、とか」
「ぐふっ」
「顔とキャラは人気なんだから、むしろナンバーワンを取りに行け、とか」
「ぐはぁっ」
「俺の技を盗んでこい、も言われてそうだな」
「ギブ! ギブギブ! それ以上言われるとメンタルブレイクしちゃう!」
(ちっくしょー。ここは『見直したぜ、真中。そこまで言うならお前にナンバーワンの秘訣を伝授してやる』だろーがっ)
がくっと肩を落とし、見抜かれた壱は恨みがましい目で仁を見る。
そう、仁の言う通りちょうど昨日桜川の方から壱に連絡が入っていた。
内容は次の派遣について。例えデート先がビキニだらけの美女でいっぱいのプールでも本性を出さないよう、頭が痛くなるまで脅された。
その際、仁の話題が出たのだった。あれぐらい完璧に演じきってみせろ、と。
(俺にできるかわかんねーけど、まぁ……かっこいい俺になる分にはいいしな!)
あくまで楽観的に考える壱の前で、再び仁が溜息を吐く。
「……はぁ。しょうがねーな。そういうことなら付き合ってやるよ」
「えっ、マジ?」
「それで真面目に連絡してくる辺り、お前は偉いと思う。そういう気概のある舎弟は嫌いじゃ……っと、何でもねぇ」
(舎弟って言ったー!?)
仁が口を滑らせたのは故意なのかそうではないのか。
壱はびくびくしながら、仁に向かってひたすら頭を下げる。
「と、とりあえずお手柔らかにお願いしまーす……」
「まずはデートの仕方からか。おら、来いよ」
「あー、仁ちゃんが女だったらなー。今は王子様系カレシだから……お姫様系カノジョ? っひょー! ぜってースカートめくったら照れて恥じらうお嬢様じゃん! 俺、お嬢様めっちゃ好き! ……いや、待てよ? お姫様系じゃなくて女王様系ってのも……。ンン! そうなったらもしかしてビンタとかしてもらえる……? ひゃっほう! ご褒美です!」
「帰るわ」
「アーッ! 今のなし! なしー!」
こんなやり取りをしていても、見た目は非常にいい二人である。
辺りの女性たちの視線を釘付けにしているとは知るよしもなく、相手への気遣いから話題の振り方、好みを見極める方法や喜ばれそうな行動などなど、めまいがするほど完璧な『カレシ』についてのレッスンを行ったのだった。
***
その夜、壱はぐったりしながら缶ビールを開けていた。
さすがナンバーワンとでも言うべきか、もともとの面倒見のよさもあって、仁はそれはもう素晴らしい教師になってくれた。
相手に気負わせず化粧室に行く時間を取るにはどうすればいいのか、隣を歩くときはどのくらいの距離を保てばいいのか、そんな小さなことまでみっちり詰め込んでくれたのである。
ただ、非常に困ったことが一つだけあった。
(全部忘れちった……)
せっかくの知識と経験は、偶然見てしまった女子高生のパンチラですべて吹き飛んだ。
(やべー……)
そうは思うものの、壱の顔に深刻さはない。
思い切りビールを流し込み、ぷはっと気持ちのいい息を吐いた。
「まー、いっか! 俺は俺! 明日も超余裕に決まってらぁ! よーし、明日頑張れるように秘蔵の一本を楽しんじゃおっかなー。ふっへへー」
ごそごそとAVコレクションからお気に入りの作品を取り出す。
そんなものを見てる暇があるのかと仁にも桜川にも叱られそうではあったが、壱はとことんマイペースだった。
自分は自分。他人は他人。
忘れたからにはいつものように自分らしくあればいい。
そんなことを呑気に、そして非常にポジティブに考えながら、いそいそ趣味の活動に励む。
そうしているうちにいつの間にか日付けが変わってしまっていたとも知らずに。
――そして、今日から君との七日間が始まる。
「あーあ、始まった。まーた瀬戸さん怒らせるよ……」
そんな奈義の呟きが聞こえるはずもなく、新年早々『おとどけカレシ』の面々は大騒ぎだった。
「ねえねえ、海斗坊ちゃん、見てー!」
「まままま真中さんんんっ」
「ツノツノ! こういうのやらんかった?」
「まずいです! まずいですって!」
集合写真を撮るはずだったのに、並んだ瞬間、早速いつものように壱ははしゃぎ始めてしまう。
仁の後ろを陣取らせたのが敗因だったのだろう。
仁と、そしてその横に行きたがる葵の頭上でピースサインをしては、小学生のように「ツノおもしれー!」と海斗を震え上がらせている。
案の定、仁の眉間には皺が寄っていた。
そもそもこれはBLOSSOM社の新年の挨拶をするために行われる撮影会だったはず。
それがどうして、こうなった。
「おい、いい加減にしねぇと……」
振り返りかけた仁に、ぴょんと葵が飛びつく。
「テメェ、葵! 急にじゃれついてんじゃねぇ! 危ねぇだろーが!」
「だって! だって!」
今まで見たことがないくらい目を輝かせた葵は、仁の肩をすりすり触った。
上等の羽織の手触りはとてつもなく心地いい。ただ、葵が感動しているのは羽織の手触りではない。
「俺、仁さんがこんなに和服似合うと思わなくて!」
「ああ?」
「ありがとう日本! ありがとう新年! って感じっす!」
「意味わかんねぇこと言ってんじゃ……」
「仁さん、なに着てもカッケー! ほんっと! もう! やばい!」
「……はぁ」
「マジリスペクト? ってやつなんけ! 俺もそんな男になりてぇ!」
「いいから離れろっての」
あまりにもまっすぐ尊敬の眼差しを向けられ、仁の勢いが削がれた。
とはいえ、遠慮もなにもなくべたべたする葵を、その少し後ろで遥が震えながら見ている。
ちなみに壱はというと、相変わらずまだツノで遊んでいた。
「なぁなぁ! 仁さんってやっぱ特攻服的なのも着ちゃったりしてたんすか? ひー、ぜってぇかっこいいべ! 写真見せてください! しゃーしーんー!」
「んなのあるわけねぇだろ、バカが」
「あ、あああ葵さんもやめ……っ! ど、怒鳴られますって……!」
「俺が誰彼構わず怒鳴るように見えんのかよ」
「ひ、ひいい」
「……やれやれ」
こういうとき、奈義はいつも一歩引いてみていた。
そうでもないと本格的に収拾がつかなくなってしまう。
「どうでもいいけど、写真撮るまで仕事終わんない。その後、新年会するんじゃなかった? 別に俺は最初っから乗り気ってわけじゃねーし、潰れるならそれでも――」
「あーーーー! 予約取んの忘れてたーーーっ」
「なっ、ま、真中さん!?」
「ちょっと待ってろ! すぐ電話かけてきちゃる!」
「いや、だから写真撮影しないとだめですって……! ううう、どうしよう遥くん……」
「お……俺たちだけでもおとなしくしてよう? ね……?」
「仁さーん! いっちーさんいねぇ間に、和服の似合う男になるにはどうすりゃいいっすか!」
「俺からすりゃ、お前だってじゅーぶん似合ってる。もうそれで満足しろよ」
「じ……仁さああああん!」
同時に六人が喋るせいでなんとも騒がしい。
それなのに――その後、なぜか写真撮影は時間ぴったりに終えられた。
彼らはプロであり、一応仕事はきちんとこなすのである。
ただ「真面目にできるのなら、最初からやっておけ」と、桜川から新年最初の説教を受けることにはなってしまったのだった。
――七日間だけの契約は、永遠の契約に変わった。
壱は期間限定の恋人と本物の関係になり――。
どさ、と大きな音がした。
彼女が壱のことを捕まえて、ベッドに押し倒した音だった。
「捕まえたーじゃねぇだろ。嬉しそうな顔してんなー、ほんと」
彼女はいつもこうして壱になんの遠慮もなくじゃれついてくる。
ここまで気を許すのは、きっと壱が年上で一応は包容力があるということも大きいのだろう。
もっと違う誰かだったら、抱き着いて押し倒したりなどすれば怒られてしまうかもしれない。
その点、彼女は壱に対してそんな心配をしていないようだった。
(別にいいけどな?)
壱は壱でそんな彼女の子供っぽい無邪気なところを心底かわいらしいと思っているし、飛び跳ねたときになにとは言わないがものすごく揺れるそれを見て眼福だとも思っている。こんな子が自分の彼女とは、という優越感などもなくはない。
(かわいいよ? そりゃ、俺の彼女だもん。でもなぁ、なーんかたまに恋人っつーより『お兄ちゃん』か『親戚の人』くらいの感覚なんじゃねーかと思うんだよ)
彼女は今、壱のお腹の上で顔を赤くしてはしゃいでいた。
ついさっきまで室内にも関わらず鬼ごっこをしていたせいだ。
そんなことに乗るあたりが小学生レベルの知能をした壱らしいし、その壱を受け入れた彼女らしい。とはいえ。
(なんか悔しいっつーか?)
そう考えたとき、壱はいともたやすく身体を起こし、彼女との位置を入れ替えていた。
ついさっきまで見下ろしていた彼女は今や壱の下にいる。
一瞬のことでなにが起こったのかわからなかったのだろう。目をぱちくりさせながら、自分を見下ろす壱を見つめていた。
「お前のそういうとこ、かわいいと思うけどな? 一応、俺も男だからさ」
思わぬ反撃のせいか、彼女がびくりと肩を震わせた。
ごめんなさい、と小さく謝りはしたものの、たぶん壱の言いたいことは伝わっていない。
「俺のこと信用してくれてるんだってわかるけど、あんま煽られるとさすがにな。抱き締められたら抱き締め返してぇし、キス以上のことだってしたくなる。……お前は知らねぇだろうけど、こっちはいつも手加減してるし、我慢もしてるんだ、ほんとはな」
珍しく壱が真面目に話すからか、彼女はおとなしく聞きながら頷いていた。
ついさっきとは違い、すっかりしゅんとしてしまっている。
(説教したいわけじゃねーんだけど。……だってこいつ、無防備すぎんだもんよ)
「……そんなぷるぷるすんなよー。俺、怒ってるわけじゃねぇって」
不安げな彼女の前髪をかきあげ、額にキスをする。
ついでに目元から頬へ唇を滑らせた。ゆっくり焦らして、最後の最後に彼女がされたがっていた場所に口付ける。
「怖がんなよ。嫌がることはしねーって最初に約束してやっただろ。おにーさん、そういう約束はちゃんと守んの」
(壱さん嫌い! なんて言われたらその場で死ねるもんなー)
彼女が思っている以上に壱は自分の恋人を大切に思っていたし、好きだとも思っている。
だからこそ、あんまり男として見られないのは男子の沽券に関わるわけで。
とりあえず、と壱は起き上がった。
まだ眼下でぷるぷるしている彼女を起こしてやり、いつもの気の抜けた笑みを向ける。
「さ、ケーキ食お、ケーキ。せっかく買ったんだし? まぁ、俺の作ったやつのが百億万倍うまいけど――おわっ!?」
ベッドからどけようとした壱を彼女が引っ張る。
再び引き戻された壱に、彼女は少しつたないキスをした。
「おまっ、いきなりキスって……!」
言いかけたところでもう一度。
壱が言葉を封じられたのを見て、彼女は興奮気味に口を開く。
壱にされることは全部嫌じゃない、と。
だからしたいことがあるなら受け入れるし、壱のためならなんだってしてあげたい、と。
(あー……。……こいつのが俺よりバカだ)
そう思うのに壱は笑ってしまっていた。
「ありがとな。でも、どっかで我慢しちまうときあるだろ。無理はさせたくねーんだよ、お前に」
(あ、今の俺すげーかっこよくね? これ完全に惚れ直されてんな!)
少し得意げになったのもつかの間、彼女は「壱らしくない」と唇をとがらせる。
そのすぐ後に若干頬が赤くなった。
――そういうのはどきどきする。
呟くような報告に、壱は額に手を当てて天を仰いだ。
(惚れ直されたーーーーーっ!)
心の声が聞こえていれば台無しだっただろう。
もっとも、壱の場合は基本的になにもかも台無しの残念男ではあるが。
「なぁなぁ、今のもっかい! 俺にどきどきするって言って! きゅんきゅんめろめろするって言ってー!」
ほんの少し前に見せたまともそうな姿はどこへやら、すっかりいつもの壱に戻ってしまう。
それで彼女も調子を取り戻したのか、あまりにもしつこい壱の目の前で黄金の右手が振り上げられた。
「タンマ! ビンタの前にひと揉み――アーーーーッ!」
なかなかいい勢いで壱の頬に彼女のビンタが炸裂する。
振り回される方の身にもなってほしいと彼女はそっぽを向いてしまったが、壱はにやにやしていた。
(お前のビンタ、全然痛くねーんだよな。やっぱ俺のこと好きだから? 無意識に手加減しちゃってる的な?)
「ふへ……うへへへ。やっぱお前最高だわ! これからもよろしくな!」
壱が勢いよく彼女の背中を抱き締める。
もちろん後ろから抱き締めれば腕の当たる位置はなにとは言わないそこになるわけで。
――今度は右手ではなく左手が振り上げられることとなったのだった。